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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(1)ー 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

さて、控訴理由書ははかどっており、書けば書くほど、深い満足が生まれて来る。第一審の判決を心の内側に取り込み、これを咀嚼し、そして、新たな要素をつけ加えながら、第二審の判決を予想して書いて行く。

筆者は弁護士の書く錯綜した文書ではなく、裁判官の判決を受け取ったことを非常に喜んでいる。弁護士の文章は一方の当事者だけに肩入れしたものなので、参考にならないが、膨大な資料を整理して対立する陣営の双方の主張を比較衡量した裁判官の判決は、それとは比べものにもならない生きた教訓である。

判決が出るまで、予想できない点が多々あったが、今、こうしてみると、ただ法的観点からだけ事件に注目するのではなく、筋の通った矛盾のないストーリーを弁論の最中に打ち立てておくことがどれほど重要かを思わされる。
 
判決の変更を求めるためには、第一審以上にリアルで矛盾のない説得力のあるストーリーを証拠と共に提示することが必要となる。そのために、筆者は、第一審での自己の主張と共に、判決に記されたストーリーを内に取り込み、それを両方上書きしうるだけのさらなる説得力のあるストーリーを作り出しているのだが、それはあたかも一人の作業ではなく、共同作品を作っているような具合で非常に面白い。

第二審では、「カルト監視機構」が主要な争点になると書いた。すでに述べた通り、「カルト監視機構」と「宗教トラブル相談センター」が実質的に同一であるとの主張を展開するに加えて、村上密が関与して来た統一教会の信者の拉致・監禁を伴う強制脱会の違法性についても触れることになる。

その過程で、統一教会の信者らが強制脱会活動に抗議するために起こした裁判などについても、本訴訟とは直接関係していないにも関わらず、かなりのページ数を割いて説明することとなる。

ちなみに、統一教会の発表によると、2016年の時点で、強制脱会に反対するために起こされた裁判は20件を超え、強制脱会活動の対象とされた信者は4千人を超えていたという。また、数多くの強制脱会事件を主導した高澤守牧師は、刑事告訴された上、自殺していることや、また、強制脱会の対象となって精神病院に入院させられた信者が裁判所に人身保護を求める請求を手伝った高村弁護士が後の法務大臣になっていることなども分かった。

筆者は統一教会を擁護するつもりはないが、10年間以上監禁されても棄教しなかった彼らの信仰の強さは、敬服に値するものがあると考えている。前々から当ブログでは、殉教者の精神に学び、生きている限り、聖書の神への信仰を貫くことこそ、キリスト者の使命であるということを訴えて来たが、自分を絶対善・絶対的正義のようにみなすプロテスタントの牧師とその支持者から、統一教会の信者でなくキリスト教徒である筆者が、「カルト宗教の信者」や「異端者」の濡れ衣を着せられた挙句、今、こうして人権侵害のかどで牧師を訴える羽目になっているのは、運命の皮肉のようである。

だが、筆者は「自分は正しい」と叫んで他者を排斥する側に立たず、自己の無謬性を信じる牧師らから、かえって排斥される側に立たされたことを、むしろ、誇りに思う。

今、まだ二審が始まる前から、筆者があたかも敗訴に終わって悲嘆に暮れるのではないかなどと故意に悪意に満ちた未来を予想したい連中もいるようだが、そんな愚かな推測は、迷惑なのでやめてもらいたい。そういう予測は、すでに自殺した牧師を含め、強制脱会を主導した牧師たちの運命としてお返ししよう。

村上密が新たな権利侵害の証拠をあれほど大量に追加した以上、筆者の控訴は棄却されず、村上の権利侵害は必ず認定されて、彼は二審では敗訴するものと筆者は予想する。そういう意味で、二審は一か八かの賭けではなく、手堅い勝負になる。

また、杉本の控訴には、報復と賠償金支払いを延期したいという以外に動機がないと見られ、合理的な理由が何も見いだせないため、棄却される可能性が高いと筆者は見ている。控訴審は、杉本のリベンジの場ではないから、仮に当ブログの記事を大量に提出するなどしたとしても(一審も杉本は常にそうしていたが)、それは過去の権利侵害を正当化する理由としては受け入れられないだろう。

そういうことは反訴でなすべきことであるが、控訴審での反訴は、原則的に控訴人の同意なく受理されないため、杉本が筆者に反訴するのは、ほぼ不可能に近い。一審でも無意味な反訴を予告するなどして、被告らは裁判官からも反感を買っていたし、杉本はそれに加えて、裁判所の決定を「不法行為」だとまで言い立てていたが、控訴審では、賠償金も払わず、ブログ記事の完全削除もなく、一審判決に全く従う態度を見せないまま、杉本が何を求めて控訴するのかを問われ、ただ裁判所を自分の欲望に都合よく従わせたいという理由では、控訴を受理する根拠にならないとして、心証を極度に悪くするだけに終わるものと思う。

おそらく、二審判決の言い渡し後は、一審判決後よりも、さらに多くの人たちが、筆者や当ブログの主張に反対したことで、良心の呵責に苛まれることになるのではないかと筆者は予想している。

このように、筆者は、二審では勝訴は当然とみなしているどころか、訴訟とは関係ないところでも、可哀想な人として憐れまれる余地の全くない人生を歩むことが、目的の一つであると考えている。人権侵害は世に訴えねばならないが、筆者が最も訴えたいのは、私たちの信じている聖書の神の贖いの確かさであって、人権侵害の被害の甚大さではない。

神の御言葉に従う者が、あらゆる祝福にあずかること、私たち信じる者のためには、キリストを通して、天に無尽蔵の富が蓄積されていること、そして、神の御言葉に逆らう人々の運命は、非常に厳しいものとなることを、公然と世に示さなければならない。しかし、筆者はそのこととは別に、己が権利侵害がいかに深刻であるかを切々と訴えることによって、被害者と呼ばれたいとは思っていない。

筆者は第一審でも、善良な人々に出会い、信仰に基づき、また、法的根拠に基づき、丁寧かつ根気強く主張を提示し続けることによって、必ず、未来が開かれることを確信した。未熟な点があれば、学習して、それを補えば良いのであって、私たちは常に完成に向かって歩みを進めている。

そこで、筆者には何一つ絶望に至る理由などない。これからますます多くの人たちに出会い、ますます完成された主張を提示し、完成された判決へ向かい、信仰の完成を目指して歩み続けるだけのことである。

こうして、紛争が長引いても、筆者はそのことを良いことであると考えており、自分の召しが果たされるまで、忠実にその労苦を背負うつもりでいる。だが、それは決して労苦だけには終わらないだろう。キリストが私たちのために用意して下さっている命の豊かさ、栄光の前味に、生きているうちにたどり着くことも、信仰者に与えられた使命の一つであるから、この労苦には豊かな報いと慰めが伴うだろうと筆者は考えている。

そういう意味で、これほど価値ある戦いを与えて下さった神に、筆者は心から感謝せずにいられないのである。
 
* * *

さて、筆者は今、新たなる措置を準備中であるが、その過程で、杉本に関する新事実が分かった。これまで、杉本の経営する会社の住所には、アパート名や部屋番号の記載がないため、筆者はこれまでこの住所は一戸建ての持ち家だろうと思っていたところ、実はそうではなく、単なる賃借人であったことが判明したのである。

それは同番地の地番を調べている過程で分かった。同番地に3つくらいの地番があり、そのうちいずれも「杉本」の名では登録されていないことが判明、さらに詳しく調べてみると、杉本が表記している住所の後には、実際には建物名、部屋番号が省略されていることが分かった。

モバオクの表記
 


全国法人情報データベースの表記



企業がビルのテナントを借りるなどのことはよくあることだが、その際には、企業の所在地として、大抵、ビル名や階まで詳しく記載される。建物を借りていながら、まるで土地が自分の所有であるかのように思わせるような表記をすることは、そうそうあることではない。

ちなみに、この住所の真のオーナーは以下の青果店である(画像はgooタウンページより)。



杉本が経営する株式会社メディアテラスは、この青果店の所有する建物の一区画の賃借人に過ぎない。だが、杉本はまるでオーナーの店を押しのけてでも、自分がこの土地の主人だとアピールしたいかのように、オーナーと全く同じ住所表記で法人登録をし、自分が賃借人に過ぎないことがすぐには一般の人々に分からないようにしている。

正直な話、他人の所有する建物の正式な表記を省略して、まるで自分がオーナーであるかのように思わせる表記をするのはどうなのだろうかと筆者は思う。テナントならテナントらしく書けばどうなのだろうか。

特に、これまで、杉本が商工会議所の会員資格を詐称したり、東京銀杏会の資格を詐称したりしていたことを考えると、この住所表記も、偶然ではなく、何事についても自分を現実以上に誇大に見せかけようとする杉本の性格、そして、本来は自分の所有でないはずのものを自分の所有のように見せかけるパクリが大好きな性格がよく表れているような気がしてならないのだが・・・。

以下がGoogle mapで見た青果店の所有する建物の外観である。1階が店舗で3階もオーナーの所有であることが、問い合わせで分かった。貸間は2階のみだという。きっとこの青果店は、地域社会とも密着して経営されていることであろうが、商工会議所会員でないのに会員資格を名乗ったり、全国のキリスト教会をネットで叩き続け、見ず知らずの他者の個人情報を暴いたり、名誉毀損したりしている杉本のブログは、このオーナーの店にどういう影響を及ぼしているのだろうかと考えないわけには行かない。

何となく、過去にもそういう問い合わせがこの店に寄せられたことがあったのではないかという雰囲気が感じられたのである。杉本は早くブログを削除した方が大家への迷惑が減り、地域社会のためにもなると思わずにいられない。



ここには詳しく書かないが、調べたところ、他にも多くのことが分かった。たとえば、メディアテラスがヤフオクでもう数ヶ月近くも売りに出しているが、まだ売れていない以下の自転車(これがネットオークションでは同企業の現時点で最も高額の商品のように見えるが、価格を見ても、アピールポイントを見ても、なぜ今この商品なのかが全く分からない)は、さすがにこれは上記の会社住所には置けないものと見られるが、どこで撮影したのか、アパートではなく民家のような一軒家っぽい背景が移っている。



調べると、やはりこの自転車の保管場所は別にあるらしいことが分かった。たとえば、そう遠くない場所に実家があるとかいったことが考えられる。

オークションの他の出品を見てみたが、古物商でもなく、絵画などを専門に取り扱うでもなく、日用中古雑貨というだけで、独自のセールスポイントが分からない。商品の取り揃えも少なく、テーマも統一されていないため、これでは、ネットで十分な収益が上がるとも全く思えず、主な収入は、社会福祉士としての稼ぎだと想像される。
 
雑貨を売りたいならば、店舗を構えることもできるであろうがそれもなく、会社の所在地を構えながら、それとは違う場所を撮影や保管に利用していたり、間借り人としての住所で、完全に独立した生活を営んでいるようにも見受けられず、社会福祉士と、企業経営と、キリスト教会をバッシングするブログとが、一体どう結びつくのかも定かでない。

そもそも企業経営者であり社会福祉士でありながら、社会的弱者を愚弄して悦に入ったり、見ず知らずの他人の個人情報を暴いて名誉毀損して賠償金を踏み倒すなど、もはや何がしたいのかが全く分からない無定見な人生でしかない印象だ。

興味の赴くままに、あらゆることに手を広げはしたものの、明白な目的意識がなく、気が多すぎて一つの事に集中もできず、他者の手を借りずに自分だけで事を成し遂げられず、自分の欠点や不利な事実を指摘されても、これを真正面から受け入れる勇気や覚悟がないために、常に不都合な指摘は退け、易きに流れ、結局、何を手掛けても、一定の成果を出せないまま、すべてが空中に散じて終わるというパターンが感じられる。

前々から書いている通り、そういう傾向が改まらない限り、社会福祉士も長くは続かないだろう。こうして見ると、杉本の一つ一つの選択は、真に事業を成功させたいという願いに基づくものではなく、ただ「人に認められたい」とか、「人よりも上に立ちたい」といった動機(承認欲求)で飛びついた結果ではなかったのかと思わざるを得ない。

そういう性格は、村上密ともよく似ているように見受けられる。村上は今でも「宗教トラブル相談センターへの相談は尽きない」とか、「東奔西走」とかいった記事を掲載しては、自分がいかに全国から引っ張りだこになっているかを絶え間なく自慢せずにいられないという性格を披露しているが、イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、人に尊ばれるものは神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:15)

杉本は第一審の終わり頃から、裁判所が杉本にとって不都合な決定を出したことを「不法行為だ」と非難していたが、今、判決の取消を求めて控訴している事実も興味深く、筆者は前々か杉本はいずれ裁判所に対しても、警察署に対しても、反抗的な態度を取るだろうと述べて来た。

それは筆者が、杉本の信仰こそ異端的見解であって、すべての異端は反社会的なものであるとみなしているためである。そこで、今、彼が判決の取消を求めている主張の根底にも、裁判所の決定を否定するのみならず、神に対する反逆の精神が流れていると見ている。

おそらく、村上もこの先、杉本と同じ行動に及ぶだろうという気がする。鳴尾教会相手の裁判の時も、彼は随分、あきらめが悪かったが、村上は、カルト牧師が心を頑なにして裁判所の判決を認めない姿勢を非難していたにも関わらず、当ブログを巡る訴訟の第二審で、自分に不利な判決が出た場合、杉本と同じように、判決を認めまいとする態度を取るのではないかと予想される。

こうして、次第に彼らの反社会的な本質が徐々に明らかになっているのが、現在である。つまり、杉本や村上のような人たちが敵対している相手は、もはや当ブログや筆者だけではなくなり、彼らを取り巻く社会全体(神と人)に広がりつつあることが徐々に明らかになっているのだ。

こうして、飽くことのない承認欲求に生きる人たちの空虚な内実は、遠からず万人の目に明らかになるだろうと筆者は思う。人に認められたいとか、必要とされたいとか、他人を押しのけてでも、自分が人の上に立ちたいとかいった願望だけが、すべての行動に先立ち、自分を誇大に見せかけることは得意でも、内実のない人々というのは、最後には風船みたいに弾け飛んで終わるものだ。

事業の失敗くらいで終わればまだ良いが、キリスト教会に立ち向かい、神に対してマウンティングをしてしまったのが、彼らの運の尽きであり、「わたしはある」という方に向かって舌を出して挑戦すれば、「おまえはない」という以外に下る結論はない。すべてにまさる真実なリアリティである方を否定すれば、虚無の深淵に落ち込んで行くだけである。

この先、彼らが言い逆らっているものが、あれやこれやの人物ではなく、社会そのものであり、聖書の神ご自身であるという事実がより公然と明らかになるに連れて、彼らにはこの世においても、自然と居場所がなくなって行くものと確信する。

そして、「交流の少ない所で生活」「情報はインターネットが頼り」だとか、「甘っちょろい空想」や、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」といったレッテルも、ついにはこれを吐いた人間自身に返されて終わることとなるだろう。
 
* * * 
 
さて、少し前のことになるが、村上密は「反知性主義」と題する記事の中で、長年、自分の活動に反対して来たある人物に対して、その人物から被害を受けたとする人間の代理人となって、訴訟を提起することをほのめかしたところ、相手が折れて出て来たので、屈服させることができたと語っていた。

和解などという言葉を使ってはいるが、「相手は撤回と謝罪に応じてきた。それで双方は和解した。」と書いているので、結局は、訴訟をされたくないなら、自説を捨てて謝罪せよと圧力をかけて、相手を屈服させることに成功したということである。

この記事で村上は書いている。

「嫌いと言う感情は嫌いとされた相手の実像を捉えることができない。相手をネガティブにしかみれない感情は、反知性主義に陥っているからだ。以前、私に対して何でも反対の立場を表明した人がいた。彼は公私にわたって反対した。しかし、私の主張や働きが一時的に足止めを食ったりはしたが、挫折に追い込まれたことはない。」

まるで自分は無敵だと豪語するような文面である。だが、嫌悪感と反知性主義はそもそも関係ない事柄のはずであるから、村上がここで使っている「反知性主義」の定義とは、感情に流されて理性できちんと物事を考慮できないといった意味合いで、反知性主義の本来の定義からは離れている。

反知性主義という言葉の本来的な意味は、「日米で異なる2つの「反知性主義」とは?その意味と論点を正しく理解する為に 」という記事では、次のように紹介されている。

「反知性主義はもともとアメリカで生まれた概念で、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」を表しています。「知性そのもの」を否定しているのではなく、「既存の知性主義や権威」を否定するものなのです。」

村上は、以上の記事で屈服させた人物が、牧師であるとは書いていない。だが、村上がキリスト教界の多くの牧師に対して、争いをしかけて来たこと、訴訟をほのめかすか、もしくは実際に訴訟をしかけるなどの方法で、牧師らを屈服させて来たことは事実である。

ちなみに、筆者は以下に再び引用する通り、かつてアッセンブリー教団、いや、ペンテコステ運動そのものが反知性主義に陥っていると書いたことがあった。

そして、筆者のこうした指摘は、iRONNAの記事「安倍晋三政権の「反知性主義」」(榊原英資著)の前半で、アメリカのキリスト教原理主義を分析した文章を読んでも、的を外れたものではないと考えざるを得ない。

「反知性主義」とはもともとアメリカのキリスト教原理主義者達が進化論等の科学的分析に対し反発した事等を指したものでした。かなりの社会的地位のある人達が平然と科学的分析を否定し、キリスト教の絶対性を説くといった現象は他の国にはあまり見られないものでした、アメリカ建国以来、何度かにわたって訪れたリバイバリズム(信仰復興運動)とも密接な関係があるとされています。

 アメリカという国自体、旧イングランドを脱したピューリタン達が神との新しい契約のもとで「新しいイングランド」を創設するという壮大な実験でした。そしてそのリーダーシップをとったのは高学歴の牧師達でした。彼等は入植後わずか一六年で牧師養成機関としての大学、ハーバード大学を作ったのでした。知性を重んじるこうした動きは、次第に権威と結びつき、アメリカのエスタブリッシュメントになっていったのです。

 こうした権威に対して民衆に信仰を取り戻すという運動として、新たな布教運動が拡がっていったのです。その主導者達は教会を持たず牧師の資格も持たず命がけで土地・土地を巡り布教活動をしていったのでした。大衆をターゲットにし、神の前の平等を説く彼等の辻説法は、人口が爆発的に増え、同時に生まれた字も読めず教養もない層に熱狂的に受け入れられたのでした。それが反知性主義の原点であり、極端に言えば、アメリカという国の原点だったのです。つまり、アメリカの反知性主義はアメリカ的宗教革命だったということもできるのでしょう。

 そして、反知性主義は大衆民主主義(マス・デモクラシー)が拡大する中で権力が大衆に媚(こ)びる手段にもなってきたのでした。知識人、あるいはインテレクチュアル、は社会のエリートであっても少数派です。知性主義を否定し、法の前の平等、実用主義等を説き、権力が直接大衆にアッピールするためには反知性主義は有力な手段の一つにもなりうるという訳なのです。」



だが、以上の文章には、筆者から見ると、多少の誤謬が混じっているので注意が必要である。たとえば、進化論に反対することを、この論者は「反知性主義」に分類しているが、このような考え方に立つと、およそすべての信仰はみな「反知性主義」に分類されることになる。

そうしたステレオタイプなものの見方は、ちょうど20世紀に「科学」に対する絶対的なまでの信頼が高まった時代に(科学万能主義が生まれた時代に)、「科学」対「信仰」という単純な二項対立の図式が作られ、あらゆる宗教への信仰は非科学的だという理由から、キリスト教の信仰に対しても批判が展開されたのと大して変わらない。

現代では、「科学」対「信仰」という対立の図式を「知性」対「信仰」といった図式に置き換え、「キリスト教原理主義者」や「聖書原理主義者」に「反知性主義」というレッテルを貼って、あたかもすべての信仰が、反知性主義的なものであるかのような先入観を作り出し、それがキリスト教信仰(聖書信仰)を攻撃するための材料として利用されている。

そのようなステレオタイプなものの見方に立って、聖書信仰をいわれもなく否定、非難したものが、杉本の記事だったと言えよう。

だが、実際には、以下で詳しく述べるように、信仰は決して知性と対立するものではなく、また、人間の知性の中には、誤った知性というものも存在することを考える必要がある。

当ブログで再三、警告して来たグノーシス主義などは、特に、「偽りの知性」「誤った知性」を「叡智」のようにみなす思想であるから、知性という名で呼ばれるものが、何もかも正しいとみなすと、こうした誤った知性を警戒して退ける試みさえも、「反知性主義」というレッテルを貼られて排斥されることになりかねない。
 
人間の生まれながらの知性は不完全なものであり、真理を啓示できるのは、聖霊だけであり、よって、聖書に基づく信仰を通してでなくては、人は正しい知性にたどり着くこともできない、というのが当ブログの見解である。

そうした考えに立って、筆者は、科学が必ずしも知性的であるとは限らないし、進化論が正しい知性の産物であるとも全く考えていない。だから、進化論を否定したからと言って、それが「反知性主義的」であることの証拠にも全くならないとみなしている。

このように、以上の論説には、科学万能主義が唱えられていた時代の再来のように、科学に反対するあらゆる信仰を「反知性主義」に分類してしまいかねない危険な二項対立の図式が含まれていることに注意せねばならないが、それ以外の点では、興味深い指摘も含まれている。

それは、この論説では、ペンテコステ運動という言葉は登場しないものの、アメリカでエスタブリッシュメント層に対する反発として生まれて来た新たな「宗教革命」すなわち、信仰復興運動が、反知性主義的な傾向を持っていると指摘されていることである。

もちろん、この信仰復興運動の中で、ペンテコステ運動がかなり大きなウェイトを占めていることは間違いないだろう。なぜなら、教養もなく、場合によっては字も読めない大衆をターゲットに、辻説法を繰り広げるだけでなく、異言や奇跡的な癒しなどの超自然的現象を強調しては、大衆の注意を惹きつけ、圧倒的な支持を受けて拡大して来たのが、ペンテコステ運動だからである。

聖霊派とも呼ばれるこうした運動には、従来の福音派の説教にはないダイナミズムが伴い、それゆえ、大衆の支持が得られた。マスメディアを通じて、ムードたっぷりの讃美歌や、心を打つ信仰の証などをふんだんにちりばめ、感動的な礼拝風景をテレビやネットを通じて配信するなどして大衆の支持と注目を集めたのもこの運動である。

そこで、以上の論説が、大衆の支持を背景に生まれて来たペンテコステ運動の流れを汲む米国の信仰復興運動が、反知性主義によって特徴づけられると記していることは、筆者の指摘とも共通する部分があって興味深い。

村上密が所属しているアッセンブリー教団も、言うまでもなくペンテコステ運動に属する。そして、村上が、記事において、牧師が聖書の解釈を独占していると非難していることを思い出すと、これこそ、牧師だけが聖書の解釈を独占することで、「知性と権威が強く結びつく」キリスト教界に対する「反知性主義的反発」として登場して来た説だと言えよう。
 
以上の記事で解説されていたように、反知性主義を、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」とらえるならば、もともと反知性主義的な傾向を持ったペンテコステ運動の中から、牧師が御言葉の解釈を独占することで、「知性」を独占し、それゆえ牧師が「権威化」されるという風潮や制度そのものに対する反発として、カルト被害者救済活動、すなわち、村上密の反カルト運動が生まれて来たのだと言える。

ちなみに、当ブログでも、牧師制度は無用なものであるとみなし、信者が牧師から聖書の御言葉を咀嚼して「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、自分では聖書を理解もできない状態をあたかも正常な状態であるかのようにみなすプロテスタントの牧師制度は、信者の霊的前進を妨げる障害物にしかならないので、撤廃されねばならないという見解を幾度となく述べて来た。

今や聖書の理解が牧師によって独占されている状態に終止符を打ち、聖書がより一般に解放されて、信者一人一人が自ら聖書を理解する時代が来なければならず、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要なのである。

この見解は、村上の指摘と一見、似ているように見えるかも知れない。村上だけでなく、杉本もプロテスタントの牧師らの権威主義を強く非難し、また、唐沢治もまたニッポンキリスト教界の牧師らを非難し続けて来たのであるから、当ブログと以上の人々の主張の間には、何かしらの共通点が見いだせるように思われるかも知れない。

だが、これらの人々の牧師批判と、当ブログの主張とでは、似ているようで、決して見逃すことのできない大きな相違点がある。

それは、当ブログは、知識が一部の人々によって独占された結果、権威もまたその人々によって独占されるという状態には反対するものの、以上の3名が行っているように、知識と権威の両方を否定して排斥しようとは全く試みていない点である。

当ブログでは、「知性」と「権威」とが結びつくこと自体を否定したことは一度もない。

むしろ、当ブログでは、聖書には「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)と聖書にあるとおり、要するに、すべての「知性」の根源は、神を知る知識、すなわち、聖書の御言葉を御霊によって理解することにこそあり、聖書の御言葉に忠実に生きることこそ、その者が他の者に対して霊的優位性を勝ち取る秘訣であると述べて来た。

つまり、聖書の御言葉の理解に精通した者が、他の者に先駆けて知識と権威を得るのは当然のことであって、正しい法則であるということを、繰り返し述べて来たのである。

歴史を振り返っても、キリスト教国がそれ以外の諸国に比べて早期に経済発展を遂げた事実や、プロテスタントの精神が資本主義の発展を促した事実の中に、聖書の御言葉への理解がいかに経済的な利益とも見えない領域で結びついているかを確認することができよう。

筆者の見解では、経済発展の真の原動力になったのは、科学の発達ではなく、むしろ、聖書に立ち戻ろうとする信仰復興運動である。時代を超えて、聖書の御言葉に忠実に歩もうとするキリスト教の最先端の信仰復興運動こそ、あらゆる経済発展の真の原動力となって来たのである。

従って、プロテスタントの牧師が他の信者に比べて精神的・経済的に優位を誇っている根拠も、牧師が御言葉を取り継ぐ者として、聖書の理解を他の信者から奪って独占していることにこそある。

こうして、聖書の御言葉に精通した者が、他の者に先駆けて知識や権威を得るという原則は、非常に信仰的な意味合いが薄れているとはいえ、たとえば、我が国において、官僚や知識人の多くが法律の専門家から成るという風潮の中にも見て取れる。

法律の解釈と出世とは一概に結びつかないように見えるであろうが、こうした風潮の中には、ちょうど律法学者らがラビとして民に敬われていたのと同じような原則を見ることができる。法律は死んだ条文ではなく、生きた言葉であり、そこから命を汲み上げることのできる人たちは、それができない人たちに比べ、知的に優位に置かれるのである。それはその法が人間を各種の脅威から守り、救い出すことができる根拠だからである。

この世の法でさえそのような機能を果たすわけであるから、ましてや聖書の御言葉に精通した者がこの世のすべての人々に超越した霊的優位性を得て、知識と権威を得るのは当然である。

従って、こうした観点から、当ブログでは、知性と権威が結びつくことそれ自体は、誤ったことではないとみなしており、問題は、聖書の知識の理解が、これまでのすべての時代において、一部の聖職者階級によって独占されて来たこと、それゆえ、ほんの一部の人々が、他の信者よりも優位に立って、経済的にも、その他の面でも、特権を得ているという状態が、望ましくないと述べている。
 
当ブログでは、今日のプロテスタントの牧師たちは、かつてカトリックの聖職者たちがそうであったように、聖職者階級となって聖書の御言葉の理解を独占することで、一般の信者たちが自ら聖書の御言葉を理解するのを妨げており、それゆえ、こうした状態から信者が解放されて、聖書の御言葉が万人に解放されるという最後の信仰回復運動が到来せねばならないと述べているのである。

このように見ると、当ブログの主張は「反知性主義」に立つものではない、と言うことができる。むしろ、知性をより一般に普及させることで、知性と権威の底上げとでも言うべき状態を目指すべきというのが、当ブログの主張である。これは決して「知性」と「権威」とが結びつくことそれ自体を否定するものでもない。

反知性主義とは、当ブログの主張とは異なり、知性を持つ者が、それを持たない者に対する優位の証しとして、権威を獲得すること自体を否定する考えであるから、根本的に、唯物論から出て来た発想であると言える。

そして、ペンテコステ運動に見られるやたら奇跡を重んじる体験主義なども、反知性主義から出て来た傾向であることは、すでに幾度も解説して来たが、カルト被害者救済活動を率いる村上密や、ニッポンキリスト教界を非難し続ける唐沢治などは、当ブログとは違って、まさに反知性主義的観点から、牧師らを非難しているだけであることに注意しなければならない。

それが証拠に、村上も唐沢も(杉本も)、牧師らをただ非難し続けるだけで、決して聖書の御言葉への忠実な理解に立ち戻ろうとはしない。むしら、これらの人々は、プロテスタントの問題性、牧師らの腐敗を追及・非難すればするほど、ますます聖書の御言葉を知る知識から遠ざかり、異端的教説に接近して行くだけである。
 
要するに、この人たちは、反知性主義に基づき、牧師を非難することで、「知性」と「権威」の両方を同時に否定しているだけなのである。そのために、かつては大学講師をつとめ、知識人の一人のように見えた唐沢治でさえ、アカデミズムを去って、怪しげな新興宗教の指導者が宣伝するようなごちゃまぜの異端的教説を公然と宣べるようになったのである。

当ブログでは、随分前から、唐沢や村上のネット上の論説が、極端なまでの劣化の道を辿りつつあることを指摘して来た。数年前から、唐沢の文章も、匿名掲示板の投稿とほとんど変わらないようなレベルになっている事実は見逃せない。

こうした知的劣化(荒廃?)は、彼らの反知性主義的な理念のもたらした必然的な結果だと筆者は見ている。では、知性が欠如(劣化)すると、その次に何が起きるのであろうか。権威の崩壊である。

筆者は、グノーシス主義とは、悪魔が人類に吹き込んだ「偽りの知性」であって、それは根本的に「無知」であると述べて来た。

聖書が神の霊感によって書かれた書物である以上、聖書の御言葉を理解するためには、聖霊による導き(啓示)が必要となるが、今日、聖霊の名で呼ばれているあらゆる運動が、真に御霊によって生まれたものなのではない点に注意しなければならない。

キリスト者は、飽くことなく、聖霊の働きを追い求めるべきという点において、聖霊派は、確かにキリスト教の中でも、最も先駆的な信仰復興運動なのであるが、残念ながら、その中には数多くの偽りの霊による運動が入り込み、ペンテコステ運動にも、聖書の御言葉の深い理解を得ようとするのではなく、感覚的な享楽をもたらす体験を重んじることで、信者が知性によらずして、神を知ろうとする「さかさまの探求」が込められている。

ペンテコステ運動とは、そういう意味で、鈴木大拙の言う「二度目の林檎」と同じものなのである。つまり、これは信者を知性へと導くように見せかけて、無知へと導く偽りの知恵に支えられた運動である。

村上密も、唐沢治も、杉本徳久も、みなペンテコステ運動に多大なる影響を受けていることは幾度も指摘したが、その結果として、彼らは聖書の御言葉を知る知識と権威の両方を否定するようになり、自分自身がまさにその両方を失おうとする直前まで来ている。今日、すでに彼らからは知識が失われているが、次に失われるものは権威である。

当ブログが提起する訴訟は、彼らの知性が偽物であることを公にし、彼らの権威が完全な失墜に至るための導火線のようになるだろうと筆者は考えている。なぜなら、上記の通り、本来、知性と権威とは不可分の関係にあり、聖書の御言葉を知る正しい知識こそ、人に権威を与えるものであるから、神を知る知識すなわち聖書の御言葉への正しい理解を捨てた者は、もはや自己の尊厳を守れず、自分で自分の命を失う結果となるからだ。

不正や暴虐によって得た利益は、その人を滅ぼす。強制脱会活動などに関わって金銭を蓄えた者、罪もない者を陥れるために策略をしかけた者らの富は、恐怖と災いがつむじ風のように襲うとき、あっけなく奪われ、取り去られる。

しかし、主の御言葉に従う者は、地上においても確かな住まいを得て、災いを恐れることなく暮らす。神の御言葉を知る知識は、人の生活のすべての面における繁栄と平穏の根拠なのである。

最後に、箴言第1章を引用しておきたい。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

 
これは知恵と諭しをわきまえ
 分別ある言葉を理解するため

 未熟な者に熟慮を教え
 若者に知識と慎重さを与えるため。

 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
 聡明な人も指導力を増すであろう。

 また、格言、寓話
 賢人らの言葉と謎を理解するため。 

 
主を畏れることは知恵の初め。
 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 わが子よ、父の諭しに聞き従え。
 母の教えをおろそかにするな。

 それらは頭に戴く優雅な冠
 首にかける飾りとなる。

 わが子よ
 ならず者があなたを誘惑しても
 くみしてはならない。

 彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
 罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
 陰府のように、生きながらひと呑みにし
 丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

 金目の物は何ひとつ見落とさず
 奪った物で家をいっぱいにしよう。

 我々と運命を共にせよ。
 財布もひとつにしようではないか。

 わが子よ
 彼らの道を共に歩いてはならない。
 その道に足を踏み入れるな。

 彼らの足は悪事に向かって走り
 流血をたくらんで急ぐ。

 翼あるものは見ている。
 網を仕掛けるのは徒労だ。

 待ち伏せて流すのは自分の血。
 隠れて待っても、落とすのは自分の命。

 これが不当な利益を求める者の末路。
 奪われるのは自分の命だ。

 
知恵は巷に呼ばわり
 広場に声をあげる。 

 
雑踏の街角で呼びかけ
 城門の脇の通路で語りかける。

 「いつまで
 浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
 不遜な者は不遜であることを好み
 愚か者は知ることをいとうのか。

 立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
 わたしの言葉を示そう。

 しかし、わたしが呼びかけても拒み
 手を伸べても意に介せず

 わたしの勧めをことごとくなおざりにし
 懲らしめを受け入れないなら

 あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
 恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

 恐怖が嵐のように襲い
 災いがつむじ風のように起こり
 苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

 そのときになって
 彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
 捜し求めても
 わたしを見いだすことはできない。

 彼らは知ることをいとい
 主を畏れることを選ばず

 わたしの勧めに従わず
 懲らしめをすべてないがしろにした。

 だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
 自分たちの意見に飽き足りるがよい。

 浅はかな者は座して死に至り
 愚か者は無為の内に滅びる。

 わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
 災難を恐れることなく平穏に暮らす。

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主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。

それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。

わが子よ ならず者があなたを誘惑しても
くみしてはならない。

彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
陰府のように、生きながらひと呑みにし
丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

金目の物は何ひとつ見落とさず
奪った物で家をいっぱいにしよう。
我々と運命を共にせよ。
財布もひとつにしようではないか。」

わが子よ
彼らの道を共に歩いてはならない。
その道に足を踏み入れるな。

彼らの足は悪事に向かって走り
流血をたくらんで急ぐ。

翼あるものは見ている。
網を仕掛けるのは徒労だ。

待ち伏せて流すのは自分の血。
隠れて待っても、落とすのは自分の命。

これが不当な利益を求める者の末路。
奪われるのは自分の命だ。

知恵は巷に呼ばわり
広場に声をあげる。

雑踏の街角で呼びかけ
城門の脇の通路で語りかける。

「いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。

立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。

しかし、わたしが呼びかけても拒み
手を伸べても意に介せず

わたしの勧めをことごとくなおざりにし
懲らしめを受け入れないなら

あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

恐怖が嵐のように襲い
災いがつむじ風のように起こり
苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

そのときになって
彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
捜し求めても
わたしを見いだすことはできない。

彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。

だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。

浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。

わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。 」(箴言第一章)

* * *

当ブログが始まった頃から述べて来たスローガンの一つに、「主を畏れることは知識の初め」という箴言1:7の御言葉がある。

この御言葉は、裏を返せば、「主を畏れないことは精神崩壊の始まり」となる。

あらゆる異端思想は、必ず、聖書の御言葉を歪曲するものであり、そのようにして御言葉を曲げ、これに逆らった人は、必ず、知性を狂わされ、精神の正常性を保てなくなり、やがては破滅に落ち込んで行った。

そのことが、今日、インターネットで、当ブログに敵対・挑戦して来た人々の人生において、確実に証明されつつあると言えよう。

ある人々は、かねてより、当ブログの主張を精神異常の産物であるかのように声高に非難して来たが、今日、そのような人々が、いかなる犯罪行為に手を染めているかを見れば、彼らがすでに正常な思考を狂わされてしまっていることは、誰の目にも明白である。

もしも彼らの非難している対象が、当ブログだけであったならば、そのような結果にはならなかったに違いない。だが、彼らは、当ブログを非難する際に、当ブログの背後に存在する聖書の御言葉につまずいた。それだからこそ、これらの人々はこのようにまで健全な思考を失って、犯罪行為にまで手を染めるに至ったのである。

私たちのまことの命は、御言葉なるお方であるキリストただお一人である。この方が私たちのすべてのすべてであり、生きるために必要なすべてを供給して下さる方である。

御言葉は、私たちの安全を確保するための最強の装甲であり、堅固な砦である。その外に出れば、私たちの命も、平安も、安全も、無事に保たれるものは何もない。

そこで、御言葉にあからさまに躓いた人々の結末は、とても悲惨なものとなる。彼らは、ただ信仰を失うだけでは済まされず、世人よりもはるかに悪い罪人となって、人生を破滅で終えることになる。そのような例に倣ってはいけない。

さて、当ブログでは、先週も掲示板で行われた犯罪行為について、警察署に告訴状を提出したばかりだが、本日も、ちょうど新たな分厚い告訴状を追加で警察署に送ったところである。これも週が明ければ間もなく受理されるだろう。

掲示板における犯罪的なコメントは、すでに30件以上、告訴対象に含まれている。著作権侵害だけでこれであるから、その他の罪状を含めれば、被告訴人の数は50名以上には達するものと見られる(同一犯の可能性はあるが)。

これが、当ブログの信仰の証しを、精神異常の産物であるかのように、非難し続けた人々の末路である。彼らは、自分たちの行っている行為が、犯罪であるという認識さえも失っているが、そのような事態は恐るべきことであり、彼らが当ブログに投げつけた精神異常との悪罵の言葉が、まさに彼ら自身に跳ね返ったことをよく表している。

筆者はこの犯罪ネットワークの全容を解明するために、これから約1年間ほどの月日が必要であろうと考え、そのために必要な時間と労力を提供するつもりでいる。警察署にも、犯罪行為が完全に終了するまでの間、随時、告訴状を追加で提出する旨を説明し、了承を得ている。

筆者は、ただ当ブログに対する権利侵害を明らかにするという以上に、こうした仕事は誰かが必ずせねばならないことだと考えている。
 
今回の裁判では、この犯罪ネットワークは、まだ全容が解明されていないうちに、判決を迎えることになる。だが、ちょうど裁判の終結間近に、掲示板における犯罪行為がここまで大々的に明るみに出て、誰もの目に触れたことには、非常に意義があったと言えるだろう。

おそらく暗闇の勢力は、判決言い渡し直前の「駆け込み」として権利侵害に及んだのかも知れないが、残念ながら、そうした行為によって、筆者が不利になることもなければ、筆者が信仰の証しをやめることもない。かえって、筆者が本訴訟において訴えていた事実が、ますます裏づけられるだけである。

さて、先の記事で、筆者は、今回の裁判を、非常に良心的で、事件に深い理解のある裁判官が担当してくれた旨を感謝しつつ書いた。これは主の采配である。被告らにとっても、裁判官が相当な努力を払って進めていた電話会議の様子はまだ記憶に新しく、おそらく、裁判所のすべての関係者の誰一人として、悪印象を与えなかったろうと思う。

だが、万が一、被告らがこれらの人々の労にあだで報い、これから言い渡される判決に不服を覚え、控訴などを考えるならば、当ブログでは、その際には、これまで被告らが送付して来たすべての書面をただちに公開する用意があることを改めて断っておく。

これまで当ブログで被告らの書面を公開しなかったのは、裁判官が静かに判決を考える邪魔をしたくなかったからであり、世論の風を味方につけることで、有利な判決を得ようとするような真似をしたくなかったためだ。(筆者は支持者の数によって有利な判決を得ようとは全く願っていない。)

だが、判決が言い渡されれば、被告らの書面の公開の妨げになるものは何もない。

さらに、もしも被告らが良心的な裁判官の公平な判決に不服を覚えて、一信徒を控訴審に引きずり出したいなどと考えるならば、被告らの活動は、完全に世間の理解を失って一貫の終わりとなるだろうと断っておく。

なぜなら、もしもどこかの牧師が、自分のところへ相談にやって来た一信徒を、ブログで批判されたからと言って、10年間もの間、インターネットで名指しでバッシングしただけでは飽き足らず、控訴審(場合によっては最高裁)まで引きずり出して争おうとするならば――そんな牧師の説教を、誰も聞きたいとは願わないであろうし、そんな恐ろしい牧師のもとに、身の上相談に行く信徒は、絶えていなくなることは明白だからだ。

被告らはかねてより、控訴審に争いが持ち込まれた場合には、弁護士に依頼すると予告していたが、そうなった場合には、弁護士費用は三桁に達する可能性もあり、一審と違って、冷酷無慈悲な裁判官が事件を担当して、訴えが棄却されれば、その費用はまさにドブに捨てることになるだろう。

また、控訴すれば、その間に、刑事事件の捜査も進展し、取り調べも進行するであろうし、掲示板において現在、おびただしく行われている犯罪行為への関与なども疑われたりすれば、さらに罪状も増える可能性がないとは言えない。

このように、控訴は誰にとっても何のメリットもなく、今回は、良心的な裁判官が、奇跡的なスケジュール上の都合で、最初から一年以外に判決の言い渡しを予定してくれていたことは、当事者の誰もにとって、極めて幸いな出来事なのだということを関係者は心に刻みつけるべきである。

特に、当ブログに対して行われた権利侵害が、約10年間の長きにも渡っている事実や、今回、原告側から提出された書面の尋常ならぬ膨大な分量を裁判官が考慮する手間、そして、あらゆる訴訟は一年以上長引くことが決して珍しくないなどの事情を考慮すれば、当ブログを巡る訴訟が、一年にも達しないうちに終了することは、まさに奇跡的とも言える幸運なのだということを、当事者はよくよく覚えておく必要があろう。

原告側には、事件の全容が解明されていないうちに審理を終結することに、デメリットがないわけではない。しかし、筆者は、この訴訟においては、努力の限りを尽くして、すべての論証作業を終えたと考えており、何一つ思い残すことなく、その上、神の憐れみに満ちた采配が大いに働いて、信仰を証しするチャンスも与えられたことに、とても満足している。

このように、一切の心残りなく、判決を迎えられることは、この上ない幸いであって、筆者は裁判官を信頼しており、不服を述べるつもりは一切なく、今、自分自身も判決に服する一人として、厳粛な気持ちで、深く頭を垂れるのみである。

今回の事件を通じて、神が信じる者にとって、どれほど憐れみ深い方で、真実で公正な方であるか、そして、地上においても、公正な裁きを見せて下さるか、それを多くの人々が知ることができればと筆者は願っている。

また、悪者にはしたたかな報いがあることが、明らかにされるべきだと筆者は考えている。

筆者はこれまで、悪者に懲罰を加えることや、強制的な判決によって、人の心を縛ることに大きな躊躇があった。

だが、その躊躇が、事態の一層の深刻化を招いた事実や、それから現在に至るまで、当ブログに対する尽きせぬ憎悪を持つ人々が、これほど執拗かつ激しい権利侵害を繰り返しているのを目にし、筆者は、考えを変えざるを得なくなった。すなわち、信仰を捨てた人々の中には、まるで騾馬のごとく、轡をかけられる以外の方法では、決して行動を変えられない人々が存在するのだと思わされたのである。

とはいえ、筆者は決して、自分自身の手で報復しない。ただ正当な法的手段を用いて、悪者への懲罰という仕事は、しかるべき権限をもった人々に委ねるのみである。

信仰を持った人々に対する裁きは、教会の外に持ち出されるべきではないと、筆者は今でも考えている。だが、信者に偽装しながら、御言葉の真実性を否定する人々は、この世によって裁かれても、何の不思議もない。この世のことは、この世が裁くのだから、当然である。

いずれにしても、神は今日も生きておられ、ご自分に頼る人々を決して見捨てられることはないという確固たる事実を、間もなく、多くの人々が知る結果となるだろうことを、筆者は心から確信している。


ペンテコステ・カリスマ運動、カルト被害者救済活動、サンダー・シングはなぜ誤っているのか

・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念の異端性と、キリスト教に偽装する偽りの教えの基本構造
(ペンテコステ・カリスマ運動、カルト被害者救済活動、サンダー・シング、国家神道等はなぜ誤っているのか)

  
ここでは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動や、ペンテコステ・カリスマ運動のような教義の偽りを始めとして、キリスト教に偽装して入りこむ偽りの教えの基本構造を解明した記事をまとめておきます。

終末の背教(大いなる都バビロン、イゼベルの異端の教え)とは、東洋的神秘主義とキリスト教徒の「混合」であるという説に筆者は立っています。そして、米国から始まって日本に流入しているペンテコステ運動を含め、今日、多くのキリスト教に偽装する混合の教えがキリスト教界を席巻している現状があるため、信者はそれらの教えが聖書に合致しているかどうか自ら注意して識別する必要があります。

終末の背教が、東洋的神秘主義とキリスト教との混合である、ということを明らかにするために、以下では、国家神道、統一教会、ペンテコステ・カリスマ運動などに共通して見られる異端的教義の基本構造を解明しています。

これらの異端思想においては、地上天国建設のために、宗教指導者夫妻を「霊の父母」として、信者が「子」となり、連なる全人類を一つの「霊の家」にまとめるという「人類一家族理想」という考え方が共通してみられ、これはグノーシス主義的な「父・母・子」という偽りの三位一体論に由来することを一連の記事で分析して明らかにしています。

また、ペンテコステ運動が強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」がどのような点で、聖書の記述と異なっていて、偽物であると言えるのか、さらに、人間の指導者を「霊の父母」としてこれに帰依し、霊界と交信することにより「神との合一」に至れるかのようなペンテコステ・カリスマ運動の教えが、聖書に基づかない神秘主義の教えであって、いかに危険であるか、ということを明らかにしています。

さらに、これまでずっと追って来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から始まった「カルト被害者救済活動」という、キリスト教界のカルト化を聖書に基づかず、裁判等によって告発する運動の誤りや、不毛性についても、分析しています。

いかにざっと目次をまとめていますが、関連記事は随時追加していきます。

1.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の腐敗と、同教団の推進するペンテコステ運動、カルト被害者救済活動の重大な危険性について

 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密氏の推進して来たカルト被害者救済活動の非聖書性

 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。
――杉本徳久氏によるクリスチャンへの聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――


 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか① 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか② 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか③ 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか④ 

  
★弱者救済の思想はなぜ危険なのか 
 
神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が鳴尾教会に引き起こした混乱
  
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動➀ ~村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入~ 

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動③ ~村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入~ 

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動④ ~村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入~ 伝道師の書簡(前編)

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動⑤ ~村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入~ 伝道師の書簡(後編) 
 

★上記の事件に関する教団から公に配布された資料
 
 村上密牧師と津村昭二郎牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について(教団配布文書PDF)


★村上密氏の発案による「カルト監視機構」という発想の重大な誤りと危険性

カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動⑥ ~悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構~

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動⑦ ~村上密牧師による自己流の「異端審問」~
 

★村上密牧師が教団と無関係の個人である杉本徳久氏と結託して暗闇でネット工作員を動員し、無実のクリスチャンに長年に渡り加えた妨害工作

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動② ~村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)~

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動② ~村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)~

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動② ~村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)~
   

★村上密氏と杉本徳久氏の活動が、キリスト教を貶め、クリスチャンを不当に断罪・迫害する構図となっていることの危険性

~カルト被害者救済活動の暴走~ この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

~カルト被害者救済活動の暴走~ この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②


★杉本徳久氏が同氏にとって不都合な記事を削除しない限り、違法な報復行為に及ぶと当ブログ管理人を脅迫したメール

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
    
      
★鳴尾教会が正当な手続きによってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱した際、教団が鳴尾教会に加えた恫喝訴訟を含む不当な制裁

文化庁第160回宗教法人審議会議事録 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
 
文化庁第163回宗教法人審議会議事録 ~「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」による「鳴尾キリスト福音教会」の単立化手続きに対する異議申し立て棄却の記録~

宗務時報No.115 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
  

★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が、身元を隠して他教会(KFC)に潜入し、他教会を乗っ取った事件

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~



2.ペンテコステ・カリスマ運動はなぜ異端なのか。

カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の唱える教会成長論を通して、カリスマ運動がどのような点で根本的に非聖書的な異端であるかを検証した。
 
教会成長論というむさぼりの教え

偽牧師、偽教師、偽預言者への対処法

教会成長論が生む牧師への個人崇拝

教会成長論という強盗の教え(1)

教会成長論という強盗の教え(2)


☆カリスマ運動指導者の手束正昭氏の唱える「養子論的キリスト論」の異端性について検証。
 
クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(3)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(4)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)


 ☆ペンテコステ運動の特徴は、カリスマ指導者への個人崇拝と神秘体験の重視にある。

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―

ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑦
 

3.異端思想に共通する家族論、グノーシス主義を温存する東洋思想の基本構造

☆異端思想には「父・母・子」という偽りの三位一体論に基づき、全人類を「一つの霊の家」にまとめ、地上天国を目指す共通した家族モデルが存在する

異端思想に共通する地上天国建設のための家族モデル―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑤

異端思想に共通する地上天国建設のための家庭モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑥
 
 
☆キリスト教諸国で弾圧された反聖書的なグノーシス主義は、東洋思想の中に受け継がれた
  
東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか。

国家神道の異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑨

国家神道の異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑩
  

4.サンダー・シングの教えはキリスト教ではなく東洋神秘主義に基づく異端である

☆アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒がネットで宣べ伝えたサンダー・シングの教えがいかに危険な非聖書的な異端であるかを検証。
   
命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(序)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(1)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(2)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(3)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(4)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(5)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(6)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(7)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(8)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(9)
  
 
5.ペンテコステ・カリスマ運動+サンダー・シングの教えを取り入れた団体の異端化の過程

☆Dr.LukeのKFCはペンテコステ・カリスマ運動と、サンダー・シングの教えを無批判に取り入れた結果どのような形で異端化したかを検証。

羊の門を通らないで入る者はみな強盗である

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑯

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑮

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑭

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