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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

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欧米諸国を裏切ってまでロシアにすり寄る安倍政権を待ち受ける国際的孤立と、極東シベリア共同開発に名を借りた日本政府の大陸侵略の野望

・米国とEU諸国との協調を裏切って、ロシアと「同衾」した日本政府の二股外交が必然的に招く国際的な孤立

カジノ法案の衆院での強行採決以来、我が国の多少なりとも見識ある全ての人間の目には、安倍政権が詐欺の温床であり、危険極まりない地獄への暴走列車であることがはっきりと見えてしまった。

安倍政権には、もはやインテリ知識人層からも、カルト内閣、広域暴力団安倍組、博打政権の博打外交など、歯に衣着せない容赦のない呼び名が向けられ、人々が侮蔑と憎しみを隠さないようになっている。

反原発、反TPP、北方領土返還、アベノミクス…、これまでに安倍政権が打ち出したすべての施策が、国民を欺くための詐欺の仕かけでしかなく、それは国民に嘘をついて存在しない偽りの甘い夢を見させておいて騙し、その間に、可能な限り、国富を収奪して、外国に貢ぎ、我が国を破滅へ導くために打ち出される詐欺と売国のスローガンであることが未だかつてないほどに明白になったのである。

そもそも「この道しかない」などと言い始めた時点で、すでにそれはカルトなのである。「この道」という言葉は、宗教の信者がよく使うものであるが、クリスチャンにとっての道とは元来、一つしかなく、どこかの目に見える人間が、「私が道だ、私が唯一の道を指し示す」などと言い始めた時点で、その人間は反キリストの霊の持ち主であることが確定していると言って良い。

キリスト教徒でなくとも、おそらく、宗教家はいち早く安倍政権の恐ろしさ、特に、安倍が現人神となって国民に強要しようとしている自分への崇拝が極めて危険な似非宗教であることにすぐに気づくはずだ。このような政権を支持する者には、どんな宗教を信じていようと、信仰者としての矜持はない。都議会における自民党と公明党との分裂が取沙汰されているが、いずれ国会でも両者は分裂し、現役官僚からも離反者が出ることであろう。この先、みなが安倍に騙されていただけであることが、もっとあからさまに分かって来る。どんなに控えめに言っても、安倍はもはや正気ではないのだと、誰もが思うようになろう。

だが、目下、正気を失った博打政権が、自分が倒される前に、もっと壊せるだけ徹底的に日本を壊そうと、ロシアからマフィアの親分を連れて来て、二人で一晩以上をかけて懇ろに仲むつまじく語り合ったというのだから、このニュースには背筋がぞっとするとしか言えない。

領土問題に何の進展もないことが前もって分かっていたので、筆者はプーチン訪日という出来事には何の期待も寄せず、冷ややかに見つめるのみであったが、プーチン氏の到着から一夜明けて、当初感じていた不快感は、安倍の犯した売国の罪によって、取り返しのつかない事態が起きたのだという、さらに不気味な予感へと変わった。

領土が返還されないのに、安倍がロシアに3000億円もの経済支援を申し出たという狂気じみた外交的敗北から始まり、タイ人のウォン・ウティナン君には強制国外退去処分を言い渡しておきながら、ロシア人の入国のためにはビザ要件を緩和するという。平和条約も締結されていないうちから、北方領土やシベリアの共同開発という無謀な計画に前のめりになり、さらに平和条約をダシにして、「信頼関係の構築のために、双方の国民感情を傷つけないよう配慮する」などといった無茶な約束まで口にする。

やはり、安倍は空恐ろしいことをやってしまったという印象である。天木直人氏が12月16日の記事「歴史に残る安倍首相の対プーチン屈辱外交」に書いているように、この「屈辱外交」が我が国にもたらす弊害ははかりしれない大きさになると思われる。最悪の影響は、今後、日米同盟関係が急速に悪化しかねないことだ。

筆者は、日本は対米隷属から脱しなければならないと考えるため、日米同盟は必ず見直され、最終的には、日本は米国の傘下を出なければならないと思う。だが、その方法が、日本政府が米国の意向を無視してロシアに寝返ることによって、日米関係を急速に悪化させるというあまりにも拙速かつ愚かな方法であるべきでないのは明白である。

しかしながら、この度の安倍・プーチン会談は、EU諸国、そして米国との関係においても、日本の外交の決定的かつ明白な分岐点となるであろうと筆者は予測する。70年間続いて来た戦後体制は、プーチン訪日という日に終わったのである。だが、それは実際、安倍の望むような美しい形ではなく、また、我が国の自立という形でもなく、ただ米露への二股外交というあまりにも恐るべき裏切りに満ちた不誠実なドロドロの関係で終わった。

これまでの事実から、筆者には、日本政府は、国民をイジメ抜くための悪意を込めた政策を、大抵、週末に向けて発表することが分かっている。

いかがわしいカルト宗教は、信者を徹底的に疲労困憊状態に追い込むことで、信者が片時も落ち着いて物事を考えることができず、カルトの偽りに気づくチャンスがないようにすることが知られているが、カルト化した安倍政権が国民に対して絶え間なく行っていることも、それと同様の精神的な攻撃である。

つまり、勤労者の国民の大半は、月曜から金曜までの平日は、サービス残業や、過重労働でへとへとにさせられた上、週末に向かっても、心を締めつけられる不穏なニュースばかりを聞かされて、休日にも精神的な苦痛の中に置かれることになるが、これは、国民を決して精神的にリラックスさせないために、政府が故意に行っていることである。
 
これまでのあらゆる出来事から判断して、この国の政府高官及び官僚たちは、休日を迎える前に、特に念入りに、自分たちの権力が永久に安泰だと信じて高枕で眠れるように、国民に向かって精神的な圧迫と恐怖を増し加えるような残酷な政策を発表することを悦楽にしているものと見られる。
 
だから今回、安倍が国民を愚弄するがごとく、北方領土返還という存在しない偽りの夢をちらつかせながら、あろうことか、その存在しない夢と引き換えに、日本の国富を早々とロシアに売り渡すと決めたことを、週末に向けて発表したのは何ら不思議ではない。
 
もしも今回、そんなことよりももっと驚くべき事実があったとすれば、それはちょうどプーチンが日本に来たのと同じタイミングで、EU首脳会議で対ロ制裁の延長が決定されたというニュースが流れたことである。

以下に引用したニュースでは、NHKが懸命に、EU諸国のロシアへの強硬路線と、米国および日本のロシアへの立場は違うのだと強調しようとしているが、今のタイミングで、EU諸国がこれほど強烈にロシアへの対決姿勢を明白に示したのには、明らかに、ロシアに対する恫喝と警告だけでなく、ロシアに協力関係を申し出る日本政府に対する牽制と恫喝の狙いが暗黙のうちに含まれているように感じられてならない。

今回のEU首脳会談と、プーチン訪日という出来事が、どこまで互いに影響を与え合っているのかは分からないが、EU首脳は一致して、彼らの敵意をよそに二国首脳だけで懇ろな関係を強調するプーチンと安倍の両者に対して、厳しい警告と弾劾と受け取れるメッセージを発したのである。

そこで、今回のEU諸国の対ロ制裁の延長の発表のタイミングは、今回の日ロ首脳会談が、これからの日本の外交にはかりしれないほどに暗い影を落とすことを暗示するものであると筆者は見ている。つまり、今回、日本は欧米の対ロ制裁の足並みから完全に外れたのであり、そうなった時点で、ロシアと共に国際的に孤立の悪影響に巻き込まれる道はすでに定まったのである。
 

EU首脳会議 ロシアへの経済制裁延長で一致NHK 12月16日 10時21分

EU=ヨーロッパ連合は首脳会議を開き、ウクライナ情勢を受けて続けてきたロシアへの経済制裁を、来年7月末まで延長することで一致し、日本やアメリカがロシアとの関係強化に向けて動き出す中、ヨーロッパは引き続き、厳しい姿勢で臨む方針を打ち出しました。

EU各国は15日、ベルギーのブリュッセルで、ことし最後の首脳会議を開き、対外政策を中心に話し合いました。

この中で、おととし、ウクライナ東部で、政府軍と親ロシア派の戦闘が起きて以降、EUが親ロシア派の後ろ盾となっているロシアに対して続けている経済制裁について、来年7月末まで延長することで各国が一致しました。

この制裁は、ロシアの政府系の金融機関や、エネルギー関連企業がEU域内で資金調達を行うことや、ロシアとの武器の取り引きを禁止するものです。

EUは制裁を延長する理由として、去年、ウクライナ政府と親ロシア派が合意した停戦が、完全には履行されておらず、ロシアが役割を果たしていないことを挙げています。

ロシアに対しては、日本がプーチン大統領の訪日をきっかけに関係強化に乗り出しているほか、アメリカのトランプ次期大統領もオバマ政権とは一転して関係改善に意欲を示しています。

しかし、EUでは、ロシアがウクライナの主権を侵害しているとの非難が根強く、ロシアと国境を接し、警戒を強めている国も多いことから、引き続き厳しい姿勢で臨む方針を打ち出したかたちです。


果たして、この先、米ロの関係が本当に改善されて、日米ロ間に緊張緩和の蜜月が訪れるなどといった保証はない。トランプはまだ大統領になっておらず、米国がロシアへの態度を軟化させるだろうという予測は、トランプの意向だけに基づく期待値込みの楽観に過ぎない。

いずれにしても、米ロの関係改善がまだ実現していないにも関わらず、安倍が米国に先んじてロシアを味方につけて関係改善を誇ろうとしたことは、米国に対する挑発行為のように受け止められて仕方がなく、安倍が各国首脳に先駆けて、一人トランプ詣でをして得意になった時と同じように、そこからは、米国を出し抜いて世界をリードする立場に立ちたいという野望を誇示する浅はかな狙いが透けて見えるだけである。このような行為に厳しい報いが伴わないとは、到底、考えられない。
 
それにしても、ヨーロッパ諸国は、地理的にロシアとの距離が近いことから、ロシアに占領される恐怖がよほど根強いものと思われる。我々はEU諸国の「ロシアに占領される」という恐怖に鈍感であるべきではないと思う。

むろん、ウクライナのユーロマイダンの政変は、親EUを旗印に掲げる人々を使った陰謀によるところが大きく、この政変によって引き起こされた同国の混乱を一方的にロシアの非とするのは適当でないと筆者は考える。クリミアも自らロシアへの帰属を望んだのであり、これをロシアが軍事力で侵略したと述べるには無理がある。

だが、そういう事情をさて置いても、ウクライナにおける親EU派と新ロ派の対立は政変が起きるずっと以前から続いて来たものであり、両者の間には水面下での激しい駆け引きがあった。
 
これまで幾度となく繰り返して来たことだが、米国も深い闇であるが、ロシアも米国と同じほど(あるいはもっと)深い闇である。

プーチン政権は、ブッシュ政権がそうであったように、偽のテロ事件を引き起こすことによって、国家権力を強化し続けて来たと言われる。いわば、敵を自ら生産することによって、国内の団結を作り上げるという、米国と同じ手法を取ってこの政権は成長して来たのである。

チェチェン戦争が、米国にとっての9.11と同じような、ロシア政府による偽旗事件であったことや、プーチンが権力を握り続けた代償が、ロシアの議会制民主主義の死であったことなどは、アンナ・ポリトコフスカヤのようなジャーナリストによってすでに幾度も指摘されている。

そのポリトコフスカヤを含む、プーチン政権に手厳しい批判を向けたジャーナリストの数多くが暗殺と思われる不審死を遂げている事実や、そもそも、これほど長い間、ロシアでプーチン氏の政権が続いているという事実だけを見ても、それ自体がおよそ民主主義からはほど遠い尋常でない状況と言わざるを得ない。そして、ロシアという国は、体制がどれほど変わっても、歴史的にはずっと絶え間ない国家権力の増強、領土拡張政策を取って来たのであり、現在、起きている出来事も、その延長上にあるとみなされる。

特に、ソ連時代のロシアは実際に軍事力による侵略・制圧を繰り返して来ており、ヨーロッパではそのことはまだ記憶に新しい。だから、武力による制圧であれ、どんな方法であれ、ロシアが領土を拡張して影響力を増し加えようとすること自体が、EU諸国からは「脅威」とみなされるのは不思議ではない。

そのような事情を加味すると、EU諸国の「ロシア恐怖症」は、ただ単に米国に一方的に肩入れしているがために生まれたというよりも、もっと深い意味を持つものであり、何よりも、それは自国がロシアに占領され、侵略されることへの本能的な恐怖から来るのだと言えよう。

もしそうだとすれば、我が国は、こうしたロシアの隣国による直観を決して軽視すべきではない。人間であっても、国家であっても、原則は同じであるが、遠くにいる他人だけから好意的な評価を受けていても、近くの隣人との間で絶えまなくトラブルを起こし続けて、隣人からの評価がことごとくマイナスだという人物は、要注意である。そうなるには、必ずそれだけの理由が存在する。ロシアには、いつも次々に敵が現れ、しかもロシアがその敵を利用して、自分が不当に攻撃されている被害者であるかのように装いつつ、着々と力を蓄え、味方を増やして来たこと自体が、政治的に巧妙な作戦であると見なければならない。

米国が世界各地で絶えず戦争やクーデターを人工的に引き起こしては金儲けの手段として来た事実が全くいただけないものであると同様に、ロシアという国に、次から次へと敵対する国々が登場して、戦いが起きているのも、決して良い特長とは言えない。ある意味では、その敵意と反目自体が、ロシアが自ら引き起こしている現象だという可能性がある。

だから、あえてそのようなトラブルの渦中にある国に、同盟国の出方もまだ決まっていないうちに、日本がわざわざ自分から先んじて接近して行くメリットなどどこにもないのは明白である。特に、日本のこれまでの米国追従に貫かれた戦後史全体を振り返っても、日本の首相が米国大統領に先んじて、そのような行動を取ることは異例であり、それ自体が、同盟国へのとてつもない裏切り行為、挑発行為と受け止められて、したたかに報いられる危険は否めない。

折しもちょうど沖縄でオスプレイが落ちて、日本国内で反米感情が高まっている時である。それを好機とばかりに、巧妙に米国に悪役を押しつけて、日本の首相が他国に媚を売ったのだから、そうした事実は、米国から見れば、「同盟の意味が全く分かっておらず、守ってやる価値もない国」と見られ、蔑まれるだけに終わりかねない。

もっとはっきり言えば、米国のポチに過ぎないはずの属国が、恐れ知らずにも、親分を悪者に見せかけながら、親分を裏切って、他国と密通し、不義を重ねたという話なのだ。

安倍がどうしてもロシアに接近したいのであれば、米国との関係を清算して、我が国が自立した外交を打ち立て、対ロ制裁の行方に対しても、国際社会において態度を明白にしてから、そうすべきであった。一方では米国の庇護を求め、対ロ制裁に加わっておきながら、もう一方では、制裁中の国に自らすり寄り、信頼関係を強調し、経済支援を申し出るなどの無節操な二股外交は、全く筋が通らず、国際的に何の信頼にも結びつかないのは当然である。

むろん、今のところは、オバマも含めて、公然と安倍の恥ずべき振る舞いを非難する者は各国首脳の中にはないであろうと思う。なぜなら、安倍の振る舞いは、あまりにも幼稚すぎて、知識人が言葉に出して取り沙汰する価値すらもないからだ。だが、彼らが名指しで非難しないことと、報復して来ないこととは訳が違う。愚か者には、愚か者にふさわしい返答の仕方がある。安倍の卑しい野望は、すでにトランプからTPP離脱で梯子を外されたことにも見る通り、諸国に見透かされており、この先、国際社会から黙ってのけ者とされ、一斉に梯子を外されることで、報復を受ける可能性がある。そういうしっぺ返しがなくとも、このまま安倍の二股外交が続くと、その結果として、日米同盟は揺るがされ、米国の代わりに日本がロシアへ追随するという事態さえ考えられないことではない。

そうなった場合に最も恐ろしいのは、日本がロシアに代わって世界的な孤立をその身に背負わされることである。

今までにも述べたように、日本が今ロシアに接近しても、損害以外に受けるものは何もない。ロシアは、日本が対ロ制裁に加わっている間に、中国をアジアの経済的なパートナーとして選んだため、日本が今から極東開発にどれだけ協力してみたところで、しょせん、ロシアから中国以上の経済的なパートナーとみなされることはない。

中国とロシアは安倍の望んでいる「中国包囲網」を知った上で、決してこれに手を貸すことはなく、むしろ、この二国は、安倍の心の内を完全に見透かした上で、いずれそれを裏返しにする形で、逆に日本を包囲して孤立化させて来る可能性が高いと思う。仮にもしそういうことが行われるとすれば、それは、ロシアがさらに親密さをアピールして、何かの餌をぶら下げて、より懐深く日本を自らに引きつけることにより、また、その誘いに乗って、安倍政権が一見、自立を装った米国との訣別を持ち出すことにより、日米関係に本格的にヒビが入り、日本が最も無防備になった瞬間に行われるであろう。

筆者の考えでは、ロシアは必ず、したたかに日本の期待を裏切って、いつかこの国に攻め入って来るはずだ。その裏切りは、すでに領土返還なしにロシアが経済協力だけを日本からむしり取った時点で始まっていると言える。ロシアとはいかなる信頼関係の構築も土台、無理であり、この国は他国を利用することしかできない。思想的にも、KGB出身のプーチン氏を頂点に頂いている事実にはっきりと見ることができるように、この国ではソ連時代の歴史と教育の影響は未だ根強く、ロシアは今でも共産主義のままなのである。

だから、ロシアと共産党政権下の中国との間には、もともと安倍の思想など全く及ばないほどに、より強力な結びつきと、親和性があると考えられ、仮に対ロ制裁に日本が全く加わらなかったとしても、日本が両者の間に割って入ることはもともとできない相談であったと思う。

そして、そのことは日本にとって幸運だったのである。共産主義という思想は、我が国が決して内に取り入れるべきではない危険な思想であり、また、「強いロシアの復活」を目指すプーチン型の国家主義的な統治も、非常に危険な性質を持つものである。ロシアには歴史上、強大な国家権力が圧倒的大多数の民衆を抑圧し、虐げるという以外の国家形態が存在したことがない。だから、これまで日本が米国に阻まれ、中国に出遅れてロシアへの接近の機会を失って来たことは、何ら問題ではなく、ロシアとは距離を保っておくに越したことはないのだが、安倍は自ら米国をよそにしてロシアにすり寄り、他国がロシアに厳しい態度で接し、距離を置いている時に、抜け駆けしてロシアと懇ろに「同衾」したことによって、ロシアという国家に歴史を貫いて流れて来た負の思想を、完全に内に取り込み、輸入してしまった。山口でのプーチンへのもてなしという安倍の行動は、プーチンこそ安倍の本命であったことをよく物語っている。なぜなら、安倍は日本を裁いて軍国主義政権を終わらせ、祖父をA級戦犯とし、日本を属国化した米国を憎んでいるからである。プーチンへの思慕は米国への当てつけであり、まさに、裏切りであると言える。だが、当てつけであり、裏切りであればこそ、プーチンへの接近は決してどの国にも何の信頼関係ももたらさず、ただ裏切りによって終止符が打たれのである。

米国は、そんな愚かで節操のない安倍の振る舞いに内心で呆れ果てながらも、ロシアと同じように、何らかの形で手ひどく報復することで利益を奪い返すチャンスを伺って、あえてこの問題に言及することなく、安倍政権を泳がせる可能性がある。何しろ、米国は、かつて日本軍による真珠湾攻撃を知っていながら、あえてこれを阻止せず、日本軍の愚かな暴走を許して意図的に泥沼の戦争に引きずり込み、広島と長崎に原爆を二つも実験的に投下し、日本が一億玉砕の手前になってやっと敗戦を受け入れるまで導き、今もこの国を事実上の占領状態に置いている国であるから、精神的に未熟でお子様のままのこの国と、決して国民を大切にしようとしない日本政府の精神的弱点をどのように利用し尽くして利益を得るかなど十分に研究済みのはずである。

だから、筆者の見立てによる最悪のシナリオは、日本という国が、今後、安倍の野望を見透かされた上で、米ロの両国から可能な限りゆすられ、たかられるだけでなく、やがては米ロが犯した似たような悪事の尻拭い役として、それ以上の悪事を犯すようにそそのかされて、国際的に悪魔役を演じさせられ、その結果として再び権威失墜して、かつての敗戦のごとき破滅に至り、自国をまともに統治する能力のない国として、第二の占領状態に置かれ、様々な国に領土を分割されて他国に統治されて終わるという悲劇である。

今のままでは、そうした結末も、あながち幻想だとは言い切れない。安倍はまさに外患誘致に等しい形で、最も危険な国と自ら懇ろに通じ、国のトップとして公に国を売り、危険を誘致しているのである。そのようなことの結果としてやがて起きるのは侵略である。我が国が侵略するのでなく、侵略されるのである。これを止める方法は、安倍政権を退陣に追い込み、安倍の唱える地獄へ直通する「この道」を封鎖し、なおかつ、米国ともロシアとも距離を置いて、平和的な方法で自存する道を探すことだけしかない。

 
・かつての満蒙開拓団とシベリア抑留の悪夢をよみがえらせる北方領土やシベリアにおける日ロ経済協力と共同開発

国家の病とは厄介なもので、国家権力による民衆弾圧の歴史がずっと繰り返されているロシアの例を見ても分かるように、この亡霊のような歴史的負の遺産を払いのけ、これと訣別するのはそう簡単でないと思われる。そこで、仮に安倍政権が早期に打倒されなかった場合、今後、善良な国民は、日本政府の唱える欺瞞に満ちた抑圧政策からどのようにして身を守るかということだけが、焦眉の課題となるだろうと思う。

日ロの首脳会談に合わせるように、EU首脳陣が対ロ制裁の延長を表明したことには、上記した以上の意味があって、筆者は、今回のプーチン訪日は、安倍の本心を試すために、日本に対してあえて仕掛けられた一種の罠なのだという気がしてならない。

なぜなら、この度、安倍首相がロシアにすり寄った背景には、日本政府も、あわよくば大陸へ進出して、ロシアと同じように領土を拡張するという利益にあやかりたいという野望が透けて見えてならないからだ。

つまり、安倍が北方領土を取り返すという「夢」を国民の前にぶら下げて、シベリアや北方領土の共同開発に積極的に乗り出そうとしているのは、その実、日本政府の領土拡張政策という悲願の一端を示しているに過ぎず、この政府が真に目指しているのは、かつてと同じように、大陸にまで国土を広げること(要するに侵略)なのだと筆者は考えざるを得ない。

安倍の目が今見ているのは、現実の日本ではなく、かつての「大日本帝国」の抱いていた幻想なのであり、同氏にとっては、現実の北方領土が今どこの国の帰属であるかなど、全く大した問題でなく、大陸へ進出する機会を掴むことによって、かつての軍国主義政権の偽りの夢であった「大東亜共栄圏」の再生へとつながるきっかけをつかむことこそ重要のだと思われてならない。

だから、実のところ、安倍がロシアに肩入れすることによって、擁護しようとしているのは、自分自身の侵略の野望であり、ロシアへの制裁を緩和することによって、解き放ちたいと思っているのは、かつての軍国主義時代の侵略と世界征服の夢なのである。安倍はできれば、ロシアからも北方領土を奪い返したいと思っているが、それがならずとも、まずは北方領土やシベリア共同開発という名目で、大陸進出のきかっけを与えてくれそうなプーチン政権に、味方のようにすり寄り、跪いてでもその機会を頼み込みたいわけである。足がかりさえ作ってしまえば、あとはどうにでもなる、活動しているうちに、いつかその地を我が物として奪い取ってしまえば良いという算段なのであろう。

むろん、ロシアはロシアで、安倍の魂胆は十分すぎるほどに見抜いた上で、したたかに日本を利用するためにやって来たに過ぎない。当然ながら、ロシアは日本に1ミリたりとも領土を割譲してやる気などなく、ただ安倍政権の野望を思う存分に利用して、日本企業を自国の領土開発の都合の良い使い捨て材料として徹底的に利用し尽くすことを考えているだけである。

この両国首脳は腹黒さという点では同じであり、お互いに「友好」、「信頼」、「協力」などの甘い言葉をちらつかせながら、自らの本心を隠して、相手をどうやって騙そうかと虎視眈々と互いに目配せし合っているだけである。

安倍が今回、プーチンを山口に招いてもてなし、経済協力を約束したことを通して、言わんとしているのは、「どのような方法であれ、己が領土を先に拡大した者が勝ちなのですよ、ねえ、ウラジーミル(ちなみに、ウラジーミルという名前は、「世界征服」を意味する象徴的な名である)。ロシアはウクライナとクリミアでは実によくやりましたね。我々はあなたの手腕を高く評価していますよ。だって、あなたのなさったことは、全ての国が自分もやりたいと望んでいることじゃありませんか。それにも関わらず、制裁でそれに答えるというのは、我々も本心では納得できないところです。しかし、これまでにはアメリカの力が強すぎて、我々としても、勇気を持って物申せない部分があったのですが、これからは少しずつこの煩わしい関係を見直して行くことにしますので、もう少しだけ待っていていただけませんか。ここは一つ、提案ですが、本格的に我が国が米国から自立し、貴国と平和条約を結べるまでに成熟する前に、まずはあなた方に支援を約束しますので、その見返りに、我が国にもぜひ新たな出番を与えていただけないでしょうか。あなたの国の豊富な天然資源、広大なシベリアの領土の開発などは、我が国にとっては前々から実に魅力的な投資材料と映っているのです…」

いつまで経っても、歴史に学ぶことなく、自ら墓穴を掘り続ける愚かな政府である。

かつて日本が大陸に侵略を企てたときにも、今と同じように「経済」が謳い文句であった。それは領土の拡張という国家的な野望のためだけでなく、まずは財閥をぼろ儲けさせることをこそ主たる目的に行われたのである。大陸での「開拓」は、要するに、大企業にとっての新たなフロンティアであり、カジノと同じような一獲千金の夢であった。

従って、筆者の目には、現在の安倍政権にとって、北方領土とシベリアに眠る利権を狙ってロシアと経済協力を行うことは、かつてこの国が目指した「大東亜共栄圏」という悪夢を再びよみがえらせるための侵略戦争に向けての初めの第一歩なのだと感じられてならない。

つまり、安倍のプーチン政権への憧れにも似た思慕には、国家主義の復活という夢だけでなく、何よりも領土拡張の夢が込められているものと考えられる。北方領土問題を持ち出したのは、そのきっかけに過ぎないのである。

だから、これから先、日本政府が打ち出すであろうシベリアの共同開発や、日ロ経済協力などといった美辞麗句は、そういう文脈でこそ、とらえなければならない。要するに、それは開発(開拓)に名を借りた侵略の野望の言い換えに過ぎないのであり、日本政府は、ロシアと同じように、無限な膨張拡大を夢見ているのであり、北方領土についても、本心ではロシアの主権を全く認めておらず、今後も認めるつもりがなく、ロシアもこれと同様に、4島を日本に返還する気などさらさらなく、日本の活動拠点とするつもりもないにも関わらず、二つの政府が互いに本心を隠しながら、互いを欺き合って、どうやって利権を餌にちらつかせることで、相手を最大限に利用し、巻き上げられるかを考えながら、「互いの主権を尊重する」といったむなしい絵空事のような空文句を弄して騙しあっているという恐ろしい現実があるに過ぎない。

そこには「友好」もなければ、「信頼」もなく、ただ互いに相手を騙し、食い尽くそうという悪意が存在するだけである。他国の領土に意欲的に開発に出かけて行くことは、いつの時代であれ、侵略の野望を隠し持ってこそ行なわれる行為であり、警戒される。かつての日本軍による「満州開拓」がそうであったように、そういう政策にすすんで巻き込まれた人間を待つものは、破滅以外にはない。

そもそも国家としてこれまで長期に渡る交流の積み重ねも実績もなかったロシアと日本の二国の首脳が、突然、まるで夏休みのキャンプ中に仲良くなった中学生のように、首脳同士の相性だけで、「友情」や「信頼」を言い始めるのは、とてつもなく不気味で、信用ならない事態であり、こういう形での親密さのアピールは、すべて国民を欺くための偽りの舞台演出であって、詐欺のしかけでしかない。このような信頼だの友情だのに見せかけた目くらましの魔法は、必ず、裏切り、騙し討ちの侵略となって本質を現わすだろう。

安倍晋三のような人間は、これまでどの場面においても、誰との関係においても、嘘ばかりを並べて、不誠実な言動を繰り返して来た。ついに米国にさえ不忠実な行動を取り始めたのである。このような人間が、親しさを演出して誰かに近づくのは、ただその相手を食い物にする目的のためだけでしかない。ロシアはそんな安倍には似合いの相手で、安倍がロシアに近づいたのは、ロシアから奪い取りたいという目的あってのことで、プーチンもそれはよく分かっていながら、自分の方が上手であると自負していればこそ、あえてその誘いに応じたのである。こうして、二国の首脳が互いを騙し合い、互いから奪い取るためにこそ、「友情」を演出して、互いを懐に引きつけあっているのである。こういう恐ろしい関係には、決して関わらず、巻き込まれないのが一番である。

これから先、どういう形で日本政府が日ロの経済協力や、極東や北方領土の共同開発を宣伝するのかは分からないが、「行きは良い良い、帰りは怖い」で、政府の打ち出す一獲千金の夢にたぶらかされて、目をくらまされ、その政策に浅はかに踊らされれば、その人間には、以下のごとき愚かしい悲劇が繰り返されるだけだと筆者は予想する。

画像は「満蒙開拓団の集団自決」(季節の変化、2015-08-30)から引用。



右は長野県が作成した「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスターだが、見るからに知性の感じられない若者の姿を故意に描いたとしか思えない悪趣味な絵である。(シベリアと北方領土の開発利権に内心で涎を垂らす今の安倍の心境はまさにこのようなものではないかと推測される。)

満蒙開拓団とは、かつて日本政府が行った大々的な開拓キャンペーンにより、大陸に移住すれば豊かになれると言われ、一獲千金の夢で心を釣り上げられた日本の農村の貧しい人々が、騙されるも同然に、日本政府が作った傀儡国家としての満州へ国策として移住させられた挙句、第二次世界大戦中、ソ連軍の参戦により同地が戦禍に見舞われると、日本軍によってたちまち容赦なく見捨てられ、地獄の逃避行へ追い込まれ、集団自決などの悲劇へ追いやられたものである。

戦禍の中、かろうじて生き残った人々も、ソ連軍によって強制収容所へ送られたり、家族と生き別れになって、中国人の間で売られたり、働かされたり、現地人と結婚させられたりして、つらい生活を余儀なくされた。山崎豊子が『大地の子』で描いたような中国残留邦人も、そのような中を生きた人々である。

大陸に置き去りにされて、帰国がかなわなくなった中国残留邦人や、ソ連の強制収容所に送られた抑留者の存在があることは、戦後すぐに分かっていたが、中国残留邦人については、1972年9月の日中共同声明による日中国交正常化が起きるまで、中国領内で起きていることの事情は我が国では容易に知り得ず、調査もかなわなかった。日中国交正常化後も、日本政府は、かつて自らが積極的に推進した開拓キャンペーンの悲惨な結果と責任を直視したがらず、政府が中国残留邦人の肉親調査に乗り出したのは、ようやく80年代になってからのことであった。

さらに日本政府に残留邦人と認められて帰国や帰国後の支援を受けるには条件があり、必要な証言がそろわず、残留邦人と認定されず帰国もかなわなかった人々もおり、認定を巡って長期に渡り、日本政府と訴訟となり、裁判によってようやく認められたケースもある。日本政府から残留邦人と認められて日本に帰国しても、あまりにも長い年月、大陸で暮らしていた人々には、日本人としての記憶は薄く、言葉の壁や就労の壁が立ちはだかり、日本人としての暮らしは困難であった。また、中国残留邦人に比べれば数は少ないとはいえ、ロシア領内に取り残され、ロシア人と同化して暮らした人々も存在し、中には、本当にロシア人となって日本人のアイデンティティを捨てて生きた人もいた。

ソ連兵から帰国させると言われて騙されてソ連の強制収容所に送られた日本人は、そこで想像を絶する悲惨な生活を強いられ、実に数多くが飢えと過酷な労働で死に絶え、ようやく帰国しても、世間からアカになったなどと言われて後ろ指を指され、過酷な差別を受けた。

中国残留邦人の存在が80年代には日本の世間の注目を浴びてメディアに盛んに取り上げられたこととは対照的に、シベリア抑留者に対する戦後の補償は、あまりにも長い間、日本政府からも、ロシア政府からも見向きもされず、シベリア抑留者への補償という問題自体が、戦前戦中に「非国民」扱いされて特高警察によって拷問されて死に至らしめられた国民への補償と同様に、長年、差別感情などの中で、タブー視され、深く覆いがかけられ、隠されて来た。

仮に過酷な収容所生活のせいで発生した深刻なPTSDの影響などがあったとしても、彼らが肉体的にも精神的にも受けた苦痛に対する公のケアは全く行われず、抑留生活のために生じた苦しみは、長年、個人が心の内に抱えて耐え続けるしかなかった。そのようなことになった背景には、かつて敵軍の捕虜とされるくらいならば、自ら命を絶つべしと教えて一億玉砕を唱えた日本政府の洗脳の結果、他国の捕虜となって抑留されたこと自体を、国への一種の裏切り行為のようにみなして暗黙のうちに個人の責めに帰そうとする政府の暗黙の考えと、そういう考えに迎合して抑留者の存在をタブー視し、抹殺し、擁護しようとしなかった世間の風潮の影響が根強くあったのではないかと考えられる。

戦後強制抑留者法に基づき、シベリア戦後強制抑留者に対する政府の特別給付金の請求受付が始まったのは、ようやく2010年(平成22年)、民主党政権下のことである。しかも、すでにあまりにも多くの抑留者が亡くなった後のことで、政府の施策としては遅すぎるものであった。おそらく、民主党への政権交代が起きていなければ、未だに抑留者への補償は皆無だった可能性があると思われてならない。

だが、それよりもっと恐ろしいのは、こうして他国の領土で起きた外国絡みの事件で、対外的にも存在が否定できない人々については、まだしも真相解明の努力が行われ、補償の話が持ち上がったものの、たとえば、日本国内で特高警察によって「非国民」の罪を着せられ、拷問を受けて獄死した人々や、隣組の密告に基づき、そのような嫌疑をかけられて殺された人々の遺族などには、今ももって政府からの謝罪や名誉回復はおろか、何らの補償も行なわれておらず、真相究明の努力が一切なされていない事実である。これは非常に恐るべきことであり、日本史の深い闇であるとしか言いようがない。

話を戻せば、侵略戦争はまさに博打のような賭けであり、政府の美辞麗句と甘い儲け話に踊らされて、実現できもしない夢を思い描いて、大陸に赴いた人々は、日ソ中立条約を破ったソ連の侵攻と、都合が悪くなると国民を置き去りにさっさと逃亡した日本軍によって、騙し討ちにされるようにして二重に裏切られ、生き地獄のような環境をさまよわねばならなかった。以下は、Wikipediaの「中国残留邦人」から抜粋しただけの短い文章だが、ここに日本政府の無謀な大陸進出という無責任な夢に巻き込まれた人々が、どんな悲劇に見舞われたのか、その一端を伺い知ることができる。
 

1931年9月18日以降の満州事変後、直ちに日本は清の最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、旧満州(現中国東北部)で満州国をつくった。建国と同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住(満蒙開拓移民)が実行され、日本は1936年の廣田内閣の計画では500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。

移民が大規模になった背景には、アメリカ合衆国発の世界恐慌の影響を受けて発生した昭和恐慌によって、当時の日本の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめていた事にある。娘を身売りさせる家が続出し、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者は強い移民志向を持っていた。

第二次世界大戦末期の1945年8月に日本と中立条約を結んでいたソ連が同条約の一方的破棄を宣言し、8月9日、ただちに中国東北部(満州国)への侵攻を開始した。これを既に予測していた関東軍は民間人よりトラックや車の徴用を済ませ、列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成しソ連軍に対峙した。避難民はおのずと老人や婦人、子供が多数となった。

ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。


かつて日本政府が抱いた侵略の野望は、大陸諸国の人々に深い苦痛と悲劇をもたらしたのみならず、日本人にも、数えきれない悲劇をもたらした。だが、安倍晋三の主張を通して、まるでその悲劇が、何の反省もないまま、現代によみがえろうとしているかのようである。かつての歴史の反省も不十分なままに、今度は「行け、北方領土!! 目指せ、シベリア開発、日ロ経済交流の発展の夢!!」といった軽はずみなスローガンを唱えて、またもや政府が企業の尻を叩いて金儲けを目的にシベリア開発に参入させるつもりなのであろうか。

これまで政府が後押しするまでもなく、日ロ経済交流を目指した企業はいくつもあったが、結局、そういう業界が栄え、ロシア企業との密接な信頼関係を構築することはほとんどと言って良いほどなかった。それは、ロシア独特の様々な制度的弊害がビジネスの障害となって立ちはだかって来たことの結果でもある。さらに、ロシア人には歴史的に約束を守らない国民性があり、これまでプーチン大統領が会談の約束を守らなかったことも、一度や二度ではないと言われる。このような国民性は、日本人の常識から見ると、全く考えられないものであり、ロシア人の常態化したルール違反と、法外に煩雑化された法律上の手続きは、日本人の想像を超えており、日ロのビジネスの発展にとって極めて有害な阻害要因となって来た。

そうしたことに加えて、ロシアが以上に述べた通り、ソ連崩壊後も、日本人のシベリア抑留者に対して何の補償も行なっておらず、中立条約を破っての参戦という歴史の総括も行なわず、ソ連時代に抑圧した自国民や他国民への補償問題を棚上げしたまま今日に至っていることが、日本人のロシアという国に対する負の感情を醸造する大いなる原因となり、信頼関係の構築を妨げて来た。自国にとって都合の悪いことは歴史的過去であっても認めようとはせず、決してこれを謝罪することも責任を負うことも補償することもしない、このような体質の国と友情や信頼は育めないと考えるのは、日本人の自然な国民感情である。

だから、このような政治状況では、今後も、日ロ関係が活発化するとは思えず、大企業であっても、中小零細企業がこれまで幾度となく阻まれて来た壁を超えるのは困難であろうと筆者は予想する。たとえこの先、北方領土で、あるいはシベリアで、日本人とロシア人の自由な行き来が出来るようになり、共同経済開発が行われたとしても、それだけでは、ロシア人を日本人が信頼するには早すぎるのであって、それだけでこれまで培われなかった信頼関係が突如として生まれるようなことは、決して今後も起きないであろうと言える。

今回、ロシアとの信頼関係が長い時間をかけて構築されるよりも前に、北方領土や極東シベリアにおける経済協力を日本政府が自らロシアに申し出たことは、北方領土に対してロシアの統治権を認めることに等しい敗北であるばかりか、それはさらに日本人をロシアの国益のために、自国の法の及ばない領土に向けて差し出すことを認めたも同然である。自国の法の保護外に出た人間は、単なる外国人であり、いざ政変が起きれば即、難民にしかならない。

そういうあいまいなゾーンで、これら二つの国がこれからやろうとしていることは、どこからどう見ても、シベリア抑留の時代とさほど変わらない日本人に対する無責任な騙しと搾取でしかないように筆者には見受けられる。

とにかく、国際社会におけるロシアへの扱いが今後どのようなものになるのかさえ、まだ分かっておらず、ロシアへの不安材料が山積みになっている今のような時に、やれロシアとの信頼関係の構築だの、経済協力を申し出るだの、安倍の主張していることはまるで正気の沙汰ではない、と言わざるを得ない。経済協力は、領土問題に決着がつき、平和条約が締結されてから、その後、考えてみても良いことであって、それが領土返還や、平和条約締結のための前提条件のように差し出されるのは異常である。

そのようなことをやっていれば、平和条約の締結という言葉で、今後も無限にゆすられ、たかられることになるだけである。そもそも、平和条約の締結の対象外である国と、どんな協力関係があり得るのか、それ自体が笑止千万であり、平和条約の締結がなされて来なかったのには、それだけの理由があることを考慮せねばならない。にも関わらず、平和条約締結がないことを「異常」とみなして、これを日本側からの積極的な歩み寄りの努力によってのみ解決しようと主張すること自体が、すでに常軌を逸した発想であり、狂気の沙汰としか言いようがない。

そういう転倒した理屈になるのは、結局、安倍政権の本当の狙いが、ロシアとの信頼関係の構築などにはなく、要するに、カネと利権に目がくらまされて、大陸進出という悪夢に再びうなされて飛びつこうとしているだけだからである。開発、協力といった美名の裏で、領土拡張の野心を燃やし、再び、一獲千金の夢で人の心を釣り上げて、安全の保障のない危険な地域に国民を送り出し、一山築こうと考えているから、そうなるのであって、他国との友情や信頼などは騙しの口実に過ぎない。政府のそうした騙しの手口は、戦前から今に至るまで何ら変わっていないと言えよう。

繰り返すが、本当は北方領土も奪い取ってでも取り戻したいという本心を隠したままで、口先だけ友好や協力を申し出ることで、他国に味方のように近づいて行く、そんな不誠実で下心の見え透いた政策が功を奏することは絶対にない。そんな提案を受け入れる方も、提案した側にまさる悪魔なのである。はっきり警告しておくが、このような政策はしたたかに裏切られて終わるだけで、善良な国民はこの手の未来も希望もない儲け話に決して巻き込まれるべきではない。

実のところ、ロシアとの経済協力もまた、アベノミクスの失敗を糊塗するためににわかに作り出された新たな幻想に過ぎない。失敗の上塗りに過ぎないので、すぐに成果なしに行きづまるであろう。我々は、満蒙開拓団が集団自決させられた事実や、ソ連軍が日本人を強制収容所に送ってただ働きさせたという恐るべき歴史的事実に学ぶべきである。そういう過去から目を背け、新たに領土を開発するなどといった夢のような儲け話に乗った人々は、命を脅かされ、殺されて死ぬだけである。

だから、今、北方領土を材料にして、目の前に新たなフロンティアという餌をぶら下げられて、国民が見せられているのは、かつて大日本帝国の抱いた野望と同じ、大陸侵略の悪夢であることに気づくべきである。友情だとか、協力だとか言ったきれい事の甘言はみなその野望を隠すためのカモフラージュである。

シベリア抑留という歴史の清算さえできない国と、共同経済開発など絶対にあり得ないことであるが、そのあり得ない事柄を日本政府がやるというのだから、それは第二の抑留にしかつながらないのは明白である。日本政府とロシア政府の両者によって、日本国民が再び騙され、見捨てられ、シベリアで命を落とし、あるいは戦禍に巻き込まれ、命を脅かされる悪夢が再び近づいているのである。

安倍は南スーダンだけでなく、世界各国で自国民を紛争に巻き込み、殺したいのであろう。だからこそ、わざと危険な国にばかり国民を差し向けて、自ら人の命を売ろうとするのである。数えきれない人々が、このような政府の唱える偽りの夢に欺かれて命を落としたという過去の歴史の苦い教訓を、善良な国民は決して忘れるべきではない。歴史を直視せず、都合の悪い過去には蓋をして、全て無かったことにする現在の日ロ両政府が唱えていることは、共に甚だしい虚偽でしかない。彼らの語る夢は、どれもこれもむなしい偽りの幻ばかりでしかなく、彼らの行く道は、詐欺師や盗人や殺人者と同じ道であり、彼らが口先で弄する美辞麗句に欺かれて、その背中につき従った人々を待ち受けるのは破滅だけである。

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。
(Ⅱテモテ3:13~14)


わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
 彼らがあなたに向かって、
 「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、
 罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、

 陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
 われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
 あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」
 と言っても、
わが子よ、彼らの仲間になってはならない、
 あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
 すべて鳥の目の前で
 網を張るのは、むだである。

 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。
 これはその持ち主の命を取り去るのだ。
」(箴言1:10~19)

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ただ神の恵みによって生きる――魂の贖いしろは高価で、人には払いきれない――

ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。
死を免れるのは、私の主、神による。
            (詩篇68:19)

どうして私は、わざわいの日に、
恐れなければならないのか。

私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
おのれの財産に信頼する者どもや、
豊かな富を誇る者どもを。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
            (詩編49:5-9)

一つ前の記事において、信者がアダム来の古き性質を自己のアイデンティティだと思わず、キリストにある「新しい人」を実際として信仰によって掴むべきだということを書いた。

キリストにある新しい人を単なる「道徳的な人間」ととらえているだけの人間には、筆者が書いているようなことは、トリックか、机上の空論のようにしか感じられないだろう。

「現実の私はこんなに罪深いままなのに、どうしてそれをキリストのご人格と同一視するようなことができるでしょう。そんなことは、あまりにも畏れ多いことです」

と言う人もあるかも知れない。

だが、聖餐式の時に差し出されるパンと葡萄酒を、信者は自分がそれに値するから手に取るわけではない、ということを思い出していただきたい。信者がこれを手に取ることができるのは、世人と違って、その信者には、キリストの十字架における死と復活を、自分自身のものとして受け取る信仰があるためである。キリストへの信仰こそ、信者が神の御業を受けとるに必要なものであって、信仰がない人が、それを受けとるにふさわしくないのである。

キリストの贖いの御業に値する人間は、そもそも、この地上に誰一人いない。誰も信仰によらなければ、神の贖いを自分自身のものとして受け取ることはできない。

だとすれば、キリストにある新しい人格に値すると言えるだけの人間は、地上には誰一人おらず、ただそれを信仰によって受けとる道が与えられているだけだということである。だから、信者の目にたとえ自分がどれほど罪深く、キリストからほど遠い人間に見えたとしても、キリストの御業は、信者がそれに値するから与えられたものではなく、ただ信じることによって信者に適用されることを思うべきなのである。

そもそも、人間の地上にいるすべての人間は例外なく罪人であって、神の御業には誰も値しない。だからこそ、人は自己の努力によって救われることはできず、神の御言葉を信じて受け入れる者だけが救われるのである。

そうである以上、いや、そうであればこそ、キリストにある「新しい人」は、ただ恵みによって、御言葉に基づき、信じる者に与えられる。その恵みを受けとることこそ、信者に必要とされる。

さて、神の恵みによって生きるとは、地上の事柄に責任を負わない人生を意味する。

聖書には、神が私たち信ずる者のために、日々、重荷を担われる、と書いてある。神が私たちのために心配して下さるのだから、神に重荷を預けて、生活のことなどであれやこれやと思い煩うことをやめなさい、とも書いてある。

神の国とその義をまず第一に求めなさい、そうすれば、必要のすべては添えて与えられます、と書いてある(マタイ6:33)。

だから、私たちは自分の背負っている地上的な重荷を一つ一つ、自分の手から放して行くのである。それは無責任になることや、罪に対して開き直ることとは異なる。そもそも自分に責任の取れないことに対して責任を負わない、という当然の姿勢である。

この地上には、自分の人格改善に対して責任が取れる人間は一人もおらず、自らの生存に対して責任を取れる人間も誰もいない。そのような自分の能力や責任範囲をはるかに超えた事柄に対して、あくまで自分の力で何とかしようと拘泥し、懸命に努力し、あるべき状態を作り出そうと試行錯誤を繰り返しながら、重荷を抱える人生と訣別することである。

たとえば、筆者は、つい先ごろまでは、世人と同じように、地上の職業に就いて働き、地上において何者かになることを目指して生きていたが、そのようにして自分で自分を養う生き方ではなく、自分の全てを神に明け渡し、神の国の働き人として生きるために、神によって直接、養われる生き方へ移行すべきだという結論に達した。

多くの人は、それを聞けば、「あなたは浮浪者にでもなるつもりですか? 何と無責任な」と言うかも知れない。だが、そのようなことにはならない。それどころか、キリストの命の豊かさ、健全さを筆者が生きて知ることができるようにと、実際、すべての局面において、神は、筆者が誰の助けにもよらずに生きられる健全な自立の方法を備えて下さったのである。

これまで、多くの信者たちが、筆者には色々な能力や知識や経験があるのだから、それを活かしてこの世で働くべきだと助言したし、筆者自身も、聖書に「手ずから働きなさい」と書いてあるのだから、働くことは良いことだと考えてそうして来たのであり、なおかつ、常に筆者自身が自らの望みに応じて、仕事を選ぶことができるように、神ご自身が助けて下さった。

こうして筆者は世の情勢にも関わらず、常に仕事に困るとか、生きるに困るということを経験しなかったが(ただし信仰による訓練はあった)、それにも関わらず、どうにも最近、筆者の目には、この世の仕事と呼ばれるすべてが異常となり、破壊され、歪んでおり、ただ人間を苦しめるだけの苦役と化しており、この国では、まるで社会主義国における労働のように、労働の意味が歪められており、それはただ人間が自分で自分の罪を贖うための終わりなき苦役のようにしか見えてなかった。

そもそも労働ということの意味がおかしいのである。年々、それはますます歪んで、人を生かすことも、救うこともできない、人間性を貶めるだけのむなしい苦役に近づいていることが感じられてならないのである。

たとえば、我が国には、新卒採用という異常かつ不合理なシステムがあって、その不合理なシステムのせいで、何かの理由で新卒採用の道を外れた人間には、一生涯に渡る不合理なディスカウントが待ち受けている。たとえより良い条件を求めて転職したとしても、その人の努力では、決してディスカウントの仕組みから抜け出すことはできない。

だが、それならば、新卒で採用された人は「勝ち組」なのかと言えば、決してそうではない。この労働システムの中に勝ち組なるものは存在しない。新卒採用というのは、要するに、不都合な事実を決して人に見せず、聞かせないために、学生が自分で物を考え、疑う能力が芽生える前に、企業に奴隷として取り込んでしまえというシステムに他ならない。

新卒採用という制度は、もしたとえるならば、18歳や19歳の世間を知らない未婚の娘が、いきなり60歳や70歳の離婚歴のおびただしい老人に嫁がされるようなものであって、今でも開発途上国などでは、女性に不平等を耐え忍ばせるために、若いうちに女性を結婚させる仕組みが残っているところがあるが、新卒採用というのは、まさにそれを企業と社員の関係に置き換えたものに過ぎない。

世の中の不条理に気づかせないために、また、無知の中に留め置いて徹底的に搾取するために、できるだけ人が若く、未熟なうちに、物事を深く考え、自主的に自分の人生を決めたりする力が生まれるよりも前に、さっさと企業との「結婚」の関係に追いやって、そこから逃げ出せないように拘束してしまおうというわけなのである。

そのような不平等を強いる存在に誠意があることは決してなく、その関係が両者にとって真に有益なものとなることもない。学生の方では、仮にやる気に溢れた初々しい「初婚」だとしても、企業の方は、それまで数知れない社員をリストラし、太り続けて続けて生き残った「老人」である。そういう意味で、企業(むろん、ここには民間企業だけでなく、官公庁などあらゆる組織や団体が含まれる)は、おびただしい数の「離婚歴」を抱えた老人同然であり、もっと言えば、結婚詐欺師のような存在と言える。

何しろ、「初婚」で企業と結婚した社員のほとんどは、何年か後に、ただ失望と幻滅だけを抱いて、悲しみのうちに「家を出される」ことになるかも知れないからだ。しかもその際、その社員には「子供が産めない(=思ったほどの業績が出ない)」などと言った理不尽かつ不面目な理由がつけられて・・・。

こうしたシステムは、いわば、確信犯的に慣習として行われているのであって、60歳、70歳、80歳、90歳の老人同然の組織や団体が、10代の後半、20代の初めの初々しい人間を思い通りに娶って己が欲を満たすために作られた、あまりにも不合理で不平等な差別のシステムである。

だから、仮にめでたくそこで「結婚」(=新卒採用)が成立した人がいたとしても、喜ぶのは早すぎる。少しでも人間としての心があれば、娶られた側の若者にも、その関係が実は騙されたも同然のものであり、自分の仕えている主人が、自分の若さにも誠意にも値しない存在であり、おびただしい数の「妻」を犠牲にしつつ、私腹を肥やすことしか眼中にない我利我利亡者だということがすぐに分かるであろうし、それでも、あえてその関係の中にとどまり続けようとするならば、自分もやがて良心を売って、彼らと同じような詐欺師の仲間入りをするしかないのである。

かつては、この国ではそういうやり方で、若者の特攻への選抜が行われ、有力な大人たち(老人たち)、国家の面子を保つために、青年が戦争で無益な死に追いやられていたが、そのような歪み切った精神性は、今になってもこの国に変わらず受け継がれているのである。

だからこそ、この国では未だ若者への搾取と収奪が終わらず、どちらを見ても、弱い者から収奪する以上の考えが生まれて来ないのである。そんな中で、新卒採用されれば幸福だと思うのは大きな間違いで、それはただ騙しと搾取のシステムを気取られないように美しくコーティングしたものに過ぎず、新卒採用された者も不幸であれば、新卒採用から「ドロップアウト」した者たちも不幸で、我が国の不合理な労働市場の競争システムは、結局、どこまで行っても、決して誰をも幸福にしないのである。

こうしたシステムは、我が国のグノーシス主義的世界観から発生している。戦後を経ても、このような価値観に終止符が打たれなかったのは、その背後に、独特の宗教的世界観が横たわっているためである。グノーシス主義思想は、終わりなきヒエラルキーを上昇して行くことを至高の価値とする世界であり、そこでは個人の普遍的な価値というものは、ヒエラルキーの序列の中で定義される相対的なものであって、実際はないに等しい。個人はヒエラルキーの階段を上ってこそ価値が認められるのであり、そのヒエラルキーを温存する場所が、組織や団体である。そこでは、組織や団体の価値観が個人の価値を定義するのであって、組織や団体の生き残りは、個人の生き残りよりも優先される。ヒエラルキーを上った個人は助かるかも知れないが、それ以外の個人は、全体のために犠牲になるのが使命だと考えられているのである。

これは一種の優生思想である。このように、個人の命よりも、組織の面子と生き残りを重視し、そのためならば個人は犠牲にされて構わないとする悪意ある歪んだシステムの中に居続けている限り、たとえ望んでいなくとも、誰もがこの不合理なシステムを助長する駒とされるのは避けられない。

だとすれば、残る道は、そこから脱出することだけである。聖書には、地上の経済がやがて反キリストの王国に集約されることが記されているが、このような悪しきグノーシス主義的世界観に支えられた地上の経済に仕えて生きる生き様そのものから、脱出せねばならない時が迫っているのである。

かくして、筆者は、労働によって人が己の生存を支え、自分で自分を贖うという終わらない苦役をやめて、ただ神の恵みによって生かされる単純な道へ移行することに決めた。

かつて社会主義国ソ連で、詩人ブロツキーが労働に従事しなかったために、当局に呼び出され、「徒食者だ」と非難された(詩人であることは、社会主義国では職業とはみなされなかった)。その国では数多くの人々が無実の罪で投獄され、奴隷的囚人労働に従事させられていた。

我が国の有様は、実のところ、これとほとんど変わらない。我が国が資本主義国であるというのはほんのうわべだけのことで、実質的には、社会主義国とほとんど変わらない現状が広がっている。すでに新卒採用について触れた通り、我が国における労働システムは、ただ単に人が働いて生きる糧を得るための場所ではなく、それ以上のより深い意味を帯びており、結局、それは組織や団体にとって都合の良い人材を育成・確保するための方法論に他ならない。

つまり、社会主義国において行われていた愚かしい「労働による再教育」と同じように、我が国における労働システムも、生涯、プロレタリアートとなって資本家にとって都合の良い労働力の提供者となる者を育成・確保するために、労働による絶え間ない人間性の変革(=再教育)が行われているのである。これはすでに一種の歪んだイデオロギーであり、労働を通じてこのシステムに参加することは、自ら再教育に志願することと同じなのである。

そんな「労働」に寸分たりとも人間性を変える力があると思うのは誤りである。そのような意味においての「労働」には、人間性を貶める以外に何の効果もありはしない。それは人間が自己の力によって自己を変革しようとする偽りの救済システムの一環である。

だから、筆者は「労働によって人が己の罪を贖い、人類が自己浄化をはかる」という、呪われたシステムの体系の外に出ることを決意したのである。

振り返れば、筆者だけでなく、信仰の先人たちはみなほぼ例外なく、この道を辿って来たようである。彼らは世の経済の繁栄のために働いて生きることをやめ、神の国の権益のためにのみ働いた。そして、どんな時にも、彼らは世に助けを求めず、自分たちの窮状や欠乏を信者に巧みにアピールして助けを乞うこともなく、すべての必要を、神が彼らのために信仰に応じて備えて下さるに任せたのである。

筆者の人生にも、そういうことが幾度も起きて来た。筆者自身が働いて自分を養っていると思っていた間も、幾度もそういう不思議が起きて、主が筆者のために必要を天に備えて下さっているのを見せられて来たのである。だから、地上の経済から、天の経済への移行は、筆者がはっきりとその道を自覚する前から、徐々に行われて来たのだという気がしてならない。

このようにして、筆者は、聖書が教えている健全な自立のために信者が手ずから働くことと、信者がこの世の歪んだ市場経済の犠牲となることは、全く意味が違うのだという結論に至りついた。

蒔くことも刈ることもしない野の花も、空の鳥も、神は養って下さっているのだから、人が自分の生活のことで思い煩って、明日の心配をするのをやめなさい、と聖書は言う。主イエスは、人間は鳥よりも優れた者なのだから、どうして神が養って下さらない理由があろうか、だから、人は自分の命の心配を第一として生きるのではなく、神の国とその義を第一として生きなさい、と語られたのである(マタイ6:25-34)。

これこそ、人の生存の基本であると、筆者は考えている。人の生存を保障して下さるのは、天におられる神である。神が心配しなくて良いと言っていることについて、なぜ信者がくよくよと考え、己の力で何とかしようと奮闘する必要があろうか? それよりももっと考えるべきこと、見るべき課題が他にあるではないか。それが神の国の権益である。

おそらく、企業や団体に雇われて働いている人たちには、「こんなにも自分は一生懸命にやっている」という自負があると思われる。彼らには、雇われていない人、働いていない人、働けない人たちに比べて、自分は社会に貢献しており、優位に立っているという自負もあるだろう。だが、それは裏を返せば、それだけ彼らが理不尽を耐え忍んで不満がたまっているということに他ならない。

しかしながら、たとえそのように理不尽を耐え忍んでも、悪事に加担し、己が労働を誇るその生き方からは、何も生まれて来るものはない。この世には、そんなにも一生懸命に「主人」に尽くしていながら、それに見合った対価を受け取っている人はほとんどおらず、多分、あと少しすれば、彼らの努力は本当に全く報われないものになろう。

私たちは、自己の努力によってではなく、神の恵みによって生かされている。世という悪い「主人」によって養われているのではなく、聖書のまことの神というただ一人の「主人」に養われているのである。信ずる者は、世の栄光のためではなく、神の栄光のために生きている。その基本を忘れ、この世を「主人」として栄光を帰する人間は、悪魔に騙され行くだけであろう。

この世の経済はますます追い詰められて滅びに向かっている。人が自分で自分を養っているという自負は、偽りであって、その仕組みは決して成り立たないことだけが間もなくはっきりするであろう。聖書にある通り、魂の贖いしろは高くて、人には払いきれない。

こうした自明の理が明らかになる前に、筆者は滅びゆくバビロンから逃れ、神の恵みによって生きるために、天の経済に移行し、野の花や、空の鳥のように、自由に、さりげなく、生き生きと、被造物としての美しさ、健全さを現して、神に栄光を帰して生きたいと考えている。神はその御言葉の確かさを様々な知恵を通して信じる者にこれからも証明して下さるであろう。


人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように

緑のビルの仲間から手紙が送られて来ました。このようなブログを読んだことなく、私の生きて来た道も知らない市民からです。それにも関わらず、主がなさる何という不思議! 同じ御言葉が御身体の内に響き合っていることを感じずにいられないのです。

どんなに境遇や立場が違い、どれほど互いについて知らなくとも、私たちは同じ主の御旨の中を生きている! 私たちは一つの身体として結ばれており、神の家族である! 疲れたり、孤独に陥って、弱っている肢体のうちに流れ込むキリストの命の力。これほどまでに何もかもが異なっている人々を愛によって結びつけることのできる主の不思議な御業に驚愕するのみなのです。本人の承諾を得て掲載します。

* * *愛するヴィオロンへ* * *

私がヴィオロンを愛しているなら、キリスト様はどれだけあなたを愛している事でしょうか。私は誰かのために「死ね」と言われたら、死ぬ事が出来ないでしょう。しかし、キリスト様はいさぎよく死んで下さいました。ヴィオロンのためにも、私のためにも。その上、死に打ち勝って下さいました。それはヴィオロンも、私もキリストと共に死に、キリストと共によみがえり、キリストと共に天の座にすわらされたのです(エペソ2:6)

これはまぎれもない事実であり、私達の父なる神は時空を超えて何でもおできになる偉大なお方です。そしてあらゆる問題を全て解決して下さり、そして何よりも、間もなく天の御国から私達を迎えに来て下さるのです。もうあまり時間がありません。人生は一回きりしかありません。せっかくこうして地上にいる間は、心も思いも、自分の持っている全てを、キリストを知るために使いましょう。そのために、時間を使うのです。父なる神はどれだけ真実なお方であられるか、もっともっと神を知るために、時間を使いましょう。求めるのです。受けますから。それはヴィオロンの喜びが満ち満ちたものとなるためなのです
(ヨハネ16:24)

声に出して異言で祈り、(異言を話す者は、人に話すのではなく神に話すのです、誰も聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです、
Ⅰコリント14:2)、(自分だけで神に向かって話しなさい、Ⅰコリント14:28)。神は私達がその信仰によって成長し、全ての事に満たされ、神の満ち満ちたさまにまで成長する事を望んでおられるのです(エペソ3:19)

さあ、ヴィオロン、前へ進むぞ! 立ちどまるな! 神の栄光の渦の中へ、つっ走って行くのだ!


御言葉の力(信仰告白)

「我が子よ、もしあなたが……あなたの口の言葉によってあなた自身が罠にかかり、あなたの口の言葉によって捕らえられたなら……」と、箴言にあります(箴言6:1-2)

信仰の言葉はあなたを勝利に導くが、恐れの言葉は、あなたを敗北に落とす。言葉こそ最も強力な武器だ。この事実を絶対に忘れてはいけません。人間は霊的な存在として、神と同様、信仰に応じた行動をしているのです。神の御言葉は、人を全き者、つまり、人の霊と魂と肉体を調和のとれた本物の人の姿にしようと働いています。

主の御言葉こそ、主イエス御自身であって、私達(ヴィオロン)の知恵となり、また、義と聖めと贖いとになっていて下さるのです。多くの人々が自分自身の口から出た言葉によって、自分を拘束し、自分で自分を縛り苦しめています。しかし、ヴィオロンが神の言葉を口ずさみ、心から神の御言葉を語る習慣を身に付けるならば、神の御言葉はヴィオロンを自由にし、御言葉通りの健康や、御言葉通りのいやしと回復と幸せを経験させてくれるでしょう。

神に感謝すべき事は、神の御言葉は必ず実現し、成就する事です。神の御言葉を語る者は、信仰の高嶺に自分を引き上げているのです。そして、主イエス・キリストと同様、口の言葉によって神の能力が現われ、御言葉通りの神の御力がヴィオロンに現われるだけに止まらず、ヴィオロンの周囲の人に及びます。これからは、毎日、神の御言葉を口ずさみ、心に蓄えていきましょう。


宣言
 
どうか私達の主、イエス・キリストの神すなわち栄光の父が神を知るための知恵と啓示の御霊をあなたがた(ヴィオロン)に与えて下さいますように。また、あなたがた(ヴィオロン)の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのように栄光に富んだものか、また神の全能の力によって働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかをあなたがた(ヴィオロン)が知る事ができますように(エペソ1:17-19)

私達全てのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒に全ての物を(ヴィオロン)に恵んで下さらない事がありましょうか。(ローマ8:32)

(ヴィオロン)に全ての物を豊かに与えて楽しませて下さる神に望みを置くように。(Ⅰテモテ6:17)

私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ我が岩、我がやぐら、私はゆるがされる事はない。私の救いと、私の栄光は神にかかっている。私の力の岩と避け所は神のうちにある。ヴィオロンよ、どんな時にも神に信頼せよ。ヴィオロンの心を神の御前に注ぎ出せ。神はヴィオロンの避け所である。(詩篇62:5-8)

心を尽くして主に拠りたのめ。自分の悟りにたよるな(箴言3:5)。主に信頼して善を行なえ。地に住み誠実を養え。主をヴィオロンの喜びとせよ。主はヴィオロンの心の願いを叶えて下さる。ヴィオロンの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。主はヴィオロンの義を光のように、ヴィオロンのさばきを真昼のように輝かされる。(詩篇37:3-6)

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力を持ってヴィオロンの内なる人を強くして下さいますように。こうしてキリストがヴィオロンの信仰によって、ヴィオロンの心の内に住んで下さいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた(ヴィオロン)が、全ての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知る事ができますように。こうして神ご自身の満ち満ちたさまにまでヴィオロンが満たされますように。どうかヴィオロンの内に働く力によってヴィオロンの願うところ、思うところの全てを超えて豊かに施す事のできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光がとこしえまでありますように。アーメン.。(エペソ3:16-20)

神は御心のままにヴィオロンのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです。全ての事をつぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2:13-14)

ヴィオロンがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされますように。また主にかなった歩みをしてあらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を私達(ヴィオロン)に与えて下さった父なる神に喜びをもって感謝をささげる事ができますように。神は私達(ヴィオロン)を暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。(コロサイ1:9-13)

あなたがた(ヴィオロン)は選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それはヴィオロンを闇の中から、ご自分の驚くべきべき光の中に招いて下さった方のすばらしいみわざをヴィイオロンが宣べ伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)

勝利の宣言
 

私はキリストの体であり、サタンは私に力を発揮できない。私(ヴィオロン)は神から生まれていて、もう既にサタンに勝っている。私(ヴィオロン)の内におられる神は、この世のどんなものよりも偉大であって力がある。私(ヴィオロン)はキリストのおかげで、のろいから解放された。もうやまいがこの自分の身体に影響を及ぼすことを許さない。主イエス・キリストの御名によって、どんな病気も、どんな悪も、この私(ヴィオロン)に触れる事を禁ずる。

私は勝利者です。私の勝利は、御子イエス・キリストの血と、私の告白によって、私のものです。キリストは呪いから、貧しさから、病気から、死から私(ヴィオロン)を贖い出して下さいました。キリストは貧しさの代わりに富を与え、キリストは病の代わりに健康を与えて下さいました。私が主を喜んでいるので、主は私(ヴィオロン)の願いを叶えて下さる。私の繁栄を主が喜んで下さる。アーメン。



(2011.12.23)

もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです

以前に、異端の教えの危険性について知人と共に語り合った時のことを思い出します。こんなことを語ったのです、もしも信者がわずかでも偽りの教えを受け入れてしまったと気づいたならば、それとは早急に訣別することが必要であると。もし公に受け入れた偽りであれば、公に誤りを認めて訣別した方が良い。とにかくはっきりと自分の間違いを認めて悔い改めを表明し、訣別の告白をすることが必要である。

もし自分の誤りを認めるのがためらわれるとか、名誉が失われるのが嫌だというような理由で、事の次第を曖昧にし、わずかな偽りでも受け入れたまま放置するならば、いずれそれはその人の全身を焼き尽くして死に至らせてしまうだろう。だから、偽りと公に訣別するかどうかは、信者の永遠の命にかかわる極めて重大な問題なのだと。

さらに、その偽りがその人に侵入するに至ったきっかけとして、必ず、その人の何らかの肉の弱さがサタンの足がかりとして存在する。その肉の弱さこそ、その人の内でサタンの地歩をなして来たものであるから、その地歩を取り除くことも極めて重要である。そうでなければ、表面的にどんなに偽りを正しても、同じことの繰り返しになるからである。そこで信者は、どこからどうやってその偽りが自分に侵入したのかをつぶさに振り返り、自分が主と共に十字架に引き渡さないで留保している肉の思い(たとえば自己憐憫や、赦せない思い、自己義認、不平、憤り、失意、落胆、苦い思い、神に対する恨み、等々)を持っているのではないか自分を吟味し、それらの御言葉に反し、神の御前で悪とされる反逆的な思いをことごとく手放す決意をし、それを悔い改め、訣別することが必要であると語ったのです。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)

ウォッチマン・ニーも書いていましたが、そのようにして内側からサタンの地歩となる肉の思いを取り除く作業を着々と進めていくことによって、一旦は偽りによってとらえられ、とりこにされて自由を失い、圧迫され、落胆させられたその人の霊が、もう一度、真理の光に開かれ、健康さを取り戻すことが可能となる場合もあるのです。信者は抵抗して自由を取り戻さなければなりません。それは人が内側で自分を縛っているサタンの力に気づき、そこから信仰と御言葉の力によって解放されていく過程です。

とにかく罪を犯したなら、悔い改めの表明が必要です。だから、私は兄弟たちを疑ったり、告発したりするような偽りの思いを信じて受け入れてしまったことや、自己を義とする思いを受け入れてしまったことについて、それを恐るべき罪として告白するのです。そのとき、主がそれらと私を訣別させて下さり、血潮によって私を罪から清めて下さり、思いを新しくして下さることを信じます。何よりも、どうか私の心を単一にして下さい、と心から主に願うのです。しかし、単一な心は、主が忌み嫌われるものを留保したままでは得られません。罪の悔い改めを拒んだり、偽りとの訣別をしなかったり、サタンの地歩を取り除こうとしないならば、どうして単一な心が得られましょうか。

思いが単一でないということは、神の御前でどんなに恐ろしいことでしょうか。神は唯一であり(ローマ3:30)、キリストはその独り子です。神の御霊は一つであり(Ⅰコリント12:9,12:13他)、真理はただ一つです。真理は首尾一貫しており、いかなる分裂も矛盾も論理破綻もありません。論理破綻をきたすものは偽りです。そして、偽りはあらゆる自己矛盾に満ちています。偽りは悪魔から出て来たものであり、悪魔は偽りの父(ヨハネ8:44)なのです。

この偽りというものを言い変えるならば、二心や、真理に対する貞操のなさ、となります。二心とは分裂、自己矛盾のことであり、首尾一貫しない心、真理だけに従わない心、ただお一人の神だけを信頼できずに、絶え間なく二つのものの間で揺れ動く定まらない思いです。この不信、自己矛盾、論理破綻、分裂、不従順こそ、真理に対する貞操のなさであり、もっと言うならば霊的姦淫なのです。これに対して貞潔とは、ただ一つの神、一つの御霊、一つの真理に対していかなる矛盾もなく従順であることです。

「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うようなことがあってはと、私は心配しています。というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

ここで貞潔という言葉が、霊的姦淫に対する真摯な警告として使われています。貞潔を失うとは、信者の思いが汚されて真理に対して二心になる(分裂する)ことに対する警告です。二心とは、言葉通り、二つのものを同時にとろうとする態度であり、真理と、そうでないものの両方を見つめること、いや、真理と偽りの両方が視野に入っている状態なのです(しかし信者は決して真理とそうでないものを二つとも同時に選択することができませんから(真理は排他的なものです)、もし偽りを見つめるならば、最終的に偽りを選び取る恐るべき危険性に身をさらすことになってしまうのです)。

創世記において蛇がどのようにエバを誘惑したのかを思い出しますと、蛇は非常に狡猾な言葉を用いて、エバの関心をまず彼女が単一に見つめるべきいのちの木からそらせました。そして、彼女が思いを向けるべきでない別の木の方向へと誘導していったのです。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)

蛇は最初から自分の投げかけた質問内容が誤っていることを知っていました。蛇の目的は、正しい答えを得ることになどなく、神の言葉を歪曲して作られたこの質問によって、エバの関心をいのちの木から、彼女が「食べてはならない」と命じられた木の方向へ巧みにそらせることにあったのです。蛇は善悪の質問をエバに投げかけることによって、巧みに、彼女の心を善ではなく悪の方向へと誘導し、彼女の眼差しを真理ではなく、真理ではないものの方向へ向けることに成功したのです。そのとき、彼女の視野に真理と偽りの両方が入って来たのです。それが堕落にきっかけを与えたのでした。

二心の恐るべき危険はここにあります。私たち信者には二つのものを同時に見ることなどできないのです。真理は偽りと同時に選択されることは決してできないのです。

話が戻るようですが、偽りの教えは、私たちが旧創造に属する思いを擁護して持ち越そうとする時、そこから入って来ることが多いのです。それはアカンが密かに取っておこうとしたバビロンの美しい外套のように、とても小さなパン種であっても、その人の全身を焼き尽くす危険となり、もしかしたら霊的戦いを完全な敗北に導く原因となりかねません。特に警戒すべきは、自己憐憫、自己義認、恨み、妬み、赦さない心、等々を持ち続けることです。

たとえば病というものについて考えてみましょう。病というものを美化し、その弱さのために涙を流す態度がある場合にはどれほど大きな危険となるかを考えてみましょう。ルカによる福音書第13章には、主イエスが、十八年も病の霊につかれて腰が曲がって全然伸ばすことのできない女を癒された下りがあります。ここに彼女の病が病の霊」(ルカ13:10)によるものであるとはっきりと示されており、さらに、主イエスは彼女を癒された後にこう言っています、「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。」(ルカ13:16)

聖書は、彼女の病がサタンから来たものであるとはっきり告げています。アブラハムの娘である彼女は、よみがえりでありいのちである主イエスを信じることによって、その病から解放される権利を持っていたのです。ところが、もしもここで、この女が癒されることを拒んでいたらどうなっていたでしょう。主イエスが自分を癒して下さることを信じず、むしろ、自己憐憫に陥って、主イエスが彼女の弱さに同情して涙を流してくださることだけを求め、「あなたは癒されなくて良い、なぜならあなたは不完全なままでありのままで神に愛されている子供なのだから」と気休めの言葉をかけて下さることだけを求めていたならば、どうなっていたでしょう。

それと同じように、人類の肉の弱さのために自分(人類)を憐れんで涙を流すことは、見かけ上、とても美しい行いのように見えるでしょうし、同情的な行為にも見えるでしょう。よみがえりであり、いのちである御子の完全な復活の命を信じて、完全な癒しを受け取る信仰に比べ、自分の不完全さに甘んじて涙を流すことには信仰が要らないので容易なのです。人が自分たちの(罪なる肉の)弱さのために涙を流すとき、それは世間から見れば、とても憐れみに満ちた行為として拍手で迎えられるかも知れません。なぜなら、その方が受け入れやすいし、理解可能で、容易だからです。何よりも、それは人知の領域にとどまっているからです。ですから、間違いなくそれは多くの人々に支持されるでしょう。

しかし、それは主の御前で忌み嫌われる態度なのだと私は確信します。どうしてかと言えば、それは本質的に、キリストが十字架において私たちに与えて下さった復活の命の完全性を否定する態度を意味するからです。それは復活以前のものであり、神が裁きの宣告を下されたものを取り戻し、擁護しようとする態度だからです。アダムの命に属する肉の弱さを擁護すること自体、はっきり言って、御子の復活そのものの否定なのです。そしてこの復活の領域は人知を超えているのです。

ですから、もしも本当に「いのちの木」を選び取りたいならば、「食べてはならない木」とは完全に訣別する態度が必要です。これは旧創造に属するもの、アダムの滅び行く命に属するもの、神が刑罰の下に置いておられるものを全て十字架の死へと従順に引き渡す態度、それらと訣別し、決してそれを擁護しないという態度です。ですから、私はこう思います、信者は決して自分の肉の弱さや、不完全さを、主の御前で留保しようとしてはいけないのだと。もしも、ありのままの自分を擁護したり、肉の弱さをかばおうとしたり、自己義認、自己憐憫や、恨み、不平に陥ったことが分かったならば、早急に悔い改め、そのような感情は神の御前に汚れたものとして訣別するべきです。そうでないと、そこから偽りが侵入し、二心が広がっていくでしょう。自らの肉の弱さのために涙を流すことは、どんなに人の目に美しく見えても、旧創造を擁護しようとする思いであり、これを持ち越しているならば、いずれ復活の命に敵対する者となっていくことでしょう。

ですから、私は旧創造の不完全性を擁護したり、自分の肉の弱さを憐れんだり、病(病的な傾向、不健全さを含む)などの不完全性をありのままかばおうとすることはしません、むしろそのようなことを積極的に罪として認め、その肉の弱さを十字架の死へと引き渡します。そして、キリストが私のために十字架を通して与えて下さった命は、聖なる、尊い、完全な復活の命であり、それが私の内側で働いて全ての欠乏を補い、私の肉を霊によって殺し、私の死ぬべき身体をも健やかに生かして十分に余りある命であることを認めます。

なぜパウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(Ⅰコリント4:20)と言ったのでしょうか。それはキリストの御霊は、この世を越えた来るべき国の法則性という力によって力強く統治する命だからです。それは私たちの想像を超えており、この世のあらゆる法則を超越して、いのちの御霊の法則によって支配するものであり、キリストは最後のアダムとして命を与える霊となられたのです。どうしてこの御霊が私たちの思いを清めるだけでなく、私たちの地上の幕屋である朽ちゆく身体をも健やかに生かさない理由があるでしょうか。そればかりか、御霊は私たちを十字架において御子と共に死と復活にあずからせ、新創造として復活の領域で生かすのです。

「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。…

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:10-13)

私のこれまでの全生涯は健康になるための激しい戦いだったとも言えます。巷の医者に幾度、匙を投げられても、それでも、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31-32)と言われたまことの医者なる主イエスの言葉にすがって、ひたすら病を手を切ることを願い続けて、主を追い続ける人のようでした。なりふり構っている場合ではありません、病と妥協することは死を選ぶことであり、何しろ、この方の御言葉のメスによる手術の成功に、私の命運のすべてがかかっているのですから。

自分の病の深さを見た時に、どんなに恐れおののいたとしても、この方の手術はどんな病人相手でも、完了した」(ヨハネ19:30)と言われるほどに折り紙つきなのです。その贖いの完全性は、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。」(ルカ10:35)と言われているほどなのです。ただ罪を赦し、弱さを補い、病を癒し、欠乏を補うとか、そんなところにとどまらず、勝ち得て余りある命を与えるものなのです。ですから、私はその完了の宣告にすがるのみです。

人々はまるで逃げ道のように言います、御心ならば・・・、と。私は主イエスの御心は、私を癒し、健やかに生かすことにあると信じています。神の御心は、御子を信じる者に欠けのない健やかな命を与えることにあり、来るべき世にまで続く永遠の命を与えて私たちを生かすことにあるのです。御霊は、この死ぬべきアダムの命に比べられないほどにまさる御子の尊い復活の命として、私たちの死ぬべき身体をも生かすのです。それだけでなく、御霊は十字架において私たちを御子とともに死と復活にあずからせ、はかりしれない復活の命の領域において、キリストと共に御座にまで引き上げてくださり、キリストと共に統治する者とするのです。

それなのに、なぜ私たちを死に至らしめることしかできない、旧創造に属する、食べてはならない木を見つめなくてはならないのでしょうか。なぜそんな無価値なものを憐れんで涙を流さねばならないのでしょうか。いや、二心は沢山です、曲がったものはもう沢山です、真っ直ぐにいのちの木を見つめるべきです。いのちの木だけを選び取るべきです。御旨の中だけを歩み、主イエスの心に触れるべきです。旧創造の全てを主と共に残らず十字架で死に渡し、復活を受け取るべきです。主イエスの心は、御子を信じる者がご自身の完全な命にあずかり、癒され、きよくされ、彼と共に復活の領域の中を生きることにあるのですから。人にはできないことも、神にはできます、ですから、私はあの病人と同じように主の御前に自分を投げ出し、ひれ伏して懇願するのです。

「さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「
わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」(ルカ5:12-13)


神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神は彼らを義として下さるのです。


「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

 「真理とは何か」(ヨハネ18:38)とピラトのように尋ねる人に向かって私は語りました、私が今までに知った最も大きな真理はこうですと、「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:19) 「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14) 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)と。

 私たちはキリストと共に十字架につけられて死んだのです。私たちはこの方と共に十字架につけられて死んだ者であって、私たちの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:3) 

 キリストご自身が、真理であり、よみがえりであり、いのちなのです。私たちはこの方と共に死んだだけでなく、よみがえったのです。そして天に昇り、共に御座にまで引き上げられているのです。この真理に立たずしては、 いかなる自由もないのです。キリストと共なる死を認めないならば、復活に至る道はないのです。そして、この真理は私の知っていた教会では決して教えられることもなく、聞くこともできなかったのです。

 ピラトは博学であったかも知れませんし、人類愛にさえ立っていたかも知れません。彼はキリストには処刑される理由がないことを知っていたのです。そして、できるならば、宗教的争いを終わらせて、この方を無罪にするために何か手立てはないかとさえ思ったのです。しかし、ピラトは人間と世を知ってはいましたが、真理を知りませんでした。ピラトはこの世の政治には精通していたかも知れませんが、彼の目には神の復活の命に至る道が閉ざされていたのです。

 私たちはこの世の有様を見る時、あれやこれやの理不尽が終わることを願い、自分以外のさまざまなものが死ぬべきだと考えているべきかも知れません。しかし、断じてそうではありません。死ぬべきものは肉につける古き私自身なのです。これがサタンの支配するこの世の全ての理不尽な統治から私たちを救い出し、愛する御子の支配下に移すために神が取られた唯一の奇跡的な方法なのです。主イエスは私たちの旧創造のすべてを十字架で負って死に赴いて下さることにより、この旧創造に属する「わたし」というものに終わりをもたらして下さったのです。そして、その古き私の代わりに、キリストご自身の尊い命をもたらして下さり、神が意図しておられる新しい創造として、私たちを御子の復活の命と同じ命によって生かす道を開いて下さったのです。

「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。」(ピリピ3:3)

 私はゴルゴダで主と共に処刑されたのです。この事実を認め、彼の死と復活を実際としていたたくことだけが、地獄の大軍勢が大挙して押し寄せ、猛攻撃を加えるときにも、その力から私たちを守るのです。どんなにヒューマニズムで武装しても、それによって自分を守ることは全くできません。しかし、御子と共なる十字架の死にとどまるならば、鳥は死体をついばむことはできても、復活の命には全く触れられません。

 今のあなたの状態が絶望的に思われるというだけであきらめてはなりません。「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)と書いてあります。問題が明らかにされるなら、対処されるときが来たということです、まことの医者である方がついておられるのです、何を恐れる必要がありますか。

 十字架のより深い徹底的な働きが、私たちの思いと魂にも達しますように。からだだけでなく、魂の生来の働きも死に渡される必要があるからです。生い立ちも、気質でさえ、取り扱われる必要があるのです。アダムから来たすべてが終わらされなければならないのです(神は御子を通してそれら全てのものに死刑宣告を下されたのです、それらのものが一切無用であることを認めましょう。私たち自身から来るものではなく、キリストから来るものだけが神の御前に価値あるのです。)贖いの完全さを知るために、どれほど深く十字架の取り扱いを私たちは必要としているでしょうか。いずれにせよ、キリストの贖いの完全さがこの時空間を貫いて 永遠に至るほどであることを信じるのです。たとえ私たちの歩みが不完全であったとしても、子羊の血、神の義が、私たちの不義の代わりに、私たちを覆うことを信じましょう。

「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」(ヘブル9:14) 

 もし私たちさえ同意するならば、神はさらに私たちを扱われるでしょう。勇気を出しましょう、「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:5)

 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神は彼らを義として下さるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座につき、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル5:15-16)

(2012.3.13)