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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

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それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである

神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、
喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、
あなたの道を教えましょう。
そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。(詩篇51:10-13)


最近、殉教の精神を持つようにと、今一度、主の御前に促されています。今まで若さ(未熟さ)や、血気の思いから殉教について語ってはならないと思って控えていたのですが、改めてこのことを思わされています。

今、愛する兄弟姉妹がどんなに魂を注ぎ出して私のために祈ってくれているかが分かるのです。まだこの地上では密接なつながりが出来ていない兄弟姉妹さえも祈ってくれていることが分かります。その兄弟姉妹たちへ、尊い神の聖徒らへ、神の大切な家族へ、私から深い感謝の言葉を申し上げます。

以前にも、聖徒らの祈りが結集して天に届き、主に聞き届けられて奇跡を呼び起こし、一人の人が滅びの沼から引き上げられるきっかけを作ったことがありました。今でも、聖徒らの祈りは確かに主の耳に届いており、それが兄弟姉妹一人ひとりの大きな防衛の盾となっています。神は憐れみ深い方であり、私たちの心の悩みも、叫びも、願いも軽んじられません。どうか主が一人ひとりに豊かに祝福を返して下さいますように。

ですが、それと同時に、主の御名のゆえにそしられ、軽蔑され、迫害され、敵対視されることが、私たちにどれほど大きな喜びを与えるかについても語りたいのです。

クリスチャンへの迫害はこの先、時と共に激化するでしょう。あらゆるものを犠牲にしなければ、御言葉に従って進んで行けないようになっていくでしょう。クリスチャンを組織化しようとする大きな偽りの力が働いており、その中で、ただ主にのみ信頼して従う兄弟姉妹が困難な立場に追いやられる時がすでに来ています。

しかし、そんな中でも、これから先、共に困難を背負い、共に迫害を耐える兄弟姉妹が必ず現われるだろうと予感しています。この先、特別な困難の中で、聖徒らの愛が強まっていくだろうことを感じます。それは肉による愛や友情を越えて、主にある固い愛の結束を生むでしょう。中には、私よりも先に殉教の道を辿り、主の御跡にならって、聖徒らの模範となるような人たちも現われるものと思います。必ず、主がそのような兄弟姉妹を与えて下さることを思って喜びを感じています。

今、この時代に、霊的な敵が消し去りたいと考えているのは、神の贖いの事実です。キリストの贖いは人間を旧創造に属する全ての腐敗から自由にする鍵だからです。

これまでにも、アダムの命の腐敗、肉の腐敗と絶望性、肉(旧創造)が十字架において死に渡されることの必要性について語るとき、どんなに大きな反対が起きるかを私たちは見て来ました。ウォッチマン・ニーの証の言葉が今でもしょっちゅう退けられるのも、彼の証の言葉が、十字架における新創造と旧創造の切り分けや、旧創造の絶望性を峻厳に告げているからです。

ですから、旧創造に対する神の滅びの宣告について語るとき、それを受け入れたくない霊的な勢力からの大きな反対がやって来るのは不思議ではありません。組織的・人間的対立は、ほんのうわべの有様に過ぎないのです。

さらに最近、贖いという言葉がどれほど絶大なキーワードであるかにも気づかされています。なぜなら、主イエスが十字架で達成された贖いは、私たちがサタンの家財となるべき肉に対して死に渡されたことや、神に属さない朽ちゆく旧創造から全く救い出されたことの証拠だからです。贖いは旧創造への滅びの宣告だけでなく、新創造についても雄弁に語っています。

神はどれほど絶大な自由を私たちに与えて下さったことでしょう。キリストの贖いを完全なものとして受け取るならば、私たちは主にあって滅び行く旧創造から救い出され、彼の復活のいのちの中へ、新創造の中に入れられます。むろん、地上においては完全な贖いに達することはありませんが、私たちが地上においてどれくらい自由になれるかは、キリストの贖いをどれほど人生において実際のものとして受け取るかにかかっているのです。

アダムにあって人類は地すべりを起こし、罪を犯して滅びの沼に転落したため、神が計画された使命と、神の似姿としての尊厳を失ってしまいました。しかし、神は私たちをただアダムの罪と堕落という地すべりから救おうとなさっておられるのみならず、それをはるかに越えた地点まで導こうとしておられるのです。それこそが、神が人間を創造された目的なのです。モーセに導かれて荒野をさまよっていた民は、日々のパンの欠乏しか見ていなかったかも知れませんが、神の眼差しははるかにそれを越えて乳と蜜の流れる安息の地に注がれ、そこへ彼らを導こうとしておられたのです。

今日の状況もそれと似ています。私たちの目は、ともすれば己が罪や失敗に注がれ、落胆の中を行き来しているかも知れません。しかし、私たちの眼差しは本来、キリストの達成された完全な贖いへと真っ直ぐに注がれるべきです。十字架はただあれやこれやの罪の赦しのためだけである、と考えて満足して終わるべきではないのです。十字架の贖いはそれよりももっと深いものです。それは私たちの内面を変革してしまう力を持っています。キリストの中にこそ、新しい人があり、神が本当にかくあれかしと願われた人の姿があるのです。そして、それはキリストにあって私たちのものなのです。

「…私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがたキリストに聞き、キリストに教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:17-32)


キリストにあって人が新創造とされることこそ、神の深い御思いなのです。ですから、迫害が起きるとき、表面的な事実だけを見て落胆してはなりません。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)、「あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:28)と、主イエスが言われたのはなぜなのかを知るべきです。それは可能な限り、多くの悔い改めた人々たちが、神に立ち返り、イエスのいのちに共にあずかり、主イエスの贖いによって、御国の住人となるためです。神が彼らを得られるためです。神は御子を長子として、彼のために多くの兄弟姉妹を得たいと願っておられるのです。

ですから、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、主イエスが十字架で祈られたことを私たちは心に思うべきなのです。御子は知っておられたのです。今、目の前で起こっている対立をはるかに越えて、罪に沈んだ人類を贖うために、神が遠大なご計画を持っておられること、神に背き、罪に溺れ、霊的盲目に閉ざされ、御子を十字架につけるという恐るべき行為に加担している人々が、悔い改めて神に立ち返り、御子のいのちにあずかる者とされることが、父なる神の深い御心であること。それだけでなく、キリストにあって新しい人とされた人々が神の家族として、御旨に従い、互いに主の愛の内に一致して生きること、それが地獄の恐るべき軍勢の前でキリストの揺るぎない圧倒的な勝利の証になること。そのためにこそ、イエスはご自分を最後まで否み、十字架において自分自身を完全に死に渡されたのです。

ですから、私たちはイエスの心を、御子と同じ心を持つべきです。神に捧げられた貴い初穂として、贖われた人々の先頭に立たれた主にならうべきなのです。救われるにも値しない罪人、絶えず反抗する人々のために、終始ご自分を否んで御旨のために忍耐して人々を教えられた御子の心が、私たちにも与えられるように願うべきです。忘れもしませんが、私たち自身がかつてそのような救いようのない罪人であったのです。私たちが救われたのは、自分の行いによらず、ただ神の恵みによるのです。ですから、イエスの心を持つならば、私たちは迫害によって心を塞がれることがなくなるでしょう。これは悩まされることや、苦しみそのものがなくなると言うのではありません。しかし、どんな時にも、神の深い平安が心に与えられ、悩みの日には、かえって以前には困難や迫害を喜ぶ心が不足していたことや、敵対する者を愛し、迫害する人々のために祈る心が足りなかったことを思わずにいられないのです。

そうして、私たちの心には喜びが溢れます。そして、なぜダビデが次のように言ったのかが分かるのです、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」(詩篇23:5) これは神に背き、敵対している者たちに対してまで溢れ流れる神の愛と憐れみを私たちが知るゆえの言葉でもあります。この堕落に沈んでいる世に対してまでも注がれている神の深い愛が、私たちの心に驚嘆を呼び起こします。神の深い御思いが私たちの心をとらえてしまいます。私たちの心を神の愛から妨げるものはもはや何一つないのです。だから、私たちの杯は溢れるのです。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:69)

その時、私たちの目には、ただ神の尊いご計画――揺るぎなく、純粋で、真っ直ぐで、混じりけのない、聖なる、正しいご計画だけしか映りません。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

ハレルヤ! もし一人の罪人であったこの私が救われたのなら、なおさら、多くの人たちが救われることを神が願っておられないはずがあるでしょうか。それは実に多くの人たちのうちで、御子がいのちとなられ、御子がすべてのすべてとなられるためなのです。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:10-11)

神はキリストにあってすべてのものを一つにしようと決められたのです。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16) ですから、私たちが自分自身の狭さによって、神の深いご計画を妨げないようにしようではありませんか!

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:14-16)


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あなたの重荷を主にゆだねよ。 主はあなたのことを心配してくださる。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。
 主は、あなたのことを心配してくださる。
 主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
 しかし、神よ。あなたは彼らを、滅びの穴に落とされましょう。
 血を流す者と欺く者どもは、
 おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
 けれども、私は、あなたに拠り頼みます。」(詩篇55:22-23)


朝、ひざまずいて主の御前に祈り、御前に率直に願いを申し上げた。疑問に思われる全ての事柄を率直に申し上げ、納得することのできなかった問題をまるごと主に委ねた。そして、それらの疑問にはっきりと主が答えを示して下さり、訣別しなければならないすべてのものと訣別させて下さり、正しい道へ導いて下さるようにと願った。ただ単一に、主の御前に単一に歩みたいと心より願った。

その時、ここ最近、味わうことのなかったような平安が心に宿った。内側から沸き起こって来る新しい力。これから先、ただ信仰だけによって、新しい道へ踏み出そうと決めた。人が私についてどう思うか、何を言うか、もはや気にならない。何かを言われることがあるにせよ、ただ大きな喜びが沸き起こって来るだけだ。人前で高く評価されることや、自分で自分を義とすることの恐ろしさを考えるなら、むしろ、低められ、悪し様に言われることにより、天で受ける報いがどのようなものであるかを思えば良い、すでに内側でその喜びを感じるのだ。

その時から、理解されないことに対する悲しみがなくなり、悪し様に言われることも痛みにならなくなった。信仰の失格者であるかのように言われたり、恵みから落ちたかのように罵られることさえ、大いなる喜びとなった。恐れが取り払われたのだ。人前での栄光を失うために、しばし孤独な道を辿らなければならないとしても良い。呪いは全てキリストが木の上で引き受けて下さったのだから。

これから先、人目を気にせず、ただ内なる油塗りの感覚に従い、黙って歩いて行こうと決めた。たとえ理解者を得ることができないとしても、黙って捨てるべきものを捨て、主が必ず、新しい道を用意して下さることを信じて、まだ見ぬふるさとへ向かって旅立とうと思った。主がすべての思い煩いを引き取って下さり、私を身軽にして下さったので、恐れはない。弁護して下さる方はただお一人。しかし、完全な方、まことの大祭司がとりなして下さるのだ。もうこれ以上、人から来る恐れに縛られる必要はない。訴える者の前に狼狽しなければならない理由はない。主はいつも言われる、これから先はあなたではなく、私がするのです、だから、私に委ねなさいと。

主が働いて下さるときの何と偉大で不思議な御業だろうか。今朝はジョージ・ミュラーの信仰について思いめぐらしていた。ミュラーの周りには実に沢山の信仰者たち(主が送って下さる支援者)がおり、その人々の信仰のレベルも決して一様ではなかった。そんな霊的な状態も定まらないような人々の気まぐれな支援を当てにすることは、まるで大きな冒険のようであっただろう。しかし、ミュラーはそれらの人々を決して自分で裁いたり、自分の力で動かそうと働きかけたりしなかった。彼は催促することも、要求することもせず、ただ人々の心に神ご自身が働きかけて、願いを起こして実現に至らせて下さる時を信じて待った。特に、お金の問題がかかっている時に、そのような原則を守り通すことはどんなに困難なことだろう。それはまさに主ご自身のはかりしれない愛といつくしみ、忠実さを試すことであった。

しかし、彼は信じたのだ、これらの全ての人々の背後に主の御手が働いていること、必要を満たして下さる方は神ご自身であり、神の助けは彼に対して十分であることを。彼はまさに神ご自身がすべてに超越して働かれることを信じたのだ。だからこそ、信仰の篤い人も、薄い人も、全ての人を神ご自身が用いることができると信じ、何よりも、それらの人々の背後に働く主の御手を信じた。そして、ただ主の御前に良心に問うてその支援を受けて良いかだけを判断したのである。

我々の霊的な歩みも、無菌室でというわけにはいかない。雑菌だらけの地上を歩くように、さまざまなものに出くわすだろう。しかし、その中にも主の御手が働いていることを信じるだろうか。否定的なものが山積みになったような中で、確かに主の恵みが十分であることを信じるだろうか。

今日は一日、朝の通勤の電車の接続から始まって、何もかも、すべてが主の采配の中にあった。先日、仕事がとても大変で…と、兄弟姉妹に嘆いたところ、主は勤務中にも必要な休息を与えて下さった。驚くべきことに、いつもならひっきりなしにやって来る仕事の間に、束の間の待ち時間が備えられていた。

どんなに神が憐れみに満ちた方であり、私の心の奥底の願いにさえ注意を払って下さる方であるか、それによっても分かるのだ。本当に神の思いは人の思いとは違うのだ。人は容易に裁き、罪定めし、軽蔑し、笑い、あきらめて、終わりだと言って立ち去っていくかも知れない。ところが、神は決して人間のような侮蔑を持って私たちの弱さをご覧にはならないし、人間の考える絶望を絶望とみなされることもない。本当に、神ははかりしれない理解の深さと、憐れみの深さと、誠実さを持ったお方であり、主イエスは十字架をさえ通過された、砕かれ、へりくだった心を持って私たちを世話して下さる方である。そして、私たちをあきらめないでいて下さる。

ただしなければならないことは、この方のみに頼ることである。たとえ暗やみの中を通されることがあったとしても、心の偶像のすべてと訣別することだ。

あるところでは、本当に真心から、私のためにも、真剣に心を注ぎ出して祈ってくれている人たちがいることが感じられる。たとえ直接、言葉で伝えることがなかったとしても、困難を分かちあい、共にそれを負って主の御前に出てくれる人たちが存在すること、その聖徒らの天的なネットワークがすでに機能していることがとても嬉しい。その助けが私にとって今どれほど必要であるかわからない。

それでも、今は神以外の被造物からどのように評価されるかをあまり心に留めまい。ただこの方の誠実さ、愛、真実を仰ぎ見て、信じ続けることにしか生きる術はないのだから。御言葉は真実であり、全て重荷を負った人、疲れた人を主は拒むことなく休ませて下さる。主は柔和でへりくだっておられるから、イエスのくびきを負って、彼に学べばよい。主は私たちを牧場に導かれ、霊の乳を飲ませ、懐に抱いて小羊を養うようにして、私たちを教えて下さるだろう。


彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす

近頃、ある兄弟を通じてベックさんのメッセージを聞いてみるよう紹介されました。文字で読めるものを探したところ、非常にタイムリーと思われるメッセージに出会いましたので、長いですがそのまま紹介します。(吉祥寺キリスト教会のサイトより)

願いなさい。戦いなさい。
2010.3.23(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

引用聖句
マルコの福音書 10章51節、52節
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、
盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言
われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、す
ぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。


テモテへの手紙・第一 6章12節
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召さ
れ、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。


以前にも紹介したことがあるのですが、主の思いと私たちの思いと全く違うということは、むしろ私たちの救いのために益となるのではないでしょうか。
私たちが昨日主に感謝するための時間をつくらなかったということで、主が、今日私たちを祝福するための時間をとっておられなければ、どういうことになるでしょう。
私たちが今日主に従順に従わなかったということで、主が、明日私たちを導こうとされなければ、いったいどういうことになるでしょう。
私たちが今日みことばを読まなかったということで、主が、明日私たちの聖書を取り上げようと思われたら、どういうことになるでしょう。
私たちがみことばを伝える人に耳を貸さないということで、主が、私たちに語ることをおやめになれば、いったいどういうことになるでしょう。
私たちが隣人のために心配したり、愛しているのと同じように、主が、私たちに配慮し、私たちを愛し、心配してくださらなければ、どういうことになるでしょう。
私たちが昨日主の御声に耳を貸さなかったということで、今日主が、私たちの祈りを聞き届けようとなさらなければ、大変なことになるに違いありません。
私たちがすべてを主に捧げようとしなかったということで、主が、今から聞く耳を持とうとなさらないとしたら、それこそ悲劇そのものでしょう。
私たちが主を第一にしなかったということで、主が、私たちの必要に対して知らん顔をなさるなら、いったいどういうことになるでしょう。

しかし、主は私たち人間と全く違われるので、感謝なことです。

イザヤ書 42章3節
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。


特にエレミヤ哀歌の中では、この主の素晴らしさがほめたたえられているのです。3章22節から読みます。
哀歌 3章22節から26節
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と
私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち
望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。


では、主はどのようなお方なのでしょうか。司会の兄弟が読んでくださったみことばの中で、*第一番目。主はまず、「願いなさい」と言っておられるのです。
「何が欲しいの?」。乞食であり、目の不自由なバルテマイは、もちろん、
「主よ。見えるようになることです」と。「主はおできになる」と彼は確信したので、言ったのです。そして、彼はその場で癒されたのです。

何 でもおできになるお方は、もちろん当時だけではなく、今日私たちにも、「願いなさい」とおっしゃっておられます。何も欲しくなければ何ももらえません。で すから素晴らしいチャンスではないでしょうか。お願いしないと損をします。救われませんし、用いられもしません。つまり祝福されないのです。聖書の中で何 度も、
「あなたの信じたとおりになる」と記されています。『願いなさい。』と。

*第二番目。「戦いなさい」とあります。
「信仰の戦いを勇敢に戦いなさい」。 この戦いとは、言うまでもなく、目に見える世界、人間に対する戦いではなく、悪魔、悪霊に対する戦いです。なぜ「戦いなさい」とおっしゃるのでしょうか。 もちろん救われるためにではないのです。永遠のいのちを得るためでもありません。信仰生活とは散歩道ではないので、「戦い」です。「悔い改めの連続」であ るべきです。

私たちはどうしたら良いのでしょうか。聖書の中に、
『死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録2:10後半)』と書かれています。そうしなければ、もちろん駄目なのです。

イ エス様を知ること、イエス様を愛することこそが、大切です。もちろんそれだけではなく、「主を愛し続ける」ことではないでしょうか。初めてイエス様に出 会って救われた人たちはみなイエス様のことが大好きです。しかし、だんだんおかしくなってくる可能性があるのではないでしょうか。


ヨハネの黙示録 2章4節、5節
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。
もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、
あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」


地獄へ行くのではないのです。用いられなくなるということです。したがって、救われた人々に対する聖書全体の呼びかけは、「主に立ち返ろう」ということです。

哀歌 3章40節
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。


エレミヤ哀歌の中で、私たちは、エルサレムの「崩壊」「恥」について、即ちこの町が主なる神の裁きによっていかに荒れ果てた町となるかについて読むことができます。それは本当に落胆させられ、打ちのめされるような大変なものでした。しかし、今読みましたように3章の半ばを見ると、私たちは「力を与えられ」、私たちを「高く引き上げてくださる」励ましのことばを読み取ることができます。

哀歌 3章22節
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。


主はいつまでも見放してはおられず、
哀歌 3章32節
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
と。

私たちは、絶えず励まされることを必要としています。そのために主は、私たちに多くの約束のみことばを与えてくださいました。私たちが自分たちを吟味し、探求し、尋ね調べることは、必要なことなのです。ですからこの
エレミヤ哀歌3章40節には、私たちが信じる者の道を尋ね調べて、「主のみもとに立ち返ろう」と語られているのです。

私たちは静まって、主によって吟味していただくことが、本当に大切なのではないでしょうか。主が私たちに語ってくださり、妨げとなっているものをすべて明らかに示してくださるように調べていただく必要があります。

詩篇の作者であるダビデは、どういう心構えを持っていたかが分かります。彼はご存じのように
「みこころにかなう人」と呼ばれましたが、とんでもない過ちを犯してしまい、とんでもない方向に行ってしまいました。しかし、彼の心構えは素晴らしいものでした。

詩篇139篇23、24節です。これら2節を読むと、六回も私、私、私という表現が出てきます。

詩篇 139篇23節、24節
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。


相 手ではありません。「自分」です。(私たちがはっきりと知っていなければならないことは、いくら私たち自身を見つめても実際は何の役にも立たない、という ことです。自分自身を見つめる者は、打ちのめされた気持ちにならざるをえないからです。)イエス様だけを見るのでなければ、間違いなく落ち込みます。もし 私たちが自分自身を見つめるなら、私たちは少なくとも千回、偉大なるイエス様を見上げなくてはならないでしょう。

しかも、私たちはまず、私たちの動機が本当に正しいものであるかどうか、主の御顔によって自分たちを吟味すべきです。そうしなければ、私たちは簡単に流されてしまい、いかに下へ向かっているかに全く気がつかないようなこともあり得るのです。
絶対的な拠り頼みを意識しないで生きる者は、災いではないでしょうか。私たちは自分のみじめさ、自分の無力さ、すべての失敗を認め、そのままの状態でイエス様のところに行くことが大切です。そうすれば、主は必ず新しい力を与えてくださいます。


『私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう』と、哀歌3章40節に記されているように、主を信じる者は誰でも、何度も何度も悔い改めて主に立ち返ることが必要です。それによってのみ、主は新たに生かすことがおできになるからです。
信 じることは良いのですが、それだけでは十分ではありません。私たちは、みこころにかなう者なのでしょうか。「はい、そうです」と言える兄弟姉妹は、おそら く私たちのうちにひとりもいないでしょう。ですから、私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ることが、どうしても必要です。私たちは、主と結びつい ていないことがあったり、また、主の愛が既に私たちを駆り立てない、ということがあり得るのです。

やがて殉教の死を遂げるパウロは、最後の手紙の中で、次のように書いています。

テモテへの手紙・第二 2章21節
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、
その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、
主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。


これは単なる可能性ではなく、事実です。
『主のみもとに立ち返ろう。』

簡単な三つのことについて考えましょう。
・私たちの生活を、尋ね調べること。
・私たちの障害物を認めること。
・私たちの歩みを吟味すること。

即ち言い換えるなら、
・第一に、私たちは自分の生活を、尋ね調べなければなりません。
・第二に、私たちは自分の障害物を認めなければなりません。
・第三に、私たちは自分の歩みを吟味しなければなりません。

*第一番目。私たちの道を尋ね調べましょう。
ここで大切なことは、「私たちの」ということが強調されていることです。即ち他の人ではなく、私たち自身の道が吟味され、究明され、尋ね調べられるべきです。他の人々の道を判断したり、調べたりすべきではありません。問題となっているのは、「私たち自身」です。
パウロは二箇所で、私たちが、まず「私たち自身」の生活を吟味しなければならないこと、問題となっているのは他の人ではなく、「私たち自身」であることを指摘しています。

即ち、ひとりひとりが主の前に静まり、次のような願いをもって、主の光に自分自身を照らし出していただくべきです。「主よ。どうかあなたの前に妨げとなっているものを明るみに出してください」と。

コリント第二の手紙13章5節で、パウロは、コリントにいる、なかなか成長しなかった兄弟姉妹に書いたのです。

コリント人への手紙・第二 13章5節前半
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

とあります。

私 たちは他の人を吟味したり判断して、裁いたり、また他の人のいろいろな欠点を詮索せんさくしたりしがちです。私たちは、福音を聞く時でさえ、聞いた事がら が自分自身に関係のあることではなく、「これはあの人に当てはまる」、「そのことにあの人が気づくといいのだが…」、と思ったりするのではないでしょう か。

私たちは、自分たちの生活を尋ね調べ、意識的に、主の光の中に自分自身を置くことの必要性について考えるべきです。そのことはどのように行なわれるべきでしょうか。
次の三つのことが考えられます。
1.規則正しく行なうこと。
2.適当にではなく、徹底的に行なうこと。
3.正直に行なうこと。

1.私たちは、規則正しく私たちの生活を尋ね調べなければなりません。

コリント人への手紙・第一 11章23節から29節
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、
パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。
これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、
主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、
主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、
ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだを
わきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。


28節のみことばは、パン裂きについて述べていますが、聖書によると、パン裂きはたまに行なわれるのではなく、規則正しく行なわれるべきです。即ち、私たちは、私たちの「主の苦しみと死」について、そして「イエス様の成就された勝利」について考えるべきです。パン裂きのとき、私たちは、ゴルゴタ、即ち「イエス様の十字架上における犠牲」を思い起こし、「御座に引き上げられたイエス様」を見上げ、そして、すぐに成就される「主のご再臨」を待ち望みます。

しかし私たちの生活をも尋ね調べなければならない、とパウロは主の使命をもって語っています。私たちは、イエス様が祝福し、ご自身を啓示し、奇蹟の御業をなしてくださる妨げとなるものがないかどうかを、尋ね調べなければならな
いのです。
明 らかに私たちに要求されていることは、あなたの生活を尋ね調べなさい、ということですが、それは、妨げるものが思い当たった時に、主の聖餐から「遠ざかる ため」ではなく、「悔い改めて」パンを食べ、杯を飲むためなのです。このことは、ひとりひとりが自分自身を吟味してふさわしくなければ、パンとぶどう酒を 隣りの人に回すことを意味しているのではなく、大切なことは、ひとりひとりが自分を尋ね調べ、赦しを必要とする事がらが私たちに示されるためなのです。

実際私たちは、主の前にへりくだって身をかがめ罪過を告白するなら、私たちはすべてを赦され、その赦しが受け入れられた後、私たちはパンを食べ、杯にあずかるべきです。
したがって、精密検査の目標は、私たちががっかりして身を退くことや、断念しようとすることではなく、イエス様との更に親密な交わり、更に大いなる祝福をいただき、用いられるためです。

パン裂きの時、「洗礼を受けても受けていなくても・・・」と言われています。もちろん、習慣になっているかもしれません。普通の教会では、洗礼を受けていなければパン裂きにあずかってはいけない、と決められているのです。この決められたことは間違っています。

ですから、洗礼を受けても受けていなくても良いのです。しかし、何度も言わなくても良いかも知れません。むしろ、信者であっても、救いの確信があっても、
「隠されている罪」があればあずからないように、と言うべきではないでしょうか。ですから、パウロはこのコリント第一の手紙11章の中で書いたのです。

私 たちは、日曜日の朝、パン裂きのときにだけ自分の生活を吟味するのではなく、規則正しくいつもなされるべきです。例えば、大晦日、新年、喜びの集い、特別 な祝福を受けた時も、自分を吟味することが必要でしょう。というのは、私たちはともすると主に対して感謝の少ない者となり、自分自身のことを考えてしまい がちであるからです。また試練の時にも、私たちが自分の生活を吟味することが必要でしょう。しかしその際に、なぜ、どうしてと尋ねるのではなく、
「主よ。あなたのご目的は何ですか。あなたはそのことを通して、私に何をお語りになりたいのですか」と尋ねることが大切です。

私 たちが主から離れているときに、私たちと主との間に妨げるものが入ってくると、主は私たちを教育してくださいます。即ち、主は、私たちを罰するのではな く、そのことを通して、私たちを更にみもと近くに引き寄せるために、私たちを教育なさるのです。ですから、悩みや試練のときに、私たちが主の光を主に願い 求め、私たちの生活を吟味し、主がすべてを明らかにしてくださることが大切です。

しばしば主の御手が働けないようにしてしまうものは、私 たちの「不信仰」であり、私たちの「不従順」であり、私たちの「不純な動機」なのです。私たちが主に仕えても、ほとんど、或いは全く実を結ぶことができな いとき、私たちは、改めて自分たちの生活を調べてみることが大切です。

以上のことをまとめてみると、「私たちの生活の精密検査」は、規則正しく頻繁に行なわれるべきであるということが言えます。

2.徹底的な精密検査も必要です。
究 明するとか、吟味するという言葉は、うわべだけでなく徹底的に行なわれるべきであることを私たちに示しています。そのことは何度も何度も、私たちが、主に 真剣に願い求めるべきです。私たちのうちに隠れて、障害となっているすべてのもの、また、私たちに更に大いなることをなさろうとしておられる主のご目的に 対しての、その障害物の全てを明らかに示してください、と。

モーセは、詩篇90篇8節で証ししたのです。

詩篇 90篇8節
あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。


このようにモーセは祈り、証ししました。不義と秘めごとは光の中に置かれなければなりません。

例 えば、あなたが歯医者に行き、痛んでいるところが発見されたとしますが、その歯は抜かなくても良い場合、まずみなが嫌がる歯の穿孔機(歯に穴を開ける機 械)が使われ、痛んでいるところはすべて徹底的に除去されます。そうするとその歯は突然大きな穴が開くことになりますが、使うことができるようになりま す。この方法は痛みを伴うかもしれませんが、やりがいのあるものではないでしょうか。ちょうどそれと同じように私たちもまた、徹底的に私たちの生活を検査 しなければなりません。私たちが主の器として主に用いていただくために、主との交わりを持ちたいとなお願うなら、何度も何度も自分自身を徹底的に検査して いただく必要があります。

以上のことをまとめてみると、私たちの生活の精密検査は、まず規則正しく、徹底的に行なわなければなりません。

3.最後に、どこまでも正直であることが要求されます。
私たちの人生については、四つの価値判断があるでしょう。
① 私たちの周囲が自分について何を考えて、またどのように自分を評価しているか。
② 自分と一緒に住んでいる家族が、自分について何を考え、どのように評価するか。
③ 自分自身が自分について何を考え、自分をどのように評価するか。
④ 最も大切なことですが、生けるまことの主が、自分について何をお考えになり、どの
ように評価なさるか、ということです。

ではなぜ精密検査が必要なのでしょうか。それは、主が、私たちの人生をご覧になると同じように、私たちも自分の人生を見ることができるため、即ち「自分自身を本当に知るようになるため」なのです。
他の人が、私たちについて何を考え、どのように見ているか、或いは、私たちが自分自身について何を考え、どのように自分自身を見るかということではなく、徹底的に大切なことは、
「燃える炎のような目」を持っておいでになる主の前には、造られたもので隠れおおせるものは何ひとつありません。主の御目にはすべてがさらけ出されてしまうのです。

その主が、私たちをどのようにご覧になるかということです。私たちは、人間の目に模範的に思われることはあり得ても、或いは、自分の過ちを他の人の目からうまく隠そうと思えばできるでしょう。しかし、主の前に隠れおおせるものは何一つありません。

ですから、ダビデは本当に祈りました。もう一度139篇を読んでみましょう。今度は、1節から読みましょう。なぜなら、ここでも1節から4節までに、私、私、私という言葉が、8回も出てきます。

詩篇 139篇1節から4節
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、
立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと
私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。


主の御目に隠れおおせるものは何一つありません。ですから、私たちは主に近づく時、
全く正直でなければならないのです。
もう一箇所読みましょう。


エレミヤ書 23章24節
人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御
告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ。――

とあります。

私たちは、
「主よ。どうかすべてを明らかにしてください。私を調べてあなたを悲しませたところをお示しください」と祈ることができれば、本当に幸いと思います。というのは、主はいつも私たちを赦してくださるおつもりですから。
主は、私たちをあらゆる不義から清めようと待っておられます。私たちは、私たちの道を尋ね調べましょう。これは必要なことです。そのことを私たちは、規則正しく、徹底的に、正直に行なうべきです。

しかし、必要な精密検査に属するものは、私たちの人生の検査だけではなく、私たちの障害物を認めることでもあります。私たちの障害物を認めないと、主は祝福することがおできになりません。前に読みました
エレミヤ哀歌3章40節
哀歌 3章40節
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

とあります。

主は、立ち返るべきであると言っておられます。それは、いったいどうしてでしょう。それは私が間違った方向に進んでしまったので、私たちは戻らなければならないからです。なぜでしょうか。それは、私が主から離れてしまったからです。

・旧約聖書の中に出てくるサムソンという、主によって用いられた器について、いろいろなことが書かれていますが、このサムソンは、主の民に属し、もちろん信者で、長い間主の御手にある器でした。
士師記の16章を読むと、ショックを受けます。サムソンが主のご臨在を通して、自分の抑えがたい情熱によって、気がつかないうちに「主の霊が自分から去ってしまったこと」を認識した、という事実を知ることができます。神の敵は、サムソンを嘲笑いました。というのは、彼は神の霊なしに、力なく、望みなく、助けのない者になってしまったからです。何という悲劇でしょう。彼は戦い続けなかったのです。

・ダビデについて考えても分かります。ダビデは、ただ主の民に属していた者だけではなく、特別に選ばれた者でした。イスラエルの民の指導者でした。
サムエル記下の11章を見ると、彼はバテ・シェバと姦淫を犯し、ナタンのとりなしによって、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるを得ませんでした。「その姦淫をした男は私です」。ここにも悲劇があります。

・ 旧約聖書の中で最も用いられた預言者エリヤは、主によって特別に遣わされた者でした。しかし、彼は落胆して荒野に引き戻り、主が自分のいのちを奪って欲し いと真剣に祈りました。彼はぺちゃんこになってしまったのです。そのことに対して悪魔はどのように勝ち誇ったのでしょう。

・イザヤという預言者は、自分自身を主の光の中に見ました。彼は自分の不潔さ、不純さに驚き、次のように叫ばざるを得なかったのです。
「ああ私は災いです。私はもう駄目だ」と、イザヤはすべての障害物を認識し、告白したのです。

・イエス様の弟子たちについて考えても分かります。最後の晩餐の時に、イエス様は彼らに言われました。
「あなたがたのひとりがわたしを裏切ります」と。するとすべての弟子たちは驚いて尋ねました。「主よ。それは私でしょうか」。私たちもまた、「主よ。それは私でしょうか」と問うべきです。「私があなたを悲しませたのでしょうか。隠れたところにある障害物を私にお示しになってください。私の障害物を認める恵みをお与えになってください」と。

・ペテロは弟子たちの中の一人でした。
ルカ伝22章を読むと、彼は自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことが分かります。彼は外に出て行き激しく泣いた、とあります。

こ れらの主のしもべたちは、主に立ち返りました。というのは、彼らは主の命令に従ったからです。私たちの道を尋ね調べてください。このことを行なう者には、 立ち返り、戻る恵みが与えられます。自分自身を検査してもらう人は、すべてのことを明るみに出してしまう備えを持っています。もちろんそのような人は、私 たちのうちにある悪しきもの、不要なもの、憎むべきものだけがあることをも経験しなければなりません。

しかし、認識したあとには、告白が続かなければなりません。というのは、告白した時に罪が赦されるからです。恐らく主なる神は、私たちの人生の中で、主を悲しませ、主の祝福の流れを押しとどめるものが他にもあることを、私たちに示してくださるでしょう。
光の中に出ることをあえてしましょう。すべて偽善的な行為をやめましょう。

私たちも、
・サムソンのように、力のない、望みのない、助けのない、あらゆる状態から脱出すべきです。
・ダビデのように、あらゆる偽善と、姦淫から脱出すべきです。
・エリヤのように、あらゆる無気力さと、失望、落胆から脱出すべきです。
・イザヤのように、あらゆる盲目の状態と、不純から脱出すべきです。
・ペテロのように、あらゆる思い高ぶりと、傲慢から脱出すべきです。

必要な精密検査、或いは健康診断に属するものとしては、すでに考察しましたように、まず第一に、私たちの人生の精密検査、それから私たちの障害物の認識が必要です。
はじめに言いましたように感謝なことは、主は私たちと違うことです。


イザヤ書 42章3節
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
哀歌 3章22節
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。




主の救いを黙って待つのは良い

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です。」と
私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。

主はいつくしみ深い。
主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、
ひとり黙ってすわっているがよい。

口をちりにつけよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。

主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
思っておられない。
地上のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
人の権利を、いと高き方の前で曲げ、
人がそのさばきをゆがめることを、
主は見ておられないだろうか。

主が命じたのでなければ、
だれがこのようなことを語り、
このようなことを起こしえようか。

わざわいも幸いも、
いと高き方の御口から出るのではないか。
生きている人間は、なぜつぶやくのか。
自分自身の罪のゆえにか。」(哀歌3:22-38)


最近、どうしようもない飢え渇きが心の中にあって、それを上手く言葉にできないもどかしさを感じている。交わりの中でも、他のどの場所でも、それを上手く伝えられない。主が来られて私たちを救い上げ、御翼の陰にかくまうようにしてこの状況から引き上げて下さらなければ、もはや一歩たりとも生きていくことはできない…、その絶望にも近いもどかしさをどうやって言葉で伝えられるだろうか。そんな時には、もう何も語らないが良いのだ。

直接的には、孤独や、生活上の困難やら、色々な困窮の原因があげられるかに見えるし、今、日本に差し迫っている危機を理由にあげることもできるだろう。だが、それは何よりも直接、主に持っていくべき、甚だしい飢え渇きなのだ。それは主ご自身の不足に他ならない。

かつて必至で真理を探してあちこちを調べ、遠い距離をものともせずにキリスト者の間を訪ね歩いた時のことを思い出す。どうしようもない飢え渇きが心の中にあって、どんな同情も、優しい言葉も、真の満足とはなり得なかった。日常生活がかりそめに守られているように見えることなど何の気休めになろうか。そんなものが本当の満足に至るだろうか。何を犠牲にし、何を代償にしてもいい、ただこのいのちなる方にご自身をはっきりと現していただかねば何も悟ることはできないし、切り抜けられもしないという差し迫った危機感(渇望)があり、かつて絶望の最中で必至になって光を見たいと望み、主が現れて下さるためならば、何を捨てても構わないと思い、生涯を捨て去るつもりで、長い長いときを、沈黙のうちにただ頭を垂れて待ち望んだ、その時のことを思う。

ハンナが主の御前に心を注ぎ出した直接の動機は、彼女が男の子を望んだからかもしれない。地上的な困窮が彼女を追いつめ、主の御前に押し出したかのようであった。直接的には、彼女が望んだのは自分自身の恥が取り除かれることであった。私は時折エリサベツのこの言葉を思い出す、「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」(ルカ1:25) 当時、女にとって子供がないことは恥であったが、今日、それと同様に、エクレシアにとっていのちを生み出さないことはれっきとした恥なのだ。しかし、そのことを恥と思っている人はどの程度いるのだろうか。誰がそれにハンナのように打ち砕かれて主の御前に嘆き、呻くだろうか?

主イエスの前に進み出た多くの病人たちにとって、彼らが主の御前に進み出た直接的な動機は、地上的困窮、肉体的困窮だったかも知れない。だが、そのどうしようもなく追いつめられた状況は、彼らがただ一途に主だけを待ち望むきっかけを作り、彼らを主の御前に悔い改めさせ、地上的なものに対して真に絶望した者とし、御前に強く押し出した。彼らは表面的には、あたかも自分たちの生活の幸福が失われたことを嘆き、不幸に打ちのめされ、回復や安寧を求めていただけのように見えたかも知れない、が、その安寧も回復も、もはや人の力では実現不可能なところにあった。そのため、この人たちの希求は、必然的に、地上的幸福を追い求めることよりも、さらに深いものとならざるを得なかった。いや、彼らはその深い渇望を、絶望に近い希求を、ただ主に託すことしかできなかった。

ただ一点、キリストにだけ、彼らの望みがかかっていた。ただイエスの御名にだけ、真理でありいのちなるキリストご自身にだけ、彼らの望みがかかっていた。その希求が、彼らを地上の全ての幸福と安寧から引き離し、主の御許へ強制的に連れて行った。いや、神が彼らをご自分のもとへ引き寄せられたと言って差し支えない。主は、ご自分だけが彼らの望みとならざるを得ない究極の地点まで彼らを導かれた。この暗やみにも見える細い道を通って、彼らは世から選び分かたれ、主の御許へ連れて行かれた。世は彼らを全く無価値、無用なものとして吐き出したが、その無意味となった彼らを、屑にも近いものとなった彼らを、主が選び、ご自身のために分かたれ、御許へ連れて行かれたのだ――。

今、こう祈らずにいられない、主よ、主よ、どうか私たちを憐れんで下さい、どうかこの無となっている私たちを御心に留めて、かえりみて下さい。人々は地上的な人生を大いに楽しみ、今日、明日に望みをかけているかも知れません。自ら得た富や恵みを大いに誇っているかも知れません。しかし、私たちにはただ何もないばかりでなく、地上的な幸福には、もはや何の希望も見いだせないのです。私たちの心はどうしようもなく飢え渇いているのです。あれやこれやの人や物に対してではなく、あなたに飢え渇いているのです。私たちの幸福は、ただあなたにあるのです。私たちが生きるかどうかは、ただあなたのお心一つにかかっているのです。私たちの幸福はもはやあなたの御力によってしか実現しえないところにあり、私たちの望みは、ただあなたがご自身を現して下さることだけにあるのです。

主よ、帰って来て下さい、ご自身を現して下さい、スカルの井戸であのサマリヤの女に出会って下さったように、私たちを憐れんで下さり、私たちに、今一度出会って下さい。ご自分の民である私たちの貧しさと悲惨さをお心に留めて、私たちをかえりみて、御手で引き上げて下さい。私たちは再びあなたを見たいのです。もう一度、あなたに出会い、あなたの大能の御力を知り、あなたの懐にまで高く引き上げられ、あなたに抱かれて安息し、ねんごろにかえりみて世話をしていただく幸いにあずかりたいのです。主よ、来てください、ご自分の民である私たちをどうか忘れないで、心に留めて下さい、私たちの嘆きに耳を傾け、私たちの叫びを聞き届けて下さり、あなたによって打たれた私たちの傷を包み、あなたの民である私たちを、あなたがもう一度、得て下さいますように。私たちを一人に捨て置かないで下さい、どうか私たちを黄泉のうちに捨て置かれず、あなたが私たちの心に来て下さり、私たちの重荷を担って下さり、私たちの悲しみの涙を拭って御翼の陰にかくまい、あなたの安息の内に憩わせてくださいますことを切に切に希うのです。

主よ、来てください、私たちは頭を垂れて、沈黙のうちにあなたを、ただあなたを待ち望むのです…。


こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです

十字架と結実

 ヨハネによる福音書十二章二十四、二十五節を、もう一度読みましょう。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一 粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命(魂―ギリシャ語訳)を愛するものはそれを失い、この世で自分の命(魂)を 憎むものは、それを保って永遠の命に至るであろう。」

 ここに十字架の内的な働きがあります。それは私たちが今まで語ってきた魂を失うことです。<…>一粒の麦の目的は、実を結ぶことにあります。自己のうちに命を持つ一粒の麦があります。しかしそのままでは「ただ一粒のままである」のです。それは他のものに命を分け与える力を持っていますが、そうするためには、死の中へ入って行かねばなりません。

 さて私たちは、主イエスがとられた方法を知っています。イエスは死の中を通り抜けられたのですが、すでに学んだように、そのいのちは多くの命となって出現しました。御子は死に、そして
「多くの子」の初穂としてよみがえられたのです。イエスは、私たちが彼のいのちを受けるため、それを捨てられました。私たちが死ぬために召されているのは、主の死のこの面においてです。

そこにおいてイエスは、御自分の死に合わせられることの価値を、明らかにされています。それは私たちが生来のいのち、すなわち魂を失い、その結果、私たちがいのちの分与者となり、私たちの内にある神からの新しい命を他の者に分かち与えることです。これが奉仕の秘訣であり、神のために真の実を結ぶための道なのです。そのことをパウロはこう言っています。
「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現われるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである」(第二コリント四・一一、一二)

 私たちは今や問題の中心に近づいています。もし私たちがキリストを受け入れているならば、私たちは新しい命を内に持っています。私たちのすべてが、その貴重な持物すなわち宝を器のうちに持っているのです。私たちの内に実在する神のいのちのゆえに、主は賛美すべきかな。しかし、なぜその主のいのちの表れが、あまりにも少ししかないのでしょうか。なぜそれは、自分の内にだけ留っていて、溢れ出て他の者にいのちを与えないのでしょうか。なぜそれは、私たち自身の生活においてさえ表れることが少ないのでしょうか。なぜいのちがあるのに、そのいのちの印が非常に薄いのでしょうか。

それは、私たちの内にある魂が、そのいのちを包み、かつ閉じ込めてしまうために(ちょうどもみが麦の殻を包むように)いのちは出口を見いだすことができないからです。私たちは魂によって生きており、自分自身の生来の力によって働き、かつ奉仕しています。私たちは神から力を引き出していません。
いのちが溢れ出る道に立って妨害しているのは、魂なのです。その魂を失って下さい。そうしてこそ満たしがあるのです。

暗黒の夜――復活の朝

 ここで私たちは、一晩の間――何ものをも見ることのできない暗黒の一夜――聖所の中に持ち込まれ、そして翌朝には芽を出したあのはたんきょうの杖に戻ってきます。そこにおいて私たちは、死と復活、捨てられたいのちと獲得された命を見ました。また神によって承認された奉仕について学びました。しかし、このことは実際にはどのようにしてなされるのでしょうか。どのようにして私は、神がこのような方法によって私を取り扱っておられると知るでしょうか。

 まず最初に、一つのことを明らかにしなければなりません。生来のエネルギーと力を持った魂は、私たちが死ぬ時まで存続します。その時まで絶えず、私たちの内に働き、肉の性質の源泉を深く泥さらえする十字架が、毎日毎日必要なのです。これが、
マルコによる福音書八章三十四節の中に主張されている、奉仕のための終生の条件です。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」

私たちは、この学課を決して卒業することができません。そのことを避ける者は「わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三八)のであり、「わたしの弟子となることはできない」(ルカ一四・二七)のです。死と復活は、魂を失い御霊の働きを促すために、私たちの生活の永続的な原理とならなければなりません。

 ところで、ここにもまた、一度通過したら私たちの全生涯と神への奉仕を変貌させてしまう転機があり得るのです。それは、私たちが全く新しい道に入るための狭き門です。そのような転機は、ヤコブの生涯でもペニエルで起りました。神に仕え、神の目的を達成しようと努めていたのは、ヤコブの中にある「生まれながらの人」でした。
「兄は弟に仕えるであろう」と神が言われたことを、ヤコブはよく知っていました。しかし、ヤコブは自分の才能や力によって、神の目的を達成しようとしたのです。それで神は、ヤコブの内にある生来の力を無能にさせなければならず、そのため彼のもものつがいにさわられたのです。

ヤコブはその後、旅を続けましたが、びっこのままでした。しかし彼の改名が示すように、彼は以前とは違ったヤコブでありました。彼は自分の足を持ち、それを使うことはできました。しかし彼の力は神に触れられたためにびっことなり、しかも一向に回復する見込みはなかったのです。


 神は私たちを、深い暗黒な経験を通して、私たちの生来の力が触れられ、根本的に弱められて、もはや自分にあえて頼ることができないという点まで連れて来られねばなりません。それはどのようにしてなされるか、私には言えません。しかし、とにかく神はそれをなさるのです。神は私たちのうちのある者を大変乱暴に取り扱われ、その人をそこに連れて行くために、困難で苦しい道を通らせなければなりませんでした。そして私たちが、キリスト者の働きをするのが「好き」ではなくなり、主の名によって事をなすのが恐ろしくさえなる時が来るのです。しかし、その時はじめて、神は私たちをお用いになることができるのです。
『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、pp/292-296.
<つづく>

 
深い、深い暗黒の夜。自分自身には全く希望が見いだせず、神への奉仕をさえ続けられなくなる暗黒の夜。私たちが神の力によってびっこにされてしまう暗黒の夜。その夜はいつまで続くのかも分からない。ところが、そこに神の絶大なる愛が確かに届いていることを感じずにいられないのである。

いや、むしろそのような暗黒の中を通過しないならば、決して分からなかったであろう神の憐れみの深さを感じるのはなぜなのか。主は私たちが究極的に弱くされるときをただずっと待っておられたのだ。忍耐強く、憐れみを持って、私たちが自分の全てを御前に投げ出す時を、ずっと待っておられたのだ。私たちが拒み続けてなお、私たちを待ち続ける主の愛はどこまで深いのか。私たちが背いていたのに、なお私たちを召して下さった主の呼び声はどれほど強いのか。すべてが私たちの力によらず、ただ神の御力だけによることが証明されるために、ただこの方の力が現されるために、私たちは暗やみを通過せねばならない。だが、自分の無力と恥を知らされる時、神の愛と憐れみの深さを思って賛美せざるを得ないこの衝動は何だろう。

ああ、私たちが徹底的に弱くされる時にこそ、現される神の完全な強さがあるのだ、その一方的な恵みと憐れみが現されるのだ。御子が成就してくださった完全な贖いの尊さよ! 私たちの名は折られ、泥まみれになろうと、ただこの方の御名だけが高く掲げられるように! 不従順で不敬虔で、救いにも全く値しない罪人である私たちを救うために世に来られ、命を投げ出して下さった主の愛だけが讃えられるように! ただこの方のいのちだけが私たちを支配し、私たちを完全にとらえてしまうように! 

そのために私たちの生来の力がへし折られ、終わらされることを拒んではいけない。きょう、と言われた日に、御声を拒んではいけない。暗黒の夜が自分に訪れるとも、死の中に、墓の中に黙って横たわれ。主が私たちを獲得し、引き上げて下さるその時まで。主が私たちのうちで自由を得られるその時、私たちも主と共に自由になるのです。


「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者の ために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私た ちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子 の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たち のために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。<…>

ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリスト により、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを獲させるためなのです。」(ローマ5:6-11,19-21)