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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

もし私たちがキリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」(ルカ24:5-7)

「…わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:6-8)

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)


何かしら説明不可能な事柄が進行している。圧倒的ないのちの流れが、脆く弱い土の器である私たちの殻を押し破って、外にほとばしり出ようとしている。もうこれ以上、自分の力で殻を割ろうと努力することは必要ないだろう。私たちはただ古き人を、アダムの肉を十字架で否み、それらが主と共に十字架につけられて死んだという事実を絶えず認めるだけである。

初めて復活のいのちとは何であるかを知らされたとき、そのいのちは、たとえ地球が何度、核爆弾で滅んだとしても、なお滅びないいのちであることを味わい知った。これは決して大袈裟な表現ではないと思う。何しろ、キリストの復活のいのちは、地獄の軍勢も、サタンも、死をも打ち破ったのだから。「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」(Ⅱテモテ 1: 10) 「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル2:14-15) このはかりしれない力を持つキリストの復活のいのちが、信仰を通じて、私たちのこの朽ちゆく脆い肉体の中に宿っているとは、何という説明不可能な不思議だろうか…。

御子をよみがえらせた神のいのちが宿っていればこそ、信仰者はいつまでも墓に横たわっている必要はないのだ。主と共に十字架につけられて死に、葬られ、墓を通過した者には、必ず主と共なるよみがえりが実際となる。そして主と共に御座に引き上げられることもだ。これは主観的経験として実際となるのである。殉教も、掲挙も、その後に起こる出来事であって、墓の中で起こることではない。

そこで、たとえ何度、欺かれて、罪なる古き人に引きずり戻されそうになることがあったとしても、私たちはその古き人を否み、それが十字架につけられて死んだことを認め、生まれながらの自分自身に立脚せずに、ただキリストご自身だけに立脚して進んでいく。

何度、欺かれて訴える者の訴えに耳を貸しそうになったとしても、私たちは「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」(ヘブル12:24)主イエスの血潮を何度でも自分に適用し、キリストが十字架において私たちの全ての罪の債務証書を破り捨てられたことを認め、自分で自分に対して責任を負おうとする全ての誤った考えを拒んで、主と共に凱旋の行進の中を進んでいくのである。

聖書にはこうある、
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:14)

「主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。」(詩篇34:22)

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)


これに対して、世では自分の行動に対して自分で責任を負おうとすることが、道徳的で立派なことであると考えられている。キリスト教徒でさえそのような虚偽に欺かれ、「負い切れない重荷」(ルカ11:46)を互いに押しつけ合うという過ちを犯しがちだ。それにひきかえ、神の事実は、私たちが自分に対して自分で責任を負うことは決してできないと告げている。ダビデは言った、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」(詩篇51:5) 

人の罪の債務証書は、まさにその人が生まれる以前から始まっている。そして「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23) 誰がこの決定的な宿命から逃れられよう? 誰がそのような債務証書を自分の力で無効にできようか。そのようなことをなしえるのは、ただキリストの十字架だけである。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

肉にまいて滅びを刈り取るとは、生まれながらの自分を自分で義としようとさんざん自分の力で努力し、自分で自分の行動の責任を取ろうとして、苦しみもがく人生に他ならない。外面的には、それは自分の行動に対して道徳的責任を負おうとする行動なので、立派に見えるかも知れない。ところが、やればやるほどますます事態は紛糾していく。努力すればするほど失敗が重なり、人は義とされるどころか、ますます罪が増し加わって、債務証書が山積みになり、罪の負債地獄に陥ってついに首が回らなくなる。人が自分で自分を義とすることはおよそ不可能である。

それにひきかえ、霊にまく者は霊から永遠のいのちを刈り取るとは、自分の義により頼まず、むしろ、自分自身には何も義となるものがないことを認め、ただキリストの義によりすがって安息することである。自分で自分を義としようとする全てのもがき苦しみをやめて、キリストが身代わりに死んで下さったことにより、あなたの全ての罪の債務証書は十字架において無効にされ、キリストがあなたを自由にして下さったことを信じ、キリストが達成された御業だけによりすがって、彼のよみがえりのいのちのうちに安息のうちに生きることである。

これは、ひとつまかりまちがえば大変に無責任な生き方のようにも思われるだろうが、よく考えてみれば決してそうでないことが分かる。なぜなら、あなたはキリストと共に十字架で死んで、彼と共に裁かれたからだ。あなたに対する処刑は実行された。あなたの罪深い古き人はゴルゴタで裁きを受け、あなたの古き人、アダムにある肉は、今も主と共に十字架につけられている。そこでは、サタンの家財とされていたあなた自身という人が死んだのだ。あなたが絶えずこの古き人の死を認め、主と一体となった十字架から一歩も動かないならば、サタンのいかなる訴えも、あなたに対して効力を持たない。キリストの十字架は旧創造に対する神の完全な正しい処罰であり、神に裁かれて主と共に死んだ者にそれ以上の裁きはないからだ、「彼を信じる者は、さばかれない。」ヨハネ3:18) 「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」

さらに、主と共に死んだだけでなく、主と共によみがえった。御子の復活のいのちが、あなたを全ての病、不幸、貧しさ、苦しみ、死から解放した。このことを信じるだろうか? 「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示21:4) これはむろん、新エルサレムで初めて完全に成就する事柄である。しかし、私たちはこの地上においても、信仰によってその前味を経験することができるだろう。どの程度、信仰によってそれをこの地上で受け取るだろうか? 

「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言った病人に対して、イエスはいわれた、「そうしてあげよう、きよくなれ」(ルカ5:12-13) これはただ病の癒しのことだけを言っているのではなく、いのちなるキリストが、その復活のいのちを通して、私たちをどれほど腐敗した旧創造から自由にされたいと望んでおられるかを象徴的に表わしていると私は思う。

御子のよみがえりのいのちは、ただ罪の贖いや、貧しさや、病や、死からあなたを解放したという消極的な側面だけでは終わらないのだ。それは私たちの前に、キリストにある新しい人、御子のよみがえりのいのちによってキリストを着せられた新創造という、完全に新しい果てしない地境を開いている。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)
「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:23-24)


キリストのこの新しいいのちを実際に知ることがなければ、私たちの信仰生活はきっと半分だけで終わってしまうだろう。どんなに罪の赦しや、癒しを求めたとしても、この新しいいのちを追求することがなければ、主と共に統治することや、キリストと共に圧倒的な勝利者となることの意味は分からないだろう。ところが、私たちはこの復活のいのちについてまだほんの少しも、知るべきことさえ知らないでいるのだ。私たちはこの贖われない肉体の幕屋の中にあって呻いている、天のすみかを仰ぎ見、朽ちない新しい人を上に着、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうことを切に望みながら、呻いている。どうか主がこの天の住みかについて、この朽ちないものについて、私たちの見えない目を開いて教えて下さることを願うのです。

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜るそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。」(Ⅱコリント5:4)

「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。」(Ⅰコリント15:53-56)


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召された自由人はキリストの奴隷なのである

「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。」(Ⅰコリント7:22)

キリストの奴隷! この言葉をかみ締めるように思う。この言葉は、キリストと苦しみを共にし、キリストのゆえに自己を十字架で否むことの意味をよく示している。奴隷とは本当に何の自由も持たないものだからだ。私たちは主にあって自由とされた。だが、その自由を悪の働く機会としないで、自分の身体を義の武器として主に仕えるために、喜んで自分の利益を捨て去り、キリストの奴隷となるだろうか?

パウロは「キリスト・イエスの囚人」(ピレモン9)という表現を何度も用いている。「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。」(Ⅱテモテ2:9) 「だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」(Ⅱテモテ1:8)

墓の中に何もせずに横たわっている間に、主の甘く優しい癒しの御手が心深くに及ぶ。目には見えなくとも、御霊の深いとりなしが神に聞き届けられ、御霊のいのちの流れが、細い川のように流れ出して、まだ見ぬ人々に伝わっていく。

本当に、ガイオン夫人が言ったとおり、十字架は甘いのだ。主のために何もしないで蔑みや迫害に甘んじることは、人にとって最初はとても苦痛に思われるが、そのうち、十字架にとどまることが深い喜びをもたらすことに気づくだろう。自己を否んで十字架にとどまるとき、私たちの死によって、他の人々にどんなに豊かにいのちが及ぶかを知るようになれば、私たちはその原則からもう離れたくないとさえ思うだろう。また、主と共に十字架にとどまることこそが、霊的な敵の訴えに対する最大の防御であることも分かるようになるのだ。

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」(イザヤ1:18)

「きょう」と言われている日に、御声に従って歩もう、肉の思いをはなれ、生まれながらの自己を否み、御霊の与えるいのちと平安にあずかって歩もう。

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

条件はかわいていること、イエスをキリストと信じること、ただそれだけである。仮にあなたのかわきがどんなに深くとも、主は必ずそれを満たして下さり、余りあるいのちを与えて下さることを信じるだろうか? 本当に心の底から主のいのちにあずかりたいと望むだろうか? そのために主と共に十字架で自分自身を否むという代償を払うことに同意するだろうか? あなたにはできなくとも、神にはできると信じるだろうか?

* * *

神がアダムを楽園の中に置かれた時、それはアダムが楽園を享受するためだけでなく、それを守るためでもありました。そこに何らかの悪の力が存在していたことは明らかであり、アダムはそれに警戒し、それから楽園を守らなければなりませんでした。神が六日間で造られたものはすべてはなはだ良いものでしたから、悪はその前から存在していたに違いありません。悪がどのように存在するに至ったのか、また悪がど こから来たのか、聖書は啓示していません。しかし、悪が存在すること、そして新しく創造された神の園と人の住まいの中央に悪が危害を加えて滅ぼそうと脅か していた事実で十分です。

神の狙いはこの悪しき者から力を奪い去ることであり、人という手段を通してそうすることを意図されました。この思想から自然に、人はすでに自分の前に存在していた悪を征服するという、まさにこの目的のために創造されたのではないか、ということが示唆されます。これがこのあまり重要そうには見えない地球を宇宙の歴史の中心としました。混沌が生じたのは間違いなくこの悪の力によってであり、この悪の力は前の王国の廃墟の中から起こされた世界でも前の王国を維持しようと依然として狙っていました。まさにその世界に人は創造されたのです。それは人がそれを征服して追い出すためでした。この 世界が神と天使たちの目から見てこんなにも重要なのはそのためです。この世界は天と地獄が衝突して命がけの戦いが行われる戦場なのです。

十字架の敵

聖書から教わるまで、私たちは悲惨な人類の歴史を決して正しく理解することはできません。神には万物を支配する目的があります。他方、自然な成長と発展、人を支配する体系的な組織と王国以外の何物にも見えない事柄のただ中で、それが人々を暗闇の中に拘束し、神の御子の王国に対する戦いのために人々を利用しているのです。私たちの思いもよらない規模で、諸々の時代の緩やかな流れの中、神が忍耐しておられる間、人間 の意志と行動の完全な自由の渦中で、止むことのない戦いが続いてきたのです。この問題には疑問の余地がありませんが、この戦いは長期にわたる破壊的なものです。この戦いの歴史において、

十字架は転換点です。

最初に読んだ御言葉は素晴らしい啓示を与えます。それは十字架の贖いの意義を示します。彼はご自身から主権者 たちや権力者たちをはぎ取り、彼らをさらしものとし、(十字架において)彼らに対して勝ち誇られました。十字架の暗闇の中、暗闇の力は猛攻を加えました。 彼らは自分たちの恐るべき力を総動員して彼に押し迫り、まさに地獄の暗闇と凄惨さをもって彼を取り囲みました。彼らは分厚い暗雲を形成したので、神の御顔の光さえも彼を見放しました。しかし、彼はご自身から彼らをはぎ取り、敵どもを打ちのめして、誘惑に勝利されました。彼は彼らをさらしものとし、霊の全世界に、御使いたちと悪鬼たちの前で、

彼の勝利を知らしめたのです。

墓さえも死者を解放しました。こうして彼は彼らに対して勝利されました。このもう一つの世界では十字架は勝利の象徴です。 彼は勝利のうちに彼らを捕虜として引いて行かれました。彼らの力は永遠に砕かれ、彼らが人々を閉じ込めていた獄屋の門は破壊されて開放され、彼らに捕らえ られていた者たちに解放が告げ知らされました。この世の君は今や追放されています。彼にはもはや解放を望む人々を束縛の下にとどめておく力はありません。彼が今支配できるのは、彼の奴隷であることに同意する人たちだけです今や、自分自身をキリストとその十字架に委ねる人はみな、完全に自由なのです。

十字架は勝利ですこれが最初に読んだ御言葉が示す偉大な教えです。十字架は勝利です。この勝利はキリストが「成就した」と叫ばれた時から始まりました。これが凱旋行進の始まりであり、キリストはこの凱旋行進の中、隠された栄光を伴って世界中を歩まれます。 彼はとりこにされていた者をとりこにし、彼が贖った者たちを自由へと導かれます。そして信者は今、「神に感謝します。彼は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」と常に喜ぶことができます。十字架の思想、十字架の下の歩み、十字架の宣言はすべて、神の勝利の音色を帯びているべきで す。「死は勝利に飲み込まれました。神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストを通して私たちに勝利を与えてくださいます」

これがなければ、十字架の力の意義に関する私たちの理解とそれに関する私たちの経験は欠け目のあるものになっ てしまうにちがいありません。私たちの個人生活においても、また他の人々のための私たちの労苦においても、私たちはこの欠け目を経験するでしょう。私たち の個人生活において、十字架は重荷となり、十字架を負うようにという召しは従うのが困難な律法となり、十字架につけられた生活を生きようとする試みは失敗 し、日ごとに死ぬという思想にうんざりしてしまうでしょう。肉を十字架につけるには絶えず目をさまして自己を否む必要があるため、これは成功する見込みの ない無駄な努力だと諦めてしまうでしょう。私たちが

十字架は勝利である

ことをある程度悟らない限り、そうなるしかないのです。私たちは肉を十字架につける必要はありません。それはキリストによってなされました。カルバリの十字架の行為は決済ずみの取引な のです。それから発する命と霊は絶えざる力を及ぼします。私たちに対する要求は信じることであり、快活であることです。彼の死未満の何物も私たちにとって 十分ではありません。彼の死未満の何物も私たちの役に立ちません。「神に感謝します。神は私たちを常にキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」

この世における私たちの奉仕において、暗闇の力に対する十字架の勝利を信じることはとても重要です。この真理に対する洞察力だけが、私たちの敵の超自然的な力と超自然的な狡猾さを私たちに教えることができます。これ以外の何ものも、私たちが「この暗闇の世の支配者に対して」格闘する時、私たちの目標がどうあるべきか教えることはできません――私たちの目標は人々をこの世から、この世の君の力から連れ出すことなのです。

十字架が勝ち取って永遠に私たちに与えられた勝利に対する洞察力、これ以外の何ものも私たちを私たちの真の立場に着かせることはできません。私たちは私たちの勝利の王の道具であり、僕なのです。私たちの唯一の願いは彼にあって勝利のうちに導かれることです。これ以外の何ものも、私たちの勇気と希望を 奮い起こすことはできません。

私たちはこの勇気と希望を、敵が大いなる力で私たちに押し迫り、私たちが自分の無力さを感じる時、必要とします。あらゆる奉仕と戦いにおいて、私たちは信仰によって、「神に感謝します。神は私たちを常にキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」と言うことを学ばなけれ ばなりません。

愚かさと弱さ、屈辱と恥を伴う十字架は、永遠にキリストが勝ち取られた勝利のしるしなのですキリストが勝利されたのは、この地上の戦いの武器によってではありません。この勝利により、教会もキリストのすべての信者も常に勝利を得ることができます。それは、十字架につけられた主の霊の中にますます深く入り込み、ますます完全に自分を主に委ねることによってです。アンドリュー・マーレー、「キリストの十字架」、「十字架の勝利」
 


神は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導き、 私たちを通して彼を知る知識の香りを至る所に放って下さいます

昨日は仕事と取っ組み合うことを求められた一日であった。帰途につく頃にはへとへとになった。しかし、主がついておられるがゆえに見事な決着を見た。このことを通しても、霊的な敵の攻撃が嵐のようにやって来る日に、ただ揺るぎない岩でありやぐらである方のみに信頼し、黙って十字架の死に服することを思う。

今日は十字架の死にとどまるために、静かに家で過ごすことに決めた。それは今、私が自己を否んで忠実に死の中にとどまっていることが必要だからである。そうしていれば、必ず、人の力によらず、主ご自身が全てをなし遂げて下さる。死がなくては決して復活はない。主ご自身が私を弁護して下さるその御業を妨げないためにも、生まれながらの自分の望みを否もうと思う。

外は快晴、午前中の曇り空が嘘のようだ。主のなさることはまことに時にかなって美しい。しかし、その美しさを見るためには、人が自分からは何もしないことが必要だ。主が働いて下さるその時まで、墓の中にじっと横たわっていることが…。ウォッチマン・ニーが書いている、神に奉仕するとは、これから先、神をお喜ばせするために自分から何かをしようなどとは決して思わないことだと。

「もし私が「肉にあって」神を喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」おくことになります。私は律法を破りました。律法は死刑の宣告を下しました。死刑は執行され、かくて今や私――肉につく「わたし」(ローマ七・一四)――は、死によって律法の要求から全く解放されたのです。

今なお神の律法は存在しています。事実古い律法より無限に厳格な「新しい戒め」があるのです。しかし神は感謝すべきかな、その要求は満たされているのです。なぜなら、キリストがそれらを満たして下さるからです。キリストが私の内にあって、神に喜ばれる働きをして下さるのです。

キリストは「わたし(キリスト)が律法を…成就するためにきたのである」(マタイ五・一七)と言われました。だからパウロは、復活を根拠としてこう言うことができました。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ二・一二、一三)

あなたのうちに働かれるのは神です。律法からの解放は、神の御旨を行なわなくてもよいということではありません。それは私たちが無法者になるようなことを、決して意味しているのではありません。その反対です。それが意味するところは、私たちが、神の御旨を自分の力で行うことから解放されているということです。

私たちは、自分の力で神の御旨を行うことはできないということを十分に納得した以上、古き人の立場から神を喜ばせようとすることを止めます。ついに自己に絶望するという点に到達した結果、私たちは努力することさえ止め、主が私たちの内に復活の命を表して下さるため、主に信頼を置くのです。
 ウォッチマン・ニー著、『キリスト者の標準』、斉藤一訳、いのちのことば社、pp.180-186より抜粋

先日もキリスト者の交わりにおいて、人々がこのことを語ってくれた。人が自己の思いから成し遂げることは、時にかなっておらず、美しくもないと。それは最初は善のように見えて、結局、悪となり、ついに無秩序となる。しかし、神がその御手を伸ばして物事を成就なさるとき、それは時にかなってとても美しい。

そこで、ジョージ・ミュラーや、ハドソン・テイラーがおこなったのと同じ原則を私たちも貫きとおすべきであると思う。彼らは(金銭的な)支援を受けるときに、人の心を直接、動かそうとは決してせずに、ただ主の御手が動くのを待った。金銭的な支援だけではない。精神的な支援であろうと、物質的な支援であろうと、そのすべては主の御手から来る。

人の心をどどんなに直接、動かそうとしても無駄であるが、ただ神の御心を動かすことさえできれば、すべては成就する。この世の方法論は全て無効であり、ただ神の御旨に沿った、御霊に従った方法だけが有効である。うちにおられるキリストが働いて下さるために必要なのは、忍耐して待ち続ける信仰である。

「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
(ヘブル10:37-39)


そしてもう一つの重要なこと。それは受けるためには与えよという原則だ。しかし、ここで与えるとは、直接、人に受け入れられ、感謝され、喜ばれるために何かを与えることではなく、むしろ、隠れたところで主のために全てを注ぎ出すということだ。あの砕かれた石膏の壺のように、主のために無駄に自分が砕かれ、無駄に自分が注ぎ出されることに同意することだ。

私たちは自分の全てを主のために失うことに喜んで同意するだろうか? それはヨルダン川の川底に立って契約の箱を支え続けた人々のような栄光のない仕事で、世間の誰もそれを見て有益だとは思わないし、素晴らしい行いだと賞賛もしない。むしろ、次のような叱責が来るだろう、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」(ヨハネ12:5)

主以外のもののために自分を注ぎ出すならば、いくらでも世の賞賛を受けることができる。人々は言う、なぜこんなもののためにあなたは人生を無駄にしたのか、もっといくらでも他に有益な生き方があっただろうにと。しかし、私たちは今やそれらのものに価値を置いておらず、ただ神のために、主の満足のために、自分を無駄に注ぎ出したいのである。自分のために当然と思われる権利や安寧をさえ拒絶して、キリストの苦しみにならいたいのである。主が私たちの栄誉や美を剥ぎ取っていかれるとき、喜びに溢れて、主の御跡に従っていきたいのである。

偽りはキリストの十字架において打ち破られ、剥ぎ取られた! 私たちは生まれながらの自分自身を否み、自分自身から来る全ての望みを否む。迫り来る地獄の軍勢も、この世の全ての権勢も支配も、サタンの家財となるべき私たちの肉も、私たちを支配することはできない、それらはキリストと共に十字架につけられて死んだからである! 

だからこそ、今は喜んで墓の中にとどまっていたいのだ。これからキリスト者に対してどのような迫害が待ち受けているか、御霊が来るべきことを知らせて下さる。だが、恐れはしない。それはキリストが十字架においてこれらの地獄の軍勢のすべてに対して勝利を取られたことを信じているからだ。私たちのアダム来の肉に対してさえ勝利を取られたのだ。私たちを責めて不利に陥れていた債務証書は、十字架において破り捨てられた。神がその御業を成し遂げられたのに、神が無効にされたものをどうして再び訴えることができるのか。

しかし、私たちは喜んで墓の中にとどまろう。それはアベルの血よりも力強く語るキリストの血潮が今も流れて私たちを弁護し、大祭司が私たちのためにとりなして下さることを知っているからだ。主が必ず枯れた骨に命を息を吹きかけ、団体の人として力強く立ち上がらせて下さることを信じているからだ。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く。

「彼は、私たちを責めて不利に陥れていた証書を、その規定と共に塗り消し、
これを取り除いて、彼の十字架に釘づけてしまわれました。
そして、諸々の支配者たちと権力者たちを彼ご自身からはぎ取り、
彼らをさらしものとし、彼らに対して勝ち誇られたのです。」
(コロサイ2:14, 15)

「しかし、神に感謝します。神は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導き
私たちを通して彼を知る知識の香りを至る所に放って下さいます。」
(2コリント2:14)



最後のアダムは命を与える霊となった

「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。

彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。彼はまたわたしに言われた。「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。

わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ。動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」、

そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。

そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげるとき、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちにおいて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させるとき、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。(エゼキエル37:1-14)

* * *

時が近づいている。何事かが本当に起きようとしている。激しい夕立の雨音のような音が近づいている。これは断じて建物の倒壊の音ではない。確かにこの世は確実に滅びへ向かっていくだろう。しかしそれとは別に、いやむしろ、それと平衡するように、未だかつてないことが起きようとしている。それは世にとってはただ滅びに至るだけの無意味な苦しみであるが、キリストにある者、エクレシアにとってはまさに産みの苦しみであって、「死ぬべきものがいのちにのまれてしまうため」の大いなる出来事の始まりである。

「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜ったのである。」(Ⅱコリント5:4-5)

この死ぬべきものがいのちに飲まれてしまう過程を世界について見るならば、主イエスはこう言われた、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」(マタイ24:12)

福音が全世界に宣べ伝えられるというこの御言葉は、ややもすると組織的な世界宣教という文脈のみでとらえられがちだが、もしかしたら、これはヨエル書の預言とも密接に関係があるかも知れない。なぜなら、「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」とあるからだ。そして、この預言の後半は明らかに終末の事柄をさしているのに、使徒行伝においてペンテコステはその始まりとしてとらえられている。

「神がこう仰せになる。
終りの時には、
わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
若者たちは幻を見、
老人たちは夢を見るであろう。
その時には、わたしの男女の僕たちにも
わたしの霊を注ごう。
そして彼らも預言をするであろう。

また、上では、天に奇跡を見せ、
下では、地にしるしを、
すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、
見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日はやみに
月は血に変るであろう。
そのとき、主の名を呼び求める者は、
みな救われるであろう』(使徒2:17-21)


これは霊的な領域で起こることと地的な領域で起こることの対比をよく表している。世が崩壊へ向かう時、霊的な領域では御国が圧倒的なスケールで拡大する。「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12) と言われている通り、ついにその御国の統治が、激しい飢え渇きを感じている心の貧しい人々に手当たり次第に及ぶようなときが来るのだ。

「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい。」…
「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもいないであろう。」(ルカ14:21-24)


エクレシアに連なる人々の多くは、主への激しい飢え渇きゆえに、あきらめるにあきらめきれず、元々はその資格がなかったのに、主イエスを追いに追って、ついに食卓から落ちるパン屑(本体はまことのパン―キリスト)にあずかったカナンの女のような者だ。女は弟子たちにすげなく追い払われ、主にも沈黙されたまま、疎んじられ、さげすまれて追い払われる寸前であった。が、それでも、「主よ、わたしをお助けください」と叫びながら、なりふり構わずに主を追った。ちょうどモアブの女であったルツが主の民に従ったように、イスラエルの家の失われた羊に属していなかったカナンの女が、「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と、信仰だけによって主の御手からもぎとるようにして救いを勝ち取った(マタイ15:21-28)

恐らく、終わりの日にはこのような人々が大勢現われるに違いない。そして、人々の方だけでなく、主の方でも、「この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。」と言われたたとえのように、ほとんど無理やりのように、心の貧しい着の身着のままのような人々を御国の住人とするために引っ張って来られるだろう。

「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」(ローマ9:25-26)


しかし、そのために条件が一つだけある。枯れた骨――逆説的に、神に息を吹きかけられる条件とは、まさに死んでいることなのだ。死とは、私たちが最も避けたいもの、最も通りたくないものだ。死には何の立派さもなく、何の荘厳さもなく、何の価値もない。枯れた骨は、みすぼらしく、忌むべきものであり、打ち捨てられ、何の関心も払われず、ただ墓におさめられて、散らばっているだけだ。死んでしまった骨、忌むべき残骸! それは全ての希望が潰えた状態を意味する。呪いを受け、むなしくなり、全ての価値を失ったことを意味する。「われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる」 

ダビデは骨も枯れ果てるような悲しみが存在することを歌った、「わたしのいのちは悲しみによって消えゆき、わたしの年は嘆きによって消えさり、わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れはてました。」(詩篇31:10)

ある意味でこのような深い絶望的な飢え渇きが必要なのだろう。今、主が本当に自由に働かれるために必要な条件は何か? あと少しの死である。これを他人に命じ、他人を裁くために用いるのではなく、ただ自分自身に当てはめてみよう。主以外のものが全く希望にならないところに至るまでの絶望、その地点に私たちはいるだろうか。しかし、それは信仰なき絶望ではなく、信仰にあっての絶望的な飢え渇き、イエスの復活の命にいたるために絶えずとどまらなければならない十字架における霊的死の地点なのである。

もしもこのような飢え渇きが地上に存在しさえするならば、神の圧倒的な臨在がただちに洪水のように私たちに臨むのではあるまいか。神は速やかに来られて――仮に私たちがどんなに恐るべき罪のゆえにそんな状態になったのだとしても――私たちの傷を包み、私たちの渇きを癒し、すべての災いから私たちをかばって下さり、御翼のかげにかくまい、平安の内に入れて下さるだろう。

そしてそのとき、全ての障害が、敵意が、隔ての中垣が打ち壊されて、神の圧倒的ないのちの水が、生ける水の川々が怒涛のように、洪水のように溢れ、押し寄せ、流れ始めるだろう。死んでいたものが生き返り、散らばっていたものが組み立てられ、一人の団体の人へ構成されて、立ち上がる。「そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。」

ただこれが起きるためには、今一度言うように、あと少しの死がなければならない。私たち一人ひとりがそこを通過し、そこにとどまる必要がある。今を頂点として満足せずに、真に十字架の死に服することが必要である。

ともあれ、必ず、その日はやって来るだろう。その日にはもう誰も、互いに主を知れ、と言って教えあうことはない。兄弟同士が裁きあうこともない。それはキリストにあって本当に一致の霊が与えられるからだ。「主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる。」(イザヤ28:11)と言われるように、ペンテコステの日に、なぜ人々は諸外国の言葉で語ったのか? 彼らはただ異言を話したというだけでなく、人々に理解できる外国の言葉で語ったのだ。

それはバベルの塔で分裂させられた言語が、霊による支配の中で一致したことを意味している。御霊にある言語の一致は、肉の力ではどんなことをしても一致させることのできない人々において、キリストの御霊による一致が成立したことの結果である。キリストにあって人々が真に一つとされたことの証拠でもある。しかし、キリストにある一致とは、決して多様性を失うことを意味するものではなく、ちょうど御霊がそれぞれに異なった賜物を分け与えるように、御霊は異なった言語を思うがままに各自に与えることができるし、異なる人々を一つに建て上げることができるのである。

しかしこれ以上、私の力の及ばない分析など必要ない。ただ御霊の流れが、キリストの圧倒的な愛がそれぞれの心を包み、全ての傷ついた道を癒すだろう。そして、それだけでない、このいのちの息は枯れた骨のようになり、見捨てられ、死んでいた者、墓の中に横たわっていた者をも起き上がらせ、彼らは鹿のように喜びに飛び跳ねるだろう。バラバラにされて打ち捨てられていた人たちは一つにまとめられ、それはあの黙示録に現われる長老たちと数え切れない群衆のように、はなはだ大いなる群衆となる。「すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。」

そこにはこう書いてある、「見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」(黙示7:9-10)

彼らを生きた者とした霊とは何か。「聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」(一コリント15:45)

最後のアダム、いのちを与える霊! 道であり、真理であり、いのちであり、よみがえりであるキリストご自身が、私たちの内に住まわれ、死んだ私たちを生かすのである。私たちの死を土台として、キリストの復活の命が私たちの死ぬべき身体をも生かす。そして御子を信じるならば、そのいのちの水の流れを押しとどめるものはもうない。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:38)

このことが起きるために、私たちは十字架において真に自分を否むだろうか? 先日も姉妹たちが私に語ってくれたことは、駱駝が針の穴を通るようにして、十字架の死をくぐらされ、主のいのちへと御許へと運ばれていくために、どれほど激しい家庭的確執や、孤独の中を通らされたかということであった。分裂、敵対が起こり、まさに家の者が敵となり、どこにも逃げ場がなくなるところまで追いつめられながら、その細い細い道を通って、主の御許へ運ばれて行った。ただその十字架の死の向こう側で初めて、失われたものを主は取り戻して下さり、全ての敵意を取り払って、平和を成し遂げ、和解を成し遂げて下さったのである。

* * *

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 


あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」(ガラテヤ3:26-29)

メッセージでも語られたことだが、新約聖書はローマ帝国の時代であり、人の生まれが一生を左右する時代であった。出自、民族、身分というものからは、人は一生かけても、抜け出すことが難しかった。さらに、性別によっても扱いが異なり、宗教的には、ユダヤ人と異邦人、割礼のあるなしが決定的な違いであるようにみなされていた。

人は一生かけても、自分の生まれを変えることはできない。与えられた身分から抜け出すことはできない。そんな中で、キリストの十字架が各自にもたらした自由は、これらの地上的な隔てによって生まれる敵意を全て十字架において廃棄するものであり、まさに耳を疑うほどに革新的で斬新な響きを伴っていただろう。

もはやユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、あなたがたは皆、キリストにあって一つなのである!

それはどんなに革新的な奴隷解放宣言であったことだろう。もちろん、現実生活においては奴隷はあくまで奴隷として主人に仕えなければならなかった。しかし、キリストにあって彼はもはや奴隷ではなく、自由とされているのであるから(「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり…」(一コリント7:22)、もし自由になりうるならば、彼は自由になるべきであり、奴隷にとどまるにしても、かつてのように恐怖から嫌々主人に仕えるのではなく、自由にされた者として真の尊敬を持って主人に仕えるべきであると勧められた。

「くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。」(一テモテ6:1-2)

ヤコブの手紙が告げているのも同様のことである。「低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。(ヤコブ1:9-10)

キリストの十字架は兄弟姉妹の間にある外面的な隔ての壁を廃棄しただけでなく、それは何よりも、十字架が人を罪と死の奴隷の状態から解放し、霊的に神の子としての自由を与えたことから来る。「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル2:14-15)

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ローマ8:15)

こんなに大きな自由の特権をキリストは私たちにお与え下さった。だからこそ、各自は与えられた御霊にしたがってふさわしく歩みなさいと言われている。この世では敵意によって引き裂かれ、一致することもできないような者たちがキリスト・イエスにあって一つとされた。かつては神から遠く離れ、神に敵対して希望もない者だった者たちが、今は聖なる神の家族とされた。御国を受け継ぐ約束の子供たちとされた。だから、私たちは再び召される以前の状態に逆戻って、再び隔ての中垣を持ち出して争うべきではなく、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけ、互いに赦し合いなさいと言われている。キリストにあって兄弟姉妹の愛による一致が強められ、世に輝き出ることが、父なる神の願いだからである。

「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を 廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。…

そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、聖なる神のすまいとなるのである。」(エペソ2:11-22)


* * *

「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そんん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。」(コロサイ3:9-15)

* * *

今日は礼拝を通して深い慰めを受けた。未だかつてないような主の深い慰めと癒しが心の深い内側に及び、今でも私の中で何事かが進行中である。御霊による祈りは、いつも喜ばしいものとは限らず、時に言葉にできない切なるうめきとなる。だが、そのうめきの中にも、主から受ける深い喜びと慰めがあるのだ。

「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」(ローマ8:26-27)

かつてキリスト教界にいた頃、悔い改めのために涙を流し、肉の力でより一層努力を重ねるために随分涙を流して祈ったものであった。だが、そのような祈りは無意味であったように今は感じている。そこには主に働いていただく余地がなかったからだ。肉の努力でどんなに涙を流して祈っても意味がないのである。ところが、今回、祈りの中に流れる涙やうめきには、主からの深い癒しと慰めの御手が臨んでいた。

まるで今まで麻酔なしに行なわれていた手術に、ちょうど良い具合に麻酔が効いてきて、手術がもはや苦痛でなくなり、何とも言えない心地よいものに変わって来たような感じだ。

主の取り扱いがあまりにも甘く優しいため、誰とも話さず、ただ無言で帰途に着きたいとさえ感じられた。だが、続く交わりでも、深い慰めを受けた。姉妹たちがそれぞれ十字架の死を経るまでにどんなに痛みをこうむり、どんなに細い道を通らされたかを語ってくれた。そして十字架にとどまることに時として伴う困難についても…。しかし今、かつて味わった痛みがどんなに苦しいものであったにせよ、主の取り扱いを恵み憐れみであると感じて感謝しているとも語ってくれた。姉妹たちの言葉を聞きながら、ああ、ここでも、主は本当に共にいて下さるのだと感じ、涙をこらえずにはいられなかった。

聖徒らに何かを訴えることがこれほどまでに重要な意味を持っているとは正直な話、私は思っていなかった。神がどれほどの憐れみを持って、一人ひとりの願いに答えて下さっているか、兄弟姉妹の祈りに主がどんなに喜んで耳を傾けて下さっているか、主と共に聖徒らから受ける助けや励ましがどれほど私を力強く支えることができるものであるか、そして、こんなにも無に等しいような者の願いをさえ、主がどれほど懇ろにお聞き届け下さっているかに、ただただ驚かされるばかりだ。神は本当に私たち一人ひとりの心の願いを全てご存じであり、私の心を知っておられる。私たちの心の最も奥底に秘められた願いや、言葉に言い表せないうめき苦しみも全てご存知であり、決して蔑むことなく、喜んで寄り添って下さる。世に打ち勝ったこの方が私たちについておられる。この方の御名にいつでもより頼むことができる。だからこそ、私たちはどんなことがあっても落胆せずにいられる。

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現われるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現われるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。…

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(ニコリント4:7-18)

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)