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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

彼にあって二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ…

「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」(ルカ8:16-18)

賢い花嫁となるために、暗闇の日には忍耐が必要である。私たちは主から癒しや満たしがある時にはいつでも喜んで全速力で走っていける。しかし、主の応答が速やかにないように思われる時、どうするのか。深い飢え渇きを覚え、孤独の中をたった一人で通らされる暗い日に、どうするのか。愚かな花嫁も、賢い花嫁と同じように主を信じていたが、御霊の油を絶やしたことにより、主を待ち望むことができなくなった。そして時を逸し、ついに持っていると思っていたものまで失ってしまったのである。

私たちのあかりは御霊の光であり、私たちの足の灯火は主イエスご自身である。この光があるうちに、光の中を歩むかどうか。「きょう」と言われている日に、御声を拒まないかどうか。御霊の光によって、私たちの心の暗闇の全てを探り、照らし出していただくことを願うかどうか。私たちはいずれ神の御前で申し開きを迫られる時が来るのだ。その方の御前で隠し立てできるものは何一つとしてない。それなのに今、まだ安息に入る余地が残され、憐れみが注がれている日に、御霊の光で自分の心の暗闇をすべて照らしていただくことを拒むとすれば、一体、かの日に主の御前で何を申し開きするのか。

もし御霊の声に対して自分を開くならば、憐れみを受けるだろう。主の愛と憐れみがどんなに豊かであるか、神が私たちの弱さや欠点に対しても、どれほど大いなる理解を持っておられるか、まことの大祭司なるお方がどんなに深い憐れみを持って私たちのためにとりなしてくださり、私たちを取り扱って下さるかを知るだろう。

だから、十字架を拒んではいけない。主と共なるゴルゴタの死から決して動いてはいけない。私たちは本当に生まれながらの自分自身を憎むべきである。自分自身を憎むべきである。十字架を通して自分が粉砕され、退けられることを拒んではいけない。まだ光が当てられたことのない心の暗闇に、光が当てられることを拒んではいけない。

* * *
今日も予想をはるかに越えて、主は礼拝とその後の交わりに共にいて下さった。主の臨在により、兄弟姉妹の結びつきがますます自然なものとなり、強められていることも感じた。いつまでも兄弟姉妹と共にいたいと思わされるほど、強い一致が現されているのを感じた。恐らく、御霊の一致はこの先、さらに強まっていくだろうと思う。

交わりの中では、一人ひとりの兄弟姉妹がどんなに深い飢え渇きを持ちながら礼拝に集っているのかを知らされている。求める者はさらに与えられるが、求めない者は何も得ることがない。もしもただ一心に、主だけに求め、主だけに聞こうとする姿勢がなければ、この先、何一つとして維持することができないだろう。しかも、聞いたのに、従う心がないのでは、今持っている光さえ維持することが難しくなるだろう。

戦いはますます激しくなっている。しかし、キリストのみからだなる教会を通して、神の知恵がどれほど豊かに現され、どんなに豊かな助けを受けることができるかも、これまで何度となく知らされて来た。もしもエクレシアの外から何かを訴えようとするならば、それは主に対するつぶやきとなり、不平となって終わるかも知れない。しかし、エクレシアの中で訴えたことで、無駄に終わっ た事柄はなかった。たとえそれが私の弱さから来たことであったとしても、神はその願いを決して無碍に扱われなかった。小さな相談事にも、思いもかけない方向から豊かな助けが与えられ、折にかなった助言や励ましを豊かに受けた。なぜこれほどまでに主がこのような弱い者をも愛し、あきらめないでいて下さるのか不思議に思うほど、神ご自身がねんごろに面倒をみて下さったのである。

だから、この城壁の中にとどまることがどんなに重要なことであるか思い知らされている。どんなに自分ひとり、信仰を維持しようと努力しても、みからだから受ける助けを欠くならば、進んでいくことはできないだろう。

私たちそれぞれは神の家を建て上げるために、人手によらずに、御霊によって切り出された生ける石であって、キリストを頭として一つとされた身体である。そこで、御霊による一致が現されるごとに、ますます個人的な輪郭が消えていくように感じている。それは、ますますキリストだけがすべてのすべてとなられる時が近づいているからだ。自分が何者であるかなど全くどうでもよい。名前も、能力も、職業も、人生の道も、嗜好も、性格も、一切の相違が意味を持たなくなり、兄弟姉妹がただ本当に主にあって一つとされたこと、それによって、神が栄光をお受けになることだけが重要である。

「…あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの 律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:15)

「…彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」(エペソ2:18-22)

異国人であり宿り人に過ぎなかった者たちが、このように一つの御霊の中にあって神の家族とされ、共に父の御許に近づき、共に神に賛美を捧げることができるとは、何という特権なのだろうか。もう随分前から、一人ひとりの兄弟姉妹はエクレシア共有の人になりつつあるように思われてならない。個人的な隔てはますます取り払われて、御霊が風のように思うがままに吹くようになり、キリストが花嫁なる教会を愛されたように、私たちも、主の愛によって一つに結び合わされる。今、キリストにあるひとりの新しい人としての教会がはっきり姿を現そうとしているように思われてならない。

しかし、どうか主よ、愚かな私たちを憐れんで下さい。私たちの盲目な目を開き、あなたの御前で真に油を絶やさない者として下さい。あなたに従うことは、自分の力では及ばないのです。すべてはただあなたの達成された御業によらなければなりません。暗闇が世を覆っています。けれども、死に至るまで御父に従順であられた主イエスよ、どうか私たちの心の全ての暗闇をあなたの御霊の光で照らして下さい、あなたの霊で私たちの心をとらえて離さないで下さい。

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私は主によって大いに楽しみ、 私の魂も、私の神によって喜ぶ

神である主の霊が、わたしの上にある。
はわたしに油をそそぎ、
貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、
わたしを遣わされた。

捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
すべての悲しむ者を慰め、
シオンの悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を
着けさせるためである。
彼らは、義の樫の木、
栄光を現すの植木と呼ばれよう。

彼らは昔の廃墟を建て直し、
先の荒れ跡を復興し、
廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
他国人は、あなたがたの羊の群れを
飼うようになり、
外国人が、あなたがたの農夫となり、
ぶどう作りとなる。

しかし、あなたがたはの祭司ととなえられ、
われわれの神に仕える者と呼ばれる。
あなたがたは国々の力を食い尽くし、
その富を誇る。
あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。
人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。
それゆえ、その国で二倍のものを所有し、
とこしえの喜びが彼らのものとなる。

まことに、わたしは公義を愛する主だ。
わたしは不法な略奪を憎む。
わたしは誠実を尽くして彼らに報い、
とこしえの契約を彼らと結ぶ。
彼らの子孫は国々のうちで、
彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。
彼らを見る者はみな、
彼らが主に祝福された子孫であることを認める。

わたしはによって大いに楽しみ、
わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
主がわたしに、救いの衣を着せ、
正義の外套をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、
花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
地が芽を出し、
そのが蒔かれた種を芽生えさせるように、
神である主が義と賛美とを、
すべての国の前に芽生えさせるからだ。(イザヤ第61章)


* * *
主は、油そそがれた者クロスに、
こう仰せられた。
「わたしは彼の右手を握り、
彼の前に諸国を下らせ、
王たちの腰の帯を解き、
彼の前にとびらを開いて、
その門を閉じさせないようにする。

わたしはあなたの前に進んで、
険しい地を平らにし、
青銅のとびらを打ち砕き、
鉄のかんぬきをへし折る。
わたしは秘められている財宝と、
ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。

それは、
わたしがであり、あなたの名を呼ぶ者、
イスラエルの神であることを
あなたが知るためだ。
わたしのしもべヤコブ、
わたしが選んだイスラエルのために、
わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。

あなたはわたしを知らないが、
わたしはあなたに肩書きを与える。
わたしがである。ほかにはいない。
わたしのほかに神はいない。
あなたはわたしを知らないが、
わたしはあなたに力を帯びさせる。

それは、日の上る方からも、西からも、
わたしのほかには、だれもいないことを、
人々が知るためだ。
わたしがである。ほかにはいない。
わたしは光を造り出し、やみを創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは、これらをすべて造るもの。」

「天よ。上から、したたらせよ。
雲よ。正義を降らせよ。
地よ。開いて救いを実らせよ。
正義も共に芽生えさせよ。
わたしは、わたしがこれを創造した。」(イザヤ45:1-8)


* * *
 
… この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。(使徒16:25-26)


* * *
 
何かとてつもないことが起ころうとしている。私の心はそれを待ち望んでいる。聖徒らの集いが芳しい祈りの香となり、賛美の歌となって、天に立ち上る時を。それにより、神が栄光を受けられ、御国がこの地に引き下ろされる時を。獄屋のとびらは開かれ、鎖は解かれ、捕われ人は解放され、悲しむ者は慰められ、悲しみの代わりに喜びの油が注がれ、憂いの衣の代わりに賛美の外套が着せられるだろう。

私たちの心はいつも霊的戦いの最前線である。燃える柴の内側へ飛び込み、聖徒らの集いに集うために、どれほど大きな戦いが繰り広げられ、代償を支払わされて来ただろう。神は全てを焼き尽くす火である。愛は死のように強く、妬みは墓のように残酷である。一体、なぜこれほどまでに激しい戦いが繰り広げられねばならないのかと思うほど、戦いは激しかった。

しかし、その戦いも一つの終局にさしかかっている。私たちの目の前には「完了した」という地が見えている。約束の地だ。私たちはこれを征服するだろうか? 何によってこの地を征服するのか。エリコを攻略したときの声、キリストの勝利を大声で告げ知らせる賛美の歌声によってだ。子羊の血潮とあかしの言葉によって敵に打ち勝ち、主の勝利を宣言する賛美の歌声によって、敵に攻め取られた領土を回復するのだ。

今、ちょうどパウロとシラスが獄中で捧げた賛美のように、聖徒らの賛美が一つに結集して天に届き、地を震わせようとしている。主イエスの勝利を歌うかちどきの声により、地の基は揺れ動き、御国が地上に引き降ろされるだろう。その時、主の正義が激しい雨音をとどろかせるようにこの地に降り注ぎ、捕われ人は解放され、心傷ついた者は癒され、悲しむ者は慰めを受けるだろう。義に飢え渇いている者は飽き足り、柔和な者は地を相続し、地は救いを実らせ、正義と賛美を芽生えさせるだろう。

そのとき、御国の統治がこの地に到来する。十字架で死なれ、葬られ、よみがえり、天に上げられ、御座に着かれた主イエスご自身が私たちと共にいて慰めてくださる。私たちは主と共に統べ治める者とされ、喜びの油を注がれて、魂は御前に歌う。聖徒らは正義の外套、救いの衣を着せられ、花婿のように栄冠をかぶり、花嫁のように宝玉で飾られる。先には恥を受け、荒れ果てて廃墟となった町は、建て直されて、喜びに満ちる。先の恥に代えて、二倍の祝福を受けるからだ。そして、全地にただお一人、神である方の名が告げ知らされ、主の御名だけが高く掲げられる。主はまことに誉むべき方、賛美されるべき方、とこしえに栄光を受けられるにふさわしい方だからだ。

* * *

「遠い大昔の事を思い出せ。
わたしが神である。ほかにはいない。
わたしのような神はいない。
わたしは、終わりの事を初めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、
『わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
わたしは、東から猛禽を、
遠い地から、
わたしのはかりごとを行なう者を呼ぶ。
わたしが語ると、すぐにそれを行ない、
わたしが計ると、すぐそれをする。

わたしに聞け。
強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。
わたしは、わたしの勝利を近づける。
それは遠くはない。
わたしの救いは遅れることがない。
わたしはシオンに救いを与え、
イスラエルにわたしの光栄を与える。」(イザヤ47:9-13)


* * *

「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。
喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。
地の果てにまで響き渡らせよ。
「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」と言え。
主がかわいた地を通らせたときも、
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れさせ、
岩を裂いて水をほとばしり出させた。
「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。(イザヤ48:20-22)


* * *

「目を天に上げよ。また下の地を見よ。
天は煙のように散りうせ、
地も衣のように古びて、
その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。
しかし、わたしの救いはとこしえに続き、
わたしの義はくじけないからだ。」(イザヤ51:6)


* * *

「良い知らせを伝える者の足は
山々の上にあって、なんと美しいことよ。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神が王となる」と
シオンに言う者の足は。

聞け。あなたの見張り人たちが、
声を張り上げ、共に喜び歌っている。
彼らは、がシオンに帰られるのを、
まのあたりに見るからだ。
エルサレムの廃墟よ。
共に大声をあげて喜び歌え。
がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。
はすべての国々の目の前に、
聖なる御腕を現わした。
地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」(イザヤ52:7-10)



もし私たちがキリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」(ルカ24:5-7)

「…わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:6-8)

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)


何かしら説明不可能な事柄が進行している。圧倒的ないのちの流れが、脆く弱い土の器である私たちの殻を押し破って、外にほとばしり出ようとしている。もうこれ以上、自分の力で殻を割ろうと努力することは必要ないだろう。私たちはただ古き人を、アダムの肉を十字架で否み、それらが主と共に十字架につけられて死んだという事実を絶えず認めるだけである。

初めて復活のいのちとは何であるかを知らされたとき、そのいのちは、たとえ地球が何度、核爆弾で滅んだとしても、なお滅びないいのちであることを味わい知った。これは決して大袈裟な表現ではないと思う。何しろ、キリストの復活のいのちは、地獄の軍勢も、サタンも、死をも打ち破ったのだから。「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」(Ⅱテモテ 1: 10) 「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル2:14-15) このはかりしれない力を持つキリストの復活のいのちが、信仰を通じて、私たちのこの朽ちゆく脆い肉体の中に宿っているとは、何という説明不可能な不思議だろうか…。

御子をよみがえらせた神のいのちが宿っていればこそ、信仰者はいつまでも墓に横たわっている必要はないのだ。主と共に十字架につけられて死に、葬られ、墓を通過した者には、必ず主と共なるよみがえりが実際となる。そして主と共に御座に引き上げられることもだ。これは主観的経験として実際となるのである。殉教も、掲挙も、その後に起こる出来事であって、墓の中で起こることではない。

そこで、たとえ何度、欺かれて、罪なる古き人に引きずり戻されそうになることがあったとしても、私たちはその古き人を否み、それが十字架につけられて死んだことを認め、生まれながらの自分自身に立脚せずに、ただキリストご自身だけに立脚して進んでいく。

何度、欺かれて訴える者の訴えに耳を貸しそうになったとしても、私たちは「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」(ヘブル12:24)主イエスの血潮を何度でも自分に適用し、キリストが十字架において私たちの全ての罪の債務証書を破り捨てられたことを認め、自分で自分に対して責任を負おうとする全ての誤った考えを拒んで、主と共に凱旋の行進の中を進んでいくのである。

聖書にはこうある、
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:14)

「主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。」(詩篇34:22)

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)


これに対して、世では自分の行動に対して自分で責任を負おうとすることが、道徳的で立派なことであると考えられている。キリスト教徒でさえそのような虚偽に欺かれ、「負い切れない重荷」(ルカ11:46)を互いに押しつけ合うという過ちを犯しがちだ。それにひきかえ、神の事実は、私たちが自分に対して自分で責任を負うことは決してできないと告げている。ダビデは言った、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」(詩篇51:5) 

人の罪の債務証書は、まさにその人が生まれる以前から始まっている。そして「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23) 誰がこの決定的な宿命から逃れられよう? 誰がそのような債務証書を自分の力で無効にできようか。そのようなことをなしえるのは、ただキリストの十字架だけである。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

肉にまいて滅びを刈り取るとは、生まれながらの自分を自分で義としようとさんざん自分の力で努力し、自分で自分の行動の責任を取ろうとして、苦しみもがく人生に他ならない。外面的には、それは自分の行動に対して道徳的責任を負おうとする行動なので、立派に見えるかも知れない。ところが、やればやるほどますます事態は紛糾していく。努力すればするほど失敗が重なり、人は義とされるどころか、ますます罪が増し加わって、債務証書が山積みになり、罪の負債地獄に陥ってついに首が回らなくなる。人が自分で自分を義とすることはおよそ不可能である。

それにひきかえ、霊にまく者は霊から永遠のいのちを刈り取るとは、自分の義により頼まず、むしろ、自分自身には何も義となるものがないことを認め、ただキリストの義によりすがって安息することである。自分で自分を義としようとする全てのもがき苦しみをやめて、キリストが身代わりに死んで下さったことにより、あなたの全ての罪の債務証書は十字架において無効にされ、キリストがあなたを自由にして下さったことを信じ、キリストが達成された御業だけによりすがって、彼のよみがえりのいのちのうちに安息のうちに生きることである。

これは、ひとつまかりまちがえば大変に無責任な生き方のようにも思われるだろうが、よく考えてみれば決してそうでないことが分かる。なぜなら、あなたはキリストと共に十字架で死んで、彼と共に裁かれたからだ。あなたに対する処刑は実行された。あなたの罪深い古き人はゴルゴタで裁きを受け、あなたの古き人、アダムにある肉は、今も主と共に十字架につけられている。そこでは、サタンの家財とされていたあなた自身という人が死んだのだ。あなたが絶えずこの古き人の死を認め、主と一体となった十字架から一歩も動かないならば、サタンのいかなる訴えも、あなたに対して効力を持たない。キリストの十字架は旧創造に対する神の完全な正しい処罰であり、神に裁かれて主と共に死んだ者にそれ以上の裁きはないからだ、「彼を信じる者は、さばかれない。」ヨハネ3:18) 「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」

さらに、主と共に死んだだけでなく、主と共によみがえった。御子の復活のいのちが、あなたを全ての病、不幸、貧しさ、苦しみ、死から解放した。このことを信じるだろうか? 「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示21:4) これはむろん、新エルサレムで初めて完全に成就する事柄である。しかし、私たちはこの地上においても、信仰によってその前味を経験することができるだろう。どの程度、信仰によってそれをこの地上で受け取るだろうか? 

「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言った病人に対して、イエスはいわれた、「そうしてあげよう、きよくなれ」(ルカ5:12-13) これはただ病の癒しのことだけを言っているのではなく、いのちなるキリストが、その復活のいのちを通して、私たちをどれほど腐敗した旧創造から自由にされたいと望んでおられるかを象徴的に表わしていると私は思う。

御子のよみがえりのいのちは、ただ罪の贖いや、貧しさや、病や、死からあなたを解放したという消極的な側面だけでは終わらないのだ。それは私たちの前に、キリストにある新しい人、御子のよみがえりのいのちによってキリストを着せられた新創造という、完全に新しい果てしない地境を開いている。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)
「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:23-24)


キリストのこの新しいいのちを実際に知ることがなければ、私たちの信仰生活はきっと半分だけで終わってしまうだろう。どんなに罪の赦しや、癒しを求めたとしても、この新しいいのちを追求することがなければ、主と共に統治することや、キリストと共に圧倒的な勝利者となることの意味は分からないだろう。ところが、私たちはこの復活のいのちについてまだほんの少しも、知るべきことさえ知らないでいるのだ。私たちはこの贖われない肉体の幕屋の中にあって呻いている、天のすみかを仰ぎ見、朽ちない新しい人を上に着、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうことを切に望みながら、呻いている。どうか主がこの天の住みかについて、この朽ちないものについて、私たちの見えない目を開いて教えて下さることを願うのです。

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜るそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。」(Ⅱコリント5:4)

「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。」(Ⅰコリント15:53-56)



召された自由人はキリストの奴隷なのである

「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。」(Ⅰコリント7:22)

キリストの奴隷! この言葉をかみ締めるように思う。この言葉は、キリストと苦しみを共にし、キリストのゆえに自己を十字架で否むことの意味をよく示している。奴隷とは本当に何の自由も持たないものだからだ。私たちは主にあって自由とされた。だが、その自由を悪の働く機会としないで、自分の身体を義の武器として主に仕えるために、喜んで自分の利益を捨て去り、キリストの奴隷となるだろうか?

パウロは「キリスト・イエスの囚人」(ピレモン9)という表現を何度も用いている。「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。」(Ⅱテモテ2:9) 「だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」(Ⅱテモテ1:8)

墓の中に何もせずに横たわっている間に、主の甘く優しい癒しの御手が心深くに及ぶ。目には見えなくとも、御霊の深いとりなしが神に聞き届けられ、御霊のいのちの流れが、細い川のように流れ出して、まだ見ぬ人々に伝わっていく。

本当に、ガイオン夫人が言ったとおり、十字架は甘いのだ。主のために何もしないで蔑みや迫害に甘んじることは、人にとって最初はとても苦痛に思われるが、そのうち、十字架にとどまることが深い喜びをもたらすことに気づくだろう。自己を否んで十字架にとどまるとき、私たちの死によって、他の人々にどんなに豊かにいのちが及ぶかを知るようになれば、私たちはその原則からもう離れたくないとさえ思うだろう。また、主と共に十字架にとどまることこそが、霊的な敵の訴えに対する最大の防御であることも分かるようになるのだ。

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」(イザヤ1:18)

「きょう」と言われている日に、御声に従って歩もう、肉の思いをはなれ、生まれながらの自己を否み、御霊の与えるいのちと平安にあずかって歩もう。

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

条件はかわいていること、イエスをキリストと信じること、ただそれだけである。仮にあなたのかわきがどんなに深くとも、主は必ずそれを満たして下さり、余りあるいのちを与えて下さることを信じるだろうか? 本当に心の底から主のいのちにあずかりたいと望むだろうか? そのために主と共に十字架で自分自身を否むという代償を払うことに同意するだろうか? あなたにはできなくとも、神にはできると信じるだろうか?

* * *

神がアダムを楽園の中に置かれた時、それはアダムが楽園を享受するためだけでなく、それを守るためでもありました。そこに何らかの悪の力が存在していたことは明らかであり、アダムはそれに警戒し、それから楽園を守らなければなりませんでした。神が六日間で造られたものはすべてはなはだ良いものでしたから、悪はその前から存在していたに違いありません。悪がどのように存在するに至ったのか、また悪がど こから来たのか、聖書は啓示していません。しかし、悪が存在すること、そして新しく創造された神の園と人の住まいの中央に悪が危害を加えて滅ぼそうと脅か していた事実で十分です。

神の狙いはこの悪しき者から力を奪い去ることであり、人という手段を通してそうすることを意図されました。この思想から自然に、人はすでに自分の前に存在していた悪を征服するという、まさにこの目的のために創造されたのではないか、ということが示唆されます。これがこのあまり重要そうには見えない地球を宇宙の歴史の中心としました。混沌が生じたのは間違いなくこの悪の力によってであり、この悪の力は前の王国の廃墟の中から起こされた世界でも前の王国を維持しようと依然として狙っていました。まさにその世界に人は創造されたのです。それは人がそれを征服して追い出すためでした。この 世界が神と天使たちの目から見てこんなにも重要なのはそのためです。この世界は天と地獄が衝突して命がけの戦いが行われる戦場なのです。

十字架の敵

聖書から教わるまで、私たちは悲惨な人類の歴史を決して正しく理解することはできません。神には万物を支配する目的があります。他方、自然な成長と発展、人を支配する体系的な組織と王国以外の何物にも見えない事柄のただ中で、それが人々を暗闇の中に拘束し、神の御子の王国に対する戦いのために人々を利用しているのです。私たちの思いもよらない規模で、諸々の時代の緩やかな流れの中、神が忍耐しておられる間、人間 の意志と行動の完全な自由の渦中で、止むことのない戦いが続いてきたのです。この問題には疑問の余地がありませんが、この戦いは長期にわたる破壊的なものです。この戦いの歴史において、

十字架は転換点です。

最初に読んだ御言葉は素晴らしい啓示を与えます。それは十字架の贖いの意義を示します。彼はご自身から主権者 たちや権力者たちをはぎ取り、彼らをさらしものとし、(十字架において)彼らに対して勝ち誇られました。十字架の暗闇の中、暗闇の力は猛攻を加えました。 彼らは自分たちの恐るべき力を総動員して彼に押し迫り、まさに地獄の暗闇と凄惨さをもって彼を取り囲みました。彼らは分厚い暗雲を形成したので、神の御顔の光さえも彼を見放しました。しかし、彼はご自身から彼らをはぎ取り、敵どもを打ちのめして、誘惑に勝利されました。彼は彼らをさらしものとし、霊の全世界に、御使いたちと悪鬼たちの前で、

彼の勝利を知らしめたのです。

墓さえも死者を解放しました。こうして彼は彼らに対して勝利されました。このもう一つの世界では十字架は勝利の象徴です。 彼は勝利のうちに彼らを捕虜として引いて行かれました。彼らの力は永遠に砕かれ、彼らが人々を閉じ込めていた獄屋の門は破壊されて開放され、彼らに捕らえ られていた者たちに解放が告げ知らされました。この世の君は今や追放されています。彼にはもはや解放を望む人々を束縛の下にとどめておく力はありません。彼が今支配できるのは、彼の奴隷であることに同意する人たちだけです今や、自分自身をキリストとその十字架に委ねる人はみな、完全に自由なのです。

十字架は勝利ですこれが最初に読んだ御言葉が示す偉大な教えです。十字架は勝利です。この勝利はキリストが「成就した」と叫ばれた時から始まりました。これが凱旋行進の始まりであり、キリストはこの凱旋行進の中、隠された栄光を伴って世界中を歩まれます。 彼はとりこにされていた者をとりこにし、彼が贖った者たちを自由へと導かれます。そして信者は今、「神に感謝します。彼は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」と常に喜ぶことができます。十字架の思想、十字架の下の歩み、十字架の宣言はすべて、神の勝利の音色を帯びているべきで す。「死は勝利に飲み込まれました。神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストを通して私たちに勝利を与えてくださいます」

これがなければ、十字架の力の意義に関する私たちの理解とそれに関する私たちの経験は欠け目のあるものになっ てしまうにちがいありません。私たちの個人生活においても、また他の人々のための私たちの労苦においても、私たちはこの欠け目を経験するでしょう。私たち の個人生活において、十字架は重荷となり、十字架を負うようにという召しは従うのが困難な律法となり、十字架につけられた生活を生きようとする試みは失敗 し、日ごとに死ぬという思想にうんざりしてしまうでしょう。肉を十字架につけるには絶えず目をさまして自己を否む必要があるため、これは成功する見込みの ない無駄な努力だと諦めてしまうでしょう。私たちが

十字架は勝利である

ことをある程度悟らない限り、そうなるしかないのです。私たちは肉を十字架につける必要はありません。それはキリストによってなされました。カルバリの十字架の行為は決済ずみの取引な のです。それから発する命と霊は絶えざる力を及ぼします。私たちに対する要求は信じることであり、快活であることです。彼の死未満の何物も私たちにとって 十分ではありません。彼の死未満の何物も私たちの役に立ちません。「神に感謝します。神は私たちを常にキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」

この世における私たちの奉仕において、暗闇の力に対する十字架の勝利を信じることはとても重要です。この真理に対する洞察力だけが、私たちの敵の超自然的な力と超自然的な狡猾さを私たちに教えることができます。これ以外の何ものも、私たちが「この暗闇の世の支配者に対して」格闘する時、私たちの目標がどうあるべきか教えることはできません――私たちの目標は人々をこの世から、この世の君の力から連れ出すことなのです。

十字架が勝ち取って永遠に私たちに与えられた勝利に対する洞察力、これ以外の何ものも私たちを私たちの真の立場に着かせることはできません。私たちは私たちの勝利の王の道具であり、僕なのです。私たちの唯一の願いは彼にあって勝利のうちに導かれることです。これ以外の何ものも、私たちの勇気と希望を 奮い起こすことはできません。

私たちはこの勇気と希望を、敵が大いなる力で私たちに押し迫り、私たちが自分の無力さを感じる時、必要とします。あらゆる奉仕と戦いにおいて、私たちは信仰によって、「神に感謝します。神は私たちを常にキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」と言うことを学ばなけれ ばなりません。

愚かさと弱さ、屈辱と恥を伴う十字架は、永遠にキリストが勝ち取られた勝利のしるしなのですキリストが勝利されたのは、この地上の戦いの武器によってではありません。この勝利により、教会もキリストのすべての信者も常に勝利を得ることができます。それは、十字架につけられた主の霊の中にますます深く入り込み、ますます完全に自分を主に委ねることによってです。アンドリュー・マーレー、「キリストの十字架」、「十字架の勝利」
 


神は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導き、 私たちを通して彼を知る知識の香りを至る所に放って下さいます

昨日は仕事と取っ組み合うことを求められた一日であった。帰途につく頃にはへとへとになった。しかし、主がついておられるがゆえに見事な決着を見た。このことを通しても、霊的な敵の攻撃が嵐のようにやって来る日に、ただ揺るぎない岩でありやぐらである方のみに信頼し、黙って十字架の死に服することを思う。

今日は十字架の死にとどまるために、静かに家で過ごすことに決めた。それは今、私が自己を否んで忠実に死の中にとどまっていることが必要だからである。そうしていれば、必ず、人の力によらず、主ご自身が全てをなし遂げて下さる。死がなくては決して復活はない。主ご自身が私を弁護して下さるその御業を妨げないためにも、生まれながらの自分の望みを否もうと思う。

外は快晴、午前中の曇り空が嘘のようだ。主のなさることはまことに時にかなって美しい。しかし、その美しさを見るためには、人が自分からは何もしないことが必要だ。主が働いて下さるその時まで、墓の中にじっと横たわっていることが…。ウォッチマン・ニーが書いている、神に奉仕するとは、これから先、神をお喜ばせするために自分から何かをしようなどとは決して思わないことだと。

「もし私が「肉にあって」神を喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」おくことになります。私は律法を破りました。律法は死刑の宣告を下しました。死刑は執行され、かくて今や私――肉につく「わたし」(ローマ七・一四)――は、死によって律法の要求から全く解放されたのです。

今なお神の律法は存在しています。事実古い律法より無限に厳格な「新しい戒め」があるのです。しかし神は感謝すべきかな、その要求は満たされているのです。なぜなら、キリストがそれらを満たして下さるからです。キリストが私の内にあって、神に喜ばれる働きをして下さるのです。

キリストは「わたし(キリスト)が律法を…成就するためにきたのである」(マタイ五・一七)と言われました。だからパウロは、復活を根拠としてこう言うことができました。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ二・一二、一三)

あなたのうちに働かれるのは神です。律法からの解放は、神の御旨を行なわなくてもよいということではありません。それは私たちが無法者になるようなことを、決して意味しているのではありません。その反対です。それが意味するところは、私たちが、神の御旨を自分の力で行うことから解放されているということです。

私たちは、自分の力で神の御旨を行うことはできないということを十分に納得した以上、古き人の立場から神を喜ばせようとすることを止めます。ついに自己に絶望するという点に到達した結果、私たちは努力することさえ止め、主が私たちの内に復活の命を表して下さるため、主に信頼を置くのです。
 ウォッチマン・ニー著、『キリスト者の標準』、斉藤一訳、いのちのことば社、pp.180-186より抜粋

先日もキリスト者の交わりにおいて、人々がこのことを語ってくれた。人が自己の思いから成し遂げることは、時にかなっておらず、美しくもないと。それは最初は善のように見えて、結局、悪となり、ついに無秩序となる。しかし、神がその御手を伸ばして物事を成就なさるとき、それは時にかなってとても美しい。

そこで、ジョージ・ミュラーや、ハドソン・テイラーがおこなったのと同じ原則を私たちも貫きとおすべきであると思う。彼らは(金銭的な)支援を受けるときに、人の心を直接、動かそうとは決してせずに、ただ主の御手が動くのを待った。金銭的な支援だけではない。精神的な支援であろうと、物質的な支援であろうと、そのすべては主の御手から来る。

人の心をどどんなに直接、動かそうとしても無駄であるが、ただ神の御心を動かすことさえできれば、すべては成就する。この世の方法論は全て無効であり、ただ神の御旨に沿った、御霊に従った方法だけが有効である。うちにおられるキリストが働いて下さるために必要なのは、忍耐して待ち続ける信仰である。

「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
(ヘブル10:37-39)


そしてもう一つの重要なこと。それは受けるためには与えよという原則だ。しかし、ここで与えるとは、直接、人に受け入れられ、感謝され、喜ばれるために何かを与えることではなく、むしろ、隠れたところで主のために全てを注ぎ出すということだ。あの砕かれた石膏の壺のように、主のために無駄に自分が砕かれ、無駄に自分が注ぎ出されることに同意することだ。

私たちは自分の全てを主のために失うことに喜んで同意するだろうか? それはヨルダン川の川底に立って契約の箱を支え続けた人々のような栄光のない仕事で、世間の誰もそれを見て有益だとは思わないし、素晴らしい行いだと賞賛もしない。むしろ、次のような叱責が来るだろう、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」(ヨハネ12:5)

主以外のもののために自分を注ぎ出すならば、いくらでも世の賞賛を受けることができる。人々は言う、なぜこんなもののためにあなたは人生を無駄にしたのか、もっといくらでも他に有益な生き方があっただろうにと。しかし、私たちは今やそれらのものに価値を置いておらず、ただ神のために、主の満足のために、自分を無駄に注ぎ出したいのである。自分のために当然と思われる権利や安寧をさえ拒絶して、キリストの苦しみにならいたいのである。主が私たちの栄誉や美を剥ぎ取っていかれるとき、喜びに溢れて、主の御跡に従っていきたいのである。

偽りはキリストの十字架において打ち破られ、剥ぎ取られた! 私たちは生まれながらの自分自身を否み、自分自身から来る全ての望みを否む。迫り来る地獄の軍勢も、この世の全ての権勢も支配も、サタンの家財となるべき私たちの肉も、私たちを支配することはできない、それらはキリストと共に十字架につけられて死んだからである! 

だからこそ、今は喜んで墓の中にとどまっていたいのだ。これからキリスト者に対してどのような迫害が待ち受けているか、御霊が来るべきことを知らせて下さる。だが、恐れはしない。それはキリストが十字架においてこれらの地獄の軍勢のすべてに対して勝利を取られたことを信じているからだ。私たちのアダム来の肉に対してさえ勝利を取られたのだ。私たちを責めて不利に陥れていた債務証書は、十字架において破り捨てられた。神がその御業を成し遂げられたのに、神が無効にされたものをどうして再び訴えることができるのか。

しかし、私たちは喜んで墓の中にとどまろう。それはアベルの血よりも力強く語るキリストの血潮が今も流れて私たちを弁護し、大祭司が私たちのためにとりなして下さることを知っているからだ。主が必ず枯れた骨に命を息を吹きかけ、団体の人として力強く立ち上がらせて下さることを信じているからだ。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く。

「彼は、私たちを責めて不利に陥れていた証書を、その規定と共に塗り消し、
これを取り除いて、彼の十字架に釘づけてしまわれました。
そして、諸々の支配者たちと権力者たちを彼ご自身からはぎ取り、
彼らをさらしものとし、彼らに対して勝ち誇られたのです。」
(コロサイ2:14, 15)

「しかし、神に感謝します。神は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導き
私たちを通して彼を知る知識の香りを至る所に放って下さいます。」
(2コリント2:14)