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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

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恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父のみこころなのです(1)

「この王国の福音は、すべての諸国民に証しするために、全世界に宣べ伝えられます。それから終わりが来ます」(マタイ24:14)。

私たちは自分の宣べ伝えている福音の本質が何であるか、そのはかりしれない偉大な力をもっと知る必要があるのではないでしょうか。先にオースチンスパークスの言葉を引用しながら、福音とは良い知らせであると記事の中に書きました。何の良い知らせでしょうか? それは御子の十字架の死と復活を通して、御霊によって、天の御国が到来し、神の国、キリストの主権的統治が私たちの只中にまさに到来したというニュースです。

さあ、暗闇の世の主権者の支配は終わりが近づき、御子キリストの光なる統治が確立する時が近づいています、それを告げ知らせる良いニュースを私たちは聞いて信じたのです。

私たちは、自分たちが告げ知らせている福 音とは、単に罪人に対する赦し以上のものであることを見る必要があります。それは御子の圧倒的な力のある統治なのです。キリストの栄光ある統治なので す! パウロが「神の国は言葉ではなく、力である。」(Ⅰコリント4:20)と言ったことを思い出しましょう、力がなくてどうして統治が成り立ちましょう か、神の国とは死を打ち破られた方の圧倒的な力を伴う霊的支配力です。天の王国は義なる方が王の王として統べ治めている霊的な領域なのです。

(ところで、天の王国、神の国、御国、これらは全て異なる定義を持っているとする説がありますが、それぞれの定義の細かい差異についてここで論じることはしません。機会があれば別の項目で語ることにします。)

御子はやがて再び来られます。その時には栄光を帯びて、天と地にある全ての ものの主権者として、王の王として来られます。「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」(黙示5:12)。私たちは次のような光景が実際となる時へと近づいています。

「…わたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、『御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』。」(黙示5:13)

これが来るべきキリストの統治です。神の国は今、キリスト者一人ひとりの内側にありますが、それはやがて千年王国、新天新地へと至る、キリストの統治への序曲です。やがて天地万物一切について御子が完全な主権を取られる日が来ます、暗闇の主権者による不法占拠、横領と強奪は終わり、一切が神へと帰され、神がすべての者の中ですべてとなられる日が来るのです。「…万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:28) その日に向けて、私たちはこの壮大なドラマに立ち会い、激しい戦いの中に置かれているのです。

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)

私たちはかつては闇の主権者の支配下にあって、自らの罪のゆえに奴隷とされて死の恐怖に脅かされていましたが、今や、愛する御子の支配下に移され、天の王国の住人となりました。これは天的な王国であり、神の正しい統治の行われるところです。そこでは心の貧しい者も、安息を得、悲しんでいる者も慰めを受け、義に飢え渇いて来た者も神の公義を見て満足するのです。これが御霊による統治の実際です。私たちはその只中に置かれています。私たちはまことの命なる方によって安息を得ました。

しかし、天の王国はそれだけでは終わりません。それは罪人が救いを得、私たちが死の恐怖から解放されて、個人的な安息を得るだけにはとどまらないのです。それは壮大なドラマのほんの一部です。というよりも、肢体としての個人の内面で起こっていることは、からだ全体(人類)で起こっていることに相応するのです。ちょうど悔い改めて神に立ち返った一人のキリスト者の内で、暗闇の王国の支配が駆逐され、キリストの光の統治が確立するように、やがて、すべての造られたものにおいて、サタンの暗闇の軍勢の支配が駆逐され、キリストが完全な主権を取られる日が来ます。その時まで天の王国は激しい戦いの中で拡大しているのです。

主イエスは最初に地上に来られた時、ご自分の完全な統治が近づいていることを指し示して人々に言われました、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイ4:17)と。これは断じて死後の慰めの話などではありません。主イエスが示されたのは、御子を通して、死の力を持つ者、悪魔、この世、肉は打ち破られており、キリストが主権を持って統べ治める王国が私たちの只中に来ており、やがてその霊的な統治が拡大して、死ぬべき全てのものを飲みつくし、御子が全ての全てとなられる時が来るということです。バプテスマのヨハネも、主のために道を整えてこう語りました、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)

これは天の王国というものが、神にとってどれほど重要な関心事であるかを示している出来事です。ですから、私たちも単に罪人の悔い改めという地点で満足して終わらないようにしなければなりません。キリストの御霊の統治というものに、実際に心を向ける必要があるのです。

神のご計画における天国のはかりしれない重要性に気づいた人たちは、良い真珠のために持ち物の全てを売り払ったあの商人(マタイ13:45-46)のように、すべてを捨ててこの王国の福音に飛びつき、天国を激しく襲ったのです。そこで、主イエスは言われました、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12)

そうです、このような激しい熱意を持って、私たちは神の国の統治を実際に生きて知るべきなのです。地上における全ての欠乏は、そのための信仰的な入口に過ぎないと知るべきなのです。この荒廃に向かいつつある世において、天における御霊の正しい統治を、主がこの地にも引き下ろして下さるように、私たちは御手から奪い取るようにして、執拗に、熱心に願い求めるべきなのです。他の全ての関心事を脇においてでも、この天の王国の支配を実際に知らせていただくことを神に求めるべきなのです。なぜなら、神の関心がそこに置かれているからです。

だからこそ、主は次のように言われました、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33) 神の国とはキリストの統治であるばかりか、キリストご自身です。私たちがキリストの心を無にしながら、どうして神の御旨に従うことなどできるでしょう。

しかし、これと正反対の態度を取ったのが、主イエスが神の国の晩餐会のたとえ話の中で語られた人々でした。多くの人が神の国での盛大な晩餐会に招かれたのですが、人々の心はその他のものに奪われていたので、自分が招かれた宴会の絶大な価値を理解できなかったのです。「わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません」、「わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです」、「わたしは妻をめとりましたので、参ることができません」(ルカ14:15-35)

このような人々が神のご計画の外へ打ち捨てられ、滅ぼされさえすることは、次の御言葉にはっきりと書かれている通りです、それは彼らが神の御心を損ない、無にしたからです、

「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう。」(ルカ17:26-30)


御子は世を救うために世に来られましたが、この時代(世代)の人々は、キリストを拒み、キリストを捨てました。やがて来臨の時にも、この時代の人々の関心は別のものに奪われ、やはり同様なことが起こるだろうと主は言われたのです。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)。

前述のルカ第14章のたとえ話では、この世へのこだわりが、私たちに神の御心を損なわせてしまう危険を十分に持つことが示されています。主はこのことを指して、「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもいないであろう」(ルカ11:24)とまで言い切られたのです。(これが私たちには一切無関係な警告だとは思わない方が良いでしょう。)

そして、神の国に入るために何が必要であるかについて、主は言われました(これは救いそのもののことではなく、私たちが御国で受ける報いのことを指していると考えられます)、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。…あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」」(ルカ14:25-33)

以上の記述は、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」(マルコ10:23)という主イエスの言葉や、天国という良い真珠を買うために、全財産を売り払った商人のたとえとも共通しています。「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」(マタイ13:45-46) 

主イエスはこれらのことを通して、私たちが神の国に入るために「財産」が大いなる妨げになることがありうることを示されました。しかし、これは単に全財産を私たちが形式的に投げ打てば良いというような単純な話ではありません。「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカ12:34)と言われているように、この「財産」とは、私たちの宝、私たちの心です。つまり、目に見える財産のみならず、私たちの関心そのもののことをも指しているのです。ですから、最も肝心な問題は、私たちの(魂の)愛が何に捧げられているのか、私たちの心がどこに向けられているのか、私たちの心がどれくらい神の御心と一致しているかということなのです。つまり、私たちの心こそ戦場なのであり、最も激しい戦いは、私たちの心の中から始まるのだと言えましょう。

もしも地上の財産が私たちの宝であるとするならば、私たちの心は地上の財産に縛りつけられて、神の国に招かれながら、そこに出席を拒んだ人々のようになってしまいかねません。もしも自分の生まれながらの家族への愛や、娶ったり、嫁いだり、飲食したり、植えたり、建てたり、商売することが最大の関心事だったとしても、やはり、御心を損なってしまうでしょう。しかし、地上の宝が存在するように、天の宝もあるのです。そして、主は言っておられるのです、天に朽ちない宝を蓄えるために、天の王国に投資し、天に財産を築きなさい、と。その投資分は決して無駄になることはない、と。

「ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。

自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカ1228-34)


これも単なる形式的な、あるいは、やみくもな慈善や喜捨の勧めではありません。これは御霊の導きに従って、御霊の統治の中で、天にあなたの心と財産を捧げなさいという意味なのです。私たちは天に投資するためには、天とは何か、また天的な法則性とは何かを知る必要があります、つまり、いのちの御霊の法則を知る必要があります。それは御霊によらなければなりません。すべては神の御旨に従って行われる必要があります。とにかくも、この御言葉は、私たちが自分の心の関心を地上の思い煩いから引き離し、私たちの心をまず神の国のために捧げ、私たちの地上の財産を、時間も、労力も、金銭も、その他全てのものも、地上の朽ちゆくものを捕らえるためにむなしく使い果たすのではなく、朽ちない天に向かって投資せよ、そうすればそれがどんなに豊かな報いで報いられるかを私たちは実際に知り、御国に働く法則がどんなものであるかを知るだろう、ということを現しているのです。ですから、御国を求めようではありませんか!

恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである!


(2012.2.25)
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あなた方自身も罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである

さて、私は夢で見ていると、基督者が行くべき道は両側が垣で囲まれ、その垣は救いの垣(イザ26:1)と呼ばれていた。それで重荷を負うた基督者はこの道を駆けて行ったが、背中の重荷のため非常な困難がないわけではなかった。

このように駆けて行くと、やや上り坂の所に来たが、そこには十字架が立っており、少し下の方には、くぼ地に一つの墓があった。私が夢で見ていると、基督者がちょうど十字架の所へやって来たときに、彼の重荷は肩からほどけ、背から落ち、転がりだしてとまらず、ついに墓の口まで来ると、その中に落ちこんでもはや見えなくなった。

その時基督者は喜んで心も軽く、眺めて驚いた。十字架を見たために、このように重荷から楽になろうとは実に驚くべきことであったからである。それで彼は何度も見ているうちに、ついに頭の中の泉から涙が湧き出て頬を伝わった(ゼカ12:10)。

さて、彼が眺めて泣きながら立っていると、見よ、三人の輝ける者が彼の所へやって来て、「やすかれ」とあいさつした。第一の者は彼に言った。「あなたの罪はゆるされた」(マル2:5)。第二の者は彼のぼろ着物を脱がせて、着換えの衣(ゼカ3:4)を着せた。また第三の者は彼の額に印(エペソ1:13)をつけ、封印のある巻物を与えて、走りながらそれを読み、天の門でそれを渡すように命じた。そこで彼らは立ち去った。その時基督者は三たび小躍りして喜び、次のように歌いながら進んで行った。

ここまで罪の重荷を負って来た。
わが悲しみを軽くするすべもなく
ここへ来た、これは何という所だろう。
私の至福はここに始まるのか。
私の重荷はここで背から落ちるのか。
私をしばった紐はここで切れるのか。
尊き十字架よ! 尊き墓よ! むしろ尊きは
私のために恥を受けられたお方こそ!

(バニヤン、天路暦程、正編、池谷敏雄訳、新教出版社、pp.84-87.)


* * *
以前に読んだこの箇所がしきりに思い出されてならない。神は本当に誠実で憐れみ深いお方で、私たちのかすかな心の願いにさえ応えて下さる。しかし、私たちは神の御旨にかなった祈りを祈り出す必要がある。そうしさえすれば、主は速やかに応答して下さる。

私たちが主と共に十字架の死を経由し、アダムの命に従ってではなく、御子のよみがえりの命に従って生きるようになることはまことに神の御心である。ペニエルで主に討たれることを信仰者が願うと、主は本当にその人を十字架にくぎづけにし、その人を支配していた生来の力を粉砕して、そこから人を解放して下さる。主の御名は誉むべきかな。この十字架こそ、この墓こそ、すべてのキリスト者にとっての安息の地点である。

以前に田舎で父が少年時代に作ったという蝶の標本を見たことがある。美しい蝶が箱の中にいくつも並んでくぎづけにされていた。私たちが主と共に十字架の死にくぎづけにされるということは、その蝶のように、もがく力も、逃げ出す力も失うということだ。ヨナはニネベに滅びの宣告を告げることを主に命じられた時、主の御顔を避け、御旨を避けて逃げることができた。ヨナには神の御旨から逃げる力があったのだ。しかし、神はヨナを逃がすことなく、大魚に飲ませられ、御旨の中に連れ戻された。その後も、ヨナの強情で反抗的な性格は何度も明らかにされており、一体、なぜ主がヨナのような人間にあえて御旨を告げられ、預言者の務めを任されたのかは分からない。彼には預言者となるにふさわしい資質が何もなかったように思われる。しかし、このヨナの姿はちょうど私たちのようではないだろうか。そして、十字架の死の地点は、まさにヨナが大魚に飲まれて身動きができなくなった以上の地点であり、ヤコブがペニエルで主の使いと組打ちして、もものつがいが外された以上の地点である。

ヤコブがペニエルを通過したのは、兄エサウと再会する直前のことであった。かつて最もひどい方法で欺いて祝福を騙し取った兄との再会を目前にして、ヤコブは生死を分けるほどの緊張感の中にあっただろう。ヤコブが神の使いにひたすら祝福を求めたのも、そのような経緯があってのことかも知れない。ただ神ご自身が彼を祝福して下さりさえすれば、彼のいのちは救われる、ヤコブはそう思ったのかも知れない。

「彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつたいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。

その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。

そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。」(創世記32:22-31)


ペニエルも十字架の型であり、十字架はアダムに属する全ての人間に対する神の呪いと死の刑罰の場所である。そこでどんなにアダムが神に祝福を求めてもがいても無駄であり、アダムにはただ呪いと死が待っているきりだ。しかし、ただ信仰によって、主イエスは、アダム(生まれながらの全ての人間)に対する神の呪いと死の刑罰を余す所なく受けられた上で、神の力によって、神の永遠の命によって、死に打ち勝ってよみがえられた。御子が死に至るまで御父の御旨に従順であったからこそ、主イエスを通して信じる者たちが祝福されて、彼のいのちにあずかることができるのだ。

しかし、私たちは御子のいのちによって生かされるために、真に主と共に十字架の死を経由しなければならない、この十字架を通過するとき、アダムにある私たちは主によって討たれ、滅ぼされなければならない。このことを認めないなら、私たちは決して主と共に十字架に服しているとは言えない。ヤコブはヨナと似たように極めて自己中心的な性格であったが、ペニエルで強情なヤコブから祝福されたイスラエルに変えられたとき、もものつがいを外されていた。これはそれまでヤコブを支配していた最も強力な肉の力が触れられ、討たれたことを意味する。

十字架の働きは生涯、続くものであるが、十字架は私たちの生来の命を滅ぼし、死に渡す力であり、私たちの肉の力の最も強靭な部分に触れ、なおかつ、私たちの生まれながらの気質にまでも及ぶ。それは私たちが自分ではどうすることもできない全ての部分に触れて下さる神の力である。

もしも真に十字架を経由するならば、どこかの時点で、私たちはヤコブのように歩くのが不自由になるだろう。それは私たちをびっこにしてしまい、御旨から逃げ出す力を失わせるだろう。しかし、たとえ動けなくなっても、十字架の死の地点にとどまっていることこそ安息である。バニヤンの書いた基督者のように、人が負いきれない重荷を負って苦しむのは、十字架を逃れようとする力がその人の内に残っているためである。自力で主に従おうとする無益な努力や、自力で罪を克服しようとする不可能な努力や、自分で自分を義とし、自分の人生に折り合いをつけようとする呪われた各種の思い煩いがその人を支配しているためである。しかし、その人が本当に主と共に十字架にくぎづけにされて、その生来の力が触れられると、その人は全く自分で何もできなくなるが、とにかくここを離れたくない、全く動きたくないし動けなくて良い、と自ら思うはずである。それは全ての責任をその人ではなく、神が負って下さる生き方の始まりだからである。

その当たりから、その人には従順の意味が分かり始めるだろう。自分で神に従おうとしてもただ失敗しかないが、神がその人を掴んで下さるその力に任せるならば、御旨に従うことは、これまでよりもはるかに容易に自然になると分かり始めるだろう。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ6:6-11)

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。」(ヘブル4:10-11)



新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい

「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」(黙示12:11)

礼拝にはいつもすばらしいいのちの流れがあるが、御霊によって本当に心を刺し通されることが続く。それは神ご自身がなさっておられる霊と魂の切り分けの手術であり、自己の徹底的な死が実際となるために必要な行程である。

その間、日常生活においても激しい戦いがあった。自分自身に対する神の有罪宣告をとことん受け入れ、主と共に自分が十字架につけられ、裁かれ、罰せられたことを認め、ただこの十字架の死にとどまっていることだけが、最大の防御であった。そしてそこに留まっているとき、主は確かに圧迫を取り除け、勝利をもたらして下さったのである。

その過程で、神がお示し下さったのは、これから先、私はアダムの出自を拒み、その代わりに、キリストにあって得た新しい地位だけを見つめなければならない、ということであった。決してこの先、後ろを振り返ってはいけない。出て来たところ(アダムにある出自)を振り返ってはいけない。もしキリストによって捕えられているなら、ただこの方だけを見つめ、後ろのものを忘れ、前を向いて進んでいかなければならない。私はキリストにあってすでに新しい人とされたことを信じ、この新しい出自を受け取り、御霊により、彼のご性質をいただいて生きるべきである。

主と共なる十字架における自己の死をとことん受け入れて自らそこにとどまり続けることを決意したそのとき、主ははかりしれない誠実さを持って、助けを求める声に応えて下さり、そして、長年に渡り、払いのけることのできなかった重いくびきをふるい落として下さった。鎖が音を立てて崩れ落ち、状況の変化には全くよらず、魂は安息に入れられた。ふるい落とされたのは、アダムにあってその人を縛っている限界のくびきであった。

荒野で倒された者たちは、肉なる自分の限界や欠乏にとらわれ、それを神が豊かに補って下さり、解決を与えて下さることを信じなかったゆえに、その不信仰の報いとして倒されたのだ。もしもこの先、キリストの内に安息することを妨げる肉の働きを自ら拒まないなら、最終的に、私たちも同じことになる。いのちに立つのか、死に立つのか、それはおのおのが決めることだ。もしも真理に従順に服することをしないなら、その肉の性質が、いのちなるキリストから私たちを引き離してしまうだろう。

だから、私はただ信仰にあって、キリストが私たちのために用意して下さったはかりしれない恵みの完全さを信じて、この方の完全さだけを見つめなければいけない、自分を見てはいけない、この方のいのちにすがって、キリストにあって約束された恵みと彼にある新しい人を余すところなく受け取らなければいけない。

だから今、古き人を脱ぎ捨て、キリストを着よ! 神があなたに用意して下さったこの新しい人を着よ! 神があなたをすでに新しい人として下さった事実を認めよ! キリストにあって、彼が達成された全てのものを自分のものとして受け取れ! そして、その御恵みの中に生きよ。古き人の限界にもはやとらわれてはならない、かつての悲しみや嘆きを振り返ってはならない、罪も、失敗も、損失も、確執も、全て十字架へ引き渡し、自分はすでに死んだ者であると認め、自分の肉の弱さに自分で責任を負おうとしてはいけない、ただキリストご自身だけに頼れ、自分に頼らず、この方に全力ですがれ、この方だけが死んだあなた方を神に対して生かして下さることを信じ、この方のいのちによって生きよ。

たとえあなたの今の立場がどのようなものであっても、キリストにあって、あなたが与えられたはかりしれない天の地位と豊かな恵みを信じ、どんなことがあっても、主と共に十字架において古き人を拒んで、キリストにある新しい人の地位に立ち続けるなら、あなたは彼に属する種族として、実を結んで生きるようになるだろう。あなたは御霊によっていのちの息を吹きかけられ、豊かに実を結ぶ人となるだろう。

この先には、命の道と死の道の二つしかなく、その中間はない。私たちはサタンの家財となるべき生まれながらの自己という憎むべき悪の要塞に対し、神の宣告を受け入れて徹底的に有罪宣告を突きつけるのか。自分自身の中には罪と腐敗以外の何もなく、神の御前で全く弁護の余地がないことを認めるか。それとも、自己に対してわずかでも弁護の余地を残そうとするのか。もしアダムの命を選ぶなら、キリストの命に生きることはできない。もし自己を選ぶなら、キリストを退けることになる。自分の魂の命を十字架で否んで、キリストのよみがえりの命だけを選び取って生きよ!

「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。」(マルコ9:43) 

「あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」(Ⅰコリント6-8)



キリストの愛がわたしたちに強く迫っている

「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、
ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

なぜ、あなたがたは、
かてにもならぬもののために金を費やし、
飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。
そうすれば、良い物を食べることができ、
最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

耳を傾け、わたしにきて聞け。
そうすれば、あなたがたは生きることができる。
わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

見よ、わたしは彼を立てて、
もろもろの民への証人とし、
また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
見よ、あなたは知らない国民を招く。
あなたを知らない国民は
あなたのもとに走ってくる。
これはあなたの神、主、
イスラエルの聖者のゆえであり、
主があなたに光栄を与えられたからである。」(イザヤ55:1-5)


来たりませ、主よ―――。
心の中で抑えがたい叫びが起こる。ただ心の底から、喜びに満ちて叫びたいのだ、主よ、来たりませ!と。

今、私たちの礼拝の目的はただ一つのことに――再び来られる主ご自身だけに――集中しようとしている。思いは自分を離れ、一切の思いわずらいを離れ、ただこのいのちなる方だけに一心に向かおうとしている。この方の御思いが、私たちの思いに映し出され、この方のはかりしれない愛が、私たちの心の内に燃やされるためである。

バプテスマのヨハネは、主の道をまっすぐに備えるために、その時代の人々に向かって呼びかけた、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)。私たちも、主が再び来られる時のために、道を備えなければいけない。「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。」(ヘブル12:12-13)

エクレシアとは、世から召し出された者、キリストのものとされ、主イエスの御名によって勝ち取られた彼の領分である。この領域を広げようではないか。主が再び来られる時に、報いを受ける僕となるために、主イエスの勝利を宣言する旗をこの地に立てようではないか。かつて主イエスのエルサレム入城を歓呼して迎えた群衆のように、白い衣を着、しゅろの枝を持って、御座と子羊の前に立ち、彼を誉めたたえる数え切れない群衆の魂を勝ち取ろう。主はご自分を迎えるために彼を心から待ち望む人々の出現を願っておられる。

* * *

「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。」(ゼカリヤ2:13)

今、未曾有のことが起ころうとしている。聖徒らが主イエスの勝利を宣言し、賛美する声の只中に、御国の統治がもたらされようとしている。神の公正で正しい裁きが真昼のように輝こうとしている。サタンの不法に悩まされ、悩みを負わされた聖徒らのために、神が立ち上がって正しい裁きを輝かせて下さる日が近づいている。その日、ただ主の栄光だけが輝くために、自分の魂の命を最後まで惜しまずにいよう。

ここ数日、初代教会のことが思われてならなかった。私たちはローマ帝国時代の人々に比べ、思いもかけない自由のうちに住んでいるはずだが、礼拝に出席することがまさに命がけの戦いを要するようになっているのだ。この戦いに勝って、愛する兄弟姉妹と共に主を誉め讃えるために、自分自身に頼らず、主イエスの勝利を宣言し続けることがどうしても必要である。

その間、サタンはものすごい執拗さをもって聖徒らを責め続けた。その責めの中には、人々が実際に犯した罪も、そうでない罪も含まれていた。もしわずかでも、自分自身として立とうとするならば、到底、立ちおおせることはできない。なぜなら、それが祭司の務めだからだ。祭司は、民の代表として、民の全ての罪を背負って彼らの罪をとりなすために主の御前に立たなければならない。私たちのまことの大祭司は主イエスであり、私たちの罪をとりなすことのできる方はただお一人であるが、私たち自身も、主の祭司として、この時代の罪を負わされることを避けられない。聖徒らにはあらゆるそしりがふりかかり、彼らは主の御名のゆえに世から憎まれ、嘲られ、あらゆる責めを負わされる。にも関わらず、民の前には神の聖なる祭司として立ち続けなければならないのだ。誰が主ご自身以外のものに頼って敵のこの激烈な訴えの前に立ちおおせよう。

エレミヤは言った、「主よ、わたしは知っています。人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを。主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」(エレミヤ10:23-24)

「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」(黙示1:17) 「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ6:5)

本当に、私たちは倒れ伏すことしかできない。私たちは汚れた唇の民の中に住んでいる不義なる民であり、主の御前に誰一人、自分自身として立ちおおせる人はいない。しかし、倒れて死んだようになった者たちに、主は「恐れるな」と優しく声をかけて下さり、この方の義によってのみ、信じる者は立ち上がる。
 
「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(ゼカリヤ4:6)

主は聖徒らを滅ぼすために懲らされるのでなく、彼らを神の義によって生かすために懲らされる。ただ主だけが義であり、いのちであることを知らせ、私たちが自分に頼らず、彼だけを信頼するように。もし私たちが信じるならば、主は私たちに清い帽子と祭服を着せて下さり、すべての訴えを取り除いて下さり、今度は手をかえて、サタンを責められる。なぜなら、サタンの働きも、最終的には主のご計画の中にあって、それは神が選び出された民をより一層、神に近づけるためにあるからだ。

「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。

主の使は、ヨシュアを戒めていった、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道にあゆみ、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。

見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」(ゼカリヤ第三章)


まことに人の歩む道は人が自分自身で決めることができず、自分自身の力で主に従い得た人は一人としていない。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8-9)

贖いは神の一方的な恵みであり、私たちの側にはどんな資格もない。世においても、私たちは何の役にも立たない無力な者、無きに等しい者に過ぎなかった(Ⅰコリント1:27,28)。なにゆえ、神がこのような者を愛され、召し、呼び続けておられるのか分からない。それでも、エルサレムも、エクレシアも、神が瞳のように大切に守っておられるのであり、鳥がひなをかくまうように、神は私たちを御翼の下にかくまって下さる。だから、私たちの心には、花嫁としての喜びが溢れ、主への愛が燃え上がらずにいられない、「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」(Ⅱコリント5:14)

だから、私は全ての聖徒らと共に声を張り上げて呼びたいのだ、主よ、来たりませ、来て、私たちを迎えて下さいと――。
 
* * *

「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」(Ⅰコリント1:26-29)

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)
 

どうか父がその栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」(マルコ10:29-30)


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聖書は、私たちがキリストのゆえに受ける苦しみはほんの束の間に過ぎないことを告げている。そしてその苦しみも損失も決して損失で終わらず、永遠の重い栄光で報いられることを告げている。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(Ⅱコリント4:16-17)

ある人は駱駝が針の穴を通るように、主と共に十字架の死をくぐるまでの間、想像を絶するような苦しみを通らなければならなかった。しかし、死を経るまでの苦しみが深いならばなおさらのこと、主と共に真に十字架を経由したその後で、神は本当に思いもかけないほどの自由と豊かないのちをその人にお与え下さり、失われたものを何倍にも回復して下さり、驚くべき和解へと導いて下さる。

かつて苦しみを通らされた兄弟姉妹が、今、どれほどの自由と平安にあずかっているかを見るにつけても、神は本当に私たちの思いをはるかに越えて働かれ、豊かにいのちを与えて下さる方であることを信じないわけにはいかない。

主イエスはご自分が地上に来られたその目的を、次の短い一言で表された、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10) しかし、彼のよみがえりのいのちを得るための方法こそ、逆説的に、主と共に十字架において自分の魂の命を失っていることなのである。「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39) このような十字架の証に、聖徒らの交わりの中で触れることができることは、何という幸いなのだろうか。その励ましにより、自分の限られた想像力が打ち砕かれるのをどうして喜ばずにいられようか。

神は本当に私たちの内に力を働かせて、「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかた」(エペソ3:20)である。

「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:14-19)

色々な患難の只中を通らされている時には、それが何のためであるか人には分からない。自分にも分からないものを、まして周囲に理解できるはずもない。そんな時、世から聞こえて来る声は、あのヨブの妻のような罪定めの言葉だけかも知れない、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ2:9)

さまざまな困難を通して、サタンは私たちに神を恨ませようとし、聖徒らからも引き離そうとし、主イエスが与えて下さったいのちを見失わせようと仕向けるだろう。ところが、私たちがそれでも勇気を奮い起こして神を信頼し、信仰を捨てて滅びる者とならず、信じていのちを得る者となるならば、時と共に神の憐れみに満ちた御旨が、必ず、私たちを通して明らかにされるだろう。

そのとき、私たちの卑小さや、愚かさや、限界でさえ、神のはかりしれない愛に満ちた尊いご計画の尊さを示すための材料とされる。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28) 

アダムとエバの堕落という地すべりにさえキリストを通して余りある贖いをもたらされた神は、私たちのためにも、本当にとてつもない贖いを用意して下さっている。私たちの失敗、挫折、回り道でさえ、ご計画にとどまるならば、神の栄光へと変えられていくのである。ヤコブがその人生を通して練られ、ついに神の光によって輝く柔和な人となったように、私たちもキリストご自身の似姿へと変えられていくのである。このことを信じるだろうか? 太陽の光が満ちれば、月の輝きが消えうせるように、死を帯びて滅びゆく私たちのアダム来の性質が、キリストのいのちに飲みこまれてしまうことを信じるだろうか?

だから、主に栄光あれ! 私は衰え、彼は栄える! 一粒の麦が死んで初めて多くの実を結ぶ。その原則はいつも変わらない。だから、私は自分が今どこにいるかをかえりみるのではなく、ただ主イエスの豊かないのちにあずかることを願って、水の上を歩いたペテロのように、自分自身から目を離して、キリストご自身に目を注ごう。

もしも今、私が自分で自分の命を保ち、それを握りしめて離さず、自分で掴みとろうとするならば、それは結果的に失われるだろう。しかし、自分のわざをやめ、主が全てをなして下さることにまかせ、主を信じるならば、必ず、私の思いを越えて、主が働いて下さる。そしてそのみわざは時にかなって美しい。

だから、主の御名のゆえに束の間、低められることを私たちは恐れるまい。必ず、主が豊かな報いを返して下さることを信じているからだ。パウロは書いている、「そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。」(Ⅱテモテ1:12)

なぜヘブル書に次のように書いてあるか、今こそ、分からないでおられようか。「ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。」(ヘブル11:35) 彼らは苦しみから放免されることを願わなかった! 更にまさったよみがえりのいのちの価値を知っていたがゆえに、朽ちゆくアダムの命を惜しまなかった。死ぬべきものがいのちに飲まれてしまうことを願っていたゆえに、自分の魂の命を自ら拒んだのだ。「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」(黙示12:11)

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ4:4)

「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:11)


人の心には、自分の願うすべてを自分の手で掴み取りたいという願いがないわけではない。しかし、アダムにあって自分の望みの全てを失うとしても、キリストの安息の中にとどまることの方にはるかに価値があるのだ。自分の手で自分の願いを掴み取ろうとすることはむなしく、不毛であるが、忍耐して主を待ち続け、主がお与え下さるに任せるならば、豊かな報いを受けるだろう。主はいつも言われる、「あなたがするのではない、わたしがするのだ」と。

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。」(ヘブル4:10) 

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「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:7-14)