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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように

緑のビルの仲間から手紙が送られて来ました。このようなブログを読んだことなく、私の生きて来た道も知らない市民からです。それにも関わらず、主がなさる何という不思議! 同じ御言葉が御身体の内に響き合っていることを感じずにいられないのです。

どんなに境遇や立場が違い、どれほど互いについて知らなくとも、私たちは同じ主の御旨の中を生きている! 私たちは一つの身体として結ばれており、神の家族である! 疲れたり、孤独に陥って、弱っている肢体のうちに流れ込むキリストの命の力。これほどまでに何もかもが異なっている人々を愛によって結びつけることのできる主の不思議な御業に驚愕するのみなのです。本人の承諾を得て掲載します。

* * *愛するヴィオロンへ* * *

私がヴィオロンを愛しているなら、キリスト様はどれだけあなたを愛している事でしょうか。私は誰かのために「死ね」と言われたら、死ぬ事が出来ないでしょう。しかし、キリスト様はいさぎよく死んで下さいました。ヴィオロンのためにも、私のためにも。その上、死に打ち勝って下さいました。それはヴィオロンも、私もキリストと共に死に、キリストと共によみがえり、キリストと共に天の座にすわらされたのです(エペソ2:6)

これはまぎれもない事実であり、私達の父なる神は時空を超えて何でもおできになる偉大なお方です。そしてあらゆる問題を全て解決して下さり、そして何よりも、間もなく天の御国から私達を迎えに来て下さるのです。もうあまり時間がありません。人生は一回きりしかありません。せっかくこうして地上にいる間は、心も思いも、自分の持っている全てを、キリストを知るために使いましょう。そのために、時間を使うのです。父なる神はどれだけ真実なお方であられるか、もっともっと神を知るために、時間を使いましょう。求めるのです。受けますから。それはヴィオロンの喜びが満ち満ちたものとなるためなのです
(ヨハネ16:24)

声に出して異言で祈り、(異言を話す者は、人に話すのではなく神に話すのです、誰も聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです、
Ⅰコリント14:2)、(自分だけで神に向かって話しなさい、Ⅰコリント14:28)。神は私達がその信仰によって成長し、全ての事に満たされ、神の満ち満ちたさまにまで成長する事を望んでおられるのです(エペソ3:19)

さあ、ヴィオロン、前へ進むぞ! 立ちどまるな! 神の栄光の渦の中へ、つっ走って行くのだ!


御言葉の力(信仰告白)

「我が子よ、もしあなたが……あなたの口の言葉によってあなた自身が罠にかかり、あなたの口の言葉によって捕らえられたなら……」と、箴言にあります(箴言6:1-2)

信仰の言葉はあなたを勝利に導くが、恐れの言葉は、あなたを敗北に落とす。言葉こそ最も強力な武器だ。この事実を絶対に忘れてはいけません。人間は霊的な存在として、神と同様、信仰に応じた行動をしているのです。神の御言葉は、人を全き者、つまり、人の霊と魂と肉体を調和のとれた本物の人の姿にしようと働いています。

主の御言葉こそ、主イエス御自身であって、私達(ヴィオロン)の知恵となり、また、義と聖めと贖いとになっていて下さるのです。多くの人々が自分自身の口から出た言葉によって、自分を拘束し、自分で自分を縛り苦しめています。しかし、ヴィオロンが神の言葉を口ずさみ、心から神の御言葉を語る習慣を身に付けるならば、神の御言葉はヴィオロンを自由にし、御言葉通りの健康や、御言葉通りのいやしと回復と幸せを経験させてくれるでしょう。

神に感謝すべき事は、神の御言葉は必ず実現し、成就する事です。神の御言葉を語る者は、信仰の高嶺に自分を引き上げているのです。そして、主イエス・キリストと同様、口の言葉によって神の能力が現われ、御言葉通りの神の御力がヴィオロンに現われるだけに止まらず、ヴィオロンの周囲の人に及びます。これからは、毎日、神の御言葉を口ずさみ、心に蓄えていきましょう。


宣言
 
どうか私達の主、イエス・キリストの神すなわち栄光の父が神を知るための知恵と啓示の御霊をあなたがた(ヴィオロン)に与えて下さいますように。また、あなたがた(ヴィオロン)の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのように栄光に富んだものか、また神の全能の力によって働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかをあなたがた(ヴィオロン)が知る事ができますように(エペソ1:17-19)

私達全てのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒に全ての物を(ヴィオロン)に恵んで下さらない事がありましょうか。(ローマ8:32)

(ヴィオロン)に全ての物を豊かに与えて楽しませて下さる神に望みを置くように。(Ⅰテモテ6:17)

私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ我が岩、我がやぐら、私はゆるがされる事はない。私の救いと、私の栄光は神にかかっている。私の力の岩と避け所は神のうちにある。ヴィオロンよ、どんな時にも神に信頼せよ。ヴィオロンの心を神の御前に注ぎ出せ。神はヴィオロンの避け所である。(詩篇62:5-8)

心を尽くして主に拠りたのめ。自分の悟りにたよるな(箴言3:5)。主に信頼して善を行なえ。地に住み誠実を養え。主をヴィオロンの喜びとせよ。主はヴィオロンの心の願いを叶えて下さる。ヴィオロンの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。主はヴィオロンの義を光のように、ヴィオロンのさばきを真昼のように輝かされる。(詩篇37:3-6)

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力を持ってヴィオロンの内なる人を強くして下さいますように。こうしてキリストがヴィオロンの信仰によって、ヴィオロンの心の内に住んで下さいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた(ヴィオロン)が、全ての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知る事ができますように。こうして神ご自身の満ち満ちたさまにまでヴィオロンが満たされますように。どうかヴィオロンの内に働く力によってヴィオロンの願うところ、思うところの全てを超えて豊かに施す事のできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光がとこしえまでありますように。アーメン.。(エペソ3:16-20)

神は御心のままにヴィオロンのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです。全ての事をつぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2:13-14)

ヴィオロンがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされますように。また主にかなった歩みをしてあらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を私達(ヴィオロン)に与えて下さった父なる神に喜びをもって感謝をささげる事ができますように。神は私達(ヴィオロン)を暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。(コロサイ1:9-13)

あなたがた(ヴィオロン)は選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それはヴィオロンを闇の中から、ご自分の驚くべきべき光の中に招いて下さった方のすばらしいみわざをヴィイオロンが宣べ伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)

勝利の宣言
 

私はキリストの体であり、サタンは私に力を発揮できない。私(ヴィオロン)は神から生まれていて、もう既にサタンに勝っている。私(ヴィオロン)の内におられる神は、この世のどんなものよりも偉大であって力がある。私(ヴィオロン)はキリストのおかげで、のろいから解放された。もうやまいがこの自分の身体に影響を及ぼすことを許さない。主イエス・キリストの御名によって、どんな病気も、どんな悪も、この私(ヴィオロン)に触れる事を禁ずる。

私は勝利者です。私の勝利は、御子イエス・キリストの血と、私の告白によって、私のものです。キリストは呪いから、貧しさから、病気から、死から私(ヴィオロン)を贖い出して下さいました。キリストは貧しさの代わりに富を与え、キリストは病の代わりに健康を与えて下さいました。私が主を喜んでいるので、主は私(ヴィオロン)の願いを叶えて下さる。私の繁栄を主が喜んで下さる。アーメン。



(2011.12.23)
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もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです

以前に、異端の教えの危険性について知人と共に語り合った時のことを思い出します。こんなことを語ったのです、もしも信者がわずかでも偽りの教えを受け入れてしまったと気づいたならば、それとは早急に訣別することが必要であると。もし公に受け入れた偽りであれば、公に誤りを認めて訣別した方が良い。とにかくはっきりと自分の間違いを認めて悔い改めを表明し、訣別の告白をすることが必要である。

もし自分の誤りを認めるのがためらわれるとか、名誉が失われるのが嫌だというような理由で、事の次第を曖昧にし、わずかな偽りでも受け入れたまま放置するならば、いずれそれはその人の全身を焼き尽くして死に至らせてしまうだろう。だから、偽りと公に訣別するかどうかは、信者の永遠の命にかかわる極めて重大な問題なのだと。

さらに、その偽りがその人に侵入するに至ったきっかけとして、必ず、その人の何らかの肉の弱さがサタンの足がかりとして存在する。その肉の弱さこそ、その人の内でサタンの地歩をなして来たものであるから、その地歩を取り除くことも極めて重要である。そうでなければ、表面的にどんなに偽りを正しても、同じことの繰り返しになるからである。そこで信者は、どこからどうやってその偽りが自分に侵入したのかをつぶさに振り返り、自分が主と共に十字架に引き渡さないで留保している肉の思い(たとえば自己憐憫や、赦せない思い、自己義認、不平、憤り、失意、落胆、苦い思い、神に対する恨み、等々)を持っているのではないか自分を吟味し、それらの御言葉に反し、神の御前で悪とされる反逆的な思いをことごとく手放す決意をし、それを悔い改め、訣別することが必要であると語ったのです。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)

ウォッチマン・ニーも書いていましたが、そのようにして内側からサタンの地歩となる肉の思いを取り除く作業を着々と進めていくことによって、一旦は偽りによってとらえられ、とりこにされて自由を失い、圧迫され、落胆させられたその人の霊が、もう一度、真理の光に開かれ、健康さを取り戻すことが可能となる場合もあるのです。信者は抵抗して自由を取り戻さなければなりません。それは人が内側で自分を縛っているサタンの力に気づき、そこから信仰と御言葉の力によって解放されていく過程です。

とにかく罪を犯したなら、悔い改めの表明が必要です。だから、私は兄弟たちを疑ったり、告発したりするような偽りの思いを信じて受け入れてしまったことや、自己を義とする思いを受け入れてしまったことについて、それを恐るべき罪として告白するのです。そのとき、主がそれらと私を訣別させて下さり、血潮によって私を罪から清めて下さり、思いを新しくして下さることを信じます。何よりも、どうか私の心を単一にして下さい、と心から主に願うのです。しかし、単一な心は、主が忌み嫌われるものを留保したままでは得られません。罪の悔い改めを拒んだり、偽りとの訣別をしなかったり、サタンの地歩を取り除こうとしないならば、どうして単一な心が得られましょうか。

思いが単一でないということは、神の御前でどんなに恐ろしいことでしょうか。神は唯一であり(ローマ3:30)、キリストはその独り子です。神の御霊は一つであり(Ⅰコリント12:9,12:13他)、真理はただ一つです。真理は首尾一貫しており、いかなる分裂も矛盾も論理破綻もありません。論理破綻をきたすものは偽りです。そして、偽りはあらゆる自己矛盾に満ちています。偽りは悪魔から出て来たものであり、悪魔は偽りの父(ヨハネ8:44)なのです。

この偽りというものを言い変えるならば、二心や、真理に対する貞操のなさ、となります。二心とは分裂、自己矛盾のことであり、首尾一貫しない心、真理だけに従わない心、ただお一人の神だけを信頼できずに、絶え間なく二つのものの間で揺れ動く定まらない思いです。この不信、自己矛盾、論理破綻、分裂、不従順こそ、真理に対する貞操のなさであり、もっと言うならば霊的姦淫なのです。これに対して貞潔とは、ただ一つの神、一つの御霊、一つの真理に対していかなる矛盾もなく従順であることです。

「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うようなことがあってはと、私は心配しています。というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

ここで貞潔という言葉が、霊的姦淫に対する真摯な警告として使われています。貞潔を失うとは、信者の思いが汚されて真理に対して二心になる(分裂する)ことに対する警告です。二心とは、言葉通り、二つのものを同時にとろうとする態度であり、真理と、そうでないものの両方を見つめること、いや、真理と偽りの両方が視野に入っている状態なのです(しかし信者は決して真理とそうでないものを二つとも同時に選択することができませんから(真理は排他的なものです)、もし偽りを見つめるならば、最終的に偽りを選び取る恐るべき危険性に身をさらすことになってしまうのです)。

創世記において蛇がどのようにエバを誘惑したのかを思い出しますと、蛇は非常に狡猾な言葉を用いて、エバの関心をまず彼女が単一に見つめるべきいのちの木からそらせました。そして、彼女が思いを向けるべきでない別の木の方向へと誘導していったのです。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)

蛇は最初から自分の投げかけた質問内容が誤っていることを知っていました。蛇の目的は、正しい答えを得ることになどなく、神の言葉を歪曲して作られたこの質問によって、エバの関心をいのちの木から、彼女が「食べてはならない」と命じられた木の方向へ巧みにそらせることにあったのです。蛇は善悪の質問をエバに投げかけることによって、巧みに、彼女の心を善ではなく悪の方向へと誘導し、彼女の眼差しを真理ではなく、真理ではないものの方向へ向けることに成功したのです。そのとき、彼女の視野に真理と偽りの両方が入って来たのです。それが堕落にきっかけを与えたのでした。

二心の恐るべき危険はここにあります。私たち信者には二つのものを同時に見ることなどできないのです。真理は偽りと同時に選択されることは決してできないのです。

話が戻るようですが、偽りの教えは、私たちが旧創造に属する思いを擁護して持ち越そうとする時、そこから入って来ることが多いのです。それはアカンが密かに取っておこうとしたバビロンの美しい外套のように、とても小さなパン種であっても、その人の全身を焼き尽くす危険となり、もしかしたら霊的戦いを完全な敗北に導く原因となりかねません。特に警戒すべきは、自己憐憫、自己義認、恨み、妬み、赦さない心、等々を持ち続けることです。

たとえば病というものについて考えてみましょう。病というものを美化し、その弱さのために涙を流す態度がある場合にはどれほど大きな危険となるかを考えてみましょう。ルカによる福音書第13章には、主イエスが、十八年も病の霊につかれて腰が曲がって全然伸ばすことのできない女を癒された下りがあります。ここに彼女の病が病の霊」(ルカ13:10)によるものであるとはっきりと示されており、さらに、主イエスは彼女を癒された後にこう言っています、「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。」(ルカ13:16)

聖書は、彼女の病がサタンから来たものであるとはっきり告げています。アブラハムの娘である彼女は、よみがえりでありいのちである主イエスを信じることによって、その病から解放される権利を持っていたのです。ところが、もしもここで、この女が癒されることを拒んでいたらどうなっていたでしょう。主イエスが自分を癒して下さることを信じず、むしろ、自己憐憫に陥って、主イエスが彼女の弱さに同情して涙を流してくださることだけを求め、「あなたは癒されなくて良い、なぜならあなたは不完全なままでありのままで神に愛されている子供なのだから」と気休めの言葉をかけて下さることだけを求めていたならば、どうなっていたでしょう。

それと同じように、人類の肉の弱さのために自分(人類)を憐れんで涙を流すことは、見かけ上、とても美しい行いのように見えるでしょうし、同情的な行為にも見えるでしょう。よみがえりであり、いのちである御子の完全な復活の命を信じて、完全な癒しを受け取る信仰に比べ、自分の不完全さに甘んじて涙を流すことには信仰が要らないので容易なのです。人が自分たちの(罪なる肉の)弱さのために涙を流すとき、それは世間から見れば、とても憐れみに満ちた行為として拍手で迎えられるかも知れません。なぜなら、その方が受け入れやすいし、理解可能で、容易だからです。何よりも、それは人知の領域にとどまっているからです。ですから、間違いなくそれは多くの人々に支持されるでしょう。

しかし、それは主の御前で忌み嫌われる態度なのだと私は確信します。どうしてかと言えば、それは本質的に、キリストが十字架において私たちに与えて下さった復活の命の完全性を否定する態度を意味するからです。それは復活以前のものであり、神が裁きの宣告を下されたものを取り戻し、擁護しようとする態度だからです。アダムの命に属する肉の弱さを擁護すること自体、はっきり言って、御子の復活そのものの否定なのです。そしてこの復活の領域は人知を超えているのです。

ですから、もしも本当に「いのちの木」を選び取りたいならば、「食べてはならない木」とは完全に訣別する態度が必要です。これは旧創造に属するもの、アダムの滅び行く命に属するもの、神が刑罰の下に置いておられるものを全て十字架の死へと従順に引き渡す態度、それらと訣別し、決してそれを擁護しないという態度です。ですから、私はこう思います、信者は決して自分の肉の弱さや、不完全さを、主の御前で留保しようとしてはいけないのだと。もしも、ありのままの自分を擁護したり、肉の弱さをかばおうとしたり、自己義認、自己憐憫や、恨み、不平に陥ったことが分かったならば、早急に悔い改め、そのような感情は神の御前に汚れたものとして訣別するべきです。そうでないと、そこから偽りが侵入し、二心が広がっていくでしょう。自らの肉の弱さのために涙を流すことは、どんなに人の目に美しく見えても、旧創造を擁護しようとする思いであり、これを持ち越しているならば、いずれ復活の命に敵対する者となっていくことでしょう。

ですから、私は旧創造の不完全性を擁護したり、自分の肉の弱さを憐れんだり、病(病的な傾向、不健全さを含む)などの不完全性をありのままかばおうとすることはしません、むしろそのようなことを積極的に罪として認め、その肉の弱さを十字架の死へと引き渡します。そして、キリストが私のために十字架を通して与えて下さった命は、聖なる、尊い、完全な復活の命であり、それが私の内側で働いて全ての欠乏を補い、私の肉を霊によって殺し、私の死ぬべき身体をも健やかに生かして十分に余りある命であることを認めます。

なぜパウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(Ⅰコリント4:20)と言ったのでしょうか。それはキリストの御霊は、この世を越えた来るべき国の法則性という力によって力強く統治する命だからです。それは私たちの想像を超えており、この世のあらゆる法則を超越して、いのちの御霊の法則によって支配するものであり、キリストは最後のアダムとして命を与える霊となられたのです。どうしてこの御霊が私たちの思いを清めるだけでなく、私たちの地上の幕屋である朽ちゆく身体をも健やかに生かさない理由があるでしょうか。そればかりか、御霊は私たちを十字架において御子と共に死と復活にあずからせ、新創造として復活の領域で生かすのです。

「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。…

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:10-13)

私のこれまでの全生涯は健康になるための激しい戦いだったとも言えます。巷の医者に幾度、匙を投げられても、それでも、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31-32)と言われたまことの医者なる主イエスの言葉にすがって、ひたすら病を手を切ることを願い続けて、主を追い続ける人のようでした。なりふり構っている場合ではありません、病と妥協することは死を選ぶことであり、何しろ、この方の御言葉のメスによる手術の成功に、私の命運のすべてがかかっているのですから。

自分の病の深さを見た時に、どんなに恐れおののいたとしても、この方の手術はどんな病人相手でも、完了した」(ヨハネ19:30)と言われるほどに折り紙つきなのです。その贖いの完全性は、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。」(ルカ10:35)と言われているほどなのです。ただ罪を赦し、弱さを補い、病を癒し、欠乏を補うとか、そんなところにとどまらず、勝ち得て余りある命を与えるものなのです。ですから、私はその完了の宣告にすがるのみです。

人々はまるで逃げ道のように言います、御心ならば・・・、と。私は主イエスの御心は、私を癒し、健やかに生かすことにあると信じています。神の御心は、御子を信じる者に欠けのない健やかな命を与えることにあり、来るべき世にまで続く永遠の命を与えて私たちを生かすことにあるのです。御霊は、この死ぬべきアダムの命に比べられないほどにまさる御子の尊い復活の命として、私たちの死ぬべき身体をも生かすのです。それだけでなく、御霊は十字架において私たちを御子とともに死と復活にあずからせ、はかりしれない復活の命の領域において、キリストと共に御座にまで引き上げてくださり、キリストと共に統治する者とするのです。

それなのに、なぜ私たちを死に至らしめることしかできない、旧創造に属する、食べてはならない木を見つめなくてはならないのでしょうか。なぜそんな無価値なものを憐れんで涙を流さねばならないのでしょうか。いや、二心は沢山です、曲がったものはもう沢山です、真っ直ぐにいのちの木を見つめるべきです。いのちの木だけを選び取るべきです。御旨の中だけを歩み、主イエスの心に触れるべきです。旧創造の全てを主と共に残らず十字架で死に渡し、復活を受け取るべきです。主イエスの心は、御子を信じる者がご自身の完全な命にあずかり、癒され、きよくされ、彼と共に復活の領域の中を生きることにあるのですから。人にはできないことも、神にはできます、ですから、私はあの病人と同じように主の御前に自分を投げ出し、ひれ伏して懇願するのです。

「さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「
わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」(ルカ5:12-13)


神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神は彼らを義として下さるのです。


「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

 「真理とは何か」(ヨハネ18:38)とピラトのように尋ねる人に向かって私は語りました、私が今までに知った最も大きな真理はこうですと、「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:19) 「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14) 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)と。

 私たちはキリストと共に十字架につけられて死んだのです。私たちはこの方と共に十字架につけられて死んだ者であって、私たちの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:3) 

 キリストご自身が、真理であり、よみがえりであり、いのちなのです。私たちはこの方と共に死んだだけでなく、よみがえったのです。そして天に昇り、共に御座にまで引き上げられているのです。この真理に立たずしては、 いかなる自由もないのです。キリストと共なる死を認めないならば、復活に至る道はないのです。そして、この真理は私の知っていた教会では決して教えられることもなく、聞くこともできなかったのです。

 ピラトは博学であったかも知れませんし、人類愛にさえ立っていたかも知れません。彼はキリストには処刑される理由がないことを知っていたのです。そして、できるならば、宗教的争いを終わらせて、この方を無罪にするために何か手立てはないかとさえ思ったのです。しかし、ピラトは人間と世を知ってはいましたが、真理を知りませんでした。ピラトはこの世の政治には精通していたかも知れませんが、彼の目には神の復活の命に至る道が閉ざされていたのです。

 私たちはこの世の有様を見る時、あれやこれやの理不尽が終わることを願い、自分以外のさまざまなものが死ぬべきだと考えているべきかも知れません。しかし、断じてそうではありません。死ぬべきものは肉につける古き私自身なのです。これがサタンの支配するこの世の全ての理不尽な統治から私たちを救い出し、愛する御子の支配下に移すために神が取られた唯一の奇跡的な方法なのです。主イエスは私たちの旧創造のすべてを十字架で負って死に赴いて下さることにより、この旧創造に属する「わたし」というものに終わりをもたらして下さったのです。そして、その古き私の代わりに、キリストご自身の尊い命をもたらして下さり、神が意図しておられる新しい創造として、私たちを御子の復活の命と同じ命によって生かす道を開いて下さったのです。

「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。」(ピリピ3:3)

 私はゴルゴダで主と共に処刑されたのです。この事実を認め、彼の死と復活を実際としていたたくことだけが、地獄の大軍勢が大挙して押し寄せ、猛攻撃を加えるときにも、その力から私たちを守るのです。どんなにヒューマニズムで武装しても、それによって自分を守ることは全くできません。しかし、御子と共なる十字架の死にとどまるならば、鳥は死体をついばむことはできても、復活の命には全く触れられません。

 今のあなたの状態が絶望的に思われるというだけであきらめてはなりません。「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)と書いてあります。問題が明らかにされるなら、対処されるときが来たということです、まことの医者である方がついておられるのです、何を恐れる必要がありますか。

 十字架のより深い徹底的な働きが、私たちの思いと魂にも達しますように。からだだけでなく、魂の生来の働きも死に渡される必要があるからです。生い立ちも、気質でさえ、取り扱われる必要があるのです。アダムから来たすべてが終わらされなければならないのです(神は御子を通してそれら全てのものに死刑宣告を下されたのです、それらのものが一切無用であることを認めましょう。私たち自身から来るものではなく、キリストから来るものだけが神の御前に価値あるのです。)贖いの完全さを知るために、どれほど深く十字架の取り扱いを私たちは必要としているでしょうか。いずれにせよ、キリストの贖いの完全さがこの時空間を貫いて 永遠に至るほどであることを信じるのです。たとえ私たちの歩みが不完全であったとしても、子羊の血、神の義が、私たちの不義の代わりに、私たちを覆うことを信じましょう。

「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」(ヘブル9:14) 

 もし私たちさえ同意するならば、神はさらに私たちを扱われるでしょう。勇気を出しましょう、「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:5)

 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神は彼らを義として下さるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座につき、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル5:15-16)

(2012.3.13)

恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父のみこころなのです(1)

「この王国の福音は、すべての諸国民に証しするために、全世界に宣べ伝えられます。それから終わりが来ます」(マタイ24:14)。

私たちは自分の宣べ伝えている福音の本質が何であるか、そのはかりしれない偉大な力をもっと知る必要があるのではないでしょうか。先にオースチンスパークスの言葉を引用しながら、福音とは良い知らせであると記事の中に書きました。何の良い知らせでしょうか? それは御子の十字架の死と復活を通して、御霊によって、天の御国が到来し、神の国、キリストの主権的統治が私たちの只中にまさに到来したというニュースです。

さあ、暗闇の世の主権者の支配は終わりが近づき、御子キリストの光なる統治が確立する時が近づいています、それを告げ知らせる良いニュースを私たちは聞いて信じたのです。

私たちは、自分たちが告げ知らせている福 音とは、単に罪人に対する赦し以上のものであることを見る必要があります。それは御子の圧倒的な力のある統治なのです。キリストの栄光ある統治なので す! パウロが「神の国は言葉ではなく、力である。」(Ⅰコリント4:20)と言ったことを思い出しましょう、力がなくてどうして統治が成り立ちましょう か、神の国とは死を打ち破られた方の圧倒的な力を伴う霊的支配力です。天の王国は義なる方が王の王として統べ治めている霊的な領域なのです。

(ところで、天の王国、神の国、御国、これらは全て異なる定義を持っているとする説がありますが、それぞれの定義の細かい差異についてここで論じることはしません。機会があれば別の項目で語ることにします。)

御子はやがて再び来られます。その時には栄光を帯びて、天と地にある全ての ものの主権者として、王の王として来られます。「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」(黙示5:12)。私たちは次のような光景が実際となる時へと近づいています。

「…わたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、『御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』。」(黙示5:13)

これが来るべきキリストの統治です。神の国は今、キリスト者一人ひとりの内側にありますが、それはやがて千年王国、新天新地へと至る、キリストの統治への序曲です。やがて天地万物一切について御子が完全な主権を取られる日が来ます、暗闇の主権者による不法占拠、横領と強奪は終わり、一切が神へと帰され、神がすべての者の中ですべてとなられる日が来るのです。「…万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:28) その日に向けて、私たちはこの壮大なドラマに立ち会い、激しい戦いの中に置かれているのです。

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)

私たちはかつては闇の主権者の支配下にあって、自らの罪のゆえに奴隷とされて死の恐怖に脅かされていましたが、今や、愛する御子の支配下に移され、天の王国の住人となりました。これは天的な王国であり、神の正しい統治の行われるところです。そこでは心の貧しい者も、安息を得、悲しんでいる者も慰めを受け、義に飢え渇いて来た者も神の公義を見て満足するのです。これが御霊による統治の実際です。私たちはその只中に置かれています。私たちはまことの命なる方によって安息を得ました。

しかし、天の王国はそれだけでは終わりません。それは罪人が救いを得、私たちが死の恐怖から解放されて、個人的な安息を得るだけにはとどまらないのです。それは壮大なドラマのほんの一部です。というよりも、肢体としての個人の内面で起こっていることは、からだ全体(人類)で起こっていることに相応するのです。ちょうど悔い改めて神に立ち返った一人のキリスト者の内で、暗闇の王国の支配が駆逐され、キリストの光の統治が確立するように、やがて、すべての造られたものにおいて、サタンの暗闇の軍勢の支配が駆逐され、キリストが完全な主権を取られる日が来ます。その時まで天の王国は激しい戦いの中で拡大しているのです。

主イエスは最初に地上に来られた時、ご自分の完全な統治が近づいていることを指し示して人々に言われました、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイ4:17)と。これは断じて死後の慰めの話などではありません。主イエスが示されたのは、御子を通して、死の力を持つ者、悪魔、この世、肉は打ち破られており、キリストが主権を持って統べ治める王国が私たちの只中に来ており、やがてその霊的な統治が拡大して、死ぬべき全てのものを飲みつくし、御子が全ての全てとなられる時が来るということです。バプテスマのヨハネも、主のために道を整えてこう語りました、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)

これは天の王国というものが、神にとってどれほど重要な関心事であるかを示している出来事です。ですから、私たちも単に罪人の悔い改めという地点で満足して終わらないようにしなければなりません。キリストの御霊の統治というものに、実際に心を向ける必要があるのです。

神のご計画における天国のはかりしれない重要性に気づいた人たちは、良い真珠のために持ち物の全てを売り払ったあの商人(マタイ13:45-46)のように、すべてを捨ててこの王国の福音に飛びつき、天国を激しく襲ったのです。そこで、主イエスは言われました、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12)

そうです、このような激しい熱意を持って、私たちは神の国の統治を実際に生きて知るべきなのです。地上における全ての欠乏は、そのための信仰的な入口に過ぎないと知るべきなのです。この荒廃に向かいつつある世において、天における御霊の正しい統治を、主がこの地にも引き下ろして下さるように、私たちは御手から奪い取るようにして、執拗に、熱心に願い求めるべきなのです。他の全ての関心事を脇においてでも、この天の王国の支配を実際に知らせていただくことを神に求めるべきなのです。なぜなら、神の関心がそこに置かれているからです。

だからこそ、主は次のように言われました、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33) 神の国とはキリストの統治であるばかりか、キリストご自身です。私たちがキリストの心を無にしながら、どうして神の御旨に従うことなどできるでしょう。

しかし、これと正反対の態度を取ったのが、主イエスが神の国の晩餐会のたとえ話の中で語られた人々でした。多くの人が神の国での盛大な晩餐会に招かれたのですが、人々の心はその他のものに奪われていたので、自分が招かれた宴会の絶大な価値を理解できなかったのです。「わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません」、「わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです」、「わたしは妻をめとりましたので、参ることができません」(ルカ14:15-35)

このような人々が神のご計画の外へ打ち捨てられ、滅ぼされさえすることは、次の御言葉にはっきりと書かれている通りです、それは彼らが神の御心を損ない、無にしたからです、

「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう。」(ルカ17:26-30)


御子は世を救うために世に来られましたが、この時代(世代)の人々は、キリストを拒み、キリストを捨てました。やがて来臨の時にも、この時代の人々の関心は別のものに奪われ、やはり同様なことが起こるだろうと主は言われたのです。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)。

前述のルカ第14章のたとえ話では、この世へのこだわりが、私たちに神の御心を損なわせてしまう危険を十分に持つことが示されています。主はこのことを指して、「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもいないであろう」(ルカ11:24)とまで言い切られたのです。(これが私たちには一切無関係な警告だとは思わない方が良いでしょう。)

そして、神の国に入るために何が必要であるかについて、主は言われました(これは救いそのもののことではなく、私たちが御国で受ける報いのことを指していると考えられます)、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。…あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」」(ルカ14:25-33)

以上の記述は、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」(マルコ10:23)という主イエスの言葉や、天国という良い真珠を買うために、全財産を売り払った商人のたとえとも共通しています。「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」(マタイ13:45-46) 

主イエスはこれらのことを通して、私たちが神の国に入るために「財産」が大いなる妨げになることがありうることを示されました。しかし、これは単に全財産を私たちが形式的に投げ打てば良いというような単純な話ではありません。「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカ12:34)と言われているように、この「財産」とは、私たちの宝、私たちの心です。つまり、目に見える財産のみならず、私たちの関心そのもののことをも指しているのです。ですから、最も肝心な問題は、私たちの(魂の)愛が何に捧げられているのか、私たちの心がどこに向けられているのか、私たちの心がどれくらい神の御心と一致しているかということなのです。つまり、私たちの心こそ戦場なのであり、最も激しい戦いは、私たちの心の中から始まるのだと言えましょう。

もしも地上の財産が私たちの宝であるとするならば、私たちの心は地上の財産に縛りつけられて、神の国に招かれながら、そこに出席を拒んだ人々のようになってしまいかねません。もしも自分の生まれながらの家族への愛や、娶ったり、嫁いだり、飲食したり、植えたり、建てたり、商売することが最大の関心事だったとしても、やはり、御心を損なってしまうでしょう。しかし、地上の宝が存在するように、天の宝もあるのです。そして、主は言っておられるのです、天に朽ちない宝を蓄えるために、天の王国に投資し、天に財産を築きなさい、と。その投資分は決して無駄になることはない、と。

「ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。

自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカ1228-34)


これも単なる形式的な、あるいは、やみくもな慈善や喜捨の勧めではありません。これは御霊の導きに従って、御霊の統治の中で、天にあなたの心と財産を捧げなさいという意味なのです。私たちは天に投資するためには、天とは何か、また天的な法則性とは何かを知る必要があります、つまり、いのちの御霊の法則を知る必要があります。それは御霊によらなければなりません。すべては神の御旨に従って行われる必要があります。とにかくも、この御言葉は、私たちが自分の心の関心を地上の思い煩いから引き離し、私たちの心をまず神の国のために捧げ、私たちの地上の財産を、時間も、労力も、金銭も、その他全てのものも、地上の朽ちゆくものを捕らえるためにむなしく使い果たすのではなく、朽ちない天に向かって投資せよ、そうすればそれがどんなに豊かな報いで報いられるかを私たちは実際に知り、御国に働く法則がどんなものであるかを知るだろう、ということを現しているのです。ですから、御国を求めようではありませんか!

恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである!


(2012.2.25)

あなた方自身も罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである

さて、私は夢で見ていると、基督者が行くべき道は両側が垣で囲まれ、その垣は救いの垣(イザ26:1)と呼ばれていた。それで重荷を負うた基督者はこの道を駆けて行ったが、背中の重荷のため非常な困難がないわけではなかった。

このように駆けて行くと、やや上り坂の所に来たが、そこには十字架が立っており、少し下の方には、くぼ地に一つの墓があった。私が夢で見ていると、基督者がちょうど十字架の所へやって来たときに、彼の重荷は肩からほどけ、背から落ち、転がりだしてとまらず、ついに墓の口まで来ると、その中に落ちこんでもはや見えなくなった。

その時基督者は喜んで心も軽く、眺めて驚いた。十字架を見たために、このように重荷から楽になろうとは実に驚くべきことであったからである。それで彼は何度も見ているうちに、ついに頭の中の泉から涙が湧き出て頬を伝わった(ゼカ12:10)。

さて、彼が眺めて泣きながら立っていると、見よ、三人の輝ける者が彼の所へやって来て、「やすかれ」とあいさつした。第一の者は彼に言った。「あなたの罪はゆるされた」(マル2:5)。第二の者は彼のぼろ着物を脱がせて、着換えの衣(ゼカ3:4)を着せた。また第三の者は彼の額に印(エペソ1:13)をつけ、封印のある巻物を与えて、走りながらそれを読み、天の門でそれを渡すように命じた。そこで彼らは立ち去った。その時基督者は三たび小躍りして喜び、次のように歌いながら進んで行った。

ここまで罪の重荷を負って来た。
わが悲しみを軽くするすべもなく
ここへ来た、これは何という所だろう。
私の至福はここに始まるのか。
私の重荷はここで背から落ちるのか。
私をしばった紐はここで切れるのか。
尊き十字架よ! 尊き墓よ! むしろ尊きは
私のために恥を受けられたお方こそ!

(バニヤン、天路暦程、正編、池谷敏雄訳、新教出版社、pp.84-87.)


* * *
以前に読んだこの箇所がしきりに思い出されてならない。神は本当に誠実で憐れみ深いお方で、私たちのかすかな心の願いにさえ応えて下さる。しかし、私たちは神の御旨にかなった祈りを祈り出す必要がある。そうしさえすれば、主は速やかに応答して下さる。

私たちが主と共に十字架の死を経由し、アダムの命に従ってではなく、御子のよみがえりの命に従って生きるようになることはまことに神の御心である。ペニエルで主に討たれることを信仰者が願うと、主は本当にその人を十字架にくぎづけにし、その人を支配していた生来の力を粉砕して、そこから人を解放して下さる。主の御名は誉むべきかな。この十字架こそ、この墓こそ、すべてのキリスト者にとっての安息の地点である。

以前に田舎で父が少年時代に作ったという蝶の標本を見たことがある。美しい蝶が箱の中にいくつも並んでくぎづけにされていた。私たちが主と共に十字架の死にくぎづけにされるということは、その蝶のように、もがく力も、逃げ出す力も失うということだ。ヨナはニネベに滅びの宣告を告げることを主に命じられた時、主の御顔を避け、御旨を避けて逃げることができた。ヨナには神の御旨から逃げる力があったのだ。しかし、神はヨナを逃がすことなく、大魚に飲ませられ、御旨の中に連れ戻された。その後も、ヨナの強情で反抗的な性格は何度も明らかにされており、一体、なぜ主がヨナのような人間にあえて御旨を告げられ、預言者の務めを任されたのかは分からない。彼には預言者となるにふさわしい資質が何もなかったように思われる。しかし、このヨナの姿はちょうど私たちのようではないだろうか。そして、十字架の死の地点は、まさにヨナが大魚に飲まれて身動きができなくなった以上の地点であり、ヤコブがペニエルで主の使いと組打ちして、もものつがいが外された以上の地点である。

ヤコブがペニエルを通過したのは、兄エサウと再会する直前のことであった。かつて最もひどい方法で欺いて祝福を騙し取った兄との再会を目前にして、ヤコブは生死を分けるほどの緊張感の中にあっただろう。ヤコブが神の使いにひたすら祝福を求めたのも、そのような経緯があってのことかも知れない。ただ神ご自身が彼を祝福して下さりさえすれば、彼のいのちは救われる、ヤコブはそう思ったのかも知れない。

「彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつたいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。

その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。

そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。」(創世記32:22-31)


ペニエルも十字架の型であり、十字架はアダムに属する全ての人間に対する神の呪いと死の刑罰の場所である。そこでどんなにアダムが神に祝福を求めてもがいても無駄であり、アダムにはただ呪いと死が待っているきりだ。しかし、ただ信仰によって、主イエスは、アダム(生まれながらの全ての人間)に対する神の呪いと死の刑罰を余す所なく受けられた上で、神の力によって、神の永遠の命によって、死に打ち勝ってよみがえられた。御子が死に至るまで御父の御旨に従順であったからこそ、主イエスを通して信じる者たちが祝福されて、彼のいのちにあずかることができるのだ。

しかし、私たちは御子のいのちによって生かされるために、真に主と共に十字架の死を経由しなければならない、この十字架を通過するとき、アダムにある私たちは主によって討たれ、滅ぼされなければならない。このことを認めないなら、私たちは決して主と共に十字架に服しているとは言えない。ヤコブはヨナと似たように極めて自己中心的な性格であったが、ペニエルで強情なヤコブから祝福されたイスラエルに変えられたとき、もものつがいを外されていた。これはそれまでヤコブを支配していた最も強力な肉の力が触れられ、討たれたことを意味する。

十字架の働きは生涯、続くものであるが、十字架は私たちの生来の命を滅ぼし、死に渡す力であり、私たちの肉の力の最も強靭な部分に触れ、なおかつ、私たちの生まれながらの気質にまでも及ぶ。それは私たちが自分ではどうすることもできない全ての部分に触れて下さる神の力である。

もしも真に十字架を経由するならば、どこかの時点で、私たちはヤコブのように歩くのが不自由になるだろう。それは私たちをびっこにしてしまい、御旨から逃げ出す力を失わせるだろう。しかし、たとえ動けなくなっても、十字架の死の地点にとどまっていることこそ安息である。バニヤンの書いた基督者のように、人が負いきれない重荷を負って苦しむのは、十字架を逃れようとする力がその人の内に残っているためである。自力で主に従おうとする無益な努力や、自力で罪を克服しようとする不可能な努力や、自分で自分を義とし、自分の人生に折り合いをつけようとする呪われた各種の思い煩いがその人を支配しているためである。しかし、その人が本当に主と共に十字架にくぎづけにされて、その生来の力が触れられると、その人は全く自分で何もできなくなるが、とにかくここを離れたくない、全く動きたくないし動けなくて良い、と自ら思うはずである。それは全ての責任をその人ではなく、神が負って下さる生き方の始まりだからである。

その当たりから、その人には従順の意味が分かり始めるだろう。自分で神に従おうとしてもただ失敗しかないが、神がその人を掴んで下さるその力に任せるならば、御旨に従うことは、これまでよりもはるかに容易に自然になると分かり始めるだろう。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ6:6-11)

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。」(ヘブル4:10-11)