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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

私ではなくキリスト―どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

さて、今回は、人の心から恐れの暗がりを取り払うことの必要性について書きたい。

当ブログでは、毎回、裁判の話題に熱中している。書いても書いてもテーマが尽きないほどに、訴訟を提起したことにより学んだ内容が多かったためである。

たとえば、物事を光の下に晒すことの重要性に改めて気づされたのも、訴訟の最中である。

人の記憶の中には、しばしば、自分でも光の下に持ち出すことがためらわれる多くの事柄が存在する。誰にでも、できれば語りたくない、人の目にさらしたくないと思う様々な出来事が存在するだろう。だが、そうした出来事も、かえって公然と光の下に持ち出すことで「解毒」できる場合がある。
 
裁判で取り沙汰されるほぼすべての事件は、それ自体、誰にも明るみに出すことがためらわれるような出来事ばかりである。

だが、事件をあえて人の目の前に持ち出し、裁きに委ねることで、悪しき影響力が焼き尽くされるようにして消失し、無効化される場合がある。
   
こうして人前に持ち出されなくとも、人の心には、誰しも、自分で気づいていない暗がりが存在する。それはちょうど部屋の中で、照明が行き届いていない、埃っぽく暗い片隅のようなものだ。暗がりの度合いも様々で、真っ暗闇のこともあれば、薄暗がりの場合もある。

この暗がりは、人の心の恐れと直結している。外からやって来る様々な良からぬ思念や影響力がこの一角に吹き寄せられる。思いがけない不安、良からぬ想像、悪い予感、悲嘆、失意、落胆、様々なネガティブな思念が、この一角に吹き溜まりのように寄せ集められるのだ。
 
だが、どんな暗がりであろうと、心の中に暗闇を残しておくことは望ましくない。そこで、心の大掃除をして、自分でも気づいていない恐れを払拭・克服することは重要である。

筆者が最近気づいたことは、人生に起きる様々な出来事は、それが良いものであろうと、悪いものであろうと、(特にクリスチャンの場合)、その人自身の意識的・無意識な許しのもとでしか起きないということである。

それはごく些細な事柄から大きな事件に至るまで、すべて同様である。特に、信仰者の場合にはそれが当てはまる。なぜなら、クリスチャンはすでにサタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられているため、クリスチャンの人生に起きる一つ一つの出来事は、信仰によってコントロールが可能であり、決して、この世の人々のように、不可抗力に翻弄されることはないためである。

たとえば、筆者はペットと田舎道を散歩している時に、危険な大型ダンプカーがそばを通り過ぎることに危機感を募らせていた時期があった。

しかし、何度も散歩しているうちに、いつどんな車とすれ違うかまで、自分の無意識的なコントロールを及ぼせることがだんだん分かって来たのである。

むしろ、いつ危険な車とすれ違うかと、常にびくびく警戒しながら散歩していることで、かえって散歩の時間を無益な心配に浪費してしまう。そういう恐れを克服し、安全な散歩時間を「自ら創造する」ことが実際に可能なのだということが分かり始めたのである。

一体、ヴィオロンは何を言っているのか、気でも狂ったのだろうかと、信じない人々は信じなければ良いが、いずれにしても、人は自分の人生に起きる出来事の多くを、自分自身の心に恐れによって自ら招いている部分がある。
   
多くの人々は、自分の人生の未来について、ああなると困る、こういう出来事が起きるといけない、などといった様々な悪しき想像を巡らし、これを常に心の負担としながら、自分自身が人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩いて行く権利を自ら失っているのである。
 
堂々と安全に散歩するために、まず排除しなければならないのは、こうした様々な悪しき思念である。

これはもちろん比喩である。筆者は、人の人生におきるすべての出来事が自業自得だと言って、不運な事件に遭遇した誰かを責めたいがために、このようなことを書いているわけではない。
 
たとえそうした出来事が起きても、人は必ず自分の心の中で、その出来事と取っ組み合って、これを昇華せねばならないのであって、さらにもっと言えば、そのような出来事に見舞われるよりも前に、まずは自分で自分の心の恐れの暗がりを取り払い、悪しき思念を、それが実現するよりも前に、道の脇に退避させなくてはならない必要性があることを説いているだけである。

退避せねばならないのは、私たちではなく、ダンプカーの方なのである。いや、もっと正確に言えば、ダンプカーに遭ってしまうかも知れないという恐れや思念自体に、道の脇に退避してもらわなくてはいけないのである。

こうして、心に不安を抱かせる思念、無意識に沸き起こる不安などを征服し、これを自分で道からどける作業が必要となる。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 (箴言4:23) 
  
初めのうちは、方法論が分からないので、不安を交わすだけで精一杯であろうが、そのうち、散歩中の対向車を「未然に」撃退する秘訣が分かって来る。

この方法論は、すべてに当てはまる。たとえば、当ブログで前々から書いて来た通り、訴訟などにおける被告の行動は読めないし、反訴や、提訴、控訴の可能性などを、予めコントロールするなど誰にも不可能に思われるだろう。

しかしながら、これも道を通りかかるダンプカーと同じで、すれ違いを未然に阻止した上で、道の真ん中を堂々と歩いて行くことは可能なのである。
 
つまり、敵の攻撃をどこまで許すか、許さないかといった問題も、実はすべて私たち自身の心にかかっているのである。

もちろん、すべての戦いを最初から何もかも避けて通ることができるわけではない。むしろ、真正面からぶつかり、戦いに挑むことで、初めて心の恐れを克服、征服、撃退することが可能となる場合もある。

初回からすべての悪しき不運なすれ違いを完全に避けて通れるなどとは考えない方が良いであろう。
 
だが、そうこうしているうちに、戦いは目に見える形となって現れるよりも前に、「もし・・・したら」という悪しき思念の形ですでに自分の心で起きていることが分かって来る。

相手がダンプカーであろうと、人間の集団であろうと、方法論は変わらない。すれ違う相手が誰であれ、あなたが窮屈に道の端に幅寄せされることもなく、かと言って彼らと真正面からぶつかって事故になることもなく、自分の散歩時間を安全に守り抜いて、彼らに全く心乱されずに堂々と安全にすれ違うことは可能なのである。

あなたがそうして自分の人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩ける日が来るまで、何度も、何度も、あなたは奇妙なすれ違いに遭遇し、それが自分の心のシミュレーションであることに気づいて恐れを征服する方法を学ぶまで、訓練を続けさせられるだろう。

人の人生の主人は、自分自身なのであって、あなたはその主導権を守り抜く術を学ばなければならない。そうでなければ、いつまで経っても、あなたは自分の人生において脇役にしかなれない。招かれざる客や、思いがけない不運な訪問者や、好ましくないすれ違いが、常にあなたの人生の主役であるかのように王座を占めて良いものであろうか。

しかし、人生の主導権を他人に奪われないためには、あなた自身が、自分の心をコントロールする秘訣を学ばねばならない。その秘訣とは、目に見える物事と取っ組み合うよりも前に、まずは、自分自身の心の目に見えない恐れを把握して、これを征服する秘訣を学ぶことである。
 
初めからすべてがコントロールし切れるわけではないので、失敗と見えることも多々、起きて来るかも知れないが、人間的な観点からは間違いと見えることさえも、キリスト者にあっては、安全の中で修正される。

カーナビが運転手がどれほど道を間違えても、目的地を指し示すことをやめることなく、運転手を叱りつけることもないように、私たちの主イエス・キリストは、根気強く私たちの行く先を示し続けて下さるからだ。

クリスチャンの人生は、ナビゲーターである御霊の導きのもとに、変わらない目的へ向かって進んでいる。そこに損失と言える出来事はない。どんなに損失や、回り道や、遅延や、停滞のように見えることがあっても、それも信仰ある限り、キリストの無尽蔵の命によって修正され、覆われて行く。

むしろ、遅延や損失だと考えていた事柄が、逆に後になってから、目的地までにかかる時間を大幅に節約する秘訣に変わっていたりもする。だから、失敗を恐れる必要はなく、停滞や、遅延や、損失や、回り道を恐れることはない。

筆者は、当ブログを巡る訴訟や掲示板に対する取り組みの中で、どれほどひどい迫害や中傷が起きようとも、これを心の中で完全に征服する術を学んだ。

これらはすべて散歩中に道ですれ違うダンプカーのようなものである。何一つその問題と本質的に変わるところはない。従って、それらはすべて起きるよりも前にコントロールすることが可能なのであり、ダンプカーが到来するよりも前に、これを阻止する方法が存在するのだと分かれば、目に見える現象に振り回されることはもはやなくなる。

そういう意味で、筆者は、当ブログを巡る訴訟の第二審が始まるよりも前から、すでにこの訴訟がほとんど決着してしまっていることを感じている。理論的には、これから提示しなければならない内容は数多くあるし、書面を作成するのは相当な時間と手間がかかり、かなり面倒にも感じられるが、霊的には、もはや戦いのほとんどの部分がすでに終了してしまっていることが分かるのだ。

それは、自分の心に沸き起こるすべての葛藤と恐れを克服するという、最も厳しい戦いがすでに終了しているためである。残るは緻密に理論を構築し、争点を漏らさず提示して行くことだけである。

これは昨年の今頃、第一審を提起した時とよく似ている。実は、その当時の最も重要な目に見えない争点は、第一審の最中に争われたような事柄ではなく、筆者がそもそも訴訟を提起するかどうかというアクションにかかっていた。

筆者の側から、訴訟が提起されることを恐れたからこそ、暗闇の勢力からはその当時、とりわけ激しい妨害が起来て来たのである。正直な話、暗闇の勢力は、ネット上でどちらが本当のことを言っているか分からないような中途半端な論争が行われている限り、誰から何を言われたところで、痛くも痒くもない。

だが、訴訟となれば、社会的影響力が及ぶ、はっきりした決着がつくことになる。

だからこそ、妨害が起きて来たのであり、同様のことは、クリスチャンが何か一つの決定的なアクションを起こそうとする前には必ず起きて来る。

たとえば、訴訟を提起すれば、判決を得るかどうかが次なる決定的なアクションとなるだろう。勝訴の見込みがあるならば、当然ながら、判決に至り着かせまいとする様々な妨害が起きて来るのは必至だ。

敵はささやくだろう。あなたの理屈には弱いところがあるのではないか。前例のない争いで、冒険をするのは危険ではないのか。裁判官は本当に味方か。当事者の誰かが控訴すれば、争いが長期化するのではないか。賠償が認められても、支払われなければ意味がないではないか。そんなリスクを負ってまで、戦い抜いて白黒決着をつけることに、本当に合理性があるのか、云々・・・。
 
こうしたささやきは、すべて「心のダンプカー」である。あなたは一体、何を望むのか。どんな目的にたどり着きたいのか。目的地を思い浮かべるより前に、すれ違うかも知れない様々なダンプカーを恐れて散歩を取りやめるのがあなたの第一目的なのか。

むしろ、実際に目に見える出来事が起きる前に、このダンプカーに道を通らせないことが重要である。もしもそれでもダンプカーが通ったら? 意に介さないことだ。二回目、三回目に、同様のことが起きそうになっても、二度と通らせない秘訣を一度目のすれ違いの時にしっかり学んでおくことだ。

その道は、あなたの道であって、ダンプカーのための道ではないのである。

そして、その道は、キリストがその命を投げ打って、あなたのために切り開いて下さった道なのだ。あなたはこれを邪魔者に譲ってはいけないし、誰にも塞がれてもいけない。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6).

いずれにしても、私たちが人生で遭遇するすべての戦いに共通することは、敵はあれやこれやの目に見える人間ではなく、もしくは、目に見える様々な悪しき出来事でもなく、私たちの心に暗闇の勢力から直接もたらされる各種の恐怖にあるということだ。
 
恐怖や悪しき思念が、心の中に吹き寄せられる一角を作らないように、私たちが自分の心を点検し、これを光の下に持って行き、すべての暗がりを取り払って、恐れを無効化する必要性がある。
 
暗闇の勢力の用いる最も主要な武器は、死と恐怖である。そこで、私たちが自分の心を見張り、恐れを征服する秘訣を学ぶことこそ、人生において様々な戦いや困難に勝利するために、第一義的に重要な課題なのである。
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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(17)―恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。

13.聖書の神に逆らい、御言葉に逆らうカルト被害者救済活動からのエクソダス(Ⅱ)

人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」(ヨハネ16:2-4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13-14)

さて、警察との会話で非常に印象的なことがあった。筆者がこの事件の全容について話し、筆者はもはや犯人が許されることを望んでおらず、厳しい処罰を望んでいる、と述べた時のことであった。

筆者は、それは筆者だけのためではないのであって、神の福音を退け、教会を冒涜し、聖徒らを迫害し、神の教会に手をかけたその罪に対しては、厳しい報いがなければならない、という考えを述べた。

その時、驚くべき相槌が返って来た。

「あなたは彼らは神の赦しを超えてしまった、と思われるわけですね・・・」

筆者は驚いて問い返した。

「まさしくそうです。でも、まだ私が何も言っていないのに、よくお分かりになりましたね?」

筆者は非常に驚いたので、あなたも信仰者なんですか、と問うたが、返事はそうではない、というものであった。だが、筆者は信仰を持たない人間が、この話を聞いて、以上のような発言をしたことに、心から驚き、その言葉を心に留めた。

彼らが神の赦しを超えた、という言葉は、2009年に杉本が初めて筆者と当ブログを1千件のコメントと共にバッシングした時から、幾人もの信者が表明して来たことである。そのバッシング記事には、不法行為と呼べる構成要件はまだ整っていなかったにも関わらず、霊的文脈においては、おそらくこれが他のどんな不法行為に比べても、最も著しい(神とエクレシアと聖徒に対する)冒涜行為であったろうことを筆者も疑わない。

その時から、杉本の命運は決まっていた。筆者はそう考えている。

すでに幾度も書いた通り、筆者は2010年に杉本徳久に向かって、ラスコーリニコフにならって、己が罪を認めるようにとの勧告を書いたが、その時から、この事件の結末を、すでに心の内側で予感していたと言えよう。

霊的な直観は、現実に先立つ。真理の御霊は、やがて来るべき事柄を知らせると聖書にある通り、私たちにはこの先、起きることについても、分かっていることが多くある。だから、筆者は自分の出した訴えがどうなるのか、どんなに事件の進展が遅いように思われる時でも、結果を予め知っているのである。

そして、そのことを、実に不思議なことに、筆者のみならず、筆者の話を聞いていた警察官も、理解して、これを筆者に先んじて口にしたのである。

もう一つ、警察官が予見的なことを語ったことがある。

それは昨年、筆者が杉本に対する第一の告訴状を出して間もなく、若い担当刑事が杉本に電話で連絡を取った時のことであった。

担当刑事は、杉本に対して電話で「ブログを削除して下さい」と要求したのである。

繰り返すが、「ブログ記事を削除」ではなく「ブログを削除」するよう求めたのである。

これは非常に奇妙なことであった。本来、表現の自由が尊重されて、権利侵害が行われている該当記事だけの削除が求められるのが通常である。ところが、警察はそのようには言わなかった。「神々の風景」についても、プロバイダの措置として全体が非開示にされた。いずれは全体が削除されるであろう。これと同じことを、もう一つのブログに対しても警察は求めたのである。

これらのことは、非常に印象的かつ予表的であった。

さて、筆者は今でも一審判決の言い渡しの時のことを度々思い出す。

その日は、待ち望んだ解放の判決のはずであった。何日も前から、ようやくこれで事件が終わるのだと考え、筆者は喜んでいた。

それにも関わらず、前日から、どういうわけか緊張が解けなかった。その日、法廷には、見知らぬ傍聴人が一人来ており、掲示板の関係者かも知れないと思われたことも要因の一つだったろう。

裁判官は法廷に姿を現し、法壇に着座すると、掲示板で起きている騒ぎのことを、知ってか知らずか、「困った事態が起きてしまいましたね」といった具合に、筆者に笑いかけた。そして、筆者のことをおもんばかってであろう、傍聴人に対し、携帯電話のスイッチを切り、録音や撮影を行わないよう注意した。

時刻が来るまで重い沈黙の時が流れた。筆者は何かしらただならぬ緊張感に包まれていた。判決に異議申立てはしないと予め決めており、これで争いは終結する、書類作成の仕事からも解放される、そう思って喜んでいたはずが、前日から引いた風邪のせいで、頭ははっきりせず、いよいよ裁判官が判決を読み上げ始めた途端、筆者は裁判官と目を合わせることもできなくなった。

主文の冒頭部分を聞いただけで、筆者には、これが事件の完成ではあり得ないことを理解したのである。

裁判官は、筆者が心ここにあらずの状態になったことを察知したのか、最後に少し苛立たし気な表情で、「あなた、本当に聞いているんですか?」とでも言うかのような調子で、筆者に判決への同意を求めた。

だが、同意を求められるなど予想もしていなかった筆者は、自分が質問を受けていると理解して返答するまでに少し時間がかかった。

このように、一審判決の言い渡しは、どこかしらちぐはぐな雰囲気で終わった。口頭弁論の終結時の時に生まれた一体感とは全く異なる緊張がそこにあり、裁判官はいささか憮然としたような、よそよそしい表情で退廷して行き、見知らぬ傍聴人も、杉本が負けると考えていなかったのか、すさまじいショックを受けたようにダッと走り去って行った。

筆者は判決言い渡し後、前よりもさらなる緊張状態に陥った。おそらく、裁判官も書記官も、それは筆者が判決に不服があって、異議申し立てをしようとしているためではないかと考えたのではないかと思う。
 
なぜそのようなことになったのか、筆者は今ならばよく分かる。筆者はこの判決を歓迎するつもりで、無条件に受け入れると決意していたが、心の深い所では、もしも筆者が、これを最終的な宣告として受け入れれば、次の瞬間、筆者に待っているものは死だけであると、確実に予見していたのである。

筆者は判決言い渡しの後、しばらくの間、そのことに全く気づかないふりをしていた。裁判官と書記官にお礼状を書き、早々と後処理に取りかかった。人間的に見れば、まずまずの結果である。争いから早期に解放されたことを喜ぶべきであろう・・・。

しかし、それはあくまで人間的な観点から見た場合の話でしかなかった。筆者の内なる直観は、事態はまるで逆であることを、はっきりと理解していた。この中途半端な終わりに身を委ねることに、筆者の内なる人は激しい拒否反応を示した。風邪は日に日に悪くなって行くばかりであった。
 
村上は初めから、筆者に勝訴すれば、筆者にとどめを刺すつもりであったのだと思われる。それが証拠に、一審判決が確定もしていないうちから、村上は筆者に対する勝利宣言をブログに発表し、さらに筆者に対する人格権侵害の記事を発表した。

これはおそらく村上の当初からの予定だったのではないかと推察される。村上はおそらく筆者が「完敗」を認め、今後、全く抵抗しない立場に身を置くのが当然と考え、公然かつ堂々と権利侵害を始めたのであろうと。

「往生際の悪い」筆者に、とどめを刺すために、民事で「完全勝訴」を宣言した上、さらに息の根を止めるべく、刑事告訴に及ぶことは、予定の行動だったのではないかと。
 
村上が掲示板における筆者に対する嵐のような24時間体制の誹謗中傷を、どこ吹く風とばかりに黙認していたのも、その書き込みが、筆者の心を揺さぶって、何らかの失言につながるのを狙っての措置であったと見ることもできよう。

そして、杉本が賠償金を未だ支払わないことも、同じ文脈から出た行動である。彼らは諦めていない――筆者を「カルト信者」として社会的に抹殺に追い込み、公然と証の言葉を述べる完全に口を封じることを――。
 
強制脱会活動が、幾人もの他宗教の信者を社会的に殺して来たのと同様、この人々は、彼らの「説得」に応じない筆者を「人格障害」に追い込み、社会的に抹殺しようとの考えを、依然、捨ててはいない、だからこそ、控訴という正当な方法によって、この判決を覆そうと努力するのではなく、判決の実行を先延ばしし、賠償金を支払わないことで、筆者がさらに追い込まれるよう、策を講じているのではないかと見られるのだ。

筆者はこのことについても、警察に伝えた。掲示板の投稿のほぼすべてが村上の支持者と見られる人物たちで固められていること、こうした権利侵害も、信者たちの単独犯であるとは思えず、杉本の行為も、単独であるとは到底、考えられないこと。
 
不思議なことに、こうした話を、警察は決して空想としては聞かなかった。そうなったのも、理由がある。何しろ、昨年の時点では、村上は告訴対象にも含まれていなかったが、事件は進展しており、村上による権利侵害の証拠が手に入った今では、筆者の言うことをあながち作り話として退けるわけにもいかない状況が整いつつあるからだ。少しずつ事件は核心に近づいて来ている。

話を戻せば、村上は完全勝訴の上にも、さらに念には念を入れて、筆者を「抹殺」するために、刑事告訴に及ぼうとしたのであり――それは初めから既定路線だったと見られる。

そこで、もしもあの時、筆者が一審での部分的勝訴に甘んじて、戦いをやめていれば――このような恐るべき霊的攻撃に対して、筆者には抗う術が残らなかったであろう。そうなれば、向こうの思う壺の状況が作り上げられたはずだ。

だが、筆者の内なる人はそのことをよく知っていればこそ、村上による権利侵害の証拠が手に入った瞬間、待ち望んだ判決を振り切って、ただちに控訴に及んだのである。

むろん、一審判決を超えるためには、さらなる証拠の積み上げが必要であり、最終的な判決を手にするまでの間に、事の真相にどこまで迫れるかが、今回の争いの本髄である。
 
いずれにせよ、こうして、紛争が一審で終わらなかったことは、まさに奇跡的な天の助けであると言えた。

一審を担当してくれた裁判官はすでに異動で去ったが、初めて法廷に姿を現した時、「私はこの事件から逃げるつもりはありません」と述べたことが思い出される。そして、筆者が先日、長い時間をかけて、犯人の処罰を願う、と述べたときにも、警察の上部は、これと似たような言葉を繰り返し言った、必ずこの事件をふさわしい方法で解決すると。

民事訴訟が始まったばかりの頃、筆者は裁判官が公平に客観的に事件を裁いてくれるだろうと考え、電話会議でも、裁判官と書記官の二人にがっちりと脇を固められて、守られているような安心感を覚えていた。

その頃、筆者には、自分自身が、力強く立ち上がって、自らこの事件を率いて行くのだという自覚はそれほどなかった。訴えを出した後も、最後まで、主導権を握るのは自分でなければならず、筆者こそ、周囲の全ての人々の心を動かす鍵を握っているのだということが、分かり始めたのは、少し後のことである。

筆者はしばしば、裁判官とさえ、胸襟を開いて――いや、まるで激しく衝突するがごとく、議論を戦わせたことがあった。ここには書かないが、実に様々なドラマがあり、その中で、筆者は、初めは冷静で頼りがいがあるように見えた裁判官さえ、筆者の心の動揺にどれほど大きな影響を受けているかを理解し、この事件を正しく進めるためには、あくまで筆者が自分をしっかりと持って、目的となる地点から目を離さず、全員をまとめてその目的へ向かって牽引していく姿勢が必要なのだと知った。

そうして、関係者のすべてをまとめて、皆が心を一つに合わせて同じ目的へ向かって行くことができるように整えることは、必要不可欠なだけでなく、実際に可能であることを知ったのである。
 
それが分かったおかげで、一審の終わりは、見事に息の合うものとなった。この頃から、筆者は、キリスト者はどんな事件に見舞われようとも、カルバリの十字架の勝利のゆえに、すでにすべてを足の下に従えているのであって、私たちはその事実を実際とするために、この地に置かれており、御名のゆえに、万物を足の下に従えることが、現実にできるのだという秘訣が分かり始めた。

裁判官は、事件から逃げないと約束してくれた分だけ、何としてもこの争いから筆者を救い出して去って行かねばならないと考えたのであろう、考えられる限りの手を尽くしてくれた。だから、一審判決が本当の終わりではなくなったとはいえ、筆者は一審で与えられた命に、より完全性を持たせるために、これに控訴状という服を着せて、世に送り出した。

それから、警察署に出した告訴状についても、筆者は事件を前に進めるために、まるで未熟児に対するように世話をしている。そして、可能な限りの労力を割いて、この事件を理解して進めてもらうための働きかけを続けている。
 
こうして当事者が事件を牽引する作業は、まさに途轍もない作業である。訴状に関しても、告訴状に関しても、同じことが言えるが、訴えを出すというのは、初めの第一歩に過ぎず、そこから何百キロもの道のりを徒歩で歩き通すような行程が必要となる。

怠惰で、人とぶつかることの嫌いな人間には、こうした気の遠くなるような作業を貫き通すことはできまい。

筆者自身、これまでコンクリート製の分厚い壁を5つくらいは粉砕したような気がするが、あらゆる障害を打破することが必要なだけでなく、人の心を動かし、皆を一つの目的へ向かって団結させて、立ち上がらせて行く力が必要となる。その働きかけのために、膨大な労力が必要となる。なぜなら、訴えは書面で出しはするものの、最後には人がこれを処理するからである。
 
それは見えないオーケストラの見えない指揮者になるのにも似ているかも知れない。関係者の全てが、息を合わせて一つの調べを奏で、一つの目的へ向かって行くことができるようになるまで、筆者は調整を繰り返す。

そうして、努力に努力を重ねているうちに、ある瞬間に、望んでいる答え、望んでいる回答がようやく実現する。

それはその時々で、束の間の現れに過ぎないものではあるが、神の御心にかなう御国の秩序が到来し、調和の取れた調べが流れだす時が来る。その瞬間には、まるで生ける水の川々が溢れ、流れ出すように、すべてのものがキリストの愛の中に飲み込まれる。筆者の周囲の人々も、それによって潤され、浸され、すべてが感動的なまでに美しい終わりを迎える。

その日が来ることを待ち望みつつ、筆者は自分の訴えをより洗練させて、より完成へと向かわせている。神の正しい義なる裁き、まことの裁き主であられる主の真実かつ公平な判決が得られるように、目的へ向かって進んでいる。それは救われる者にとっては自由と解放の響きであり、滅びるものには死の宣告である。

その戦いの中で、筆者は孤軍奮闘しているわけではなく、雲のような証人たちに囲まれている。敵陣に包囲されて逃げ場がなくなるように見えるときにも、援軍は常に用意されており、霊の目を開いて、周りを見渡せば、エリシャが見たあの火の馬と火の戦車は、今日も神を信じる者と共にある。主は筆者に言われるだろう、

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(列王記下6:16)

* * *
 
さて、村上密がまたもや見当外れなことを書いている。

「人はいつも危険と背中合わせで過ごしていると私は思う。その感覚を失うともっと危険に接近することになる。身近な人の忠告は危険を回避する忠告が含まれている。そのような親身になってくれる人がいない人はその人自身が危険になる。暴走とはそういうことを言うのではないか。」(4月27日の記事「暴走」)

村上の記事にはいつも同じ特徴が見られる。それは孤独を否定し、一人になることを否定し、常に集団の中に隠れようとする特徴だ。杉本の記事にも全く同じ特徴がみられた。

村上は最新記事でも同じことを述べている、「連休はカルト研修の時期 」では、カルトに入らないためには、家族の連絡こそ必要と訴えている。

「5月は研修の期間である。子供の行き先がはっきりわからない場合、カルトの研修を受けてる可能性がある。子供の行動が明確でないことを放っておくと対応が後手になる。親子間の連絡が疎遠にならないように気を付けよう。」

これは子供を一人にさせておくと危ない、何をしているか分からないまま、放っておいたらいけない、というだけにとどまらず、まるで親に子供を監視せよと言っているように聞こえる。常に子供を一人にさせず、集団の群れの中にいさせて、何をしているのかが、周囲に見えるようにしておかねば、カルトのような重大な危険に取り込まれてしまいかねないと、半ば脅しのような言葉で、親が子供を監視する必要性を訴えている。

村上はこうして記事の中で、常に目に見える人間関係の必要性を訴え、悩める人間には話を聞いてくれる誰かが必要だと訴え、互いに互いの行動を把握して、人間の相互扶助ネットワークを作り上げることが、あたかも救済であるかのように強調する。人間関係の只中にいさえすれば、集団の只中にいさえすれば、危険を免れられるかのように説くのだ。

それは逆に言えば、一人になれば死ぬという脅し文句と同じだ。牧師のいる教会では、指導者は神の代理権威であると教えられ、牧師の指導の圏内から信徒が逃げれば、信徒は救いを失うかのように解かれることが少なくない。「あなたは一人では聖書を学べない、助けてくれる人や、教えてくれる人が必要だ。だからこの教会にいなさい、私たちと一緒に学びなさい。一人になったらいけない」というわけである。だが、その本当の目的は、信者を目に見える教会に束縛し、牧師に献金を捧げさせ、いついつまでも牧師の説教がなければ、聖書を理解もできない霊的赤子の状態に押しとどめ、信徒から栄光を搾取することにある。

いわば、天皇の赤子だった時代の臣民と同じである。カルト宗教の「霊の父母」と同じで、村上は今も「生み生まれる親子の立体関係」の必要を説き、そこから離れての個人はあり得ないと説いているだけなのであって、なぜそのようなことをするかと言えば、その集団が、偽りのイデオロギーに従って作り上げられたものであり、集団に帰依し、その関係性の中に束縛されている限り、その誤った理念から、人は抜け出せないからだ。個人を集団に留め置くために、(疑似的なものも含め)親子関係が最大限美化され、利用されるのである。

カルト被害者救済活動は、悪しき反聖書的な理念に基づいて作り上げられた一大要塞であり、そこから人を逃がさないでいるためにこそ、相互監視が必要なのである。その監視社会を美化し、正当化するために用いられるのが、親子関係やら、師弟関係やらといった美名である。

だが、聖書の奥義とは、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:18)というものであって、まず「父母からの自立」が前提となり、キリストとエクレシアの結婚も成し遂げられる。

聖書における正しい関係は、「生み生まれる親子の立体関係」ではない。信者が神に出会うためには、自分の生まれ落ちた家の民を忘れ、「父の家を忘れる」ことがどうしても必要である。これは人が生まれながらの自己に死んで、この世に対して死に、キリストに対して生きるようになることを意味する。

娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

筆者の目から見た限り、牧師たちは、大勢の信者や家族に囲まれているように見えても、内心は孤独である。特に、高慢ゆえに他人の助言を聞かない牧師の周りでは、真摯に忠告してくれる人もいなくなっていくため、いざという時、必要な助言を誰からも受けることができない。

大勢の人たちに囲まれていても、みなイエスマンばかりなので、牧師が暴走しても、止める者もない。もしも村上に、身近に親身になって危険を忠告してくれる人間が一人でもいたならば、筆者に対する人格権侵害の記事を投稿してこれをすぐに削除したり、筆者を刑事告訴したなどという記事を発表してこれを削除したり、杉本徳久と共に筆者を馬鹿にする文通を書証として裁判に提出したりと言った愚行には決して及ばなかったであろう。
 
筆者に対する弾劾記事をブログに次々投稿し、掲示板での誹謗中傷を黙認・容認したりすることもなく、何よりも、カルト被害者救済活動に手を染めなかっただろう。

こうした行為に村上が及んだのは、村上には、誰も親身になって忠告する人間がおらず、むしろ、悪い助言者ばかりが取り巻いていたことの証拠である。

こうして、村上の記事では、親子の絆、年長者と年少者の絆、社会の助け合い、相互扶助のネットワークの必要性ばかりが語られるが、そこでは、最も重大な争点が抜け落ちている。

それは、私たちにとって、最も身近かつ忠実な助言者は誰なのか、という問題だ。

もちろんのこと、私たちの最も信頼できる助言者は、見えないイエス・キリストである。船頭多くして船山に登る式に、多すぎる助言者は道を誤らせ、年長者の忠告をどんなに聞こうと、イエス・キリストの忠告を退ける人間の人生は呪われる。

そこで、村上の記事は、筆者には常にバビロンの次のつぶやきを想起させる。

「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

「やもめなどではない」――というバビロンの言葉は、言い換えれば、「私は一人ではない」という意味である。村上は言う、自分には身近に「親身になってくれる人がいる」から暴走することはないと。「親子関係」も万全だから、危険はない、自分は「大人たちの忠告」を聞いているから大丈夫だ、道を誤ることなどないと。

しかし、 「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
  またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
  あなたを離れる者は土に名をしるされます。
  それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)

筆者から見れば、「暴走」とは、目に見える助言者を失った結果として起きることではない。むしろ、「暴走」とは、ただ一人のまことの助言者を当てにせず、目に見える偶像にすがり、頼った結果として起きるものである。

周りのイエスマンたちにおだてられ、自分の欠点が見えなくなった宗教指導者が、分不相応な自画自賛に明け暮れながら、利己的な道を貪欲に突き進み、当然の破滅に落ち込んで滅び去って行くことなどは、まさにその典型である。

筆者は、村上を担ぎ上げた信者たちにも、重い責任があると考えている。村上を間近で知らない人間が、村上に対して疑問を抱かないのは仕方がないが、村上を間近で知っており、疑問を感じながらも、声をあげなかった信者たちの責任は重いと考えている。特に、カルト被害者たちの責任は重い。

統一教会側の「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」が記している「2 拉致監禁による強制棄教事件の歴史」によると、脱カルト強制脱会運動の歴史には、大きく分けて4つの段階があり、拉致・監禁による強制脱会を最初に始めた者は、村上ではなかったようであるが、村上がこの運動に入った頃に、この運動は最盛期を迎える。拉致・監禁による強制脱会の手法が確立したのはその頃で、別な情報によれば、村上自身も数百件以上の強制脱会を手伝ったと言われている。

その後、強制脱会運動に関わった牧師たちの一部が民事・刑事で訴えられ、敗北に追い込まれたりする中でも、村上には追及の手が及ばなかったのは、ただ村上が非常に巧妙に立ち回り、人権侵害に加担した証拠を残さないようにしていたというだけではなく、村上を取り巻いている無数のカルト被害者らが、村上に対する徹底的な援護射撃・サポートに回ったことが大きく影響していただろう。

京都七條基督教会の役員も、ある時期までは、大半が村上自身が脱会させた元統一教会の信者で固められていたと指摘されている。彼らは村上の意向には決して逆らうことのない忠実な信徒たちであった。そして、今、当ブログに起きていることを見てみれば分かるように、村上が脱会させた信者たちは、村上の忠実な僕のように村上を取り巻いて、村上への批判的な言動を抑制し、これを即座に潰す役割を担ったのである。

このように、自らが脱会させた信者たちを防御の盾のごとく周りにはりめぐらし、彼らからの支持や賞賛を受けて活動したことが、村上の栄光を確固たるものとし、彼の率いる運動の偽りの悪しき本質を覆い隠し、村上の反カルト運動の成功者としてのイメージを作り上げ、この運動を存続させる原動力となったことは見逃せない事実である。

村上の周囲には、今もかつてカルトに入信し、強制脱会させられた際に、自己の意思を打ち砕かれたために、それ以後、村上に対して全く頭が上がらなくなり、異議申し立てができなくなった信者たちが大勢いるものと見られる。(筆者が2008年にこの教会を訪れた時にも、かなりの数、そういう信者たちがいた。)

彼らは、自分たちが村上のおかげで恐ろしいカルトから「救出」されたと額面通りに信じ込んでいるので、一生、村上を救世主のように慕い続け、忠実にその命に従う、マインドコントロールされた信者たちである。

だが、村上の脱会活動は、初めから信者の「救出」のためではなかった、と筆者はみなしている。筆者は以前に書いた記事の中で、村上がどのような形で統一教会から脱会したかという経緯について触れた。

そこでも書いた通り、村上は青年時代に、自ら親族からの拉致・監禁を伴う激しい暴力行為によって、統一教会から無理やり引きずり出され、強制的な脱会を遂げた。家に連れ戻されて後は、手足をロープで縛られ、身動き取れないようにさせられて、座敷牢に閉じ込められていたと自ら書いている。

脱会以後、牧師となってから、村上が繰り広げた脱会活動は、まさに村上自身が、青年時代に自己の意志を打ち砕かれ、身体の自由を奪われ、屈辱のうちに棄教せせられた悲劇的な脱会体験を、他の信者たちの身の上に再現しようとするものであったと言えよう。
 
つまり、村上の率いる反カルト強制脱会運動は、まさに村上自身が青年時代に負った深い心の痛手を、無意識のうちに、他の信者たちとの間で、共有・再現しようとするものだったのである(=反復強迫)。

また、村上は、この他にも、子供時代から親による恒常的に暴力(虐待)を受けて成長してきた様子が分かる記事もいくつも綴っている。

このようなことから、当然のごとく導き出される結論は、村上は統一教会に入信して初めてカルトに出会ったわけではなく、それ以前から、カルト的な歪んだ世界観を心の中に持ち続けて生きて来たことである。

その歪んだ世界観の土台となったのは、彼の家庭である。

筆者は幾度も書いて来た、カルトに接近する人々には、大抵、幼少期から家庭で受けた何かしらの心の傷があると。それが最大の原因となって、彼らはその傷から逃避するために、カルトへ接近するのだと。従って、たとえカルトから信者を引き戻したとしても、この家庭における傷という問題が解決されない限り、彼らがカルトに入った本当の動機は見出されることも、解決されることもない。ゆえに、この問題を放置していれば、その信者は、一つのカルトを脱しても、またそれに類似する何かの団体を見つけ出し、それを逃避の手段とし、そうして同じ種類の現実逃避を、人生で幾度となく繰り返して行くことになるだけであると。

家庭こそ、カルトとの最初の出会いであり、出発点であった――その事実を、村上は依然として見ることができないからこそ、彼はカルトを批判しても、家庭を批判することができないのである。親子関係を密にし、連絡を取り合い、大人たちの言うことを聞いてさえいれば、危険を免れるかのように説き続けているのは、他の信者たちに対してだけでなく、村上が自分自身に言い聞かせているのであって、統一教会のカルト性には気づけても、自分の育った家庭のカルト性には未だに気づかないように、自分で自分をマインドコントロールしているのである。

それだけでなく、村上はこの誤った理念を、幾度となく繰り返される「救出劇」の中で、座敷牢に閉じ込められた他の信者たちにまで、植えつけて来た。身体の自由を奪われ、惨めさと屈辱の中でうなだれる信者に、親たちの行った暴力には目をつぶって、親の言うことに従えと教えるのは、筆者から見れば、文鮮明を「霊の父」とみなし、再臨のキリストとして無条件に従えと教えているのとさほど変わらない。

つまり、村上の反カルト運動は、うわべだけは聖書を利用しているが、断じて、聖書に基づくものではなく、それは断じて、「救出活動」などではなく、村上自身が、強制脱会の対象とされた時に(またはそれ以前から)心に生じた犠牲者としての像(被害者意識、トラウマ)を、他の信者たちにも植えつけるためのはけ口でしかなかったのである。

そうして「救出者」を演じることで、村上は現実を巧みにごまかし、犠牲とされた自分自身の心の痛みから目を背け、自分が心に抱える本当の問題を覆い隠しながら、鬱憤のはけ口を得て来たのである。

そういう文脈で見ると、村上が盛んに「一人」になることに強い抵抗感を示し、人には身近な助言者が必要だ、とか、話を親身になって聞いてくれる人が必要だ、と切々と訴えていることが、誰よりも、村上が未だ自分の生まれ育った家庭によるマインドコントロールの事実と向き合いたくないがために、それを今も「お経」のごとく自分自身に言い聞かせているだけであることが分かる。

親子の関係から出て、一人の個人になった時、あまりにも恐ろしい現実に直面し、世界観が崩壊してしまわないよう、自分は「救出」されたのだ、ありがたい「助言」を受けたのだ、まさか暴力を振るわれたのでも、拉致・監禁されたのでもなく、人権侵害などなかった、と念仏のごとく、繰り返し独り言を唱えているのである。

村上の周りにいる信者たち(カルト被害者)たちも同様で、彼らは「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害などなかった」と、同じ念仏を唱え続けているのである。

自らに対して行われた権利侵害を認めないからこそ、彼らは筆者や当ブログに対して行っていることが、恐ろしい権利侵害である事実も認められない。自分を生きた人間として扱うことができず、自分の感情を殺し、自分の心の痛みから目を背け続けている人間が、他者の痛みだけを真剣に取り上げ、これを理解し、他者を解放することなど、できるはずもないことは明白である。

従って、彼らに出来ることは、ただ一つ、自分を犠牲として来たように、他者をも犠牲にすることだけである。それを「救出」や「解放」と呼び変え、神の福音から人々の目を逸らさせて、彼らの手にかかった人々が、キリストが用意して下さった解放に永遠に至りつけないように、御国への門の前に立ち塞がり、自分だけでなく、周りの人々まで滅びに巻き込んでいることが、この運動の最大の罪である。

<続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(8)―こうして救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

さて、今回は少し違った話題を以下で書こうとしているが、初めに断っておきたい。

村上密の記事には重大な問題がある。些細なことで他人の揚げ足取りはしても、いつも一番肝心なことについて説明がないことだ。これは人々の不信感を誘う。

村上密は2015年3月27日の記事「残りの人生」で、「40代の牧師」に主管者を譲って、自分は退任すると宣言した。これは、「長澤牧師を後継に据え、若い牧師に道を譲る」と言っているに等しい。

この記事で村上は「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。私は4月で60歳になる。」と書いていた。この記事が書かれたのは3月末であって、そこから4月までは1ヶ月もない。つまり、主管者を退任した時点で、村上は60になるまで約1ヶ月しかなかったということである。

ところが、村上はこうして自分から「40代の牧師」に道を譲るとして、主任牧師を引退しておきながら、後継であったはずの長澤牧師を、ほとんど一瞬とも言える短さで、主任牧師の座から退け、若くもない自分の妻を牧師に据えた。なぜこんな事件が起きたのかについて、村上は今日まで何一つ理由を対外的に説明できていない。

主任牧師をわずかな期間で交替させるなどのことは、会社で言えばトップの交替に等しいため、対外的にも深刻重大な影響を及ぼし、極めて慎重な判断が下されなくてはならず、それだけの十分な理由が必要だ。なのに、村上の教会では、この事件について、合理的な説明が一切なく、村上のブログでも、この出来事が全く説明されていないのは、非常に恐ろしい、読者に不信感を呼び起こす出来事である。

特に、村上の後を継いで主管者になって間もなく、長澤氏のもとには、村上の教会の牧師たちの連名で、「あなたには神様の召しはありません!」という内容の通達が届き、それが主たる理由となって、長澤氏は主任牧師を降格させられたのだという。

とはいえ、長澤氏にはいかなる落度もなく、依然、信徒からの信任も篤いことは、主管者を降格させられた後も、長澤氏が未だに同教会で何事もなく奉職を続けている事実を見ても分かる。従って、長澤氏が主任牧師を降格させられたのは、不祥事による主管者の交替ではない。

ある人たちは、村上は初めから長澤氏を後継にするつもりなどなく、これは短期間の目くらましの人事だったと言う。村上は、長澤氏を長年、手足のようにこき使い、あらゆる雑務を任せた挙句、不当かつ不明な理由で、約束していた主任牧師の地位から速やかに退けたのである。

今回、当ブログ執筆者が提起した訴訟の第一審の準備書面の受け取りも、長澤氏がかなりやっていた事実は、事件記録のサインを見れば明らかである。そこに村上密の署名はない。

繰り返すが、教会の主管者の交替という、これほど深刻かつ重大な問題に、村上のブログで一切、言及がないのは、極めて不審な事態である。長澤氏はほぼ100%に近い信徒の総意で主任牧師に選ばれたが、なぜその長澤氏を降格させて、村上恵子を主任牧師に据えねばならなかったのか、世間を納得させられるだけの理由は、何ら提示されていない。

しかも、村上自身が「40代の牧師」に道を譲ると宣言した後で、なぜ他でもなく村上の妻が主管者とならなくてはいけならなかったのか、なぜそれが信徒の総意に反さないと言えるのか、いかなる説明もないのは、非常におかしな現象である。

村上はこの問題を指摘されると、自分の引退劇に話を逸らし、退任した時点ではまだ60を迎えていなかったとか、牧師職を降りたわけではないなどといった話でごまかしながら、長澤氏を降格させた理由を何とかして隠そうとする。こういう村上の主張は、不透明な人事を隠すためのスピンとみなされておかしくない。

だが、どんなに隠そうとしても、極めて異常で合理的説明もつかないこの事件は、村上が退任時の年齢を訂正するくらいのことでは隠せない。むしろ、そんな些細な事柄をあげつらって、躍起になって反論し、話題を逸らさざるを得ないほど、後継者問題は、村上にとってネックだったのだと自ら告げているようなものだ。
 
そこで、おそらく、この状況では、村上の記事を鵜呑みにして信じる人はほとんどいまいと思う。自分の主張が人に信じられる根拠とは、そういう些細な問題ではないということが、村上には分かっていないようである。

もちろんのこと、鳴尾教会の裁判で、村上が当事者になったなどと、当ブログでは一度も書いていない。なぜなら、村上が常に「代理人」という名を使って、他者の裁判に介入して来たのは、この業界では言わずと知れた有名な話だからだ。

しかしながら、鳴尾の裁判を陰からバックアップしながら、これに勝てなかったことが、村上の信用に致命的な打撃をもたらしたことは確かだと見られる。宗教トラブル相談センターの働き等に専念することは、主管者を降りるほどの理由とはならないからだ。
 
だが、村上が本当に「40代の牧師」に道を譲るために、つまり、教会の若返りのために、自主的に主管者を降りたというなら、まだ理屈は通るであろう。しかし、妻に主管者を譲るために、60前に引退せねばならない理由はなかったはずだ。従って、村上が主管者を引退せねばならなかった本当の理由は、それではないとみなされるのは当然である。

要するに、それほど地元では村上の信頼が失われていたということである。ところが、その話が表に出て来なかったのは、村上が自らの教会においても、当ブログ執筆者に対して現在そうしているように、少しでも自分に対して批判的な言動を見つけると、早速、名誉毀損だとか、裁判だとかをちらつかせながら、信者を心理的に圧迫・恫喝して黙らせて来たためであると、もっぱらの評判である。

筆者は、前々から、沖縄では、村上を批判すれば、村上の思惑を忖度した信者たちから、たちまち集団リンチに遭わされ、村八分にされるという噂を聞かされて来たが、この度、筆者が村上に訴訟を提起したことにより、掲示板で起きた筆者に対する連日連夜の誹謗中傷を見れば、以上の噂が事実であることは、今更、証明する必要もないほど、万人の目に明々白々になっただろうと思う。

掲示板には、当ブログ執筆者の個人情報があることないこと数多く書き散らされ、歪曲された人間関係が記され、家族や知人など数多くの関係者までが、一緒になって誹謗中傷されているが、その情報の出所は、ほぼすべてが村上の運営する宗教トラブル相談センターである(一部、唐沢治からのものもある)。このセンターに家族を連れて行ったがゆえに、今や筆者の家族までバッシングされているのが現状である。

こうして信者の家族関係まで徹底的に利用して、不都合な信徒を弾圧する材料とするのが、村上の宗教トラブル相談センターなのである。村上自身が直接関わっておらずとも、村上の思いを忖度した信者が、不都合な人間を自主的に片付けてくれるのだから、楽な仕事である。

そして、今やその信徒から裁判を起こされているというのに、村上本人が未だ信徒の個人情報を無断で公開しては個人的に権利侵害を伴う反論に及んだりしている状況であるから、こんなにもコンプライアンスの意識の欠落した恐るべきセンターには、終わりが近いのは当然と言えよう。というより、むしろ、このセンターこそ、宗教トラブルの根源だとみなされて当然ではないだろうか。

読者はよく見ておかれたい。この牧師には、個人情報を話せば話すほど、それが後に訴訟の材料として利用されたり、掲示板で誹謗中傷の材料とされるのだ。そんな恐ろしいセンターに相談に行くことは、自殺行為同然であるから、絶対に誰にもお勧めできない。

さて、京都教会では、数多くの牧師が奉職しており、英語礼拝なども行なわれているにも関わらず、牧師たちの名前が、ホームページでは公表されていない。これもおかしなことだ。

さらに、村上密、村上の息子、村上の義理の父(津村昭二郎)、村上の妻(恵子)と、この教会では、教職者のほとんどが、村上ファミリーで占められ、彼らの謝儀が献金の圧倒的大半を占め、他の牧師は生活もできないような貧しい謝儀しか与えられていない。

村上一家が教会から出て行った際には、現金で家を買ったという噂も出回っており、沖縄出張への費用がどのように賄われているかも不明だという。そもそも沖縄で、村上が何をしているのかも、出張報告書も出て来ないので、誰にも分からない。神学生のための特別献金など、名目をもうけては、通常会計に上らない献金が集められるものの、その使途も、管理方法も不明だという。

京都七條基督教会が、人事においても会計においても、世間の常識から並外れて不透明な教会となっていることは明らかである。、

最後に、村上は粘着気質により、自分がターゲットとした人間を延々と批判し続けるが、筆者はそのような動機から発言していない。筆者は自己の人権を守るために発言しているのではなく、聖書の御言葉に立って、神の教会の権益を守るために発言している。

すべての人間を自分の低いものさしに従ってしかはかれない村上は、心底、情けない男としか言いようがない。村上の記事には、神への愛もなければ、教会や、信者への愛もない。何よりも、聖書の御言葉による裏づけが完全に欠けている。神への愛、そして、聖書の御言葉への愛、信者への愛がないこと――これは牧師として、他のどんなことにも比べられない、たとえようのない三大悪のような恥である。


* * *

さらに、唐沢治についても、ひと言、追加しておきたい。一つ前の記事に掲載した唐沢の陳述書は、唐沢が弁護士を介して出して来たものである。

信徒を刑事告訴し、自分が訴えられると、弁護士を通じて回答する。このような牧師が、唐沢治なのである。三大悪ということでは、この牧師も同格である。
 
とはいえ、弁護士の作った文書も、唐沢の文書とほとんど内容が同じであったので、あえて掲載する必要もないと考え、割愛した。

筆者は常日頃から、弁護士とは詭弁を弄するために存在している職業だと考えている。従って、裁判では、弁護士をつけたから、勝算が上がるということもなく、特に、牧師が信徒に向き合うに当たり、弁護士を介さねばならないとは、実にみっともないことでしかない。その上、あれほど辻褄の合わない支離滅裂な回答では、不誠実な人間性は覆い隠すこともできず、弁護士をつけたことで、かえってますます評判が低下するだけだろうと思わざるを得ない。

筆者が第一審で分かったことは、やはり訴訟においては、首尾一貫した矛盾のない誠実な主張を通すことが、信頼を得る何よりの根拠だということである。法的根拠に基づき、白黒つけられない問題については特に、整合性の取れる主張を丹念に積み重ねて行くことが必要である。

村上は杉本と同様に、あたかも筆者の書面がいたずらに長いかのように嘲っているが、筆者は一度の反駁で、杉本と村上の2名の被告を相手にしたのであり、杉本の準備書面も、相当な分量に及び、非常に虚偽に満ちた内容であったため、これに反論するためには、どんなに少なくとも3倍近くの文書量が必要となった。

前々から述べている通り、誹謗中傷するのは1行で済むが、それに反論するためには、3~5倍程度の文章が必要となる。ただ反論するだけでなく、証拠の積み重ねが必要だからである。また、小さな文言の修正であっても、訂正を怠らないことも、誠実さの証しである。

さて、当ブログであえて村上密や唐沢治の書面を公開しつつ、これらの牧師たちの不誠実さについて言及しているのは、牧師という職業について、読者の幻想が徹底的に打ち砕かれることを、筆者が心から望んでいるからだ。

当ブログでは、2008年に始まった頃から、牧師という職業は、それ自体が、聖書に反しており、必要ないどころか、有害な偶像崇拝であるという見解を提示して来た。従って、以上に挙げたような出来事は、すべてその結論を裏づけるものでしかないと言えよう。

唐沢治は、かつて自分でも、エクレシアに固定的な指導者は必要ない、自分はKFCの指導者であり続けたくないので、一刻も早く牧師職を降りたい、などと述べていた。だが、それはポーズに過ぎず、唐沢のもう一つの側面は、決してこの集会を手放したくない、リーダーの座を折りたくないというものであった。

村上密が主管者を退任すると宣言した後も、自分はあくまで現役牧師であると言い張り、教会に対する影響力を手放せないでいることや、唐沢治がKFCから降りたいと言いながらも、この集会の牧師職にすがりついた姿の中に、我々は、自分から引退を口にして役目を終えたはずの人間が、いつまでも必要のない地位にすがりつくと、こうまで人間性が腐敗して行くという生きた実例を見て取れよう。

さて、掲示板のコメントを読めば分かるが、村上密・唐沢治をとりまく信者たちは、「自分は見捨てられた」という自己憐憫と被害者意識で一致団結している。そして、見も知らない当ブログ執筆者から、何の正当な根拠もなく、自分たちは見捨てられたのだという被害者の立場に身を置き、筆者に報復するために、集団で攻撃している。

だが、この被害者意識こそ、こういう悪しき指導者たちの吸引力の源であり、麻薬のように人格を腐敗させて行く根源なのである。杉本徳久もそうであったが、村上密に深く関わった人々は、皆、筆者の目から見ると、同じような被害者意識を抱え、それゆえ物事を正常に見られなくなって行く。
 
杉本徳久がかつて1件のコメントの削除を筆者から依頼されただけで、その依頼によって自分を完全に否定されたかのように思い込み、10年間もかけて、筆者を恨み続けたように、この人々は、少しでも他者から自分を批判されるような言動があると、早速、自分を否定した人間を(見ず知らずの人間であっても)許せない思いとなり、生涯に渡るほどの執念を持って反撃し続けるのである。(しかも、自分が批判されたのではなく、指導者が批判されたことに対して報復しているところが、より異常だと言えよう。)
 
この異常とも言える被害者意識は、人を完全に霊的盲目にしてしまう。これに感染した人は、どれほど自分が残酷な行動を取っていても、我が身可愛さのゆえに、全くその残酷さが自覚できなくなり、いつか限度を超えた報復行為に出て、それが犯罪行為として裁かれる結果に至る・・・。

被害者意識が、人の健全な意識を失わせ、まるで傷が人間全体を飲み込むように、人格を腐敗させて行く様子を、掲示板の人々に見て取れよう。

そこで言えることは、このような悪影響を信者たちに及ぼす指導者からは、すぐに離れなさい、ということだ。村上密の被害者意識によるマインドコントロールから離れなさい。自分は見捨てられた人間だとか、傷つけられて、打ち捨てられた哀れでみっともない人間だという意識から離れなさい。

真に神を信じて生きているならば、他者の言動に振り回されることがなく、他者との間で紛争が起きても、これを合法的かつ正当な手段で早期に解決できるはずだ。見も知らない他人を恨み続け、延々と匿名で掲示板に恨み言を書き連ねるような不毛な行為に至り着くはずがない。

ラスコーリニコフにもソーニャがいたわけだから、たとえ犯罪者になったしても、それで人生が終わるわけではない。真摯な悔い改めと誠実な心があれば、自分のソーニャを見つけ、いつからでも人生のやり直しは可能なのである。
 
ところが、この人々が、いつまでも自分を見捨てられた人間の立場に置いて、自己憐憫、自己卑下に明け暮れているのは、その心の根底に、「自分は神に見捨てられた」という被害者意識があるためである。このことを、当ブログでは、幾度となく説明して来た。それがグノーシス主義なのである。

実はこれこそが、最も厄介かつ深刻な問題であり、個人的な恨みや復讐心のレベルを超えて、人の永遠の命の問題を左右する問題である。だが、この問題については、長くなるので、別途、記事を改めることにしよう。

いずれにしても、被害者意識や自己憐憫から離れ、紛争が起きたなら、これを合法的で正当な手段を用いて早急に解決することをお勧めする。市民としての正当な権利がいくつも与えられているのに、掲示板になど深く関わっていれば、いずれあなたの人生が取り返しのつかないことになるだけである。
 
 
* * *

さて、前置きは終わったので、ようやく、今回の記事のテーマに入ろう。まず述べておかねばならないことがある。それは、キリスト者は御言葉に立つために、徹底的に霊的戦いを戦い抜かねばならない場合があるということだ。

筆者がなぜ戦いを続行しており、それによって何を掴もうとしているのかも、これによって説明できる。地上で己の利益を保って平穏無事に暮らすことだけを第一優先している肉的な信者は、「和」を尊び、争い事を敬遠することこそ、この世の知恵であると思い込むあまり、このような戦いの重要性を全く理解できなかった。

だが、筆者は繰り返し、この戦いは、筆者の人権を守るためではなく、神の国の前進のために必要不可欠なものだと述べている。筆者は、個人的な思惑に基づいて、訴訟を提起したりしているわけではない。

ここには、私たち信者が、迫害を受けた際、簡単に主の御名を捨ててしまうのか、それとも、どんな迫害に遭っても、信仰の証しを大胆に守り抜くことができるのかという、私たちの永遠の命に関わる問題がかかっている。

また、教会が、一人や二人の狼藉者のために、恐怖によって脅しつけられ、口を封じられ、証の言葉を大胆に述べられなくなるような、あるまじき理不尽な状況を容認するのかどうか、という問題もかかっている。

もし以上のような状況を容認するならば、教会は、死を打ち破られたキリストのよみがえりの命によって、自由にされた人々の集まりどころか、死の恐怖によって脅しつけられた捕われ人の集団となるであろう。

そして、そのような待遇に自ら同意した人々は、この先、一歩たりとも前進して行くことができず、ついに最後は、すべての自由と権利を失い、信仰の片鱗も見られなくなり、クリスチャンというより、ゲヘナの子と呼んだ方が良い有様にまで転落し、キリストの福音を全く知らなかった方がまだましな状態となって人生を終えるのではないだろうか。

一つの権利侵害に甘んじることは、百の権利侵害に甘んじることと同じである。不当な脅しに沈黙して、立ち向かわないことは、自分のすべての権利を自主的に放棄して、生きることを放棄しているも同然である。

そこで、聖書の御言葉の真実性を信じない人々による恫喝、嘲笑、侮辱の言葉を放置・容認するならば、それは彼らの信念に、あなたが自ら同意しているのとほとんど変わらない効果をあなたにもたらす。

神は、神の御名が汚されている時に、沈黙しているあなたを喜ばれるだろうか。むしろ、あなたの態度を恥じて、あなたの名が汚される時にも、あなたを守って下さらないだろう。

神を知らない人々にも、憤って立ち上がらなければならない瞬間があるように、クリスチャンには、断じて黙っていてはならない瞬間がある。

我々が侮辱されたから立ち上がるのではないのだ。聖書の御言葉が曲げられ、主の御名が冒涜され、神の教会が蹂躙され、我々の嗣業が脅かされているがゆえに、立ち上がって、これを取り戻さねばならないのである。

それができなければ、教会は、自分に与えられた尊い永遠の嗣業を失ってしまうだろう。約束の地にたどり着けず、荒野で倒れた民のように、神が約束された偉大な自由と解放に全く至りつけないまま、中途半端な妥協で人生を終えてどうして良いだろうか。

いみじくも、オリーブ園に掲載されているオースチン・スパークスの最新の論説が、この霊的戦いのテーマについて、はっきりと告げているので、まずはこれを掲載しておきたい。


 「キリストとの合一」第四章 創造的・種族的合一(10)
 
 さて、他の文脈でそうするのと同じように、私は次のことをあなたたちに思い起させて終えることにします。すなわち、嗣業はキリストと教会に対する戦いの鍵です。そして、相続人たる身分には二つの面があります。法的面と霊的面です。

新しく生まれた時、私たちは法的に相続人となりました。新創造の中にあるなら、私たちは法的に出生による相続人です。しかし、相続人としての法的身分と霊的に相続する行為とは非常に異なります。

後で見ることになりますが、聖書は他の文脈と同じようにこの文脈においても明確な区別をしています。ガラテヤ人への手紙はまさにこの思想を巡って構築されています。「相続人は子供である間(中略)父によって定められたその時が来るまで、保護者や家令の下にいます」(ガラ四・一、二)。この手紙はさらに続けます――子供であるなら息子でもあります。私たちはみな息子たちです。それは信仰によって、つまり法的にです。たとえ子たる身分すなわち嗣業の意義・価値を実際かつ霊的に所有していなくてもそうです。私たちは出生により法的相続人です。しかし、霊的成長によって私たちは嗣業の霊的所持者になります。


 これについてはっきりしているでしょうか?もし教えに関してはっきりしていないなら、実行と経験に関してはっきりしているかどうか自問して下さい。どれだけ多くのクリスチャンがこの嗣業を享受し、自分たちの嗣業を所有し、嗣業の保有に向けて前進しているでしょうか?多くのクリスチャンはそうしていませんが、それでも彼らは神の子供であり、法的相続人です。法的相続人から霊的相続人になるまでの間に、何かが起きてあなたはこの嗣業を失うかもしれません。

新約聖書は常に私たちに告げます。私たちは偉大な嗣業を持っているので、それを失ってはならないことを。私たちは偉大な数々の権利を持っているので、それらを放棄してはならないことを。私たちは永遠の過去からある事柄にあずかるよう召されています――しかし、しかと「あなたの召しとあなたの選びを確かなものにしなさい」。私たちの法的身分と私たちの霊的状態とは異なります。


 この新創造でも同じです。私たちは霊的学びをしなければなりません。一つの領域から他の領域に漸進的に渡らなければなりません。戦わなければなりませんし、争いの中に入らなければなりません。自分の救いのためではなく、キリストの中にある私たちの嗣業のためです。私たちは試され、試みられなければなりません。それは自分が良いクリスチャンであることを証明するためではなく、霊的優位性の何たるかを学ぶためです。こうして霊的優位性の中でこの嗣業の中に入ります。

無代価の賜物として受けることと、次にそれを受け継ぐべきこととに関する、これらの矛盾のように思われる事柄にあなたは心当たりがあるでしょう。すでに見たように、一方は法的地位であり、他方は霊的地位です。私たちは新創造の中にあります。その圧倒的大部分は彼方にあります。しかし、私たちは進み続けています。確かに、私たちが集会に集まる時は常に、その理由は主と共に前進したいからです。一つの領域から他の領域に移りたいからです。私たちの心は、主が御自身との合一に中に私たちをもたらされたその意義全体の上に据えられています。彼の恵みにより、私たちは切り抜けて前進します。



* * *

さて、このオースチンスパークスの論説を理解するためのキーワードは、「霊的優位性」である。以上の話を理解するために、もう一度、以下のガラテヤ書の御言葉に戻ろう。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)


私たちは、キリストの贖いを信じて受け入れているならば、約束の相続人である。これは来るべき国の無尽蔵の相続財産が、私たちに約束されていることを意味する。

だが、この相続人としての権利は、判決文のように、実行されなければ、効力の伴わない宣言で終わる。

法的権利を持っていても、これを実際に行使しなければ、自らに約束された権利を掴むことはできない。そこに戦いが起き、困難が伴う。あなたはその困難をすべて打破して、約束の権利にたどり着き、これを実際とせねばならない。

アブラハムに約束された子イサクは、信仰によって生まれたが、成長するまでは、肉によって生まれたイシマエルと同じ家に暮らしていた。

同じように、今日の神の教会にも、御霊によって生まれた神の子供たちと、新生を経ていない、肉によって生まれ、うわべだけクリスチャンに偽装しているだけの、偽りの霊に導かれる者たちが混在している。

この異質な両者は、まるで同等の権利を持つ者であるかのように、教会を我が物として活動している。

だが、これらの異質な者同士の間には、必ず、戦いが起きる。まず最初に肉によって生まれた者たちが、霊によって生まれた者たちを、神の教会から追い出そうとする。これが戦いの最初のステップである。

今日の時代には、肉によって生まれた者たちが、カルト化を監視するという名目を用いて、全教会の支配者となろうとする恐るべき理念を振りかざし、裁判を利用して教会に戦いをしかけ、気に入らない者を中傷し、諸教会を自らの支配下に置こうとしている(反カルト運動)。

反カルト運動は、表向きには、人々をカルトから解放するという正義と自由の旗を掲げているものの、実際には、恐怖による恫喝を手段としており、その真の目的は、教会を解放するどころか、むしろ、抑圧して支配することにある。

今やプロテスタントの多くの教会が、このほえたけるししのような連中の罠を見抜けず、恐怖に脅しつけられ、抵抗できなくさせられた。

だが、心配することがないのは、 私たちは、二度とそのような奴隷のくびきにつながれないためにこそ、救いにあずかっているわけであり、命の栄冠を誰にも奪われないために、不当な脅しに毅然と立ち向かってこれを撃退するならば、むしろ、肉によって生まれた者たちを教会から追放することが可能なのだ。

イサク(御霊によって生まれた子)が、イシマエル(肉によって生まれた子)をアブラハムの家から追い出せるようになるまでには、成長が必要である。イシマエルは、イサクよりも早く生まれた分だけ、イサクよりも先に力と知恵をつけているため、初めは強敵に見える。

だが、イサクもやがて成長して、イシマエルに自力で立ち向かうことができるようになる。そして、イサクが反撃に転じたことにより、肉によって生まれた者と、霊によって生まれた者との間に、激しい相克が起きる。これが第二のステップである。

第二のステップは、異質な者同士の間で起きる壮絶な争いである。むろん、サラとハガルとの間にも、争いが起きている。一体、どちらの陣営が勝利するのか、この時点では、はた目には分からない。肉は早熟であり、一時的な勢いがあるため、肉によって生まれた者の方に優位があるように見えるかも知れない。

だが、キーワードは「霊的優位性」である。

キリスト者は戦いに臨むとき、自らの勝利を十字架から引き出して来る。コロサイの信徒への手紙には、「キリストはすべての支配や権威の頭です。」(コロサイ2:10)と記されている。

これが、キリスト者の圧倒的な霊的優位性の根拠なのである。あなたが女性であろうと、この世で見下された無力な存在であろうと、世間からどんな風に見られていようとも、関係がない。もしもあなたがキリストによって新しく生まれた者であるならば、あなたは彼の御名のゆえに、彼と共に、すべての支配と権威を足の下にする権威を帯びているのである。

だから、私たちは敵に立ち向かうとき、この霊的優位性をフルに活かして、戦いを有利に進めなければならない。この霊的優位性の内実は十字架にこそある。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

二つ前の記事に、債権差押命令を提示したが、これはまさに債務を抱える者に対する強制的な取り立てを許可する令状である。

キリストによって贖われておらず、自由とされていない民には、罪という名の無限大の債務がある。それゆえ、悪魔は彼らに対して強制的に取り立てを行う権利を有し、日々、彼らを恫喝し、彼らの権利を剥ぎ取っている。

他方、贖われた者たちには、そのような債務は存在しない。従って、私たちには、誰からも恫喝されたり、取り立てられたりする根拠は何もないのである。

だが、肉によって生まれ、贖われていない者たちは、悪魔のみならず、神の子供たちに対しても、債務を抱える存在であると言えよう。特に、神の教会を迫害して来た者どもの罪は重く、神の子供たちは、彼らの罪を債務に変えて、実際に取り立てが可能なのである。

「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)というのは、そういう意味である。

そこで、私たちが暗闇の勢力に対して戦いを挑むとき、私たちはこの霊的優位性を活用する。贖われていない者は、罪という債務に縛られており、それゆえ、もろもろもの支配と権威による取り立てに服するしかない存在であるが、贖われた私たちは、罪という債務に縛られていないので、もろもろの支配と権威を従わせ、贖われていない者を支配下に置くことができる。

だが、筆者は、この戦いが簡単だと言うつもりはない。目的を達成するためには、想像を超えるほどの根気強さを持って、壁を打破して行かねばならない。

だが、それでも、私たちは、この戦いを貫徹するならば、自分たちが、本当にこの世のあらゆる支配と権威を超越したところに立たされていること、敵こそ、私たちの足の下に踏みつけられ、罪の負債を負って、我々の取り立てに服する義務を負った存在であり、我々の命令に服するしかなく、彼らはすでに十字架において霊的死の宣告を受け、裁かれており、恥をこうむって終わることを運命づけられていることが分かるだろう。

私たちの名のゆえでなく、キリストの御名のゆえに、この世のもろもろの支配と権威は、私たちに完全に服従しなければならない。そうなる時まで、私たちはこの戦いの中で、十字架を貫き通し、キリストの御名に込められている霊的優位性が、目に見える実際となって、この地にもたらされるまで、この戦いを容赦なく貫徹する。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(コリントニ10:4-6)

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

筆者はおそらく、自分のしているこの戦いが、神に栄光を帰するための信仰による戦いであることを証するためにも、キリストの御名以外の名を高く掲げることはないだろうと思う。

この戦いに勝利するために、私たちは死力を尽くさなければならないが、御名のゆえに与えられた霊的優位性、すなわち、神に由来する力は、敵の要塞をも打ち破るに足るものであり、敵の振りまくあらゆる嘘、詭弁、ごまかし、すりかえ、脅しを粉砕し、神の御言葉に逆らうすべての高慢を打ち砕いて、すべての人々の思いをとりこにしてキリストに服従させることができるものであるから、私たちは、すべてのものを足の下にしているキリストの絶大な御名の権威のゆえに、地上のすべてのものを足の下にする。

教会は、キリストを頭とする体であり、キリストが満ちておられる場であるから、主と共に御座に引き上げられ、地上のすべてを足の下に従えている。

そして、私たちは、すべてのものがひざをかがめて、「イエスは主である」と告白することが実現するためにこそ、この世から召し出され、この地に置かれているのである。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、精力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:20-23)

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:10-11)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

こうして、イサクは信仰によって成長し、強くなって、困難を忍びつつ、よく戦い抜いて、実際にすべてのものをキリストと共に足の下にする秘訣を学ぶようになる。

その時、イサクはイシマエルを打ち破り、肉によって生まれた子に対する霊的優位性を見事に証明することができるようになる。そして、第三のステップである平和が訪れる。

反カルト運動は必ず打ち破られて、恥をこうむり、神の家から追い出される日が来るであろう。

今や不従順な肉の子であるイシマエルは神の家から追い出され、イサクこそ、神の家の唯一の約束の相続人である。

イサクのためには、アブラハムが築き上げた無尽蔵の相続財産が約束されている。これがイサクの嗣業である。私たちは、キリストの命の中に隠されている無限とも言える自由と豊かさに、実際に至り着く必要がある。これが私たちの目指している新しい領域である。ただ贖われただけで終わるのではなく、激しい戦いを戦い抜いて、霊的に勝利をおさめ、敵を征服し、圧倒的な自由と豊かさの中に、実際に入らなければならないのである。

善良な人はその嗣業を子孫に残すが、罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

外出先で車を走らせていると、ふとある教会を通り過ぎたが、その掲示板に「キリストと婚約」という説教題が書いてあった。 筆者はむろん、その教会に立ち寄るつもりも、礼拝説教を聞くつもりもないが、象徴的なタイトルだと心に留めた。

折しも、最近のオリーブ園には、オースチンスパークスの「キリストとの合一」の連載が始まったところである。

筆者は、ここ最近、ますますキリスト以外の何者にも頼ることなく、地上の人間との関わりに一切、心奪われることなく、ただ信仰だけによって生きるべきだとの確信を心に強めている。

上記の御言葉は、口語訳では、こうなっている、「 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。 」

「ただ一人男子キリスト・・・」、この聖書の表現は、何ら嘘でもなければ、誇張でもない。なぜなら、花嫁なる民(エクレシア)にとって、花婿なる男性は、キリストただお一人だけなのであるから。
 
パウロは、キリストがご自分の花嫁を愛されるのと同じように激しい愛情を持って、自分が養い育てて来た信徒らを見つめ、もしや万が一にも、彼らの心が、キリスト以外のものに奪われ、神を悲しませやしまいかと、気をもんでいたのである。

パウロがいた当時のコリントの教会には様々な問題が起き、信徒たちの信仰も、頼りないものであったかも知れないが、パウロは、そうした現状を見るのではなく、神がご覧になっている花嫁としての教会の姿を見つめ、キリストご自身を反映したその美しさ、その完全さに、心奪われるほどまでに熱心な愛情を注いでいたのである。

エクレシアの一員たる私たち信徒は、自分がそのような眼差しで神に見つめられていることに気づいているだろうか。

さて、この人間社会に生きていると、不思議な出会いが多々あり、他者から熱心な好感を表明されたりすることも、時にはある。人は誰でも他人から好意を示されることに、悪い気はしないものだが、パウロが信徒たちを見つめていたような、熱心な愛情をこめて見つめられれば、なおさらのこと、情にほだされそうにもなるだろう。

ところが、筆者はここ最近、どんなに人から好意を受けようとも、どれほど賞賛と支持を受けようとも、人間の互助組合としての、人間の連帯からは、一切、離脱して、人間的な慰めにすがらず、ただキリストのみを頼りとして、キリストのためにのみ、生きるべきだという確信が、心に増し加わっている。

これは、筆者が人間嫌いの偏屈で頑固な変わり者であるがゆえに言うのではない。パウロも、別な箇所では次のように述べている。

「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。<略>ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

兄弟たち。わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:16-31)

これは驚くべき言葉であり、パウロが実際に、キリストに結ばれた信者たちは、まことの伴侶なるキリストだけのために生きるのが理想であると考えていたこと(そしてパウロはそれを実践して生きたこと)をよく物語っている。

従って、冒頭に挙げた「キリストと婚約させた」という言葉は、パウロにとっては文字通りの意味を持っていたのであって、パウロ自身、キリストにのみ捧げられたエクレシアの一員として、生涯、キリストを満足させるためだけに生きたのである。
 
それだけでなく、パウロがここで、妻を持つことを、物を売ったり買ったり、喜んだり泣いたりするといった浮き世の些事と同列に論じていることに、注意したい。今日の世の中の多くの人々にとって、自分の望み通りの伴侶を得て、安定した家庭を築くことは、死活的な重要性を帯びた一大事であろうが、パウロは、そのようなことは、すべて永遠とは何の関係もない、移ろいゆくこの世の有様に過ぎず、取るに足らない地上的な事柄でしかないと、切り捨てているのである。

そして、人の目に自分がどう映るか、どうやって人を喜ばせるかといったことばかりに気を遣うのではなく、どうやって神を喜ばせるかに第一に心を砕いて生きるべきだと、信徒に語り続けるのである。

そこで今、筆者も、もしもこの世の人々が、私たち信じる者に、人間的な長所や魅力を見いだすとすれば、それはすべて、我々の生来の資質から来るものではなく、ただキリストご自身に贖われたエクレシアとしての栄光に満ちた輝きに由来するものだと考える。

神が筆者のために、キリストを贖いの犠牲としてお与え下さり、筆者が御子の命と性質にあずかっているからこそ、筆者にかけがえのない価値が生まれるのであって、もしも筆者が、ただ一人の男子キリストだけのために捧げられた聖なる花嫁(エクレシア)であるというステータスを自ら捨てるようなことがあれば、筆者の魅力、輝き、新鮮さといったすべての美点は、たちまちのうちに無いもののように消え去ってしまうことであろう。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

人間はみな神の宮として造られたのであって、宮は、神がその中に入ってこそ、初めて意味を持つ。ただ空っぽの、神不在の宮は、どんなに美しく造られていようとも、無価値である。

このようなわけで、筆者は、人々の優しさや好意、賞賛や賛同に触れるときには、注意しなければならないと思っている。神の目にではなく、人間の目に自分がどう見られるかを気にして生きるようになることは、キリスト者にとって重大な罠だからである。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)
 
筆者は大勢の人々が手に手を取って入って行く滅びに至る広い門を非常に忌むべきものとみなしており、これを拒み、ただキリストのつつましい花嫁として、人の目には評価されない十字架の道を歩んで行きたいのである。

つい今しがたも、これまで神の御前で単独者として、共に孤独な戦いを戦い抜きたいと願った人々の一部が、広い門へと逸れて行ってしまったのを見た。

彼らは、組織から離脱した人々であったが、再び、組織に所属することを選んだと筆者に告げて来たのである。

こういう事例を、筆者は今まで、数えきれないほど見て来た。腐敗した宗教団体からエクソダスし、人間の指導者につき従うことを拒み、神の御前の単独者として、聖なる花婿であるキリストだけを忠実に待ち望む花嫁として、孤独をも、恥をも耐えて、戦いを忍んで勇敢に生きようと決意した信者たちの、実に多くが、実際に孤独と迫害の中で、一人では立ちおおせなくなって、人間的な助けを求めて組織へと戻って行った。

筆者から見れば、そのようなことは、エジプトを脱出した人々が、再びエジプトに戻るのと同じ、信仰の後退であり、しかも、そういうことが起きる際、彼らが戻って行く先の組織は、決まって、彼らが先に所属していた組織よりも、もっと後進的で、命の息吹の感じられない、死んだ古い組織なのである。だから、そのような場所へ戻れば、彼らは前よりも悪い状態に陥りかねないと筆者はいつも危惧している。

そういう現象が起きるほど、信仰の試練を一人で立派に耐え抜くことは、大勢の人々にとって難しい。彼らにとって、リアリティと見えているのは、目に見えるこの世であって、見えない天ではない。

多くの人々は、神から疎外されることよりも、社会から疎外され、世から偏屈で頑固な変わり者だと非難されることを恐れる。彼らは、神との間で齟齬が生じることよりも、社会との間に軋轢が生まれることを恐れる。さらに、世に迎合しないことによって、生活の糧が失われることを何より恐れる。

昔の信仰の先人たちは、地上的な保障が何もないところで、ただ信仰だけによって、天からの富によって支えられて生きる方法を知っていたが、今日は、聖職者と呼ばれる人々の中にも、荒野にあっても、信仰によって生きる秘訣を心得ている人は、ほとんど見当たらない。

孤独や、窮乏や、迫害や、行きづまりが見えて来たとき、ほとんどの人たちは、それを信仰によって乗り越えられると思わず、回れ右して退却して行くしかないと考える。

今、真の意味で、神の国の働き人であり続けられる人々が、西を向いても、東を向いても、ほとんど見当たらないのである。

だが、荒野が嫌だからと、エジプトに戻れば、奴隷としての日々が待っているだけだ。それでも、彼らの目には、荒野で死に耐えるよりは、エジプトで再び奴隷となって生き延びる方が安全だと映る。人間の互助組合の助けを借りれば、せめて暮らしは保障されて、厳しい寒さや熱さを和らげることができると思うのであろう。だが、それは誤りである。

あるジャーナリストが、安倍政権が続いた先に待ち受けているものは、ベネズエラのような運命だと訴えているが、実際に、日本全土が、ここ数年で、恐ろしいほどの貧しさの中に落ち込んでおり、この先、それが和らぐ見込みは今のところ見いだせない。

宗教団体などの人間の作った互助組合も、貧しさの煽りを受けており、従って、一人では信仰の試練を忍び通せないと考える人たちが、身を寄せ合って寒さをしのごうとしても、そこで延命できるのは、せいぜい、一日か、二日程度である。無いものは無いのであって、分かち合えばさらに減るだけである。

何度も書いて来た通り、我々が無事にそして有り余る命の豊かさの中で生き残るためのただ一つの有効な手段は、どんな団体に所属するかという点にはなく、神の国とその義を第一として生きることにこそある。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)


この法則のおかげで、筆者は今もこうして神の義に立って証を続けることが可能となっている。だが、筆者は、これから先、ただ神の御前に義とされるだけでなく、栄光にたどり着かねばならないと考えている。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

栄光を受けるとは、信仰の試練を立派に耐え忍び、勝利をおさめ、ただ「合格」基準に達するだけでなく、「よくやった」として褒賞にあずかることを意味する。
 
今、筆者は、エジプトで宰相となったヨセフが、来るべき大きな飢饉を予見して、それに備えて何年も前から、穀物の備蓄を命じたように、来るべき霊的飢饉に備えて、天に宝を貯蓄しておくことが必要だと考えている。それは目に見える飢饉が現実に迫っているだけでなく、霊的なひどい飢饉がすでに到来しつつあるためである。
 
イエスは言われた、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、貴方の心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)

しかし、一体、天に富を蓄えるとは、何を具体的に意味するのだろうか。
 
ここで、主イエスが、弟子たちに向かって、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある。」と言われたことを思い出したい。

「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)

主イエスは、神の御心を行い、そのわざを成し遂げることが、ご自分の食物だと言われた。これは、神の国と神の義を追い求めれば、すべてのものが添えて与えられるという御言葉とほとんど変わらない意味を持つ。

神の御心を行うとは、神を愛し、その御言葉に従って、神が贖われた兄弟姉妹を愛し、貧しい者を虐げず、他人の物を奪わず、人を欺かず、とらわれ人を自由にし、悲しむ人を慰め、正義を行い、真実を尊び、神が真実で憐れみ深い方であるように、慈しみ深く生き、悪や虐げや暴虐から遠ざかること等を意味する。

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。 」(ミカ6:8)

神の御心を行い、神の慈しみに生きるならば、必ず、その人の生涯は、主ご自身が守って下さり、神がその人のすべての必要を満たして下さる。そのことは、ダビデも以下のように書いている通りである。

「主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。
 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない 
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。
 主は正義を愛される。
 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。」(詩編37:23-29)

では、荒野で倒れた人々には、何が足りなかったのだろうか。彼らには、食物の少ない荒野にあっても、そこには、神の御言葉という、自分を生かす、目に見えない朽ちない食物があることが、発見できなかったのである。

彼らには、目に見える食物が目の前にないとき、目に見えない食物から、どうやって目に見える食物を取り出すのか、その秘訣が分からなかったのである。

そうなったのは、彼らには、信仰がなかったために、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)という事実が見えていなかったためである。

すなわち、我々信仰者は、見えない神の御言葉を通して、目に見えるものを実体として呼び起こし、引き出すことができるのであり、すべてのものはそのようにして神の御言葉によって出来たのであるが、その法則が、彼らには分からなかったのである。
 
宗教組織によりすがれば、安全な信仰生活を送れると考えることが、どうして間違っているのかという根拠もここにある。組織や団体は「目に見えるもの」である。しかし、信仰により、私たちが神の国を受け継ぐ者であることを保証し、まことの命の糧を与えてくれるのは、これらの「目に見えるもの」ではなく、目には見えない、内に住んで下さる聖霊である。

私たちがこの内なる御霊を通して、キリストご自身から全てを引き出す秘訣を学ぶことを捨てて、ただ厳しい試練を一人で耐え抜く自信がないために、あるいは、手っ取り早く安全な生活の保障を得たいがために、自分が生きている根拠を、「目に見えないもの(神の御言葉)」ではなく、「目に見えるもの(団体)」に取り替えると、私たちにすべてを供給してくれるまことの命の働きがやみ、やがて命の源が失われてしまうのである。

では、我々は一体、どうやって、逆境を切り抜け、信仰によって、御言葉による創造を行い、無いところから、有るものを呼び出し、朽ちない宝を生み出していくのか?
 
今、我々を取り巻く目に見える世界は、徐々に貧困化している。憎むべき悪魔は、今日もほえたける獅子のように、弱く貧しい無知な人々を、獲物のように食い尽くそうと、あたりを徘徊し、見つければ、虐げ、騙し、脅し、ゆすり、たかり、財産を巻き上げ、路頭に迷わせ、骨までしゃぶりつくそうと狙っている。

悪魔と暗闇の勢力は、人々を飢餓状態に陥れ、互いに憎み合わせ、殺し合わせ、あわよくば共食いにさえ陥らせたいと、グロテスクな計画に心躍らせているのかも知れない。

しかし、我々信じる者たちは、信仰によって、まるで熟練した腕前を持つ狩人のように、吠えたける獅子に御言葉を矢のように打ち込み、これを捕獲して、分捕りものとして縛り上げ、檻に入れて持ち帰り、凱旋の行進の中で、さらしものにした後で、蔵に食料として備蓄しておくことができる。

武装を解除してしまえば、それはもはや獣ではなく、おとなしい動物であり、食べ物にもなろうし、家畜にもなろうし、獣が従えていた捕虜たちも、当然ながら、分捕り物となるであろう。

このような話を聞いて、きっとこれは非常に悪い冗談か、皮肉を言っているに違いない、と思う人もあるかも知れないが、そういう人には、エステル記の終わりを読んで欲しい。

ハマンは王の家臣に過ぎなかったが、自分が王の代理人であるかのように慢心し、モルデカイが自分を拝まないことに腹を立て、ユダヤ人を皆殺しにしようとはかった。その謀略が王妃エステルによって暴かれ、ハマンがモルデカイを吊るそうとして庭に作った処刑台は、かえってハマンを吊るす処刑台となり、ハマンが所有していた豪邸は、王妃エステルに与えられた。ハマンがはめていた王の指輪は、モルデカイに与えられ、モルデカイはハマンのものであった家の管理を任されただけでなく、かつてハマンが占めていた地位を受け継ぎ、さらにそれを超えて、家臣というよりも、一人の王のようにさえなったのである。

さらに、ユダヤ人には、ユダヤ人を殺す目的で武装した人々を、逆に殺して財産を奪い取ることが許可された。エステル記8~9章にはこうある、

「その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。 」

「モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。」

「モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。」


むろん、これは旧約聖書中の出来事であって、これを現代のキリスト教徒に文字通りに当てはめるわけにはいかない。

しかしながら、これは霊的絵図であって、今日、キリスト者に任されている使命が、御言葉を武器として用いて、暗闇の勢力が占領していた領域を、キリスト者に明け渡させることにあることを、はっきり示している。それが成就すると、暗闇の勢力の首領が恥をこうむって退却するだけでなく、明け渡しに伴い、財産の移譲が行われる。「もろもろの支配と権威」が武装解除されて、主の民の凱旋の行進の中に捕虜として連行され、さらしものとされる際に、それらの支配と権威が不当に占領して来たすべての富も、光の子らに明け渡されるのである。

そのことが、「善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。」という箴言13:22の御言葉にも表れている。

次のコロサイの書に記されている御言葉の中には、何を根拠に彼らが武装を解除されるかが示されている。むろん、根拠となるのは、信じる者の罪を一切、無効にするキリストの十字架である。私たち信じる者が一切の罪を赦され、義とされる代わりに、私たちを捕虜とし奴隷として拘束していた暗闇の勢力が罪に定められ、恥をこうむるのである。
 
「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

このように、神の御心を行って生きるとは、御言葉を現実の目に見える世界に適用し、そこに貫き通して、神に敵対する勢力との間で起きる、激しい争奪戦に打ち勝って、暗闇の勢力が不当に占領していた目に見えない領土を奪還することを意味する。

それはただ単に困っている人々を助け、貧しい人々に施し、とらわれ人を自由にするといった、人間に対する善良な行いや、慈善事業を意味するのではない。

神の御心を行って生きることは、御言葉を用いて、神に逆らい、人間を虐げ、苦しみの中に閉じ込めている暗闇の勢力の支配を打ち破り、彼らが不当に占領していた領域と、所有物を吐き出させて、これを愛する御子キリストの、光の子らの支配下に移譲する戦いを意味する。

これが、永遠に至る収穫を得て天に富を蓄えること、また、目に見えない神の御言葉を行使して、そこから地上的な利益を引き出すことの具体的な意味である。しかし、この戦いが持つはかりしれない重要な意義、および、その戦いの方法を実際に知っている人は、信者の中にも、ほとんどいないであろうと思う。<続く>


時をよく用いなさい。折が良くても悪くても励みなさい。今は悪い時代なのです。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」 (エフェソ5:15-17)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:2)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)

我が国には「帯に短し襷に長し」などという言い回しがあるが、キリスト者の人生は、これとは正反対であって、すべてに「ちょうど良し」というものであるか、もっと言えば、「必要を満たして余りがある」というものである。

時間についても、同様のことが言える。キリスト者は、神の御心をとらえようと、目を覚まして歩んでさえいるならば、不注意でタイミングを逸したと思うような時でさえ、まるで時間軸を逆走するようにして、失った時間を追うことができる。

このようなことを言えば、「あなたは気でも違ったのですか、何をおっしゃられているのか全く分かりません」という答えが返って来そうだが、これは本当のことなのである。

これをたとえるならば、あなたが予め時刻表を調べて、ある電車に乗車するはずだったところ、駅に到着が遅れて電車に乗り遅れたとしよう。その電車を乗り過ごすと、時間通りに目的地に着けなくなり、あなたの予定は台無しになる。そう思ってあなたが悔やんでいると、どういうわけか、乗り過ごした電車よりも、もっと早く目的地に着く電車が、少しばかり予定時刻に遅れて駅に到着した。あなたは運よくそれに乗車でき、結果的に、遅れを完全に取り戻したどころか、予定時刻よりもはるか前に目的地に着いてしまった、といった具合である。

主にあって、贖われている者は、何事についても、足りないとか、間に合わないということがなく、決して手遅れだと悔やむ必要がない。むしろ、決して手遅れだと自分で認めてはいけないのであって、遅れているように見える時でも、御心を掴むために走り続けていると、多くの場合、遅れたと思ったその時間さえ、取り返すことができる。

そもそもアダムとエバがエデンの園で神に従うことに失敗してから、人類史においては、気の遠くなるような途方もない回り道と遅れだけが続いている。初代教会においては目覚ましい信仰が見られたかも知れないが、今はどうだろう。現代教会史もまた遅れそのものに見える。

この無意味な回り道、終わりのない堂々巡り、延々と続く遅刻状態から、どうやって輝かしい目的の達成などが生まれて来ようか、と人は思うだろう。ところが、神は人類の堕落や、信仰の先人たちや、教会史に溢れるおびただしい失敗といった回り道のことなど、全く意に介しておられない。

今日という極めて悪い時代にも、堂々巡りと回り道と失敗の連続にしか見えない歴史の只中から、神はいつでも熱心に御心を求める者たちのために、完全な御業をなして下さることがおできになるのであって、それは今日の私たちにもまさに当てはまることを、私たちは心に留め、かつ信じる必要がある。

私たちは、どんなに機会を逸したと感じるような時でも、決して後悔することなく、御心を熱心に追い求めることをやめるべきではない。どんな時にも、何が正しいことであって、神が喜ばれることであり、何が機会を有効活用することに当たるのか、考え続け、実行し続ける必要がある。そうする時に、まるで時を遡るようにして、見失ったと思ったものにも、追いつくことができるのだ。

あるいは、これは自分の力量が、果たさねばならない仕事に追いつかないと思われるときにも、同じように当てはまる。

たとえば、比較的最近、筆者は何週間にも渡り、山のような文書作成という仕事と取っ組み合った挙句、あまりにも疲れ切って、ついに自分が何を書いているのかさえ分からないほどの状態になった。自分の書いた文書を読み返すことはおろか、文字さえも見たくないという状態に陥ったのである。

筆者にとって、文章を書くことは、呼吸をするのと同じほど自然な作業で、何ら苦痛ではない。ところが、そんな筆者も、さすがに連日連夜、ぶっ通しで大量の文書作成を行った後では、消化不良状態に陥ったのであった。

それが一つだけのテーマに関わる論文などであったなら、まだ興味も力も尽きなかったかも知れないが、いくつもの仕事を同時に抱え、次々と取り組んでいるうちに、ついに文章を見るのも考えるのも嫌になったのである。もはや自分が何を書いているのか、自信もないが、推敲など考えたくもない、どんなにひどい誤字脱字が発見されようとも、知ったことではない、意味内容に錯綜が見られ、議論が紛糾したとしても、どうでもいい、というほどの心境に至ったのである。
 
しかし、何とかして最低限度のハードルだけはクリアするよう仕上げて手離したと思った直後、またもや頭痛をきたらせるような複雑な案件を、メールだけで解決しなければならなくなった。

その案件もまた、意味が伝わりさえすれば良いと気楽に構えていられるような内容ではなく、交渉事を有利に進めなければならない真剣勝負であった。格闘技にたとえれば、にらみ合っている対戦相手に、最初のわざをしかける瞬間だろうか。威勢のいい啖呵を切って、率先してイニシアティブを取り、相手を威嚇し、後退させねばならないような場面なのに、にらみを利かせるどころか、意味さえ通じるかどうか不明な文章を書き送るのが精一杯だったのである。

筆者としてはそのメールの内容は無念の出来栄えであり、まるで千鳥足で歩くような隙だらけと言ってよい主張だったにも関わらず、その案件は、こじれることもなく、誤解を生むこともなく、まさに筆者が願った通りの効果を生んで、決着が着いたのであった。これはとても不思議なことであった。

おそらく、消化不良状態で作成した文書にも、これと同じことが当てはまるはずだと考えられる。売り物の文学作品でない以上、もともと完璧が要求されているわけではないのだが、そのことをさて置いても、文書の価値は、文字だけにあるのではなく、内面に込められた力にあり、その力のもたらす効果は、文字を超えるのだと言えよう。

だから、その文書には、内面的な力の裏づけがある以上、たとえ未完成であったとしても、この先、十分な効果をもたらすはずだと筆者は確信している。(むろん、ここで言う内面的な力とは、人間の生まれながらの文才や、文章が呼び起こす情感や、あるいは法的根拠のことではなく、地上のすべての法体系を超えた、信仰による御言葉の正しい霊的秩序の裏づけのことである。)
  
私たちが、聖書の御言葉をすべての物事に対して徹底して貫き通す時、対立や紛争が広がる前に打ち砕かれて、早期に平和が到来するということもしばしば起きる。なぜなら、私たちは、信仰によって、暗闇の勢力がしかける罠を、彼らが実際に行動に移すよりも前に見抜くことができ、事前にこれを無効化できるからである。この問題についてはいつか別に書き記すことにしたい。
    
さらに、別な事例もある。以前の記事にも書いた通り、本年が始まってすぐ、筆者は危うく寝たきりになるかという危険にも遭遇したが、筆者が寝込みそうになっていた時、かねてより取引のあった人から、ある買い物をした。すると、今までにはなかなか望んでも手に入らなかった商品が、破格の値段で、山積みとなって提案されただけでなく、通常であれば、東京方面まで出向いて受け渡しをせねばならないところ、売主がとても熱心に購買を勧め、筆者の住んでいる近くまで受け渡しに来てくれたのである。時間も体力もない時であったから筆者は大助かりであったが、そんなことはこれまで一度も起きたことがなかった。

これらはみなすべて、キリスト者には「万策尽きた」という状態が来ない、ということを証明する事例である。キリスト者には、常に必要のすべてが信仰によって、恵みによって与えられ、「足りない」とか「及ばない」ということが決してない。だから、自分の今持っているものを見て、それがとても少ないからと言って、願いをあきらめてはならない。もしその願いが、御心に反しない、正しいものであるならば、それを達成する手段を、神は必ず与えて下さる。筆者の力が尽きても、それで事が終わりとならず、筆者が身動きの取れない時には、筆者の代わりに、他の人が動いてまで事が達成されるのである。

だが、このことは、決して、私たちが他人の目から見て、偉大な人間になることを意味しない。私たちの持っている「かめの粉」も「びんの油」も、決して溢れるほどにはならず、人の目から見て、我々の持っている知性や富や力は、ごくごく限られた貧弱なものに過ぎないかも知れない。

それにも関わらず、この貧弱な土の器を元手として、それを信仰によって何倍にも増強して、勝利をおさめることが実際に可能なのであり、私たちはそのように収穫を来たらせるような達成を続けて歩むべきなのである。

冒頭に挙げた、時をよく用いなさい、という御言葉は、以上に説明した通り、私たちが自分たちの生まれながらの微小な力を、御心を実現するために、信仰によって行使するとき、それが何倍にも増し加えられ、思いもかけない収穫を生むこと、そこで私たちは、たゆみなくそのような収穫を目指して進み続けなければいけないという意味を持つ。

多くの信者は、ただ何もしないで祈り、ぼんやりと空を見上げて待っていれば、千倍、百倍の祝福が空から降って来るなどと考えているようであるが、そのようなことは決して起きないと言えよう。

もしも心から祝福を得たいと願うならば、祝福を願うだけでなく、それを勝ち取らなければならない。それは目的地にたどり着きたいなら、たどり着きたいと願うだけでなく、実際に目的地に向かわなければならないのと同じである。

私たちは、永遠に至る収穫を得たいと願うならば、まず自分が持っているなけなしのものを、神のために捧げ、次に、御心を実現するために、具体的な行動に出なければならない。収穫はそれに続いてやって来る。肝心なことは、主にあって、真に正しい目的のために、御心を満足させると確信する目的のために、自分のなけなしのものを捧げることである。

そうすれば、自分の力がいかに限られたものであろうと、その限界に制約されることなく、いかなる行き詰まりにも達することなく、「勝ち得て余りがある」と言える人生を送ることができる。

だから、人の目に「足りない」とか「及ばない」ように見える有様に、決して心を留めてはいけない。決して、自分自身の限界に目を留めて、正しい願いを実行に移す前に諦めるべきではない。私たちが自分から諦めて退却することさえなければ、神は私たちが持っている取るに足りない力を使って、十分にご自分の栄光を表す大胆な御業をなして下さる。その結果、私たちは神を信じることが、決して失望に終わらないという御言葉の正しさを知り、主と共に喜びに溢れるだろう。そうして、この地上においても、永遠の領域においても、巨大な収穫を得るチャンスを逸さないで生きることは実際に可能なのである。