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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

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この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい

「あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼き尽くす火である。」(ヘブル12:25-29)

* * *

今、畏れの心を持って、主の御前に静まりたいと思う。時代が煮詰まって来ていること、その中で、私の自由裁量の領域がますます狭められていること、そこで生まれながらの自分自身を十字架において拒むことがどれほど必要であるかを、主が教えて下さっているからである。

聖書にはこうある、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。」(ルカ14:26-30)


この御言葉は、信仰の道を先へ進んで行くにつれて、自分の生まれながらの命をことごとく捨て切る者でなければ、主の弟子として従うことが決してできなくなることを告げている。私たちは生まれながらの自分自身と、自分から出て来る願いを十字架において拒み、自分自身には全く頼らず、ただ主イエスだけに頼って生きるだろうか。

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行なって約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。

『もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」(ヘブル10:35-39)


信仰を捨てる者は滅びる。聖書は、不信仰な者、おくびょう者をはっきりと罪に定めている。「おくびょうな者、信じない者」(黙示21:8)には、火と硫黄の池が行く手に待ち構えている。しかも、悔い改めの機会さえ、いつも与えられるわけではない。エサウはたった一杯の食のために長子の権を売ったが、「あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」(ヘブル12:17)

だから、「きょう」と言われている日に、心を頑なにせず、御霊の声に聞き従うことがどれほど重要であるか。主の憐れみがまだ注がれているうちに、まだ光があるうちに、己が罪を悔い改めて、暗闇から抜け出し、畏れかしこみつつ御前に進み出て、神の光の中を歩むことがどれほど重要であるか。

御言葉は、主に従うために私たちにはれっきとして代償が必要であることを示している。自分の生まれながらの魂を愛し、手放さない者が、主に従うことは決してできない。生まれながらの自分を愛することそのものが罪である、という認識にまで私たちは至らなければならない。主イエスはゲッセマネの園でご自分の魂の命を拒んで御旨に従うために、血を滴らせるほど祈られたのだ。主イエスは人の魂の命は堕落しており、人の生まれながらの魂は、決して十字架を受け入れることはできないことを知っておられた、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9) 主は罪を犯されなかったが、信じる者たちの代表として、生まれながらの魂を拒んで御旨に従われたのだ。

私たちは、真理を受け入れようとしない人間の生まれながらの魂――セルフという憎むべき悪の要塞、巣窟に対して、決然とした態度を保持するだろうか。これを絶えず憎むべきものとみなし、自分の魂の命に対して神が下された十字架の死刑宣告を速やかに受け入れるだろうか。「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:4)との警告は、人の生まれながらの自己がとんなに神の御前で腐敗した憎むべきものであるか、主に従うためには、信者が己が魂に対して血を流すほどの抵抗をせねばならないことを、まだ知らない信者に向けて発せられたのである。

聖書は言う、「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう。

すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しか し、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」(Ⅱペ テロ3:3-7)


ノアの時代、平和な時代が突如として終わりを告げて、全世界が水に覆われて滅びるなど、ほとんど誰も想像しなかった。人々はそのときが来るまで、己が欲望に基づいて心のままに生活していた。ところが、ノアの一家たった8人だけが信仰により救われて、その他の圧倒的大多数――娶ったり嫁いだり、飲んだり食べたり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしながら、気ままに暮らしていた人々――がみな、己が罪のゆえに滅んだのだ。

そのときが来るまで、箱舟こそが世間の嘲りの的であった、ノアの一家は妄想にとりつかれた終末論者とされ、ヒューマニズムの見地から、彼らの主張する滅びなど、正気の沙汰ではないように思われたに違いない。誰が想像しただろうか、平和に暮らしていたように見えたその時代の全ての子らの上に、神の御怒りがとどまり、信仰に生きたノアの一家だけが義とされるなど。しかし、神は震われないものが何であるかを明らかにされた。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐことになった。」(ヘブル11:7) 

この箱舟はキリストの十字架の型である。箱舟の外に広がっている時代はあたかも平和そうに見えて、その平和は偽りであった。その平和は十字架を介さない滅び行く平和であり、まさに崩れようとしていたのだが、人々はそれに気づかなかった。そして、箱舟の中にこそ、まことの平和の君がおられ、安息があった。嵐の海の上を行く船に、弟子たちとともに主イエスが乗っておられたように、その箱舟は、主イエスの十字架の装甲であった。外でどんなに嘲りや罵りの暴風が吹き荒れようとも、その中は台風の目のように静かであった。それだけでなく、そこには主がおられたので勝利があった。アダムの命に対して死をもたらした十字架にキリストと共にとどまり続けることこそ、私たちが主と共に復活に至るために必要な条件である。十字架は私たちを安息の地に導く。そして、安息はキリストご自身である。

今、震われないものが残るために、全世界はもう一度震われようとしている。焼き尽くす火である神の燃える炎によって、天も地も震われようとしている。しかし、私たちは震われない国を受けているのだから感謝し、この「揺るがぬ土台の上に建てられた都」(ヘブル11:10)が姿を現すときを待ち望んでいる。私たちが忍耐できるのは、望みの確信を持っているからだ。その確信とは、キリストにあって一つとされた新しい天と地が姿を現し、主イエスが再び来られて、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」(エペソ5:27)として私たちをお迎え下さることである。もっと言うならば、キリストご自身が私たちの栄光の望みなのである。

私たちはこの朽ちゆく肉体の幕屋の中にあって、朽ちないキリストを着せられることを切に願いながら、忍耐している。どうか、ご自分を低くして死に至るまで御父に従われた主イエスが、御霊を通して、神の御旨が何であるかを教えて下さいますように。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示の霊を豊かに与えて下さり、私たちに神を認めさせ、霊の目を開いて下さいますように。そして、私たちが神に召されて抱いている望みがどんなに大きなものであって、聖徒らが継ぐべき神の国がどれほど栄光に富んでいるか、神の力強い活動を通して働く力が、私たち信じる者にとってどれほど絶大なものであるかを、私たちが知ることができますように。私たちは信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者なのです…。

「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。」(Ⅱペテロ3:8-14)


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よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう

日曜礼拝の後、驚くほど活力が出て、食欲は回復し、恐れは逃げ去った。ある姉妹が言った、私の病はもう主と共に十字架で終わらされたと。そのことを私は神にいつも訴えていると。死の淵を見たからこそ、それはいのちがけの訴えなのである。その人は言った、聖霊の宮である自分自身の身体を、義の武器として捧げて神の栄光を現すのに、どうして病などに陥って弱々しくいられようかと。

私たちの目の前にはいのちの道と、死の道とが置かれている。「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」(申命記30:19) 

さて、命を選ぶとは何か。それは主イエス・キリストを信頼することである。主イエスが私たちのために十字架で達成された御業のすべてを信じて我が物として受け取る(掴み取る)ことである。だから、今一度、自分に問うてみよう、その妨げとなるものが私たちの心にないかどうか。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)

これは信仰のチャレンジである。この完全な癒しをあなたは自分のものとして受け取るだろうか? キリストのよみがえりの命が、私たちの死ぬべき身体においても完全な命として働くことを信じるか。自分の罪の債務証書がキリストによって完済されたことを認めるか。それとも、依然として、弱く、無益な自分のアダム来の出自にすがりつづけ、自分で自分の罪を背負い続けるのか…。

神がキリストにあって王族の衣装を着せて下さろうというのに、何のために乞食の衣装にすがる必要があるのか。今、心の中で、神の栄光を曇らせる全ての不信仰を憎み、それに訣別宣言を突きつけることを決めようではないか。降り注ぐ雨のように私たちにいのちを与えようとする神の御霊、十字架の死を経てよみがえられたキリストの自由な働きを、これ以上、不信仰によって妨げないようにしようではないか。

ああ、死も、病も、弱さも、そのために流される自己憐憫の涙も、すべてが罪の報酬であり、神の御前では憎むべきものなのだ。死と地獄を打ち破られた主イエスは、これら全ての束縛から私たちを解放しようとしておられ、すでに自由にして下さったのだ。もし私たちさえ信じるならば、それは私たちのものだ。なのに、どうしていのちを求めないのか。どうしてこの宝を捨てて束縛の中にとどまろうとするのか。もしも本当にイエスの復活のいのちを知りたいならば、これら死の性質を帯びたものと完全に訣別せよ、それがもう二度と、自分に戻って来ることを許さないように!

かつて私が未熟であった頃、私の弱さに十分な同情と理解を示してくれた信仰者らが存在したことは大いなる感謝であったが、だからといって、いつまでも弱さについて語り続けるのはもううんざりである。これ以上、ヒューマニズムという偽りの美談に包まれた、人を死に至らしめるだけの弱さはもう十分である。

私たちは主と共に十字架の死という究極の弱さを経たからこそ、御子の復活のいのちの中に置かれているのだ。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13) 愛する御子の支配下においては、すべてが完了している。十字架は決済済みの取引である。私たちの負債は彼にあって完済された。だから、アダムの命にある自分がどんなものであるにせよ、それは主と共に死んだとただ認めるだけで良い。

目の前に新しい創造という地境が開けているのに、くれぐれもアダムにある自分の出自を振り返って引き返そうとしてはならない。それに責任を負おうとしてはいけない。かつて古き人が生きていた不毛の地を振り返ってはいけない。もしそんなことをするならば、ソドムを振り返ったロトの妻のようになるだろう。

ただ復活されたイエスが私たちの内に生きておられることだけに信頼しなければならない。もしそうするならば、自分の弱さに責任を負わされることはなくなる、「わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。」(ローマ8:12) 主を信ぜよ、主の強さに身を委ねよ。いのちの御霊の法則に大胆に身を委ねよ。そうすれば、失われ、死んでいた者たちが神に対して生きる者とされ、主と共によみがえらされて、永遠の実を結ぶ者とされるだろう。ぶどうの木であるイエスにつながっていればこそ、私たちは彼のいのちによって、神に対して生きるのだ。

キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強い。すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。

あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。しかしわたしは、自分たちが見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。」(Ⅱコリント13:4-6)


「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体には一つのとげが与えられた、それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。

それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(Ⅱコリント12:7-10)


パウロは内におられる栄光の望みであるキリストのはかりしれない力のゆえに、弱さも、侮辱も、危難も、迫害も、行き詰まりも、恐れはしなかった。同様に、もしも真に主と共に十字架につけられたならば、私たちは主にあって強い。なぜなら、主と共に復活し、天に引き上げられ、御座に座す者とされたからである。アダムにある自己ははるか足の下、それは水の下にすでに沈んでいる。私たちは自分自身の命を憎み、それを否むだろうか。それがもう自分の手の届かないところにあって、キリストと共に死んでいることを認めるだろうか。もし主と共に死を経るならば、必ず、復活がある。死をも、墓をも打ち破った主イエスのはかりしれない力強い命が、この死ぬべき肉体の幕屋の内側から私たちを立ち上がらせる。それは生活条件が変わるからではない、肉による慰めがもたらされるからでもない、ただこの内なる方の尊いはかりしれないいのちの力によってのみ、私たちはどんな条件下からでも立ち上がるだろう。

このきよい、汚れのない、尊い復活のいのちこそ、私たちのために義となり聖となり贖いとなられたキリストご自身なのである。内におられ、今も生きておられるこの方――サタンを打ち破り、死も、墓も、ハデスの門も打ち破られたこの方だけが、私たちを神に対して生かす者とすることができる。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(Ⅰコリント6:20)

この方のいのちこそ、御国の統治そのものである。王の王は天地を統べ治める方である。敵の訴えの前では、血潮も雄弁に私たちを弁護するが、しかしこのパースンでありいのちなる方ご自身が、私たちの内に働いて、どんなものよりも力強く私たちを弁護し、守って下さる。この方によってのみ、死んでいた私たちは生きる。

それだから、私たちは誰の支配下にいるのか、もう一度、自分を吟味しようではないか。やみの力か、それとも、愛する御子の支配下か。もし御子を信じるならば、すでに御国が到来している。もしキリストの内にとどまるならば、私たちは豊かに実を結ぶ枝とされ――それによって父なる神が栄光をお受けになるのである。

だから、恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父なる神の御心なのである。私たちは自分をとりまく貧困や、弱さや、恐れや、病や、死を、主が憎まれたように憎み、拒絶するだろうか? 信仰によって、絶えず死を拒んでイエスのいのちを選び取るだろうか? 私たちにいのちを、自由をお与え下さる神のはかりしれない憐れみに満ちた愛なる御旨を掴み取るだろうか? 

神の国は断じて目に見える喧騒や、熱狂や、交わりそのものの中にあるものではなく、絶えず、死すべきアダムの肉を、古き自己を拒んでまことのいのちなるキリストを選び取る(御子の)信仰を通じて、一人ひとりの霊の内側に到来しているのである。そして、御国はキリストと共にすでに私たちの只中に来ている。御霊は、私たちが神の国を受け継ぐことの約束の保証である。もし信じるならば、私たちはすでに御国の統治の中にいるのだ。主と共に十字架につけられたあの強盗のように、私たちは主と共に安息の中に入れられている。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)

* * *
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。

これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
かれらは 主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。

あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。

その時、見えない人の目は開かれ、
聞えない人の耳は聞えるようになる。
その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
口のきけない人の舌は喜び歌う。

それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、
葦、よしの茂りあう所となる。

そこに大路がある。
その道は聖なる道ととなえられる。
汚れた者はこれを通りすぎることはできない。
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。

そこには、ししはおらず、
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
その所でこれに会うことはない。
ただ、あながわれた者のみ、そこを歩む。
主にあながわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ第35章)

* * *
 
「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

『わたしたちはあなたのために終日、
死に定められており、
ほふられる羊のように見られている』

と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:31-39)



彼にあって二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ…

「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」(ルカ8:16-18)

賢い花嫁となるために、暗闇の日には忍耐が必要である。私たちは主から癒しや満たしがある時にはいつでも喜んで全速力で走っていける。しかし、主の応答が速やかにないように思われる時、どうするのか。深い飢え渇きを覚え、孤独の中をたった一人で通らされる暗い日に、どうするのか。愚かな花嫁も、賢い花嫁と同じように主を信じていたが、御霊の油を絶やしたことにより、主を待ち望むことができなくなった。そして時を逸し、ついに持っていると思っていたものまで失ってしまったのである。

私たちのあかりは御霊の光であり、私たちの足の灯火は主イエスご自身である。この光があるうちに、光の中を歩むかどうか。「きょう」と言われている日に、御声を拒まないかどうか。御霊の光によって、私たちの心の暗闇の全てを探り、照らし出していただくことを願うかどうか。私たちはいずれ神の御前で申し開きを迫られる時が来るのだ。その方の御前で隠し立てできるものは何一つとしてない。それなのに今、まだ安息に入る余地が残され、憐れみが注がれている日に、御霊の光で自分の心の暗闇をすべて照らしていただくことを拒むとすれば、一体、かの日に主の御前で何を申し開きするのか。

もし御霊の声に対して自分を開くならば、憐れみを受けるだろう。主の愛と憐れみがどんなに豊かであるか、神が私たちの弱さや欠点に対しても、どれほど大いなる理解を持っておられるか、まことの大祭司なるお方がどんなに深い憐れみを持って私たちのためにとりなしてくださり、私たちを取り扱って下さるかを知るだろう。

だから、十字架を拒んではいけない。主と共なるゴルゴタの死から決して動いてはいけない。私たちは本当に生まれながらの自分自身を憎むべきである。自分自身を憎むべきである。十字架を通して自分が粉砕され、退けられることを拒んではいけない。まだ光が当てられたことのない心の暗闇に、光が当てられることを拒んではいけない。

* * *
今日も予想をはるかに越えて、主は礼拝とその後の交わりに共にいて下さった。主の臨在により、兄弟姉妹の結びつきがますます自然なものとなり、強められていることも感じた。いつまでも兄弟姉妹と共にいたいと思わされるほど、強い一致が現されているのを感じた。恐らく、御霊の一致はこの先、さらに強まっていくだろうと思う。

交わりの中では、一人ひとりの兄弟姉妹がどんなに深い飢え渇きを持ちながら礼拝に集っているのかを知らされている。求める者はさらに与えられるが、求めない者は何も得ることがない。もしもただ一心に、主だけに求め、主だけに聞こうとする姿勢がなければ、この先、何一つとして維持することができないだろう。しかも、聞いたのに、従う心がないのでは、今持っている光さえ維持することが難しくなるだろう。

戦いはますます激しくなっている。しかし、キリストのみからだなる教会を通して、神の知恵がどれほど豊かに現され、どんなに豊かな助けを受けることができるかも、これまで何度となく知らされて来た。もしもエクレシアの外から何かを訴えようとするならば、それは主に対するつぶやきとなり、不平となって終わるかも知れない。しかし、エクレシアの中で訴えたことで、無駄に終わっ た事柄はなかった。たとえそれが私の弱さから来たことであったとしても、神はその願いを決して無碍に扱われなかった。小さな相談事にも、思いもかけない方向から豊かな助けが与えられ、折にかなった助言や励ましを豊かに受けた。なぜこれほどまでに主がこのような弱い者をも愛し、あきらめないでいて下さるのか不思議に思うほど、神ご自身がねんごろに面倒をみて下さったのである。

だから、この城壁の中にとどまることがどんなに重要なことであるか思い知らされている。どんなに自分ひとり、信仰を維持しようと努力しても、みからだから受ける助けを欠くならば、進んでいくことはできないだろう。

私たちそれぞれは神の家を建て上げるために、人手によらずに、御霊によって切り出された生ける石であって、キリストを頭として一つとされた身体である。そこで、御霊による一致が現されるごとに、ますます個人的な輪郭が消えていくように感じている。それは、ますますキリストだけがすべてのすべてとなられる時が近づいているからだ。自分が何者であるかなど全くどうでもよい。名前も、能力も、職業も、人生の道も、嗜好も、性格も、一切の相違が意味を持たなくなり、兄弟姉妹がただ本当に主にあって一つとされたこと、それによって、神が栄光をお受けになることだけが重要である。

「…あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの 律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:15)

「…彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」(エペソ2:18-22)

異国人であり宿り人に過ぎなかった者たちが、このように一つの御霊の中にあって神の家族とされ、共に父の御許に近づき、共に神に賛美を捧げることができるとは、何という特権なのだろうか。もう随分前から、一人ひとりの兄弟姉妹はエクレシア共有の人になりつつあるように思われてならない。個人的な隔てはますます取り払われて、御霊が風のように思うがままに吹くようになり、キリストが花嫁なる教会を愛されたように、私たちも、主の愛によって一つに結び合わされる。今、キリストにあるひとりの新しい人としての教会がはっきり姿を現そうとしているように思われてならない。

しかし、どうか主よ、愚かな私たちを憐れんで下さい。私たちの盲目な目を開き、あなたの御前で真に油を絶やさない者として下さい。あなたに従うことは、自分の力では及ばないのです。すべてはただあなたの達成された御業によらなければなりません。暗闇が世を覆っています。けれども、死に至るまで御父に従順であられた主イエスよ、どうか私たちの心の全ての暗闇をあなたの御霊の光で照らして下さい、あなたの霊で私たちの心をとらえて離さないで下さい。


私は主によって大いに楽しみ、 私の魂も、私の神によって喜ぶ

神である主の霊が、わたしの上にある。
はわたしに油をそそぎ、
貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、
わたしを遣わされた。

捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
すべての悲しむ者を慰め、
シオンの悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を
着けさせるためである。
彼らは、義の樫の木、
栄光を現すの植木と呼ばれよう。

彼らは昔の廃墟を建て直し、
先の荒れ跡を復興し、
廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
他国人は、あなたがたの羊の群れを
飼うようになり、
外国人が、あなたがたの農夫となり、
ぶどう作りとなる。

しかし、あなたがたはの祭司ととなえられ、
われわれの神に仕える者と呼ばれる。
あなたがたは国々の力を食い尽くし、
その富を誇る。
あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。
人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。
それゆえ、その国で二倍のものを所有し、
とこしえの喜びが彼らのものとなる。

まことに、わたしは公義を愛する主だ。
わたしは不法な略奪を憎む。
わたしは誠実を尽くして彼らに報い、
とこしえの契約を彼らと結ぶ。
彼らの子孫は国々のうちで、
彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。
彼らを見る者はみな、
彼らが主に祝福された子孫であることを認める。

わたしはによって大いに楽しみ、
わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
主がわたしに、救いの衣を着せ、
正義の外套をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、
花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
地が芽を出し、
そのが蒔かれた種を芽生えさせるように、
神である主が義と賛美とを、
すべての国の前に芽生えさせるからだ。(イザヤ第61章)


* * *
主は、油そそがれた者クロスに、
こう仰せられた。
「わたしは彼の右手を握り、
彼の前に諸国を下らせ、
王たちの腰の帯を解き、
彼の前にとびらを開いて、
その門を閉じさせないようにする。

わたしはあなたの前に進んで、
険しい地を平らにし、
青銅のとびらを打ち砕き、
鉄のかんぬきをへし折る。
わたしは秘められている財宝と、
ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。

それは、
わたしがであり、あなたの名を呼ぶ者、
イスラエルの神であることを
あなたが知るためだ。
わたしのしもべヤコブ、
わたしが選んだイスラエルのために、
わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。

あなたはわたしを知らないが、
わたしはあなたに肩書きを与える。
わたしがである。ほかにはいない。
わたしのほかに神はいない。
あなたはわたしを知らないが、
わたしはあなたに力を帯びさせる。

それは、日の上る方からも、西からも、
わたしのほかには、だれもいないことを、
人々が知るためだ。
わたしがである。ほかにはいない。
わたしは光を造り出し、やみを創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは、これらをすべて造るもの。」

「天よ。上から、したたらせよ。
雲よ。正義を降らせよ。
地よ。開いて救いを実らせよ。
正義も共に芽生えさせよ。
わたしは、わたしがこれを創造した。」(イザヤ45:1-8)


* * *
 
… この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。(使徒16:25-26)


* * *
 
何かとてつもないことが起ころうとしている。私の心はそれを待ち望んでいる。聖徒らの集いが芳しい祈りの香となり、賛美の歌となって、天に立ち上る時を。それにより、神が栄光を受けられ、御国がこの地に引き下ろされる時を。獄屋のとびらは開かれ、鎖は解かれ、捕われ人は解放され、悲しむ者は慰められ、悲しみの代わりに喜びの油が注がれ、憂いの衣の代わりに賛美の外套が着せられるだろう。

私たちの心はいつも霊的戦いの最前線である。燃える柴の内側へ飛び込み、聖徒らの集いに集うために、どれほど大きな戦いが繰り広げられ、代償を支払わされて来ただろう。神は全てを焼き尽くす火である。愛は死のように強く、妬みは墓のように残酷である。一体、なぜこれほどまでに激しい戦いが繰り広げられねばならないのかと思うほど、戦いは激しかった。

しかし、その戦いも一つの終局にさしかかっている。私たちの目の前には「完了した」という地が見えている。約束の地だ。私たちはこれを征服するだろうか? 何によってこの地を征服するのか。エリコを攻略したときの声、キリストの勝利を大声で告げ知らせる賛美の歌声によってだ。子羊の血潮とあかしの言葉によって敵に打ち勝ち、主の勝利を宣言する賛美の歌声によって、敵に攻め取られた領土を回復するのだ。

今、ちょうどパウロとシラスが獄中で捧げた賛美のように、聖徒らの賛美が一つに結集して天に届き、地を震わせようとしている。主イエスの勝利を歌うかちどきの声により、地の基は揺れ動き、御国が地上に引き降ろされるだろう。その時、主の正義が激しい雨音をとどろかせるようにこの地に降り注ぎ、捕われ人は解放され、心傷ついた者は癒され、悲しむ者は慰めを受けるだろう。義に飢え渇いている者は飽き足り、柔和な者は地を相続し、地は救いを実らせ、正義と賛美を芽生えさせるだろう。

そのとき、御国の統治がこの地に到来する。十字架で死なれ、葬られ、よみがえり、天に上げられ、御座に着かれた主イエスご自身が私たちと共にいて慰めてくださる。私たちは主と共に統べ治める者とされ、喜びの油を注がれて、魂は御前に歌う。聖徒らは正義の外套、救いの衣を着せられ、花婿のように栄冠をかぶり、花嫁のように宝玉で飾られる。先には恥を受け、荒れ果てて廃墟となった町は、建て直されて、喜びに満ちる。先の恥に代えて、二倍の祝福を受けるからだ。そして、全地にただお一人、神である方の名が告げ知らされ、主の御名だけが高く掲げられる。主はまことに誉むべき方、賛美されるべき方、とこしえに栄光を受けられるにふさわしい方だからだ。

* * *

「遠い大昔の事を思い出せ。
わたしが神である。ほかにはいない。
わたしのような神はいない。
わたしは、終わりの事を初めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、
『わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
わたしは、東から猛禽を、
遠い地から、
わたしのはかりごとを行なう者を呼ぶ。
わたしが語ると、すぐにそれを行ない、
わたしが計ると、すぐそれをする。

わたしに聞け。
強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。
わたしは、わたしの勝利を近づける。
それは遠くはない。
わたしの救いは遅れることがない。
わたしはシオンに救いを与え、
イスラエルにわたしの光栄を与える。」(イザヤ47:9-13)


* * *

「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。
喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。
地の果てにまで響き渡らせよ。
「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」と言え。
主がかわいた地を通らせたときも、
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れさせ、
岩を裂いて水をほとばしり出させた。
「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。(イザヤ48:20-22)


* * *

「目を天に上げよ。また下の地を見よ。
天は煙のように散りうせ、
地も衣のように古びて、
その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。
しかし、わたしの救いはとこしえに続き、
わたしの義はくじけないからだ。」(イザヤ51:6)


* * *

「良い知らせを伝える者の足は
山々の上にあって、なんと美しいことよ。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神が王となる」と
シオンに言う者の足は。

聞け。あなたの見張り人たちが、
声を張り上げ、共に喜び歌っている。
彼らは、がシオンに帰られるのを、
まのあたりに見るからだ。
エルサレムの廃墟よ。
共に大声をあげて喜び歌え。
がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。
はすべての国々の目の前に、
聖なる御腕を現わした。
地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」(イザヤ52:7-10)



もし私たちがキリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」(ルカ24:5-7)

「…わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:6-8)

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)


何かしら説明不可能な事柄が進行している。圧倒的ないのちの流れが、脆く弱い土の器である私たちの殻を押し破って、外にほとばしり出ようとしている。もうこれ以上、自分の力で殻を割ろうと努力することは必要ないだろう。私たちはただ古き人を、アダムの肉を十字架で否み、それらが主と共に十字架につけられて死んだという事実を絶えず認めるだけである。

初めて復活のいのちとは何であるかを知らされたとき、そのいのちは、たとえ地球が何度、核爆弾で滅んだとしても、なお滅びないいのちであることを味わい知った。これは決して大袈裟な表現ではないと思う。何しろ、キリストの復活のいのちは、地獄の軍勢も、サタンも、死をも打ち破ったのだから。「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」(Ⅱテモテ 1: 10) 「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル2:14-15) このはかりしれない力を持つキリストの復活のいのちが、信仰を通じて、私たちのこの朽ちゆく脆い肉体の中に宿っているとは、何という説明不可能な不思議だろうか…。

御子をよみがえらせた神のいのちが宿っていればこそ、信仰者はいつまでも墓に横たわっている必要はないのだ。主と共に十字架につけられて死に、葬られ、墓を通過した者には、必ず主と共なるよみがえりが実際となる。そして主と共に御座に引き上げられることもだ。これは主観的経験として実際となるのである。殉教も、掲挙も、その後に起こる出来事であって、墓の中で起こることではない。

そこで、たとえ何度、欺かれて、罪なる古き人に引きずり戻されそうになることがあったとしても、私たちはその古き人を否み、それが十字架につけられて死んだことを認め、生まれながらの自分自身に立脚せずに、ただキリストご自身だけに立脚して進んでいく。

何度、欺かれて訴える者の訴えに耳を貸しそうになったとしても、私たちは「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」(ヘブル12:24)主イエスの血潮を何度でも自分に適用し、キリストが十字架において私たちの全ての罪の債務証書を破り捨てられたことを認め、自分で自分に対して責任を負おうとする全ての誤った考えを拒んで、主と共に凱旋の行進の中を進んでいくのである。

聖書にはこうある、
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:14)

「主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。」(詩篇34:22)

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)


これに対して、世では自分の行動に対して自分で責任を負おうとすることが、道徳的で立派なことであると考えられている。キリスト教徒でさえそのような虚偽に欺かれ、「負い切れない重荷」(ルカ11:46)を互いに押しつけ合うという過ちを犯しがちだ。それにひきかえ、神の事実は、私たちが自分に対して自分で責任を負うことは決してできないと告げている。ダビデは言った、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」(詩篇51:5) 

人の罪の債務証書は、まさにその人が生まれる以前から始まっている。そして「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23) 誰がこの決定的な宿命から逃れられよう? 誰がそのような債務証書を自分の力で無効にできようか。そのようなことをなしえるのは、ただキリストの十字架だけである。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

肉にまいて滅びを刈り取るとは、生まれながらの自分を自分で義としようとさんざん自分の力で努力し、自分で自分の行動の責任を取ろうとして、苦しみもがく人生に他ならない。外面的には、それは自分の行動に対して道徳的責任を負おうとする行動なので、立派に見えるかも知れない。ところが、やればやるほどますます事態は紛糾していく。努力すればするほど失敗が重なり、人は義とされるどころか、ますます罪が増し加わって、債務証書が山積みになり、罪の負債地獄に陥ってついに首が回らなくなる。人が自分で自分を義とすることはおよそ不可能である。

それにひきかえ、霊にまく者は霊から永遠のいのちを刈り取るとは、自分の義により頼まず、むしろ、自分自身には何も義となるものがないことを認め、ただキリストの義によりすがって安息することである。自分で自分を義としようとする全てのもがき苦しみをやめて、キリストが身代わりに死んで下さったことにより、あなたの全ての罪の債務証書は十字架において無効にされ、キリストがあなたを自由にして下さったことを信じ、キリストが達成された御業だけによりすがって、彼のよみがえりのいのちのうちに安息のうちに生きることである。

これは、ひとつまかりまちがえば大変に無責任な生き方のようにも思われるだろうが、よく考えてみれば決してそうでないことが分かる。なぜなら、あなたはキリストと共に十字架で死んで、彼と共に裁かれたからだ。あなたに対する処刑は実行された。あなたの罪深い古き人はゴルゴタで裁きを受け、あなたの古き人、アダムにある肉は、今も主と共に十字架につけられている。そこでは、サタンの家財とされていたあなた自身という人が死んだのだ。あなたが絶えずこの古き人の死を認め、主と一体となった十字架から一歩も動かないならば、サタンのいかなる訴えも、あなたに対して効力を持たない。キリストの十字架は旧創造に対する神の完全な正しい処罰であり、神に裁かれて主と共に死んだ者にそれ以上の裁きはないからだ、「彼を信じる者は、さばかれない。」ヨハネ3:18) 「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」

さらに、主と共に死んだだけでなく、主と共によみがえった。御子の復活のいのちが、あなたを全ての病、不幸、貧しさ、苦しみ、死から解放した。このことを信じるだろうか? 「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示21:4) これはむろん、新エルサレムで初めて完全に成就する事柄である。しかし、私たちはこの地上においても、信仰によってその前味を経験することができるだろう。どの程度、信仰によってそれをこの地上で受け取るだろうか? 

「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言った病人に対して、イエスはいわれた、「そうしてあげよう、きよくなれ」(ルカ5:12-13) これはただ病の癒しのことだけを言っているのではなく、いのちなるキリストが、その復活のいのちを通して、私たちをどれほど腐敗した旧創造から自由にされたいと望んでおられるかを象徴的に表わしていると私は思う。

御子のよみがえりのいのちは、ただ罪の贖いや、貧しさや、病や、死からあなたを解放したという消極的な側面だけでは終わらないのだ。それは私たちの前に、キリストにある新しい人、御子のよみがえりのいのちによってキリストを着せられた新創造という、完全に新しい果てしない地境を開いている。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)
「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:23-24)


キリストのこの新しいいのちを実際に知ることがなければ、私たちの信仰生活はきっと半分だけで終わってしまうだろう。どんなに罪の赦しや、癒しを求めたとしても、この新しいいのちを追求することがなければ、主と共に統治することや、キリストと共に圧倒的な勝利者となることの意味は分からないだろう。ところが、私たちはこの復活のいのちについてまだほんの少しも、知るべきことさえ知らないでいるのだ。私たちはこの贖われない肉体の幕屋の中にあって呻いている、天のすみかを仰ぎ見、朽ちない新しい人を上に着、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうことを切に望みながら、呻いている。どうか主がこの天の住みかについて、この朽ちないものについて、私たちの見えない目を開いて教えて下さることを願うのです。

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜るそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。」(Ⅱコリント5:4)

「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。」(Ⅰコリント15:53-56)