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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

最後のアダムは命を与える霊となった

「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。

彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。彼はまたわたしに言われた。「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。

わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ。動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」、

そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。

そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげるとき、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちにおいて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させるとき、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。(エゼキエル37:1-14)

* * *

時が近づいている。何事かが本当に起きようとしている。激しい夕立の雨音のような音が近づいている。これは断じて建物の倒壊の音ではない。確かにこの世は確実に滅びへ向かっていくだろう。しかしそれとは別に、いやむしろ、それと平衡するように、未だかつてないことが起きようとしている。それは世にとってはただ滅びに至るだけの無意味な苦しみであるが、キリストにある者、エクレシアにとってはまさに産みの苦しみであって、「死ぬべきものがいのちにのまれてしまうため」の大いなる出来事の始まりである。

「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜ったのである。」(Ⅱコリント5:4-5)

この死ぬべきものがいのちに飲まれてしまう過程を世界について見るならば、主イエスはこう言われた、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」(マタイ24:12)

福音が全世界に宣べ伝えられるというこの御言葉は、ややもすると組織的な世界宣教という文脈のみでとらえられがちだが、もしかしたら、これはヨエル書の預言とも密接に関係があるかも知れない。なぜなら、「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」とあるからだ。そして、この預言の後半は明らかに終末の事柄をさしているのに、使徒行伝においてペンテコステはその始まりとしてとらえられている。

「神がこう仰せになる。
終りの時には、
わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
若者たちは幻を見、
老人たちは夢を見るであろう。
その時には、わたしの男女の僕たちにも
わたしの霊を注ごう。
そして彼らも預言をするであろう。

また、上では、天に奇跡を見せ、
下では、地にしるしを、
すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、
見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日はやみに
月は血に変るであろう。
そのとき、主の名を呼び求める者は、
みな救われるであろう』(使徒2:17-21)


これは霊的な領域で起こることと地的な領域で起こることの対比をよく表している。世が崩壊へ向かう時、霊的な領域では御国が圧倒的なスケールで拡大する。「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12) と言われている通り、ついにその御国の統治が、激しい飢え渇きを感じている心の貧しい人々に手当たり次第に及ぶようなときが来るのだ。

「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい。」…
「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもいないであろう。」(ルカ14:21-24)


エクレシアに連なる人々の多くは、主への激しい飢え渇きゆえに、あきらめるにあきらめきれず、元々はその資格がなかったのに、主イエスを追いに追って、ついに食卓から落ちるパン屑(本体はまことのパン―キリスト)にあずかったカナンの女のような者だ。女は弟子たちにすげなく追い払われ、主にも沈黙されたまま、疎んじられ、さげすまれて追い払われる寸前であった。が、それでも、「主よ、わたしをお助けください」と叫びながら、なりふり構わずに主を追った。ちょうどモアブの女であったルツが主の民に従ったように、イスラエルの家の失われた羊に属していなかったカナンの女が、「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と、信仰だけによって主の御手からもぎとるようにして救いを勝ち取った(マタイ15:21-28)

恐らく、終わりの日にはこのような人々が大勢現われるに違いない。そして、人々の方だけでなく、主の方でも、「この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。」と言われたたとえのように、ほとんど無理やりのように、心の貧しい着の身着のままのような人々を御国の住人とするために引っ張って来られるだろう。

「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」(ローマ9:25-26)


しかし、そのために条件が一つだけある。枯れた骨――逆説的に、神に息を吹きかけられる条件とは、まさに死んでいることなのだ。死とは、私たちが最も避けたいもの、最も通りたくないものだ。死には何の立派さもなく、何の荘厳さもなく、何の価値もない。枯れた骨は、みすぼらしく、忌むべきものであり、打ち捨てられ、何の関心も払われず、ただ墓におさめられて、散らばっているだけだ。死んでしまった骨、忌むべき残骸! それは全ての希望が潰えた状態を意味する。呪いを受け、むなしくなり、全ての価値を失ったことを意味する。「われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる」 

ダビデは骨も枯れ果てるような悲しみが存在することを歌った、「わたしのいのちは悲しみによって消えゆき、わたしの年は嘆きによって消えさり、わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れはてました。」(詩篇31:10)

ある意味でこのような深い絶望的な飢え渇きが必要なのだろう。今、主が本当に自由に働かれるために必要な条件は何か? あと少しの死である。これを他人に命じ、他人を裁くために用いるのではなく、ただ自分自身に当てはめてみよう。主以外のものが全く希望にならないところに至るまでの絶望、その地点に私たちはいるだろうか。しかし、それは信仰なき絶望ではなく、信仰にあっての絶望的な飢え渇き、イエスの復活の命にいたるために絶えずとどまらなければならない十字架における霊的死の地点なのである。

もしもこのような飢え渇きが地上に存在しさえするならば、神の圧倒的な臨在がただちに洪水のように私たちに臨むのではあるまいか。神は速やかに来られて――仮に私たちがどんなに恐るべき罪のゆえにそんな状態になったのだとしても――私たちの傷を包み、私たちの渇きを癒し、すべての災いから私たちをかばって下さり、御翼のかげにかくまい、平安の内に入れて下さるだろう。

そしてそのとき、全ての障害が、敵意が、隔ての中垣が打ち壊されて、神の圧倒的ないのちの水が、生ける水の川々が怒涛のように、洪水のように溢れ、押し寄せ、流れ始めるだろう。死んでいたものが生き返り、散らばっていたものが組み立てられ、一人の団体の人へ構成されて、立ち上がる。「そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。」

ただこれが起きるためには、今一度言うように、あと少しの死がなければならない。私たち一人ひとりがそこを通過し、そこにとどまる必要がある。今を頂点として満足せずに、真に十字架の死に服することが必要である。

ともあれ、必ず、その日はやって来るだろう。その日にはもう誰も、互いに主を知れ、と言って教えあうことはない。兄弟同士が裁きあうこともない。それはキリストにあって本当に一致の霊が与えられるからだ。「主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる。」(イザヤ28:11)と言われるように、ペンテコステの日に、なぜ人々は諸外国の言葉で語ったのか? 彼らはただ異言を話したというだけでなく、人々に理解できる外国の言葉で語ったのだ。

それはバベルの塔で分裂させられた言語が、霊による支配の中で一致したことを意味している。御霊にある言語の一致は、肉の力ではどんなことをしても一致させることのできない人々において、キリストの御霊による一致が成立したことの結果である。キリストにあって人々が真に一つとされたことの証拠でもある。しかし、キリストにある一致とは、決して多様性を失うことを意味するものではなく、ちょうど御霊がそれぞれに異なった賜物を分け与えるように、御霊は異なった言語を思うがままに各自に与えることができるし、異なる人々を一つに建て上げることができるのである。

しかしこれ以上、私の力の及ばない分析など必要ない。ただ御霊の流れが、キリストの圧倒的な愛がそれぞれの心を包み、全ての傷ついた道を癒すだろう。そして、それだけでない、このいのちの息は枯れた骨のようになり、見捨てられ、死んでいた者、墓の中に横たわっていた者をも起き上がらせ、彼らは鹿のように喜びに飛び跳ねるだろう。バラバラにされて打ち捨てられていた人たちは一つにまとめられ、それはあの黙示録に現われる長老たちと数え切れない群衆のように、はなはだ大いなる群衆となる。「すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。」

そこにはこう書いてある、「見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」(黙示7:9-10)

彼らを生きた者とした霊とは何か。「聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」(一コリント15:45)

最後のアダム、いのちを与える霊! 道であり、真理であり、いのちであり、よみがえりであるキリストご自身が、私たちの内に住まわれ、死んだ私たちを生かすのである。私たちの死を土台として、キリストの復活の命が私たちの死ぬべき身体をも生かす。そして御子を信じるならば、そのいのちの水の流れを押しとどめるものはもうない。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:38)

このことが起きるために、私たちは十字架において真に自分を否むだろうか? 先日も姉妹たちが私に語ってくれたことは、駱駝が針の穴を通るようにして、十字架の死をくぐらされ、主のいのちへと御許へと運ばれていくために、どれほど激しい家庭的確執や、孤独の中を通らされたかということであった。分裂、敵対が起こり、まさに家の者が敵となり、どこにも逃げ場がなくなるところまで追いつめられながら、その細い細い道を通って、主の御許へ運ばれて行った。ただその十字架の死の向こう側で初めて、失われたものを主は取り戻して下さり、全ての敵意を取り払って、平和を成し遂げ、和解を成し遂げて下さったのである。

* * *

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 

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あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」(ガラテヤ3:26-29)

メッセージでも語られたことだが、新約聖書はローマ帝国の時代であり、人の生まれが一生を左右する時代であった。出自、民族、身分というものからは、人は一生かけても、抜け出すことが難しかった。さらに、性別によっても扱いが異なり、宗教的には、ユダヤ人と異邦人、割礼のあるなしが決定的な違いであるようにみなされていた。

人は一生かけても、自分の生まれを変えることはできない。与えられた身分から抜け出すことはできない。そんな中で、キリストの十字架が各自にもたらした自由は、これらの地上的な隔てによって生まれる敵意を全て十字架において廃棄するものであり、まさに耳を疑うほどに革新的で斬新な響きを伴っていただろう。

もはやユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、あなたがたは皆、キリストにあって一つなのである!

それはどんなに革新的な奴隷解放宣言であったことだろう。もちろん、現実生活においては奴隷はあくまで奴隷として主人に仕えなければならなかった。しかし、キリストにあって彼はもはや奴隷ではなく、自由とされているのであるから(「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり…」(一コリント7:22)、もし自由になりうるならば、彼は自由になるべきであり、奴隷にとどまるにしても、かつてのように恐怖から嫌々主人に仕えるのではなく、自由にされた者として真の尊敬を持って主人に仕えるべきであると勧められた。

「くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。」(一テモテ6:1-2)

ヤコブの手紙が告げているのも同様のことである。「低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。(ヤコブ1:9-10)

キリストの十字架は兄弟姉妹の間にある外面的な隔ての壁を廃棄しただけでなく、それは何よりも、十字架が人を罪と死の奴隷の状態から解放し、霊的に神の子としての自由を与えたことから来る。「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル2:14-15)

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ローマ8:15)

こんなに大きな自由の特権をキリストは私たちにお与え下さった。だからこそ、各自は与えられた御霊にしたがってふさわしく歩みなさいと言われている。この世では敵意によって引き裂かれ、一致することもできないような者たちがキリスト・イエスにあって一つとされた。かつては神から遠く離れ、神に敵対して希望もない者だった者たちが、今は聖なる神の家族とされた。御国を受け継ぐ約束の子供たちとされた。だから、私たちは再び召される以前の状態に逆戻って、再び隔ての中垣を持ち出して争うべきではなく、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけ、互いに赦し合いなさいと言われている。キリストにあって兄弟姉妹の愛による一致が強められ、世に輝き出ることが、父なる神の願いだからである。

「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を 廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。…

そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、聖なる神のすまいとなるのである。」(エペソ2:11-22)


* * *

「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そんん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。」(コロサイ3:9-15)

* * *

今日は礼拝を通して深い慰めを受けた。未だかつてないような主の深い慰めと癒しが心の深い内側に及び、今でも私の中で何事かが進行中である。御霊による祈りは、いつも喜ばしいものとは限らず、時に言葉にできない切なるうめきとなる。だが、そのうめきの中にも、主から受ける深い喜びと慰めがあるのだ。

「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」(ローマ8:26-27)

かつてキリスト教界にいた頃、悔い改めのために涙を流し、肉の力でより一層努力を重ねるために随分涙を流して祈ったものであった。だが、そのような祈りは無意味であったように今は感じている。そこには主に働いていただく余地がなかったからだ。肉の努力でどんなに涙を流して祈っても意味がないのである。ところが、今回、祈りの中に流れる涙やうめきには、主からの深い癒しと慰めの御手が臨んでいた。

まるで今まで麻酔なしに行なわれていた手術に、ちょうど良い具合に麻酔が効いてきて、手術がもはや苦痛でなくなり、何とも言えない心地よいものに変わって来たような感じだ。

主の取り扱いがあまりにも甘く優しいため、誰とも話さず、ただ無言で帰途に着きたいとさえ感じられた。だが、続く交わりでも、深い慰めを受けた。姉妹たちがそれぞれ十字架の死を経るまでにどんなに痛みをこうむり、どんなに細い道を通らされたかを語ってくれた。そして十字架にとどまることに時として伴う困難についても…。しかし今、かつて味わった痛みがどんなに苦しいものであったにせよ、主の取り扱いを恵み憐れみであると感じて感謝しているとも語ってくれた。姉妹たちの言葉を聞きながら、ああ、ここでも、主は本当に共にいて下さるのだと感じ、涙をこらえずにはいられなかった。

聖徒らに何かを訴えることがこれほどまでに重要な意味を持っているとは正直な話、私は思っていなかった。神がどれほどの憐れみを持って、一人ひとりの願いに答えて下さっているか、兄弟姉妹の祈りに主がどんなに喜んで耳を傾けて下さっているか、主と共に聖徒らから受ける助けや励ましがどれほど私を力強く支えることができるものであるか、そして、こんなにも無に等しいような者の願いをさえ、主がどれほど懇ろにお聞き届け下さっているかに、ただただ驚かされるばかりだ。神は本当に私たち一人ひとりの心の願いを全てご存じであり、私の心を知っておられる。私たちの心の最も奥底に秘められた願いや、言葉に言い表せないうめき苦しみも全てご存知であり、決して蔑むことなく、喜んで寄り添って下さる。世に打ち勝ったこの方が私たちについておられる。この方の御名にいつでもより頼むことができる。だからこそ、私たちはどんなことがあっても落胆せずにいられる。

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現われるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現われるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。…

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(ニコリント4:7-18)

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)



生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
悪を行なう者が私の肉を食らおうと、
私に襲いかかったとき、
私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、
私の心は恐れない。
たとい、戦いが私に向かって起こっても、
それにも、私は動じない。

私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。

それは、主が、
悩みの日に私を隠れ場に隠し、
その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。
私をあわれみ、私に答えてください。
あなたに代わって、私の心は申します。
「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。
主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

どうか、御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを、
怒って、押しのけないでください。
あなたは私の助けです。
私を見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神。
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、
主が私を取り上げてくださる。

主よ。あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから、
私を平らな小道に導いてください。
私を、私の仇の意のままに、させないでください。
偽りの証人どもが私に立ち向かい、
暴言を吐いているのです。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
信じられなかったなら。――
待ち望め。主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。主を。(詩篇第27編)

* * *
 
ジョージ・ミュラーがどこかに書いていたと思う。私たちはどんな時にでも、神に祈るべきであると。小包が送られてきて、その結び目が固くてほどけなくて困っているような時でも、神に祈るべきであると。

このたとえは思い出すだに微笑ましい。私たち一人ひとりの寄る辺なさと、神の偉大な守りのコントラストをとてもよく物語っているように思うからだ。

昨年から、雨は私にとって主の守りを知らされる大きなきっかけとなっている。今日は竜巻までが予想され、昼ごろには稲妻が光り、横殴りの激しい雨が降った。が、仕事が終わり外に出る頃には、雨はぴたりと止んでいた。

一昨日は夕方、散歩から家に帰って後に、にわか雨が降った。その後、買い物に出るまでのほんのわずかな間に、雨はぴたりと止んでいた。こんなことが、昨年には数え切れないほど起こった。昔、私は雨や雪がとても好きであったが、通勤に雨はあまり喜ばしいものではない。激しい雨が降っているときに、どうか外に出るまでの間に雨を止めてくださいと祈ったことが数多くある。その度ごとに、どんなに主がねんごろに守って下さるかを思わされてきた。本当に主はどんなに小さな者に対しても、はかりしれない配慮を持ったお方である。

だから、偉大な事柄の中だけに主を見ることはできないのだ。誰も注目したがらないような、無意味と思われるような生活の小さな事柄に渡るまで、主の御手がどんなに細かく及んでいるかをいつもいつも思わされる。時間に追われているような時に、主の守りの中に隠れないことはできない。髪の毛の一本一本まで数えられ、最後の一本一本まで守られていること、これがどんなにきめ細かい大きな深い愛であるか、思わずにいられない。

だから、どんなことが起こっても、心の中に恐れはないのだ。ただ神の圧倒的な平安が心を包むだけである。全てのことが主の御手の中にある。そして、神が覚えて下さっていること以上に心強いことが他にあるだろうか。神が味方であるならば、誰が私たちに敵することができるだろうか。

ずっと以前に、本当に苦しい最中にあった時に、殉教を思い、主に自分自身をお捧げすると約束した。だが、その約束は人の力で達成できるものでなく、主も覚えて下さっているのかと思う長いときが続いた。

それなのに、人の能力によらず、権勢にもよらず、ただ神の側から、御霊によって、主御自身がその告白を忘れないでいて下さることが分かって、今、どんなに嬉しいか分からない。私の全てをお求めになる神の召しが変わらないものであることを知って、どんなに大きな喜びに包まれているか知れない。人は笑うかも知れないが、神以外の全ての希望が閉ざされるとき、どんなに主が人の心を深くお求めになるかを知って、私の心は深く感動させられずにいられないのだ。

どんなにこの地点に立ちたかっただろうか。捧げるというからには、何か捨てるものがなければならないと思い、神の御前で捨てられるようなものを確保したいと願ったこともあった。だが、神に自分自身を捧げるとは、決してそんな意味ではないのだ。本当に何もない、ただ神の内に隠されたいのちとして生きる以外には何もない、その地点にとどまる時に、主は喜んで助けて下さり、私も喜んで主にすがることができ、キリストの内に隠されて共同生活が営まれるのだ。さらに多くのものを主はお与え下さり、また私も得たものを喜んで捧げることができる…。そこには、私だけのものは、もうほとんどなく、すべてが主のものであり、同時に私のものでもあり、すべてが主の所有である。私だけのものはもうない。その地点まで、主は私を連れて行かれる…。

* * *


イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」

それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。

あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:8-19)


今、喜びを持って、この御言葉の意味を理解する。どれほど大勢の人たちが主の御名を使って人を惑わすために現われるか知れず、多くの人たちが終末を強調し、人々の心に恐怖を呼び起こそうとするだろう。そして聖徒らは、主の御名のゆえに全ての者に憎まれる。国が国に敵対し、民族が民族に敵対するように、兄弟同士が敵対し、互いに裏切りあうだろう。

けれども、私たちは言われている、ただ忍耐することによって、自分のいのちを勝ち取れ!と。これは自分のいのちを十字架において徹底的に否むことによって、復活の命の中で、逆説的に自分のいのちを勝ち取れ!ということなのだ。見かけ上は色々と大変なことが起こるように見えるだろうし、心を騒がせない方がおかしく感じられるだろう。だが、私たちの髪の毛一筋にいたるまで神が守っておられることを本当に信じるだろうか? 全てのことの背後に主の主権があり、御座があり、神の守りがあることを信じるだろうか? 信じるがゆえに、御手に全てを委ねて忍耐することができるだろうか? 悪によって悪に立ち向かうことなく? イエスの名のゆえに自分の命を拒むことによって、自分の命を勝ち取れ!

今、不思議な平安が心を包み、以前には分からなかったような意味で、御言葉を思う…。


それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである

神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、
喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、
あなたの道を教えましょう。
そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。(詩篇51:10-13)


最近、殉教の精神を持つようにと、今一度、主の御前に促されています。今まで若さ(未熟さ)や、血気の思いから殉教について語ってはならないと思って控えていたのですが、改めてこのことを思わされています。

今、愛する兄弟姉妹がどんなに魂を注ぎ出して私のために祈ってくれているかが分かるのです。まだこの地上では密接なつながりが出来ていない兄弟姉妹さえも祈ってくれていることが分かります。その兄弟姉妹たちへ、尊い神の聖徒らへ、神の大切な家族へ、私から深い感謝の言葉を申し上げます。

以前にも、聖徒らの祈りが結集して天に届き、主に聞き届けられて奇跡を呼び起こし、一人の人が滅びの沼から引き上げられるきっかけを作ったことがありました。今でも、聖徒らの祈りは確かに主の耳に届いており、それが兄弟姉妹一人ひとりの大きな防衛の盾となっています。神は憐れみ深い方であり、私たちの心の悩みも、叫びも、願いも軽んじられません。どうか主が一人ひとりに豊かに祝福を返して下さいますように。

ですが、それと同時に、主の御名のゆえにそしられ、軽蔑され、迫害され、敵対視されることが、私たちにどれほど大きな喜びを与えるかについても語りたいのです。

クリスチャンへの迫害はこの先、時と共に激化するでしょう。あらゆるものを犠牲にしなければ、御言葉に従って進んで行けないようになっていくでしょう。クリスチャンを組織化しようとする大きな偽りの力が働いており、その中で、ただ主にのみ信頼して従う兄弟姉妹が困難な立場に追いやられる時がすでに来ています。

しかし、そんな中でも、これから先、共に困難を背負い、共に迫害を耐える兄弟姉妹が必ず現われるだろうと予感しています。この先、特別な困難の中で、聖徒らの愛が強まっていくだろうことを感じます。それは肉による愛や友情を越えて、主にある固い愛の結束を生むでしょう。中には、私よりも先に殉教の道を辿り、主の御跡にならって、聖徒らの模範となるような人たちも現われるものと思います。必ず、主がそのような兄弟姉妹を与えて下さることを思って喜びを感じています。

今、この時代に、霊的な敵が消し去りたいと考えているのは、神の贖いの事実です。キリストの贖いは人間を旧創造に属する全ての腐敗から自由にする鍵だからです。

これまでにも、アダムの命の腐敗、肉の腐敗と絶望性、肉(旧創造)が十字架において死に渡されることの必要性について語るとき、どんなに大きな反対が起きるかを私たちは見て来ました。ウォッチマン・ニーの証の言葉が今でもしょっちゅう退けられるのも、彼の証の言葉が、十字架における新創造と旧創造の切り分けや、旧創造の絶望性を峻厳に告げているからです。

ですから、旧創造に対する神の滅びの宣告について語るとき、それを受け入れたくない霊的な勢力からの大きな反対がやって来るのは不思議ではありません。組織的・人間的対立は、ほんのうわべの有様に過ぎないのです。

さらに最近、贖いという言葉がどれほど絶大なキーワードであるかにも気づかされています。なぜなら、主イエスが十字架で達成された贖いは、私たちがサタンの家財となるべき肉に対して死に渡されたことや、神に属さない朽ちゆく旧創造から全く救い出されたことの証拠だからです。贖いは旧創造への滅びの宣告だけでなく、新創造についても雄弁に語っています。

神はどれほど絶大な自由を私たちに与えて下さったことでしょう。キリストの贖いを完全なものとして受け取るならば、私たちは主にあって滅び行く旧創造から救い出され、彼の復活のいのちの中へ、新創造の中に入れられます。むろん、地上においては完全な贖いに達することはありませんが、私たちが地上においてどれくらい自由になれるかは、キリストの贖いをどれほど人生において実際のものとして受け取るかにかかっているのです。

アダムにあって人類は地すべりを起こし、罪を犯して滅びの沼に転落したため、神が計画された使命と、神の似姿としての尊厳を失ってしまいました。しかし、神は私たちをただアダムの罪と堕落という地すべりから救おうとなさっておられるのみならず、それをはるかに越えた地点まで導こうとしておられるのです。それこそが、神が人間を創造された目的なのです。モーセに導かれて荒野をさまよっていた民は、日々のパンの欠乏しか見ていなかったかも知れませんが、神の眼差しははるかにそれを越えて乳と蜜の流れる安息の地に注がれ、そこへ彼らを導こうとしておられたのです。

今日の状況もそれと似ています。私たちの目は、ともすれば己が罪や失敗に注がれ、落胆の中を行き来しているかも知れません。しかし、私たちの眼差しは本来、キリストの達成された完全な贖いへと真っ直ぐに注がれるべきです。十字架はただあれやこれやの罪の赦しのためだけである、と考えて満足して終わるべきではないのです。十字架の贖いはそれよりももっと深いものです。それは私たちの内面を変革してしまう力を持っています。キリストの中にこそ、新しい人があり、神が本当にかくあれかしと願われた人の姿があるのです。そして、それはキリストにあって私たちのものなのです。

「…私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがたキリストに聞き、キリストに教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:17-32)


キリストにあって人が新創造とされることこそ、神の深い御思いなのです。ですから、迫害が起きるとき、表面的な事実だけを見て落胆してはなりません。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)、「あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:28)と、主イエスが言われたのはなぜなのかを知るべきです。それは可能な限り、多くの悔い改めた人々たちが、神に立ち返り、イエスのいのちに共にあずかり、主イエスの贖いによって、御国の住人となるためです。神が彼らを得られるためです。神は御子を長子として、彼のために多くの兄弟姉妹を得たいと願っておられるのです。

ですから、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、主イエスが十字架で祈られたことを私たちは心に思うべきなのです。御子は知っておられたのです。今、目の前で起こっている対立をはるかに越えて、罪に沈んだ人類を贖うために、神が遠大なご計画を持っておられること、神に背き、罪に溺れ、霊的盲目に閉ざされ、御子を十字架につけるという恐るべき行為に加担している人々が、悔い改めて神に立ち返り、御子のいのちにあずかる者とされることが、父なる神の深い御心であること。それだけでなく、キリストにあって新しい人とされた人々が神の家族として、御旨に従い、互いに主の愛の内に一致して生きること、それが地獄の恐るべき軍勢の前でキリストの揺るぎない圧倒的な勝利の証になること。そのためにこそ、イエスはご自分を最後まで否み、十字架において自分自身を完全に死に渡されたのです。

ですから、私たちはイエスの心を、御子と同じ心を持つべきです。神に捧げられた貴い初穂として、贖われた人々の先頭に立たれた主にならうべきなのです。救われるにも値しない罪人、絶えず反抗する人々のために、終始ご自分を否んで御旨のために忍耐して人々を教えられた御子の心が、私たちにも与えられるように願うべきです。忘れもしませんが、私たち自身がかつてそのような救いようのない罪人であったのです。私たちが救われたのは、自分の行いによらず、ただ神の恵みによるのです。ですから、イエスの心を持つならば、私たちは迫害によって心を塞がれることがなくなるでしょう。これは悩まされることや、苦しみそのものがなくなると言うのではありません。しかし、どんな時にも、神の深い平安が心に与えられ、悩みの日には、かえって以前には困難や迫害を喜ぶ心が不足していたことや、敵対する者を愛し、迫害する人々のために祈る心が足りなかったことを思わずにいられないのです。

そうして、私たちの心には喜びが溢れます。そして、なぜダビデが次のように言ったのかが分かるのです、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」(詩篇23:5) これは神に背き、敵対している者たちに対してまで溢れ流れる神の愛と憐れみを私たちが知るゆえの言葉でもあります。この堕落に沈んでいる世に対してまでも注がれている神の深い愛が、私たちの心に驚嘆を呼び起こします。神の深い御思いが私たちの心をとらえてしまいます。私たちの心を神の愛から妨げるものはもはや何一つないのです。だから、私たちの杯は溢れるのです。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:69)

その時、私たちの目には、ただ神の尊いご計画――揺るぎなく、純粋で、真っ直ぐで、混じりけのない、聖なる、正しいご計画だけしか映りません。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

ハレルヤ! もし一人の罪人であったこの私が救われたのなら、なおさら、多くの人たちが救われることを神が願っておられないはずがあるでしょうか。それは実に多くの人たちのうちで、御子がいのちとなられ、御子がすべてのすべてとなられるためなのです。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:10-11)

神はキリストにあってすべてのものを一つにしようと決められたのです。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16) ですから、私たちが自分自身の狭さによって、神の深いご計画を妨げないようにしようではありませんか!

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:14-16)



あなたの重荷を主にゆだねよ。 主はあなたのことを心配してくださる。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。
 主は、あなたのことを心配してくださる。
 主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
 しかし、神よ。あなたは彼らを、滅びの穴に落とされましょう。
 血を流す者と欺く者どもは、
 おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
 けれども、私は、あなたに拠り頼みます。」(詩篇55:22-23)


朝、ひざまずいて主の御前に祈り、御前に率直に願いを申し上げた。疑問に思われる全ての事柄を率直に申し上げ、納得することのできなかった問題をまるごと主に委ねた。そして、それらの疑問にはっきりと主が答えを示して下さり、訣別しなければならないすべてのものと訣別させて下さり、正しい道へ導いて下さるようにと願った。ただ単一に、主の御前に単一に歩みたいと心より願った。

その時、ここ最近、味わうことのなかったような平安が心に宿った。内側から沸き起こって来る新しい力。これから先、ただ信仰だけによって、新しい道へ踏み出そうと決めた。人が私についてどう思うか、何を言うか、もはや気にならない。何かを言われることがあるにせよ、ただ大きな喜びが沸き起こって来るだけだ。人前で高く評価されることや、自分で自分を義とすることの恐ろしさを考えるなら、むしろ、低められ、悪し様に言われることにより、天で受ける報いがどのようなものであるかを思えば良い、すでに内側でその喜びを感じるのだ。

その時から、理解されないことに対する悲しみがなくなり、悪し様に言われることも痛みにならなくなった。信仰の失格者であるかのように言われたり、恵みから落ちたかのように罵られることさえ、大いなる喜びとなった。恐れが取り払われたのだ。人前での栄光を失うために、しばし孤独な道を辿らなければならないとしても良い。呪いは全てキリストが木の上で引き受けて下さったのだから。

これから先、人目を気にせず、ただ内なる油塗りの感覚に従い、黙って歩いて行こうと決めた。たとえ理解者を得ることができないとしても、黙って捨てるべきものを捨て、主が必ず、新しい道を用意して下さることを信じて、まだ見ぬふるさとへ向かって旅立とうと思った。主がすべての思い煩いを引き取って下さり、私を身軽にして下さったので、恐れはない。弁護して下さる方はただお一人。しかし、完全な方、まことの大祭司がとりなして下さるのだ。もうこれ以上、人から来る恐れに縛られる必要はない。訴える者の前に狼狽しなければならない理由はない。主はいつも言われる、これから先はあなたではなく、私がするのです、だから、私に委ねなさいと。

主が働いて下さるときの何と偉大で不思議な御業だろうか。今朝はジョージ・ミュラーの信仰について思いめぐらしていた。ミュラーの周りには実に沢山の信仰者たち(主が送って下さる支援者)がおり、その人々の信仰のレベルも決して一様ではなかった。そんな霊的な状態も定まらないような人々の気まぐれな支援を当てにすることは、まるで大きな冒険のようであっただろう。しかし、ミュラーはそれらの人々を決して自分で裁いたり、自分の力で動かそうと働きかけたりしなかった。彼は催促することも、要求することもせず、ただ人々の心に神ご自身が働きかけて、願いを起こして実現に至らせて下さる時を信じて待った。特に、お金の問題がかかっている時に、そのような原則を守り通すことはどんなに困難なことだろう。それはまさに主ご自身のはかりしれない愛といつくしみ、忠実さを試すことであった。

しかし、彼は信じたのだ、これらの全ての人々の背後に主の御手が働いていること、必要を満たして下さる方は神ご自身であり、神の助けは彼に対して十分であることを。彼はまさに神ご自身がすべてに超越して働かれることを信じたのだ。だからこそ、信仰の篤い人も、薄い人も、全ての人を神ご自身が用いることができると信じ、何よりも、それらの人々の背後に働く主の御手を信じた。そして、ただ主の御前に良心に問うてその支援を受けて良いかだけを判断したのである。

我々の霊的な歩みも、無菌室でというわけにはいかない。雑菌だらけの地上を歩くように、さまざまなものに出くわすだろう。しかし、その中にも主の御手が働いていることを信じるだろうか。否定的なものが山積みになったような中で、確かに主の恵みが十分であることを信じるだろうか。

今日は一日、朝の通勤の電車の接続から始まって、何もかも、すべてが主の采配の中にあった。先日、仕事がとても大変で…と、兄弟姉妹に嘆いたところ、主は勤務中にも必要な休息を与えて下さった。驚くべきことに、いつもならひっきりなしにやって来る仕事の間に、束の間の待ち時間が備えられていた。

どんなに神が憐れみに満ちた方であり、私の心の奥底の願いにさえ注意を払って下さる方であるか、それによっても分かるのだ。本当に神の思いは人の思いとは違うのだ。人は容易に裁き、罪定めし、軽蔑し、笑い、あきらめて、終わりだと言って立ち去っていくかも知れない。ところが、神は決して人間のような侮蔑を持って私たちの弱さをご覧にはならないし、人間の考える絶望を絶望とみなされることもない。本当に、神ははかりしれない理解の深さと、憐れみの深さと、誠実さを持ったお方であり、主イエスは十字架をさえ通過された、砕かれ、へりくだった心を持って私たちを世話して下さる方である。そして、私たちをあきらめないでいて下さる。

ただしなければならないことは、この方のみに頼ることである。たとえ暗やみの中を通されることがあったとしても、心の偶像のすべてと訣別することだ。

あるところでは、本当に真心から、私のためにも、真剣に心を注ぎ出して祈ってくれている人たちがいることが感じられる。たとえ直接、言葉で伝えることがなかったとしても、困難を分かちあい、共にそれを負って主の御前に出てくれる人たちが存在すること、その聖徒らの天的なネットワークがすでに機能していることがとても嬉しい。その助けが私にとって今どれほど必要であるかわからない。

それでも、今は神以外の被造物からどのように評価されるかをあまり心に留めまい。ただこの方の誠実さ、愛、真実を仰ぎ見て、信じ続けることにしか生きる術はないのだから。御言葉は真実であり、全て重荷を負った人、疲れた人を主は拒むことなく休ませて下さる。主は柔和でへりくだっておられるから、イエスのくびきを負って、彼に学べばよい。主は私たちを牧場に導かれ、霊の乳を飲ませ、懐に抱いて小羊を養うようにして、私たちを教えて下さるだろう。