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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい

「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」(黙示12:11)

礼拝にはいつもすばらしいいのちの流れがあるが、御霊によって本当に心を刺し通されることが続く。それは神ご自身がなさっておられる霊と魂の切り分けの手術であり、自己の徹底的な死が実際となるために必要な行程である。

その間、日常生活においても激しい戦いがあった。自分自身に対する神の有罪宣告をとことん受け入れ、主と共に自分が十字架につけられ、裁かれ、罰せられたことを認め、ただこの十字架の死にとどまっていることだけが、最大の防御であった。そしてそこに留まっているとき、主は確かに圧迫を取り除け、勝利をもたらして下さったのである。

その過程で、神がお示し下さったのは、これから先、私はアダムの出自を拒み、その代わりに、キリストにあって得た新しい地位だけを見つめなければならない、ということであった。決してこの先、後ろを振り返ってはいけない。出て来たところ(アダムにある出自)を振り返ってはいけない。もしキリストによって捕えられているなら、ただこの方だけを見つめ、後ろのものを忘れ、前を向いて進んでいかなければならない。私はキリストにあってすでに新しい人とされたことを信じ、この新しい出自を受け取り、御霊により、彼のご性質をいただいて生きるべきである。

主と共なる十字架における自己の死をとことん受け入れて自らそこにとどまり続けることを決意したそのとき、主ははかりしれない誠実さを持って、助けを求める声に応えて下さり、そして、長年に渡り、払いのけることのできなかった重いくびきをふるい落として下さった。鎖が音を立てて崩れ落ち、状況の変化には全くよらず、魂は安息に入れられた。ふるい落とされたのは、アダムにあってその人を縛っている限界のくびきであった。

荒野で倒された者たちは、肉なる自分の限界や欠乏にとらわれ、それを神が豊かに補って下さり、解決を与えて下さることを信じなかったゆえに、その不信仰の報いとして倒されたのだ。もしもこの先、キリストの内に安息することを妨げる肉の働きを自ら拒まないなら、最終的に、私たちも同じことになる。いのちに立つのか、死に立つのか、それはおのおのが決めることだ。もしも真理に従順に服することをしないなら、その肉の性質が、いのちなるキリストから私たちを引き離してしまうだろう。

だから、私はただ信仰にあって、キリストが私たちのために用意して下さったはかりしれない恵みの完全さを信じて、この方の完全さだけを見つめなければいけない、自分を見てはいけない、この方のいのちにすがって、キリストにあって約束された恵みと彼にある新しい人を余すところなく受け取らなければいけない。

だから今、古き人を脱ぎ捨て、キリストを着よ! 神があなたに用意して下さったこの新しい人を着よ! 神があなたをすでに新しい人として下さった事実を認めよ! キリストにあって、彼が達成された全てのものを自分のものとして受け取れ! そして、その御恵みの中に生きよ。古き人の限界にもはやとらわれてはならない、かつての悲しみや嘆きを振り返ってはならない、罪も、失敗も、損失も、確執も、全て十字架へ引き渡し、自分はすでに死んだ者であると認め、自分の肉の弱さに自分で責任を負おうとしてはいけない、ただキリストご自身だけに頼れ、自分に頼らず、この方に全力ですがれ、この方だけが死んだあなた方を神に対して生かして下さることを信じ、この方のいのちによって生きよ。

たとえあなたの今の立場がどのようなものであっても、キリストにあって、あなたが与えられたはかりしれない天の地位と豊かな恵みを信じ、どんなことがあっても、主と共に十字架において古き人を拒んで、キリストにある新しい人の地位に立ち続けるなら、あなたは彼に属する種族として、実を結んで生きるようになるだろう。あなたは御霊によっていのちの息を吹きかけられ、豊かに実を結ぶ人となるだろう。

この先には、命の道と死の道の二つしかなく、その中間はない。私たちはサタンの家財となるべき生まれながらの自己という憎むべき悪の要塞に対し、神の宣告を受け入れて徹底的に有罪宣告を突きつけるのか。自分自身の中には罪と腐敗以外の何もなく、神の御前で全く弁護の余地がないことを認めるか。それとも、自己に対してわずかでも弁護の余地を残そうとするのか。もしアダムの命を選ぶなら、キリストの命に生きることはできない。もし自己を選ぶなら、キリストを退けることになる。自分の魂の命を十字架で否んで、キリストのよみがえりの命だけを選び取って生きよ!

「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。」(マルコ9:43) 

「あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」(Ⅰコリント6-8)


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キリストの愛がわたしたちに強く迫っている

「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、
ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

なぜ、あなたがたは、
かてにもならぬもののために金を費やし、
飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。
そうすれば、良い物を食べることができ、
最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

耳を傾け、わたしにきて聞け。
そうすれば、あなたがたは生きることができる。
わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

見よ、わたしは彼を立てて、
もろもろの民への証人とし、
また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
見よ、あなたは知らない国民を招く。
あなたを知らない国民は
あなたのもとに走ってくる。
これはあなたの神、主、
イスラエルの聖者のゆえであり、
主があなたに光栄を与えられたからである。」(イザヤ55:1-5)


来たりませ、主よ―――。
心の中で抑えがたい叫びが起こる。ただ心の底から、喜びに満ちて叫びたいのだ、主よ、来たりませ!と。

今、私たちの礼拝の目的はただ一つのことに――再び来られる主ご自身だけに――集中しようとしている。思いは自分を離れ、一切の思いわずらいを離れ、ただこのいのちなる方だけに一心に向かおうとしている。この方の御思いが、私たちの思いに映し出され、この方のはかりしれない愛が、私たちの心の内に燃やされるためである。

バプテスマのヨハネは、主の道をまっすぐに備えるために、その時代の人々に向かって呼びかけた、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)。私たちも、主が再び来られる時のために、道を備えなければいけない。「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。」(ヘブル12:12-13)

エクレシアとは、世から召し出された者、キリストのものとされ、主イエスの御名によって勝ち取られた彼の領分である。この領域を広げようではないか。主が再び来られる時に、報いを受ける僕となるために、主イエスの勝利を宣言する旗をこの地に立てようではないか。かつて主イエスのエルサレム入城を歓呼して迎えた群衆のように、白い衣を着、しゅろの枝を持って、御座と子羊の前に立ち、彼を誉めたたえる数え切れない群衆の魂を勝ち取ろう。主はご自分を迎えるために彼を心から待ち望む人々の出現を願っておられる。

* * *

「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。」(ゼカリヤ2:13)

今、未曾有のことが起ころうとしている。聖徒らが主イエスの勝利を宣言し、賛美する声の只中に、御国の統治がもたらされようとしている。神の公正で正しい裁きが真昼のように輝こうとしている。サタンの不法に悩まされ、悩みを負わされた聖徒らのために、神が立ち上がって正しい裁きを輝かせて下さる日が近づいている。その日、ただ主の栄光だけが輝くために、自分の魂の命を最後まで惜しまずにいよう。

ここ数日、初代教会のことが思われてならなかった。私たちはローマ帝国時代の人々に比べ、思いもかけない自由のうちに住んでいるはずだが、礼拝に出席することがまさに命がけの戦いを要するようになっているのだ。この戦いに勝って、愛する兄弟姉妹と共に主を誉め讃えるために、自分自身に頼らず、主イエスの勝利を宣言し続けることがどうしても必要である。

その間、サタンはものすごい執拗さをもって聖徒らを責め続けた。その責めの中には、人々が実際に犯した罪も、そうでない罪も含まれていた。もしわずかでも、自分自身として立とうとするならば、到底、立ちおおせることはできない。なぜなら、それが祭司の務めだからだ。祭司は、民の代表として、民の全ての罪を背負って彼らの罪をとりなすために主の御前に立たなければならない。私たちのまことの大祭司は主イエスであり、私たちの罪をとりなすことのできる方はただお一人であるが、私たち自身も、主の祭司として、この時代の罪を負わされることを避けられない。聖徒らにはあらゆるそしりがふりかかり、彼らは主の御名のゆえに世から憎まれ、嘲られ、あらゆる責めを負わされる。にも関わらず、民の前には神の聖なる祭司として立ち続けなければならないのだ。誰が主ご自身以外のものに頼って敵のこの激烈な訴えの前に立ちおおせよう。

エレミヤは言った、「主よ、わたしは知っています。人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを。主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」(エレミヤ10:23-24)

「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」(黙示1:17) 「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ6:5)

本当に、私たちは倒れ伏すことしかできない。私たちは汚れた唇の民の中に住んでいる不義なる民であり、主の御前に誰一人、自分自身として立ちおおせる人はいない。しかし、倒れて死んだようになった者たちに、主は「恐れるな」と優しく声をかけて下さり、この方の義によってのみ、信じる者は立ち上がる。
 
「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(ゼカリヤ4:6)

主は聖徒らを滅ぼすために懲らされるのでなく、彼らを神の義によって生かすために懲らされる。ただ主だけが義であり、いのちであることを知らせ、私たちが自分に頼らず、彼だけを信頼するように。もし私たちが信じるならば、主は私たちに清い帽子と祭服を着せて下さり、すべての訴えを取り除いて下さり、今度は手をかえて、サタンを責められる。なぜなら、サタンの働きも、最終的には主のご計画の中にあって、それは神が選び出された民をより一層、神に近づけるためにあるからだ。

「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。

主の使は、ヨシュアを戒めていった、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道にあゆみ、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。

見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」(ゼカリヤ第三章)


まことに人の歩む道は人が自分自身で決めることができず、自分自身の力で主に従い得た人は一人としていない。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8-9)

贖いは神の一方的な恵みであり、私たちの側にはどんな資格もない。世においても、私たちは何の役にも立たない無力な者、無きに等しい者に過ぎなかった(Ⅰコリント1:27,28)。なにゆえ、神がこのような者を愛され、召し、呼び続けておられるのか分からない。それでも、エルサレムも、エクレシアも、神が瞳のように大切に守っておられるのであり、鳥がひなをかくまうように、神は私たちを御翼の下にかくまって下さる。だから、私たちの心には、花嫁としての喜びが溢れ、主への愛が燃え上がらずにいられない、「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」(Ⅱコリント5:14)

だから、私は全ての聖徒らと共に声を張り上げて呼びたいのだ、主よ、来たりませ、来て、私たちを迎えて下さいと――。
 
* * *

「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」(Ⅰコリント1:26-29)

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)
 

どうか父がその栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」(マルコ10:29-30)


* * *
聖書は、私たちがキリストのゆえに受ける苦しみはほんの束の間に過ぎないことを告げている。そしてその苦しみも損失も決して損失で終わらず、永遠の重い栄光で報いられることを告げている。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(Ⅱコリント4:16-17)

ある人は駱駝が針の穴を通るように、主と共に十字架の死をくぐるまでの間、想像を絶するような苦しみを通らなければならなかった。しかし、死を経るまでの苦しみが深いならばなおさらのこと、主と共に真に十字架を経由したその後で、神は本当に思いもかけないほどの自由と豊かないのちをその人にお与え下さり、失われたものを何倍にも回復して下さり、驚くべき和解へと導いて下さる。

かつて苦しみを通らされた兄弟姉妹が、今、どれほどの自由と平安にあずかっているかを見るにつけても、神は本当に私たちの思いをはるかに越えて働かれ、豊かにいのちを与えて下さる方であることを信じないわけにはいかない。

主イエスはご自分が地上に来られたその目的を、次の短い一言で表された、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10) しかし、彼のよみがえりのいのちを得るための方法こそ、逆説的に、主と共に十字架において自分の魂の命を失っていることなのである。「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39) このような十字架の証に、聖徒らの交わりの中で触れることができることは、何という幸いなのだろうか。その励ましにより、自分の限られた想像力が打ち砕かれるのをどうして喜ばずにいられようか。

神は本当に私たちの内に力を働かせて、「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかた」(エペソ3:20)である。

「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:14-19)

色々な患難の只中を通らされている時には、それが何のためであるか人には分からない。自分にも分からないものを、まして周囲に理解できるはずもない。そんな時、世から聞こえて来る声は、あのヨブの妻のような罪定めの言葉だけかも知れない、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ2:9)

さまざまな困難を通して、サタンは私たちに神を恨ませようとし、聖徒らからも引き離そうとし、主イエスが与えて下さったいのちを見失わせようと仕向けるだろう。ところが、私たちがそれでも勇気を奮い起こして神を信頼し、信仰を捨てて滅びる者とならず、信じていのちを得る者となるならば、時と共に神の憐れみに満ちた御旨が、必ず、私たちを通して明らかにされるだろう。

そのとき、私たちの卑小さや、愚かさや、限界でさえ、神のはかりしれない愛に満ちた尊いご計画の尊さを示すための材料とされる。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28) 

アダムとエバの堕落という地すべりにさえキリストを通して余りある贖いをもたらされた神は、私たちのためにも、本当にとてつもない贖いを用意して下さっている。私たちの失敗、挫折、回り道でさえ、ご計画にとどまるならば、神の栄光へと変えられていくのである。ヤコブがその人生を通して練られ、ついに神の光によって輝く柔和な人となったように、私たちもキリストご自身の似姿へと変えられていくのである。このことを信じるだろうか? 太陽の光が満ちれば、月の輝きが消えうせるように、死を帯びて滅びゆく私たちのアダム来の性質が、キリストのいのちに飲みこまれてしまうことを信じるだろうか?

だから、主に栄光あれ! 私は衰え、彼は栄える! 一粒の麦が死んで初めて多くの実を結ぶ。その原則はいつも変わらない。だから、私は自分が今どこにいるかをかえりみるのではなく、ただ主イエスの豊かないのちにあずかることを願って、水の上を歩いたペテロのように、自分自身から目を離して、キリストご自身に目を注ごう。

もしも今、私が自分で自分の命を保ち、それを握りしめて離さず、自分で掴みとろうとするならば、それは結果的に失われるだろう。しかし、自分のわざをやめ、主が全てをなして下さることにまかせ、主を信じるならば、必ず、私の思いを越えて、主が働いて下さる。そしてそのみわざは時にかなって美しい。

だから、主の御名のゆえに束の間、低められることを私たちは恐れるまい。必ず、主が豊かな報いを返して下さることを信じているからだ。パウロは書いている、「そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。」(Ⅱテモテ1:12)

なぜヘブル書に次のように書いてあるか、今こそ、分からないでおられようか。「ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。」(ヘブル11:35) 彼らは苦しみから放免されることを願わなかった! 更にまさったよみがえりのいのちの価値を知っていたがゆえに、朽ちゆくアダムの命を惜しまなかった。死ぬべきものがいのちに飲まれてしまうことを願っていたゆえに、自分の魂の命を自ら拒んだのだ。「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」(黙示12:11)

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ4:4)

「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:11)


人の心には、自分の願うすべてを自分の手で掴み取りたいという願いがないわけではない。しかし、アダムにあって自分の望みの全てを失うとしても、キリストの安息の中にとどまることの方にはるかに価値があるのだ。自分の手で自分の願いを掴み取ろうとすることはむなしく、不毛であるが、忍耐して主を待ち続け、主がお与え下さるに任せるならば、豊かな報いを受けるだろう。主はいつも言われる、「あなたがするのではない、わたしがするのだ」と。

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。」(ヘブル4:10) 

* * *
 
「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:7-14)



この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい

「あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼き尽くす火である。」(ヘブル12:25-29)

* * *

今、畏れの心を持って、主の御前に静まりたいと思う。時代が煮詰まって来ていること、その中で、私の自由裁量の領域がますます狭められていること、そこで生まれながらの自分自身を十字架において拒むことがどれほど必要であるかを、主が教えて下さっているからである。

聖書にはこうある、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。」(ルカ14:26-30)


この御言葉は、信仰の道を先へ進んで行くにつれて、自分の生まれながらの命をことごとく捨て切る者でなければ、主の弟子として従うことが決してできなくなることを告げている。私たちは生まれながらの自分自身と、自分から出て来る願いを十字架において拒み、自分自身には全く頼らず、ただ主イエスだけに頼って生きるだろうか。

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行なって約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。

『もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」(ヘブル10:35-39)


信仰を捨てる者は滅びる。聖書は、不信仰な者、おくびょう者をはっきりと罪に定めている。「おくびょうな者、信じない者」(黙示21:8)には、火と硫黄の池が行く手に待ち構えている。しかも、悔い改めの機会さえ、いつも与えられるわけではない。エサウはたった一杯の食のために長子の権を売ったが、「あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」(ヘブル12:17)

だから、「きょう」と言われている日に、心を頑なにせず、御霊の声に聞き従うことがどれほど重要であるか。主の憐れみがまだ注がれているうちに、まだ光があるうちに、己が罪を悔い改めて、暗闇から抜け出し、畏れかしこみつつ御前に進み出て、神の光の中を歩むことがどれほど重要であるか。

御言葉は、主に従うために私たちにはれっきとして代償が必要であることを示している。自分の生まれながらの魂を愛し、手放さない者が、主に従うことは決してできない。生まれながらの自分を愛することそのものが罪である、という認識にまで私たちは至らなければならない。主イエスはゲッセマネの園でご自分の魂の命を拒んで御旨に従うために、血を滴らせるほど祈られたのだ。主イエスは人の魂の命は堕落しており、人の生まれながらの魂は、決して十字架を受け入れることはできないことを知っておられた、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9) 主は罪を犯されなかったが、信じる者たちの代表として、生まれながらの魂を拒んで御旨に従われたのだ。

私たちは、真理を受け入れようとしない人間の生まれながらの魂――セルフという憎むべき悪の要塞、巣窟に対して、決然とした態度を保持するだろうか。これを絶えず憎むべきものとみなし、自分の魂の命に対して神が下された十字架の死刑宣告を速やかに受け入れるだろうか。「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:4)との警告は、人の生まれながらの自己がとんなに神の御前で腐敗した憎むべきものであるか、主に従うためには、信者が己が魂に対して血を流すほどの抵抗をせねばならないことを、まだ知らない信者に向けて発せられたのである。

聖書は言う、「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう。

すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しか し、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」(Ⅱペ テロ3:3-7)


ノアの時代、平和な時代が突如として終わりを告げて、全世界が水に覆われて滅びるなど、ほとんど誰も想像しなかった。人々はそのときが来るまで、己が欲望に基づいて心のままに生活していた。ところが、ノアの一家たった8人だけが信仰により救われて、その他の圧倒的大多数――娶ったり嫁いだり、飲んだり食べたり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしながら、気ままに暮らしていた人々――がみな、己が罪のゆえに滅んだのだ。

そのときが来るまで、箱舟こそが世間の嘲りの的であった、ノアの一家は妄想にとりつかれた終末論者とされ、ヒューマニズムの見地から、彼らの主張する滅びなど、正気の沙汰ではないように思われたに違いない。誰が想像しただろうか、平和に暮らしていたように見えたその時代の全ての子らの上に、神の御怒りがとどまり、信仰に生きたノアの一家だけが義とされるなど。しかし、神は震われないものが何であるかを明らかにされた。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐことになった。」(ヘブル11:7) 

この箱舟はキリストの十字架の型である。箱舟の外に広がっている時代はあたかも平和そうに見えて、その平和は偽りであった。その平和は十字架を介さない滅び行く平和であり、まさに崩れようとしていたのだが、人々はそれに気づかなかった。そして、箱舟の中にこそ、まことの平和の君がおられ、安息があった。嵐の海の上を行く船に、弟子たちとともに主イエスが乗っておられたように、その箱舟は、主イエスの十字架の装甲であった。外でどんなに嘲りや罵りの暴風が吹き荒れようとも、その中は台風の目のように静かであった。それだけでなく、そこには主がおられたので勝利があった。アダムの命に対して死をもたらした十字架にキリストと共にとどまり続けることこそ、私たちが主と共に復活に至るために必要な条件である。十字架は私たちを安息の地に導く。そして、安息はキリストご自身である。

今、震われないものが残るために、全世界はもう一度震われようとしている。焼き尽くす火である神の燃える炎によって、天も地も震われようとしている。しかし、私たちは震われない国を受けているのだから感謝し、この「揺るがぬ土台の上に建てられた都」(ヘブル11:10)が姿を現すときを待ち望んでいる。私たちが忍耐できるのは、望みの確信を持っているからだ。その確信とは、キリストにあって一つとされた新しい天と地が姿を現し、主イエスが再び来られて、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」(エペソ5:27)として私たちをお迎え下さることである。もっと言うならば、キリストご自身が私たちの栄光の望みなのである。

私たちはこの朽ちゆく肉体の幕屋の中にあって、朽ちないキリストを着せられることを切に願いながら、忍耐している。どうか、ご自分を低くして死に至るまで御父に従われた主イエスが、御霊を通して、神の御旨が何であるかを教えて下さいますように。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示の霊を豊かに与えて下さり、私たちに神を認めさせ、霊の目を開いて下さいますように。そして、私たちが神に召されて抱いている望みがどんなに大きなものであって、聖徒らが継ぐべき神の国がどれほど栄光に富んでいるか、神の力強い活動を通して働く力が、私たち信じる者にとってどれほど絶大なものであるかを、私たちが知ることができますように。私たちは信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者なのです…。

「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。」(Ⅱペテロ3:8-14)



よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう

日曜礼拝の後、驚くほど活力が出て、食欲は回復し、恐れは逃げ去った。ある姉妹が言った、私の病はもう主と共に十字架で終わらされたと。そのことを私は神にいつも訴えていると。死の淵を見たからこそ、それはいのちがけの訴えなのである。その人は言った、聖霊の宮である自分自身の身体を、義の武器として捧げて神の栄光を現すのに、どうして病などに陥って弱々しくいられようかと。

私たちの目の前にはいのちの道と、死の道とが置かれている。「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」(申命記30:19) 

さて、命を選ぶとは何か。それは主イエス・キリストを信頼することである。主イエスが私たちのために十字架で達成された御業のすべてを信じて我が物として受け取る(掴み取る)ことである。だから、今一度、自分に問うてみよう、その妨げとなるものが私たちの心にないかどうか。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)

これは信仰のチャレンジである。この完全な癒しをあなたは自分のものとして受け取るだろうか? キリストのよみがえりの命が、私たちの死ぬべき身体においても完全な命として働くことを信じるか。自分の罪の債務証書がキリストによって完済されたことを認めるか。それとも、依然として、弱く、無益な自分のアダム来の出自にすがりつづけ、自分で自分の罪を背負い続けるのか…。

神がキリストにあって王族の衣装を着せて下さろうというのに、何のために乞食の衣装にすがる必要があるのか。今、心の中で、神の栄光を曇らせる全ての不信仰を憎み、それに訣別宣言を突きつけることを決めようではないか。降り注ぐ雨のように私たちにいのちを与えようとする神の御霊、十字架の死を経てよみがえられたキリストの自由な働きを、これ以上、不信仰によって妨げないようにしようではないか。

ああ、死も、病も、弱さも、そのために流される自己憐憫の涙も、すべてが罪の報酬であり、神の御前では憎むべきものなのだ。死と地獄を打ち破られた主イエスは、これら全ての束縛から私たちを解放しようとしておられ、すでに自由にして下さったのだ。もし私たちさえ信じるならば、それは私たちのものだ。なのに、どうしていのちを求めないのか。どうしてこの宝を捨てて束縛の中にとどまろうとするのか。もしも本当にイエスの復活のいのちを知りたいならば、これら死の性質を帯びたものと完全に訣別せよ、それがもう二度と、自分に戻って来ることを許さないように!

かつて私が未熟であった頃、私の弱さに十分な同情と理解を示してくれた信仰者らが存在したことは大いなる感謝であったが、だからといって、いつまでも弱さについて語り続けるのはもううんざりである。これ以上、ヒューマニズムという偽りの美談に包まれた、人を死に至らしめるだけの弱さはもう十分である。

私たちは主と共に十字架の死という究極の弱さを経たからこそ、御子の復活のいのちの中に置かれているのだ。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13) 愛する御子の支配下においては、すべてが完了している。十字架は決済済みの取引である。私たちの負債は彼にあって完済された。だから、アダムの命にある自分がどんなものであるにせよ、それは主と共に死んだとただ認めるだけで良い。

目の前に新しい創造という地境が開けているのに、くれぐれもアダムにある自分の出自を振り返って引き返そうとしてはならない。それに責任を負おうとしてはいけない。かつて古き人が生きていた不毛の地を振り返ってはいけない。もしそんなことをするならば、ソドムを振り返ったロトの妻のようになるだろう。

ただ復活されたイエスが私たちの内に生きておられることだけに信頼しなければならない。もしそうするならば、自分の弱さに責任を負わされることはなくなる、「わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。」(ローマ8:12) 主を信ぜよ、主の強さに身を委ねよ。いのちの御霊の法則に大胆に身を委ねよ。そうすれば、失われ、死んでいた者たちが神に対して生きる者とされ、主と共によみがえらされて、永遠の実を結ぶ者とされるだろう。ぶどうの木であるイエスにつながっていればこそ、私たちは彼のいのちによって、神に対して生きるのだ。

キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強い。すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。

あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。しかしわたしは、自分たちが見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。」(Ⅱコリント13:4-6)


「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体には一つのとげが与えられた、それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。

それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(Ⅱコリント12:7-10)


パウロは内におられる栄光の望みであるキリストのはかりしれない力のゆえに、弱さも、侮辱も、危難も、迫害も、行き詰まりも、恐れはしなかった。同様に、もしも真に主と共に十字架につけられたならば、私たちは主にあって強い。なぜなら、主と共に復活し、天に引き上げられ、御座に座す者とされたからである。アダムにある自己ははるか足の下、それは水の下にすでに沈んでいる。私たちは自分自身の命を憎み、それを否むだろうか。それがもう自分の手の届かないところにあって、キリストと共に死んでいることを認めるだろうか。もし主と共に死を経るならば、必ず、復活がある。死をも、墓をも打ち破った主イエスのはかりしれない力強い命が、この死ぬべき肉体の幕屋の内側から私たちを立ち上がらせる。それは生活条件が変わるからではない、肉による慰めがもたらされるからでもない、ただこの内なる方の尊いはかりしれないいのちの力によってのみ、私たちはどんな条件下からでも立ち上がるだろう。

このきよい、汚れのない、尊い復活のいのちこそ、私たちのために義となり聖となり贖いとなられたキリストご自身なのである。内におられ、今も生きておられるこの方――サタンを打ち破り、死も、墓も、ハデスの門も打ち破られたこの方だけが、私たちを神に対して生かす者とすることができる。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(Ⅰコリント6:20)

この方のいのちこそ、御国の統治そのものである。王の王は天地を統べ治める方である。敵の訴えの前では、血潮も雄弁に私たちを弁護するが、しかしこのパースンでありいのちなる方ご自身が、私たちの内に働いて、どんなものよりも力強く私たちを弁護し、守って下さる。この方によってのみ、死んでいた私たちは生きる。

それだから、私たちは誰の支配下にいるのか、もう一度、自分を吟味しようではないか。やみの力か、それとも、愛する御子の支配下か。もし御子を信じるならば、すでに御国が到来している。もしキリストの内にとどまるならば、私たちは豊かに実を結ぶ枝とされ――それによって父なる神が栄光をお受けになるのである。

だから、恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父なる神の御心なのである。私たちは自分をとりまく貧困や、弱さや、恐れや、病や、死を、主が憎まれたように憎み、拒絶するだろうか? 信仰によって、絶えず死を拒んでイエスのいのちを選び取るだろうか? 私たちにいのちを、自由をお与え下さる神のはかりしれない憐れみに満ちた愛なる御旨を掴み取るだろうか? 

神の国は断じて目に見える喧騒や、熱狂や、交わりそのものの中にあるものではなく、絶えず、死すべきアダムの肉を、古き自己を拒んでまことのいのちなるキリストを選び取る(御子の)信仰を通じて、一人ひとりの霊の内側に到来しているのである。そして、御国はキリストと共にすでに私たちの只中に来ている。御霊は、私たちが神の国を受け継ぐことの約束の保証である。もし信じるならば、私たちはすでに御国の統治の中にいるのだ。主と共に十字架につけられたあの強盗のように、私たちは主と共に安息の中に入れられている。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)

* * *
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。

これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
かれらは 主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。

あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。

その時、見えない人の目は開かれ、
聞えない人の耳は聞えるようになる。
その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
口のきけない人の舌は喜び歌う。

それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、
葦、よしの茂りあう所となる。

そこに大路がある。
その道は聖なる道ととなえられる。
汚れた者はこれを通りすぎることはできない。
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。

そこには、ししはおらず、
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
その所でこれに会うことはない。
ただ、あながわれた者のみ、そこを歩む。
主にあながわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ第35章)

* * *
 
「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

『わたしたちはあなたのために終日、
死に定められており、
ほふられる羊のように見られている』

と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:31-39)