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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

義人の道はあけぼのの光のように。キリストの死を打ち破った非受造の命は、信じる者にすべてを供給する

「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

不思議なもので、独学でヴァイオリンを始めてから、もう少しで一年が来ようとしているが、当初、確信した通り、しょせん人間の作った楽器だ。アクロバットな要素は何もなく、きちんと取り組めばそれなりの成果が出る。

初めはとにかく憧れの難曲に、生きているうちに何とか到達するといったことを目標に、何年がかりかで曲を完成しようと覚悟していた。そこで、初めから初心者が取り組むにはかなり難しい楽譜を印刷して、無我夢中で運指を探して書き込んだ。当初は、それらしき音へたどり着くのが精いっぱいであったが、次第に、自分の音が出来て来たのである。

不思議にも、一旦、自分の音らしきものが出来上がって来ると、ピアノの鍵盤とそう変わらない感覚で、音程が取れるようになる。楽器を構えた瞬間から、音楽らしき音が出るようになったときはまさに感動であった。正しい音程を探して四苦八苦するのではなく、目を凝らして神経を費やして楽譜を追うのでもない。耳に自然な音楽が聞こえるようになって来たのである。

筆者が目指していたのは、まさにそれなのであった。最初の一音から、強制とは無縁の、自発的な、まさに自分の音楽と言える、オリジナルな音色を奏でることができる境地にたどり着きたかったのである。

筆者は子供の頃からピアノを習っていたため、ピアノに取り組んで来た年月の方がはるかにヴァイオリンよりも長かったにも関わらず、ピアノという楽器に対しては、楽器ではなく機械に向かっているような、何か言い知れない抵抗感やよそよそしさのようなものをずっと感じ続けて来た。

もちろん、音楽が嫌いなせいではない。弾きたいと思う曲は山のようにあり、頭の中にはイメージが駆け巡っている。にも関わらず、楽器に向かうとき、何かどうしようもないぎこちなさ、不自然さのようなものがあり、ピアノが自分自身の一部であるかのように自然に感じられるようになるまでには、教師に教えられたのとは全く異なる、自分のスタイルを見つけ出すための試行錯誤の年月が必要だった。

こうして、かねてより持っていたピアノに対する抵抗感が、だんだん払拭されて来たのは、ヴァイオリンに取り組み始めてからのことであった。それよりも前から、二年間ほどの緻密な練習を通して、すっかり遠ざかっていた鍵盤に再接近を試みたことも前に述べた通りである。

そうして真面目に練習再開をしたことに加えて、自分で音を作ることから始めねばならないヴァイオリンに取り組み始めてから、案の定、楽器というものに対する考え方が根本的に変化し、ピアノに対する抵抗感も次第になくなっていったのである。

やはり、ピアノに関しては、子供の頃に、自発的に習い始めたのではなく、やりたくもなかったのに無理に習わされていたという負の記憶がよほど鮮明に脳内に焼き付いていたのかも知れない。間違った音を出しては怒られていた記憶も残っており、長い間、どうしても楽譜通りに誤りなく正確に弾かねばならないといった意識が常に先行して、自由が束縛され、心から弾きたいと思う自分の音楽を探すことも、それを奏でることも二の次であり、自分の音楽などというものは、片鱗さえも手に入れていなかったようなのである。それが変わって来たのが、ヴァイオリンへの取り組みを始めてからであった。

ヴァイオリンは、当初は、1時間も楽器を構えていられないという状態から始まった。もちろん、子供の頃に知っていた曲以外は、新しい楽譜を見ても、何とかそれらしき音程を探すだけで、音楽にならない。高音域などは、指の力がないために、押さえても全く音にならない。

だが、そんなところから始まっても、楽器が自分になじむまでは、無理なことは何もしなかった。次第にそれらしい音が出るようになったからと言って、やはり、一つの楽曲の中でも、とても初めから弾けそうにない速いパッセージを無理やり全体に合わせるために猛特訓するようなことは決してしなかった。弾けるようにしか弾かない。弾けないところはスローモーション。とにかく体に負担がかかることを一切やらず、楽器が自分の親密な友達になるまで、無理な近づき方をせず自然に接近し続けることに月日を費やしたのである。

そして、半年が過ぎ、一年近くが経とうとする頃に、相当な変化が訪れ、楽器が楽器としての音を出し始めたのである。おそらく、自分にとって自然な楽器の構え方がだんだん身に着いて来たのであろう。楽器をしっかりと固定できるようになったことに続いて、両手の指の自由度が増し、それなりに速い動きも可能になって来たのである。

どうせ締め切りもなく、発表会が迫っているわけでもない。自分のペースで、嫌にならない程度、ひたすら練習を続ければ良い。多忙状況に置かれた際には、一カ月以上も、楽器をケースから出すことさえなく、中断していたこともあったので、本当のことを言えば、まだ一年も真面目に練習したわけではない。

だが、休んでいる間にも、驚くような進歩があった。眠っている間にも変化が起きるのである。最初は一曲すらも弾き通すことも無理であったのが、いつの間にか、余計な力が抜けて、連続して一つのソナタの第4楽章まで弾き通すことができるようになり、重音にも相当耐えられるようになって来た。オクターブももう少し練習すれば、何とかなるだろう。高音域を押さえる時にも、かすれず、はっきりした音色がだんだん出るようになって来た。

取り組めば取り組むだけ、それなりの答えが出て来る楽器である。通常、教師について、週一回か、二週間に一回くらいレッスンを受けていれば、多分、三年くらいかかるであろう行程を、一年で通過したのではないかという気がしている。

やはり、教師には就かない方が良いと助言を受け、筆者自身がそう感じていたことは正しかったという気がしてならない。自分にとって何が自然で、何が一番楽なやり方であるか、それは人に教えてもらうことがどうしてもできない領域なのである。おそらく教師について習っていれば、この最も基礎となる部分を入念に時間をかけて探し出すことができなかったのではないかと思う。

さて、話題は変わるが、当ブログを開いてから、今年で約10年が経ったことになる。これはお祝いのために書いているのではない。当ブログは、開設当初から近代化もしておらず、レイアウトの変更もほとんどなく、トレードマークの長文も変わらない。

当ブログが検索で上位を占めることが気に入らないため、毎日、必死になって検索結果を操作している読者たちがいるのだが、なぜそんなことをせねばならないのか、筆者は全く首をかしげるばかりだ。

毎回、筆者はその人たちに断っている、そんなことは徒労でしかないと。なぜなら、当ブログは、彼らが思うほどに、読んでいる人は多くなく、そもそもこんな学術論文のような長文を最初から最後まで読むことのできる人は限られている。筆者自身、最近は、眼精疲労のために、文章を満足に遂行することが追い付かないでいる。だから、初めの頃のように、隅から隅までチェックして満足のいく文章が書けていない。

さらに、10年もやっていると、検索してたどり着いて来る人などほとんどいない。だから、検索結果の操作をしても、その効果はほとんどないと言える。

さて、ヴァイオリンを教師に就かずにやり始めたことを当ブログに書き記したのは、半年ほど前のことだったであろうか。その時、筆者の心の中に、はっきりした直観があった。教師につけば、必ず、ピアノの二の舞となり、自分の音楽を見失ってしまうことになるだろうと。

その直観はまことに正しく、別に教師などいなくとも、大量の動画などもあるわけだから、いくらでも模範となるものは十分に揃っている。そういう意味では恵まれた時代である。

このように、教師に就かないという筆者の原則は、音楽だけでなく、信仰生活にも同様に適用されている。筆者はこの先、いかなる宗教リーダーにも就かず、目に見える人間から教えを乞うことを決してしないつもりである。

そもそも当ブログを始めた2008年にすでにその結論が出ていたのに、その原則を確固として貫けなかったところに、筆者の弱さがある。筆者の人格的未熟さのゆえである。

だが、年月が経つうちに、当初持っていた確信は心の中で強まり、ますます教師などなくても大丈夫だと確信するようになった。どんなことも、自分の内なる直観に基づき、解決できる。信仰においては、御霊を通して、神が必要のすべてを備えて下さると信じて、大胆に進んで行くことができる。

筆者が当ブログを始めて後、筆者より前からブログを書いていた多くのクリスチャンたちが、途中で書きやめてしまった。彼らはある時点までは、良好な交わりを持ち、意気揚々と信仰告白を記していたが、途中で、人間関係に変化が起こり、信仰的立場に変化が起き、様々な嵐が押し寄せ、自分がどうも大きな間違いを犯したのではないかと感じ、軌道修正を迫られた際、彼らは決して自分の誤りを人前に表明して修正することができなかった。人を傷つけないために、自分の体面を保つために、彼らは自分の心に起きた変化を決して外に表さなかったのである。それゆえ、彼らの発言は、途中から辻褄が合わなくなり、続けられなくなって行った。

そういう例は、キリスト教に限らずとも起きている。どういうわけか知らないが、人々がある時点を境に、とても良いことを熱心に書いていたと思われるブログやツイッターを放棄して行くのである。見かけがどれほど有意義で、どれほど大勢の読者がいたとしても、彼らの心の中で、何かの重大な変化が起こり、続けることができなくなったのは明白である。

だが、筆者は言っておきたい。真に信仰に立っていれば、必ず、最後まで告白を続けられると。ブログのレイアウトなどは問題ではない。問題は、神の御前での正直さ、誠実さである。

長く続けるために重要なことが一つある。それは神の御前で正直であらねばならないことで、そのためには、人に対しての遠慮を捨てねばならない。自分が間違いを犯したと感じる時には、たとえ面目を失う危険があっても、それをはっきり言い表し、立場を修正せねばならない。間違っているものは、間違っている、受容できないものは、受容できないと、態度をはっきりさせねばならない。

たとえば、自分が関わっていた一つの交わりが、途中から御言葉に背いて腐敗して駄目になったり、人に頼ってキリストを見失いそうになったりした際、その誤りや危険をきちんと認め、口で言い表し、あるべきところへ戻らねばならない。その過程で、決して自分の面目を惜しんだり、人の気分を害することを恐れてはいけないのである。

だが、それさえできれば、神の御前での首尾一貫性を失うことはない。ある信仰告白が残るかどうかの決め手は、首尾一貫性が保たれているかどうかにある。レイアウトを近代化することなど、それに比べれば大きな問題ではない。どんなに斬新なアイディアが溢れていても、そこに真実性がなく、首尾一貫性がなければ、長く続けることはできない。

何度も言うように、筆者は当ブログを人のために書いてなどおらず、神に対する信仰告白として書いている。

そこで、筆者が最も避けたいのは、たとえば、自分が誤りを犯していることが重々分かっているのに、面目を失うことが怖くて、また、人の期待を失うことが怖くて、人への遠慮や気遣いから、それを告白できなくなり、自分の人生を全く修正することができなくなって、嘘に嘘を重ね、ごまかしにごまかしを重ねながら生きることである。

筆者にはそのような不自然な生き方は、到底、逆立ちしても無理であるが、多くの人たちがそのように逆立ちして歩くように、器用に自分をごまかしながら生きている。信者を名乗っている人たちの中にも、そういう偽善的な生き方を確信犯的に行っている人たちが数知れず存在する。一体、何のための信仰生活なのか、筆者には分からない。不信者にはまだそういうことが許されても、クリスチャンにはごまかしは無理である。そんな生き方を重ねていれば、いつかしたたかに破滅する時が来よう。

砂地に立てた家は、嵐がくれば、ひどい崩壊を遂げるが、堅固な岩の上に立てた家は、崩壊しない。筆者はそういう家を築きたいと思っている。だが、そのためには、ヴァイオリンに取り組み、ピアノに取り組むときのように、人目につかない隠れたところで、根気強く、自分の納得がいくまで基礎を積み上げて行く地道な作業が必要になる。本当に自分が納得のいく生き方を、一人で黙って試行錯誤を重ねながら、模索して行かねばならないのである。

人に教えられ、強制されて身に着けた基礎は、どこかの時点ですべて取り払って、やり直さなくてはならなくなる。ピアノに関しては、筆者は約2年間をかけて、鍵盤への向かい方から始まり、基礎を全部やり直さなくてはならなくなった。教えられて身に着けたものは、決して自分にとって最も適切で正しい自然な方法ではなかったためである。自分にとって何が一番適切で自然であるかを自分で探し出すために、それなりの時間がかかった。

だが、やるべき努力をしていれば、その基礎は、一定期間が過ぎると、外に姿を現すようになる。自己満足の域を超えて、誰が見ても、一定の評価を下せるレベルになる。筆者はそのようにして、すべてのことに、自分で試行錯誤を重ねながら、自分の道を見つけて行くことこそ、重要であると考えている。教師につくと、自由が制限されてしまうように、人の采配の下で働けば、仕事の自由が制限される。まして宗教指導者の助言やアドバイスを受ければ、それに人生全体が拘束される。

人は人に向かって正しい道を教えられない。楽器の構え方一つをとっても、何が最も自然で無理がないかは本人でなくては決して分からない。人が人を助けられると思うことは、幻想であり、思い上がりでしかないと筆者はずっと言っている。

筆者はすべてにおいて、真に自由でありたいと考えている。そして、キリスト者のうちには、神の霊が宿っており、必要のすべてを、この霊が供給するからこそ、我々は自由であることができる。

キリストの霊は死を打ち破った非受造の命であり、自分の外にあるいかなるものにも依存しない命である。

この命がキリスト者の内側にあるということは、この命を通して、キリスト者はすべての供給を受けることができることを意味する。尽きせぬ命の水の源は、この霊の中に存在する。

それに引き換え、人に頼ることは、すぐに枯れてなくなってしまう水のために何度も何度も井戸へ向かうのと同じである。だから、筆者はそのような生き方を「隔離される」ことであると考えている。

多くの信者が、日曜ごとに教会に「隔離」されに行く。彼らは「罪」という不治の病にかかっており、これはおそろしく差別されている伝染病なので、彼らは自らを恥じ、社会を避けて、日曜ごとに、お参りをして自分を清めてもらうために、教会という療養所へ隔離されに行く。

だが、何度もお参りを繰り返しても、彼らの不治の病は治らない。日曜ごとに清めてもらわなくては、彼らは清くなったという確信も得られないし、罪や失敗や恥の意識もなくならない。

本当は、その不治の病を奇跡的に直すことができる力は、日曜礼拝にはなく、牧師たちにもなく、礼拝の場所も、あの山でもエルサレムでもなく、真理と霊によって神を礼拝することをせねばならないのであって、それを可能にして下さるのは、見えないキリストの御霊だけなのである。

人間の雑踏の中にこの方を見つけようとしているうちは、回答は得られないだろう。

この方に出会うためには、私たちは、しばしば、人里を離れてスカルの井戸のようなところで、キリストに出会う必要がある。日曜礼拝の只中でも、エルサレムの神殿でもなく、荒野のような寂しい場所で、主に出会うのである。

今、時代や社会はますますバビロン化が進んでいる。黙示録には獣の刻印を受けなければ、売ることも買うこともできない社会が来ると記されており、今やそうした時が近づいて来ていることが感じられる。

だが、キリストの命は、バビロン社会の全ての統制を超えて、信じる者に必要のすべてを供給する。

だから、筆者は述べておきたい。たとえどれほど大勢の人たちが、ヨブの苦難を見て、彼を責めた妻のように、「キリストを信じたがゆえに、あなたの人生は苦悩の連続になったのではありませんか。もっと楽な生き方があったとは思いませんか。あなたの信仰は愚かだとは思いませんか」と問うても、筆者は答える、決してそうは思わないと。

むしろ、この絶大な御名の権威のゆえに、筆者も当ブログも、堅固な家のように残るであろうと。多くの人たちは、筆者に比べれば、自分ははるかに幸せだと考えているのかも知れないが、この先もずっと今までのような時代が続くわけではない。筆者も当ブログも、人の目にどのように映ったとしても、10年後にも残るであろうし、しかるべき時が来れば、キリストが御顔の栄光を信じる者の上に朝日のように輝かせて下さるだろう。

アブラハムがそうであったように、キリスト者の人生は、晩年にさしかかればさしかかるほど、ますます光を帯びて壮健に輝いて来るはずである。

どういうわけか、筆者は今、当ブログを始めた時と同じような感慨に浸っている。その当時、筆者はいかなる宣伝もなしに、誰を満足させるためでもなく、ただ真実なる方を追い求めるためにブログを書き始めた。

読者もいなければ、手柄も功績も何一つなく、どこへ向かうのかさえ明らかでなかったその時と、似た様な感慨を味わっている。

神ご自身を真剣に呼び求めること以上の目的が、人にあるだろうか。

神ご自身が答えて下さりさえすれば、それにまさる満足がどこにあるだろうか。

筆者は、人として、神と共に地上で乙な歩みをしたいと思うのである。だが、人から見てどう思われるかなどは重要ではない。神と筆者との間で、後になってから、「これで良かった」と言える満足な歩みをしたいのである。その模索はまだまだ道半ばで、真の成果は今まで一度も完全に現れたことがない。だからこそ、前にあるものを一心に見つめ、まだ見たことのない約束の地を待ち望むのである。

ヴァイオリンがこの先、どうなるのかはまことに楽しみであるが、信仰生活にどんな実りが生じるのかは、もっと楽しみである。からし種のような信仰から、いくつも芽が出て、幹が伸び、成長して行く。光を照らし、水を注いで成長させて下さるのは神である。

この救いの岩に頼る者は決して恥と失望に終わることはない。

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十字架の死と復活の原則―聖なる都、新しいエルサレムとしての教会より、小羊の血潮と証の言葉により、悪魔の言いがかりを退ける―

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。 いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

何年も前から、当ブログがカルト被害者救済活動の支持者たちから被害を受けて来たことは、すでに幾度も書いて来たことであるが、この件で、警察が具体的に動き出したので報告しておきたい。

以後、加害者らに対しては、彼らが再三、強調して来た「市民社会の掟」に基づき、責任追及がなされることになる。反省のための猶予も、和解のためのチャンスも、十分に与えたが、それを再三に渡り、拒否したのは向こう側であり、これから起きることは、彼らが自分自身で招いた結果である。約9年間もの間、深刻な被害をこうむって来た筆者に、憐れみを求めるのは無駄なことである。

こうして、キリスト者は一歩、一歩、地歩を固め、陣地を取り返して行く。これは霊的支配権の激しい争奪戦であり、退くことのできない戦いである。

悪魔の策略は、キリスト者に「この世のすべてが当てにならず、誰一人頼りにならず、神もなければ、正義も真実もなく、絶望するしかない」という錯覚を吹き込み、他者の犯した罪をいわれなく背負わせた上、望みを放棄させて死へ追い込むことにある。

だが、実際に行動してみれば分かるが、世の中には神も正義も真実も存在するのだ。特に、キリスト者にあっては、確実に存在するのだ。欺かれてはいけない。いかにこの世が堕落した悪魔の支配下にあるとはいえ、キリストの復活の命は、この世の秩序を超越してすべてを支配する。愛する御子の王国へ移し出された我々には、悪魔の支配下に置かれなければならない筋合いはない。なぜなら、キリストは十字架において、悪魔をすでに打ち破られたからだ。

そういう意味で、我々に関する取り扱いはこの世の一般人と同じではない。この世の一般人であれば、正義も真実もないと考えざるを得ないような状況でも、我々のためには、神ご自身が生きて働いて下さる。従って、孤立無援の状況に置かれているのは、キリスト者ではなく、暗闇の勢力なのである。

筆者はここで、教会から被害を受けたとする元信徒らを募っては、彼らの怨念を煽り立て、牧師でもなく教職者でもない一般の元信徒を矢面に立たせる形で、教会に対立させ、筆者のような、地上の教団教派とは一切無関係のクリスチャンに対してまで、いわれのない迫害に及ばせたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の責任は限りなく重いということを、改めて強調せざるを得ない。

村上密氏の思想と活動の影響がなければ、カルト被害者救済活動の支持者らがこのような行為にまで至ることは決してなかっただろうと言える。

津村昭二郎氏と言い、村上密氏と言い、(筆者は牧師制度そのものに反対だが、その誤った牧師制度の中でもことさらに)牧師の道に外れた人々ばかりが登場して来る異常なアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を、筆者が子供時代に去ったのは、今から考えても、まことに正しい決断であったと思わざるを得ない。

筆者は信仰こそ捨てず、むろん、これからも捨てるつもりは一切ないが、聖書の真理とは別に、地上の組織がどんなに誤りに満ちたものであるかは、この教団で初めて思い知ったと言えよう。

村上密氏の活動の本質は、幾度も述べて来たように、神の教会の破壊にこそある。別な言い方で言えば、キリストの花嫁たる神の教会を断罪し、冒涜し、蹂躙し、呪うことにある。同氏の思想に突き動かされた人々が、教会に対する怨念を募らせ、一線を超えて、筆者のように教会の不祥事とは何の関係もない無名のクリスチャンに対してまでいわれなき迫害に及び、結果として自ら人生を滅ぼしたのである。

筆者は彼らの活動の偽りに立ち向かいながら改めて思う、彼らが筆者に浴びせて来た言葉は、誹謗中傷というより、まさに「呪い」であると。彼らは筆者を呪い、死へ追いやることを願って、数々の汚し言を浴びせて来たのである。しかし、その圧迫は、御子の血潮によって断ち切られ、呪いはこれを口にした本人に跳ね返る。

彼らにはダビデの祈りである詩編109編をお返ししよう。1編まるごとお返ししておくので、きちんと聖書を開いて、何が書いてあるのか、全文目を通し、声に出して朗読されたい。忍耐強いダビデも、どんなに愛や憐れみを持って接しても、憎しみと偽りを持ってしか答えようとしない霊的な敵に対しては、ついに次のようにまで厳しい宣告を告げざるを得なかったのだ。

「わたしの賛美する神よ。
 どうか、黙していないでください。
 神に逆らう者の口が
 欺いて語る口が、わたしにむかって 開き
 偽りを言う舌がわたしに語りかけます。

 憎しみの言葉はわたしを取り囲み
 理由もなく戦いを挑んで来ます。
 愛しても敵意を返し
 わたしが祈りをささげても
 その善意に対して悪意を返します。
 愛しても、憎みます。

 彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を立たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

  彼の生涯は短くされ
  地位は他人に取り上げられ
  子らはみなしごとなり
  妻はやもめとなるがよい。
  子らは放浪して物乞いをするがよい。
  廃墟となったその家を離れ
  助けを求め歩くがよい。
  彼のものは一切、債権者に奪われ
  働きの実りは他国人に略奪されるように。
  慈しみを示し続ける者もいなくなり
  みなしごとなった彼の子らを
  憐れむ者もいなくなるように。
  子孫は絶たれ
  次の代には彼らの名も消されるように。
  主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。
  母の罪も消されることのないように。
  その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
  その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず、

 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。
 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は彼を遠ざかるように。
 呪いを衣として身にまとうがよい。

 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。
 呪いが彼のまとう衣となり
 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと迫る者に対して
 主はこのように報いられる。

 主よ、私の神よ
 御名のために、わたしに計らい
 恵み深く、慈しみによって
   わたしを助けてください。

 私は貧しく乏しいのです。
 胸の奥で心は貫かれています。
 移ろい行く影のようにわたしは去ります。
 いなごのように払い落されます。
 断食してひざは弱くなり
 からだは脂肪を失い、衰えて行きます。

 わたしは人間の恥。
 彼らはわたしを見て頭を振ります。
 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、人々は知るでしょう。
 彼らは呪いますが
 あなたは祝福してくださいます。

 彼らは反逆し、恥に落とされますが
 あなたの僕は喜び祝います。
 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし
 恥を上着としてまとうでしょう。

 わたしはこの口をもって
  主に尽きぬ感謝をささげ
 多くの人の中で主を賛美します。
 主は乏しい人の右に立ち
 死に定める裁きから救って下さいます。
(詩編109)


カルト被害者救済活動の支持者らは、未だに心ない牧師や教会が、被害者の信徒を死に追いやったかのように主張して、牧師に謝罪や反省を求めている。しかし、筆者はここではっきりと言っておきたい、カルト被害者救済活動に携わる者こそ、その元信徒から信仰を根こそぎ奪い去り、死に追いやった最大原因であると。

カルト被害者救済活動の支持者らは、決して自称被害者の立ち直りに貢献しない。彼らの仕事は、被害者を永久に被害者のままにして置くことである。そして、あわよくば、その者が受けた被害を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

彼らが決して自分のもとへやって来たどんな信徒の解放も願っていないことは、一度でも彼らのもとを訪れた筆者を逃がすまいとして、彼らが行って来た数々の行為を見れば明白であろう。

弁護士が、紛争が長引けば長引くほど儲けになるのと同じように、この人々は、カルト被害者の被害がいつまでも永遠に長引き、被害者の立ち直りが永遠に不可能となり、教会を断罪する材料がより一層増え、それが自らの手柄となることを願っているのであり、そのために、相談にやって来た人々の打ち明けた些細な被害を、針小棒大につつき回し、どんどん膨らませて、死に至るほどまでに苦しみを増し加え、負担を重くして行くのだ。

元信徒が自殺でもすれば、彼らにとってはまことに好都合で、また一つ、牧師や教会を責め立てる材料が増える。そんな状況で、どうして彼らが被害者の元信徒の心の回復になど真に注意を払おうか。

従って、筆者ははっきりと言っておく、被害者信徒を殺したのは牧師でも教会でもない。その者の死の責任は、カルト被害者救済活動の支持者にこそあり、また、そうした人々の言い分にまんまと欺かれて、聖書の神への信仰を捨てた者自身にあると。

村上氏は、自殺者を擁護して、自殺者は天国に行けないとか、自殺を罪とするキリスト教の考え方は誤っていると記事で語る。

「法律では自殺を罪としていない。聖書の中でも自殺を罪としていない。自殺を罪とするのは、習慣的な考え方である。この習慣が自殺をした人の遺族を苦しめる原因になっている。作られた罪意識が、人を苦しめるなら、私たちはそれを変えていかなければならない。鬱の回復期の自殺を罪と見做すのは酷である。自死を選択するほどに追い詰められた状況、原因にも目を向けるべきだ。よって、私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」

要するに、村上氏が言いたいのは、追い詰められて死を選んだ自殺者を責めるのは酷であり、また、自殺者の遺族がいつまでも罪悪感に苦しめられるのも可哀想だから、キリスト教の伝統に従って、自殺を罪とする考えは、残酷で間違った考え方だと思うということなのである。どこからどう見ても聖書に基づかない全くとんでもない話である。

これは要するに、罪意識が人を苦しめるから、罪意識自体があるべきでないと言っているのと同じで、もっと言えば、罪という概念そのものが、人を残酷に苦しめるものだから、なくしましょうと言っているのと同じで、滅茶苦茶な理屈だ。

別なたとえで言えば、痛みの感覚が人を苦しめるから、人から神経そのものを取り去って、痛みを全く感じないようにしましょうと言っているのも同然で、痛みの感覚がなくなれば、人はますます鈍感になり、身の危険を察知することもできなくなり、重症の被害を受けても、全く分からず、死に至るだけだ。

罪意識は、痛みとよく似て、人が逸脱していることに気づくための重要なサインである。それがあればこそ、人は罪を犯さないように自制することができるし、過去を振り返って反省もできる。にも関わらず、罪意識が人を苦しめるからと言って、これを否定すれば、人はどんなに恐ろしい罪を犯しても、鈍感で、無感覚になり、ますます人間性を失って、獣のようになり果てて行くだけである。

もし自殺について、非難すべき対象があるとすれば、自殺を罪と見なすキリスト教を非難するのではなく、人を死においやる悪魔をこそ非難すべきであるのに、村上氏は転倒した理屈で、悪魔を非難せず、かえってクリスチャンを非難するのである。

村上氏がこのようにして、常にキリスト教を罪に定め、キリスト教が、この世の不信者に持たせる罪意識を、あるまじきことのように訴え、不信者を擁護しながら、かえって、信仰を持つキリスト者に、巧みに罪悪感を持たせようとしているトリックに注意する必要がある。

村上氏の理屈は、常にこのように、聖書とはさかさまである。要するに、その主張は、神がキリストの十字架を通して罪赦されたクリスチャンに再び罪悪感を持たせ、罪に定めようとする一方で、信仰を持たず、神の目に罪赦されているはずのない世人の罪悪感をやわらげ、世人の罪を免罪しようとするものだ。

こんな支離滅裂な主張に長い時間をかけて反駁する必要はない。聖書は言う、

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

「肉の思い」である「死」を擁護する村上氏が、「神に敵対しており、神の律法に従っていない」ことは明白である。村上氏は「私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」と言いながら、聖書が自殺を奨励したり容認したりしているとする具体的な根拠を何一つ挙げない。それも当然だ。そんな聖句があるはずもないのだから。

従って、このような考えの人物のもとに身を寄せた被害者たちが、村上氏の考えに触発されて、次々と信仰を捨てて、自殺を選んで行くとしてもそれは当然である。

このような反聖書的な思想に触れれば、人は自殺を罪とも思わなくなって、死に抵抗感がなくなり、周りの人々をどんなに苦しめることになるのかにも思いが至らず、ただ自分が楽になりたいという思いだけで、率先して死を選ぶようになるだろう。あらゆる苦難に信仰を持って勇敢に立ち向かい、キリストの勝利を生きて味わおうとする望みを捨てて、すすんで死に至るのはまさに当然である。

だから、クリスチャンは、こうした信仰のかけらもない人々による断罪を決して真に受けて懺悔させられてはいけない。被害者の元信徒が自殺を選んだとしても、それは自己責任である。また、自殺を選ぶように唆した人々に罪がある。責められるべきは悪魔と暗闇の勢力とカルト被害者救済活動の支持者であって、クリスチャンではない。

カルト被害者救済活動の支持者らが、このように、元信徒に生きる力を失わせるような反聖書的思想を自ら吹き込んでおきながら、その罪をクリスチャンに転嫁して、「キリスト教が自殺者を罪として責めるのは残酷だし、遺族が可哀想」などと、同情を装いながらうそぶていること自体、笑止千万としか言いようがない。

神を知らない世人が自ら死を選ぶなら、まだ情状酌量の余地も残るかも知れないが、キリスト教徒となって信仰を持ち、聖書の御言葉を知って、神に従うことを選んだにも関わらず、自ら死を選んだとなれば、世人よりももっと重い責任に問われるのは避けられないだろう。

どんなに追い詰められた状況であっても、ごくわずかな信仰でも残っていれば、神はその信者を救うことがおできになる。多くの霊的先人は、信仰を守り通すためにも、究極的に追い詰められた状況を何度もくぐった。あらゆる状況で、神の助けを信じるか、信じないかは、あくまで本人の決断なのである。

にも関わらず、追い詰められた人々に、信仰によって立ち上がるよう促すどころか、最後のなけなしの信仰までも失わせるような偽りを吹き込み、容赦なく心傷つけ、「貧しく乏しい人々心の挫けた人々を死に追いやった」罪は、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者たちにこそある。 

そこで、筆者はあらゆるクリスチャンに、村上氏の主張のトリックを見抜き、罪悪感を持たされないように注意するよう呼びかけたいと同時に、村上氏のブログで深刻な人権侵害を受けた大勢のクリスチャンらに向かって言いたい。同氏と直接の話し合いで物事を解決しようとするのをやめて、第三者を介入させて、早期に具体的に手を打つようにと。わざわざ弁護士などつける必要はない。市民としてのアクションで十分である。

信徒には信徒のレベルで向き合えば十分だが、牧師には牧師のレベルで向き合う必要がある。おそらく、村上氏の牧師としての逸脱行為を主張するに最もふさわしいのは、同氏から最も深刻な被害を受けた同僚の牧師たちであり、また、鳴尾教会に他ならないのではないかと筆者は考えている。

さて、繰り返すが、村上密氏の活動は初めから反聖書的な特徴を持つものであった。もともと「教会のカルト化を防ぐ」とする村上氏の活動は、同僚の牧師や、信徒らの恥や欠点を容赦なく暴き出しては、世間の前で断罪することでしか評価を得られないという欠陥を持っていた。しかも、この活動は、最初から、クリスチャンではない、信仰を持たない世間に、クリスチャンの非を見せつけて、この世の観点から、クリスチャンの行動の是非を裁き、それによって、信仰を持たない世間から評価を得ようとするものであった。

そのようにして、兄弟姉妹の恥を容赦なく不信者の前で暴露し、不信者の観点に立って信者を罪に定めようとする活動が、どうして、聖書に合致するものとなり得よう。また、どうして聖書の説く信仰による兄弟姉妹への愛や憐れみに基づく活動となり、同僚や信徒のプライバシーを尊重せねばならない牧師の職業倫理と両立し得ようか。

だから、村上氏がライフワークとしている、カルト化問題をきっかけとした諸教会への介入は、初めから、牧師としての職務を逸脱しており、反聖書的で、悪魔的な活動に終わることが明白な活動であったと言える。牧師がなさなければならないのは、福音伝道であって、被害者を募っては、自分が所属もしていない教会を訴えることではない。

そんな活動は、牧師の職務の範疇には全く含まれていない。この世の人々でも、牧師が牧師を訴え、信者が信者を訴えるような活動には疑問を感じ、共感も理解も示さないだろう。そのような活動は、ただ同士討ちを奨励するものでしかない。

カルト被害者救済活動の支持者らは、もともとクリスチャンではなかったと筆者は考えている。周知の通り、筆者は何度も「兄弟」として彼らに和解を呼びかけたが、彼らは最後までその提案をことごとく踏みにじり、嘲るだけであった。そうした彼らの行動からも、彼らには信仰によって結ばれた(はずの)兄弟姉妹に対する、いかなる愛情も、思いやりもないことがよく分かる。従って、彼らは信仰を持っておらず、我々の同胞でもないのである。そうであれば、当然、我々も彼らを同胞として扱う必要がなく、教会の方法で向き合う必要もなく、この世の方法で向き合えば十分であり、同胞としての情けは無用である。

繰り返すが、牧師であるにも関わらず、諸教会に敵対し、同僚を訴え、信徒を訴え、信者のプライバシーを暴き、中傷するような活動は、牧師の活動とは呼べないだけでなく、神と教会に敵対する極めて恐ろしい行為であると筆者は思う。彼らが相手にしているのは、この世の罪人ではなく、神が贖われたクリスチャンなのだ。従って、その活動には、神ご自身を敵に回すも同然の言い知れない恐ろしさがあり、どんなに厳しい裁きが待ち受けているであろうか。
 
カトリックのような統一的なヒエラルキーのないプロテスタントの教会には、それぞれの教会の自治があり、規則がある。それは尊重されなければならない各教会の「聖域」である。牧師や信徒は、諸教会にそれぞれ定められた規則を尊重すべきであって、自分が所属してもいない教会に、各教会の規則を踏み越えてまで、介入することは許されない。そのことは、宗教法人が不当に優遇されているという話とはまるでわけが違う。巧妙に話をすり替えられてはならない。
 
自分がその教会で被害を受けたならばともかく、当事者でもない人間が、自分が所属していない教会の内情に干渉して行くことは、法的にいかなる根拠も持たない。

このことは、信者の内心にも当てはまる。憲法は信教の自由を保障しており、これを侵害する行為は悪であり、違法行為である。

従って、筆者と面識もないカルト被害者救済活動の支持者が、筆者の内心を取り締まろうとして言いがかりをつけて来ることにも何の根拠もなく、また、筆者のようにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を去って久しい信者に、村上氏が何年間にも渡り、個人情報を暴くような形で中傷を言いふらしていることにも、何一つ正当な根拠がない。
 
自ら宗教トラブル相談センターを開設しておきながら、そこへ相談にやって来た信徒が、自分にとって目障りな存在になったからと言って、信徒のプライバシーに触れるような虚偽の情報を公然と流布し、信徒の信用を貶めるなどは、誰が聞いても呆れ返るような話でしかない。そういう事例がすでに生まれていると分かっているのに、誰がこの先、そんな恐ろしいセンターに、自分の個人情報を携えて相談に訪れる気になるであろうか。

このように、彼らのしていることは、聖書の倫理とは全くさかさまであり、聖書のみならず、この世の常識にも、法律にも、全くそぐわない行為である。彼らにはクリスチャンを断罪する資格など初めから全くなく、むしろ、クリスチャンの方にこそ、彼らを断罪する資格がある。このことをクリスチャンは自覚せねばならない。

教会がこうした人々に恥を暴かれ、圧迫されている立場から抜け出て、教会こそが、カルト被害者救済活動を断罪し、これを退けなければならないのである。
 
さて、不当な言いがかりを受けた際、キリスト者が何も主張しないでいるのは、悪魔に罪を着せられることに自ら同意するに等しい。私たちは、人間的には色々な弱さを抱えているとしても、神と人との前で、キリストの流された血潮を根拠に、自らの潔白を公然と主張せねばならない立場にある。

なぜなら、私たちは、自分の義に立っているのではなく、神の義に立っているからだ。キリストが十字架で流された血潮が、この世においても、来るべき世においても、私たちに何の非もないことを主張する根拠である。

血潮が、私たちを、神の目に、何一つ欠点のない、しみもしわもない、キリストの完全な花嫁として立たせる根拠となのる。この点で、私たちは神から受けた義認を軽んじてはいけないし、悪魔の訴えに一歩たりとも譲歩してはいけない。
 
悪魔の前で、圧迫に負けて、犯してもいない一つの罪を認めることは、百も千もの犯していない罪を認めることと同じである。たった一つの罪でも認めれば、身の潔白はもう成り立たない。そこで、信者であった人間が、村上氏のような、カルト被害者救済活動の支持者の側から、クリスチャンに対して発せられる断罪と非難の言葉に負けて、一度でも屈服させられて、懺悔すれば、それを皮切りに、その人間は、その後、百も千も万も、犯していない罪をあげつらった供述調書にサインを迫られるだけである。そして、サインを拒む根拠は彼らにはもうない。

クリスチャンは一度でも血潮を退ければ、もう二度と自分自身を擁護する根拠をどこからも得られない。そんなことになれば、世人以上に厳しい裁きに晒されるだけである。地上の組織としての教会に対するあれやこれやの不満を表明することと、真理そのものを退けることを、絶対に混同してはならない所以である。

しかし、何という馬鹿げた事態であろうか。キリスト教会で「被害」を受けたと主張している人たちが、正式に「加害者」になってしまったのだから。

いつまでも人を赦さない心、特に、神の教会を憎み、信徒と和解しない心が、どんなに危険で恐ろしい運命へと人を導くかをよく物語る出来事だろう。

結局、神が義とされたクリススチャンを罪に定めようとする活動に手を染めるなら、その者は誰であれ、自分自身が罪に定められて終わるだけである。とげのついた棒を蹴っていれば自分が痛いだけである。

筆者は、地上の教団教派としての教会には属しておらず、地上の教会を擁護するつもりはないが、それでも、キリストの花嫁たる天的なエクレシアが存在することを確信している。

どの教団教派に属していようと、どんな誤謬の最中にあろうと、それに関係なく、一人一人の兄弟姉妹の信仰を通して、目には見えない霊的共同体としてのエクレシアが存在し、機能しているのである。

カルト被害者救済活動の支持者らの罪深さは、彼らはただ自分自身の心の痛みと向き合い、自分が所属した教会とのトラブルに目を向け、これを解決することだけに専念すれば良かったにも関わらず、自分の心の傷や問題と向き合おうとせず、これを他者の問題に置き換え、他者を助けるという口実で、一つや二つの教会ではなく、教会全体を否定して敵に回し、全教会とクリスチャンの恥を暴くような活動に熱中することで、キリストの花嫁たる天的なエクレシアそのものを冒涜したことにある。

その罪は、地上の滅びゆくものを毀損する罪とは比べものにならないほど重い。その罰は、この地上だけでなく、永遠に至るまで続いて行くだろう。

さて、次回からは、こうした事件に関連して、「エクレシアを冒涜する罪」について考えてみたい。その過程で、三島由紀夫なども引き合いに出すことになろうが、このテーマは、これまで、何度も書きかけ、書きたいと思いながら、なかなか完成できずに来たため、いよいよ着手しなければならないと思っている。


十字架の死と復活の原則―裁きの時には一つの罪でも有罪となるが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される

オースチン-スパークスの論説を読むと、キリスト者の中には、神から特別に厳しい訓練を課される者たちがいることが記されている。

そういう者たちは、端から見れば、信じがたいほど絶え間なく困難に見舞われているように見えるだろう。しかも、苦難の規模が通常人をはるかに上回っているため、なぜそこまで苦しまねばならないのか、周りの人々には理解できない。中には自業自得と誤解して責める者もあるかも知れない。

だが、そうした患難には神の深遠なご計画がある。

困難が次々と起きるからと言って、それだけを見て決して落胆する必要はないと言えるのは、これまで幾度となく繰り返して来たように、神がクリスチャンに地上で苦しみを許される時には、必ず、それと同時に天に慰めも用意されているからだ。

つい数日前、筆者はブログを更新していない間に、一つの思いがけない喪失を経験したが、ほぼ同時に、神は大きな慰めを用意して下さっていた。筆者が探してみると、ただちに失ったものを上回るほどの稀有な新しい宝を得ることができたのである。良い人と出会うことができ、受けた損失を補うほどの価値のあるものを得ることができた。

そこで、求めなさい、そうすれば与えられます、叩きなさい、そうすれば開かれます、あるいは、罪が増し加わるところには恵みも増し加わる、と聖書に書いてある通り、どのような出来事が起きても、キリスト者は、落胆することなく、死から命へ、苦しみから慰めへ、天に備えられている恵みだけをまっすぐに見上げ、それを実際にすべく具体的な行動を起こすなら、そうして信仰によって踏み出すと同時に、苦しみの時は束の間に過ぎ去り、豊かな恵みと慰めが待ち受けていることをすぐに確認できるだろう。

繰り返すが、キリスト者には、苦しみもあるが、同時に、その苦しみを補って余りあるほどの豊かな慰めが必ず天に備えられている。だから、クリスチャンの中のある人々が絶えずひっきりなしに困難な状況に見舞われているように見えたとしても、その人には、受けた苦難と比べものにならないような慰めが天に同時に用意されていることをも思った方が良い。そういう人生を送ることは、非常に希少な幸福であると言えるかも知れない。
 
イエスは言われたのである。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)
 
クリスチャンが地上で福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、主に従わざるを得ない瞬間に、失ったものの百倍を受ける時が来るというこの御言葉を思い返しても、信じがたい気持ちになるだけであろう。そういうことが起きる度に、心は悲しみにふさがれ、孤独に苛まれるかも知れない。

実際に、神の御手の中で訓練を受けているクリスチャンが、苦しみの渦中にある時、慰めの方向へ目を向けることは難しい。見えるものに従って歩んでいるわけではない、とどんなに口では言っても、目の前に嵐のような目まぐるしい状況が展開するときに、その出来事に注目しないことは難しい。

さらに、以前にも書いたように、クリスチャンが霊的に巨大なエクソダスを遂げる直前には、特に大きな激動が起きるものだ。キリストと共なる十字架の死を経て、命へと移される直前には、極めてドラマチックな展開があることが稀ではない。だが、その中をくぐりぬける当人にとっては、それは少しも「ドラマチック」などと言って笑っていられる状況ではなく、全世界が自分に敵対しているかのような、まさに生きるか死ぬかのような体験に感じられることだろう。

そのような状況の中でも、失望や落胆に沈むことなく、どんなことが起きても、あるいはそれが自分の過失や、不注意や、愚かさによって起きた取り返しのつかない損失のように見える時でさえ、決して自分自身の不完全さに拘泥することなく、神の憐れみや恵み深さにのみ目を留め、どんな瞬間にも、神を信頼し、天に備えられた希望だけを見つめ続ける姿勢が必要である。そのような姿勢が保たれていて初めて、苦しみと同時に天に用意されている慰めに到達することができる。

だが、クリスチャンの信仰の歩みの中で最も難しいのが、以上の姿勢を保つことではないかと筆者は思う。つまり、どんなことが起きても、決して失望落胆することなく、絶えず自分の不完全さから目を離し、キリストの完全さだけを見つめ続け、自分自身ではなく、キリストに依拠して、神の完全が自分自身に適用されることを求め続ける姿勢である。

さて、聖書には裁判官とやもめの有名なたとえ話がある。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

このたとえ話は、クリスチャンが神に正しい裁きを求める権利を有していることをよく示している。

もちろん、地上ではすべての市民に裁判を受ける権利がある。世にはスラップ訴訟なども存在し、司法が悪用される危険もないとは言えないが、裁判それ自体が悪ではないことは、誰しも認めることであろう。

上記の聖書箇所における地上における裁判官の描写は、クリスチャンが神に正しい裁きを求めて祈ることのたとえとして描かれている。

だが、その御言葉は、幾分かは地上の裁判にも当てはまるであろう。筆者はこれまで、地上の裁判に対する考え方を少しずつ変えて来た。教会に関わる事柄は依然としてこの世の裁判にかけるべきでないと考えているが、この世に関する事柄は別である。

筆者は、暗闇の勢力がいかに人の正当な訴えを邪魔し、正しい主張を封じ込めようとするかを、幾度にも渡り、見せられて来た。人が自分に保障された正当な権利を取り戻そうとして主張する前に、主張すること自体を諦めさせようとするのが彼らの手口である、と言って良い。

たとえば、ブラック企業が従業員の正当な訴えを封じ込めようとする手口を考えてみると良いのだ。世に言うブラック企業には、往々にして、専属の悪徳社労士や悪徳弁護士が雇われている。彼らは企業が従業員に対して定められた賃金を支払わなかったり、不当解雇を行ったりして、様々な不正かつ不当な措置に出る時、常に企業の味方となって、従業員を黙らせる役割を担っている。この人々は、いわば、口封じのために雇用されている「専門家」だと言っても過言ではない。

このような「専門家」がブラック企業についている場合には、彼らは、企業によって不当な措置を受けた従業員が、決して裁判に訴えて自らの権利を取り戻したりしないよう、事前に様々な文書を送りつけては、訴えを封じ込めようとする。訴えるよりも前から、訴えてもどうせ結果は変わらないので諦めた方が良いと、あの手この手で主張を放棄させようとするのである。

むろん、そのようなことは、社労士や弁護士でなくともできるのだが、強欲な依頼主の要望に従って、そのようなむなしい目的のために自分の専門知識を活用している人々が存在する。本来、そのような人たちは、専門家と呼ぶにも値しないが、彼らはうわべだけは、自分たちが本来の道理を曲げていることを悟られないよう、まことしやかな文書を書き記すものだ。
 
従業員はそれを見たとき、考えなければならない。本当に、自分が何をしても結果は変わらないのか、それとも、それはそう思わせるためのうわべだけの工作に過ぎないのか。自分に何の責任もないにも関わらず、不当な措置を黙って受け入れ、その結果を自分で身に背負うべきか、それとも、そのような事態は、自分のせいで起きたことではないと、公然と主張して、不当な結果は、不当な措置を行った張本人にお返しして、彼らに背負っていただくのか。

主張するか、しないかによって、人生の結末そのものが変わって来ると言って良い。その争いは、法廷などに持ち出されるよりもはるか前に、従業員の心の中で始まっている。その従業員が、専門家を名乗る連中からやって来る様々な脅しのテクニックにまんまと乗せられて、失望落胆して、自分の権利をみすみす諦め、主張せずに終わるのか、それとも、最後まで不当な決定に抵抗して、正々堂々と自分の主張を打ち出して、権利を取り戻すのか。すべては従業員の心次第である。

多くの人々は、主張することの重要性を考えてみない。専属の弁護士がいるかどうかや、書類が自分で上手に書けるかどうかや、要するに、人数やテクニックの問題ばかりに目を留めて、初めから自分には分が悪すぎると諦めている人が多いものと思う。

だが、本当の戦いは、そのような表面的な事柄にはなく、最も弱い、不利な立場に立たされた本人の心の中から始まる。明らかに不当と分かっている主張に遭遇した時、人がどのような態度を取るか、最後まで勇気を持って抵抗するのか、それとも、脅されれば簡単に諦めるのかどうかにすべてがかかっている。

ある人々は、これまでクリスチャンを提訴して法廷に引き出すことに何のためらいもなかったにも関わらず、筆者にはあたかも彼らと同じように市民としての権利を行使することが全く許されないかのように主張している。

その人々は、筆者がまだ何一つ手続きもしていないうちから、まるで今しも自分が筆者に提訴されるのではないかとでも言うような勢いで、筆者を含む数々のクリスチャンが、彼らに対してスラップ訴訟に及ぼうとしているかのように非難して来た。

だが、彼らの主張を見ても分かることは、彼らは、よほどクリスチャンから訴えを起こされることを常日頃から恐れているに違いないということだけである。

彼らは、何とかして自分が訴えられることを阻止し、自分の主張の不当さが、公然と世人の前に知れ渡るのを避けるために、筆者一人だけでなく、彼らを訴える可能性のありそうなすべてのクリスチャンをさんざんに罵倒したり、脅しつけたりせずにいられないのであろう。

そのような彼らの行動は、自分が罪を犯していることを、内心ではよく知っているがゆえの本能的な自己防衛の心理に基づくものだと言える。

なぜなら、身の潔白を信じている人々は、誰かから不当な訴えを出される可能性があると分かっても、決して慌てないからである。不当な訴えには、ただ毅然と立ち向かえば良いだけであり、訴えられる前から自分を懸命に弁護したり、自分を訴える可能性のある人間を片端から攻撃・非難したりする必要もしない。そのような行動を取る人間は、訴えられれば必ず負けると分かっていて、恐れの心(本質的には罪の意識)に支配されているのである。

筆者は、自分の運命を振り返って、よくよく数奇な歩みだと思わずにいられない。

筆者は、初めの内こそ、教会のカルト化はあってはならないという立場に立ち、カルト化の疑いをかけられた牧師や教会を非難しても構わないという考えを持っていた。にも関わらず、筆者の運命は、その後、それとは全く逆の方向へ転換し、カルト化の疑いをかけられた教会よりも、むしろ、カルトを撲滅すると自ら主張している人間の方がはるかに重大な危険であることが分かった。そこで、前者ではなく、後者にこそ、筆者は立ち向かってもの申さなければならないことが判明したのである。

筆者はキリスト教界の堕落を否定するつもりはない。筆者自身が、当ブログにおいて、プロテスタントの諸団体の中に怪しげな理念のものが数多くあることについて書いて来た。

今ここでは詳しく繰り返さないが、そうした例の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(および聖霊派の主張)の誤りや、ゴットホルト・ベック氏の集会の理念の問題性や、Kingdom Fellowship Churchの問題もあった。

筆者はこうした集会の理念について、具体的な問題点を挙げ、それを聖書の御言葉と対比しながら、何が問題であるかについて説明して来た。
 
筆者自身は、教会に牧師制度を導入することに反対である。牧師制度というものは、本来、対等であるべき信徒間に差別をもうけ、信徒の献金で養われる特権階級を作り出すものでしかない。

多くの霊的先人が、この制度が間違いであることを指摘し、ゴットホルト・ベック氏の集会や、KFCなども、表向きは、公然と牧師制度を否定している。こうした集会は、牧師制度を取っていることを理由の一つとしてキリスト教界と訣別している。

ところが、上記の団体は、一方では、牧師制度を否定しながら、他方では、牧師制度とほとんど変わらない固定的な指導者制度を置いている。そこで、これらの集会の現実は、表向きに掲げている理念とは正反対であり、大きな自己矛盾をはらんでいることを指摘し、筆者はこれらの集会の理念と行動の首尾一貫性のなさを非難して来た。

だが、筆者が当ブログにおいて、以上のような見地から、これらの集会の理念と活動を疑問視する発言を行ったからと言って、こうした団体から、筆者に抗議が送られて来たことは、これまで一度もない。対立関係が起きたこともない。筆者の記したブログ記事内容について、彼らの側から教義論争が起こされたり、反対意見が寄せられて来たことも一度もなかった。

そして、このことは、これらの団体が筆者の主張を初めから誤謬とみなして相手にしていないためではなく、もともとこうした団体は、筆者が彼らに関わるよりはるかに以前から、数多くの批判にさらされて来た過去があるためであると見られる。
 
以下にも記すように、こうした団体は、過去に巨大な分裂、大規模な離反などの騒動を繰り返し経験して来ている。そこで、彼らは批判や離反には相当に慣れているだけでなく、批判者や離脱者を執念深く追いかけては取り戻そうとして脅しつけたり、論争をしかけるようなことをしないのである。

たとえば、ベック氏の集会は、もともと争いを嫌う平和的な性格の団体であり、さらに教養人が数多く集まっているせいもあって、集会の雰囲気そのものが温和で上品で寛容である。兄弟姉妹の間で意見が割れたからと言って、口汚い論争が発生することはほぼなく、兄弟姉妹は、離脱者に対しても寛容で、筆者が彼らと異なる考えを持って集会を離れた後でも、いつでも交わりはウェルカムという態度を崩さない。

つい先日も、知り合いの兄弟が召されたから祈って欲しいという連絡が、その集会の一人の姉妹から来た。そのリクエストの是非はともかく、こうしたことからも、時が経っても、依然として、彼らが筆者を兄弟姉妹の一人に数えている様子が分かる。

残念ながら、筆者はそうした接触を機に、集会に戻ろうとは思わないが、そのような連絡が未だにやって来ること自体が、この集会にいる兄弟姉妹の誰一人として、筆者に憤りを持っておらず、筆者を憎んでもおらず、筆者の考えをあるまじきものとみなして、筆者が考えを改めない限り、二度と受け入れるつもりはない、などという狭量な考えを持っていないことをよく示している。

そして、彼らがそのような考えに立っている理由は、この集会の成りたちを考えてもすぐに分かる。

ベック氏の集会は、もともとキリスト教界に失望幻滅してそこを去って来たクリスチャンが大半を占める。ベック氏のメッセージの中心的テーマの一つにも、キリスト教界には決して行ってはいけないということがある。そして、こうしたメッセージ内容は、ベック氏が独自に編み出したものではなく、古くはハドソン・テイラーや、オースチン-スパークス、ウォッチマン・ニーなどを含め、地上の組織や団体としての教会の欺瞞性を悟り、組織としての教会から離脱し、エクレシアが地上の団体ではなく天的な共同体であるという事実を知って、本来のエクレシアのあり方を追い求めた霊的先人たちから部分的に受け継がれたものである。

こうして、この集会には、キリスト教界を離脱した人々が数多く集まっているため、この集会の信徒たちの多くが、かつて何かの苦い対立や、深刻な失望を味わって、教会組織を出た経験を持つ。それゆえ、彼らは、信徒が牧師や指導者の意向に逆らって、時には悪魔扱いさえされながら、組織と対立し、組織を離脱することの難しさや、苦しみをよく理解している。

こうした背景があるので、この集会の信徒らは、一人の信徒が彼らの集会にやって来るまでの間に、どれだけ数多くの団体で苦い経験を味わったか、どれだけの団体を遍歴したかなどの事実を追及し、あげつらっては、これを非難や嘲笑の材料としたり、あるいは、彼らの集会を離れた信徒をいつまでも悪しざまに言うことをしない。

彼らにとってはキリスト教界は出るべきところであって、教会組織を離れる行為を悪とみなすような考え方は彼らにはない。

むろん、そうは言っても、それでも、彼らが自ら立てた指導者にだけは従うべきと考えていることは自己矛盾なのであるが、だからと言って、この集会が、筆者が集会を去ったことを、指導者に対する下剋上のようにみなして非難して来ることもない。まして、筆者を追いかけて来てまで、戻るよう説得した者もいない。
 
筆者がその集会を立ち去る前に、筆者を引き留めようとして色々とお説教めいた忠告をして来た兄弟姉妹からは、そのすぐ後に、お詫びと理解して差し支えない内容の手紙が届いた。そこには、彼らとは根本的に考えの異なる筆者を異端者扱いして退けるどころか、依然として、筆者を兄弟姉妹の一人とみなしていることが分かる内容が書かれていた。

このように、この集会の信徒らは、基本的には非常に情の篤い、世話好きで、もてなし上手で、人間的にも好感の持てる純朴な人々である。彼らの信仰のあり方は、日本の戦後間もない開拓時代を思わせるような、極めて単純で素朴なものである。筆者は彼らがクリスチャンでないなどと決して言うつもりはなく、筆者と同じ信仰が彼らの中には全く見られないとも考えていない。

だが、そのように、彼らが極めて好感の持てる人々で、筆者と幾分かは信仰も共有している兄弟姉妹であるという事実と、その集会の理念が持つ問題性は、別個の問題なのである。

筆者はすでに述べた通り、エクレシアにはいかなる固定的な指導者をも置く必要がないと確信している。そこで、この集会が自ら牧師制度を否定しているのであれば、牧師制度に類するいかなる制度をも置くべきでなく、にも関わらず、一人の指導者を祀り上げているのは自己矛盾でしかない。

筆者は、牧師という名であろうと、その他の名称であろうと、人間に過ぎない者を師として仰ぎ、その指導者が教会を管理するようになれば、組織が腐敗することは避けられないと考えている。ただ腐敗するだけでなく、その指導者は、キリストに代わって信者の心と生活を支配するようになるため、反キリストに等しい存在となる。そこで、牧師制度という名称であろうとそうでなかろうと、階級制度としての教職制度自体が教会にはあってはならない、というのが筆者の見解である。

また、以上の集会が家族ぐるみで信徒を取り込もうとすることに対しても、筆者は非常に懐疑的である。なぜなら、聖書は地上における肉の家族の絆がそのまま霊的な神の家族を形成するとは全く述べていないからである。むしろ、地上における肉の家族は、往々にして福音には敵対する誘惑となる。

このように、筆者がとらえている聖書のエクレシアの理念と、以上の集会の理念とは、多くの点で著しい相違がある。このような理念の相違こそが、筆者がこの集会を去った理由であり、人間的な対立は起きていない。起きたとしても、すでに解消されており、そのようなことが本質的原因ではないのである。

にも関わらず、筆者がその団体を去ったことを人間関係の問題に置き換え、すべての問題を、常に聖書との対比において検証しようとせず、ただ人間関係の相克といった低い次元のドラマに置き換えようとする人々は、そのようにして、筆者が組織を離脱した根本的な原因をすり替えることで、牧師制度そのものが根本的に誤っているという、筆者が提起している重大な議論の本質をごまかしているのである。

さらに言えば、その人々は信者を再び人間の支配(組織のヒエラルキー)に従わせ、人間(指導者)の奴隷としたいだけなのである。
 
そういう人々の理屈は、たとえるならば、ブラック企業を辞めようとしている社員に向かって、「社長の言うことには従うべきだ。権威には従いなさい」と説教するようなものである。社員が過重労働のために死の寸前まで追い込まれても、それでも社長という権威に逆らうことや、組織を離脱することは悪だと教え、人間関係を損なうべきではない(和を乱すべきではない)などという口実で、社員が命を守るために逃げ出すことさえ禁止して、自由を奪おうとするのである。

そのようなやり方で、信者一人一人が、何が聖書の理念に照らし合わせて正しいことであるのか、自分自身で判断して行動する自由を妨げ、人間(指導者)の思惑や支配に盲信的に従わせようとすることこそ、まさにカルトの手口と言って差し支えない。

カルト化した組織では、すべての物事の是非が、聖書の御言葉に照らし合わせて検証・吟味されず、ただ指導者の思惑や、組織のヒエラルキーに従って解釈される。人間の立てた権威や秩序に逆らわずに黙って従うことが、聖書の御言葉に従うことよりも優先される。聖書の理念が、人間の作り上げた指導者制度を支えるための添え物として利用されているのである。

こうして、何が正しく、何が間違っているかという価値判断を、信者自身が行うことを阻止し、人間に過ぎない指導者が代わって行い、その指導者の意向に信者を盲信的に従わせるのがカルトである。

笑止千万なのは、カルトに立ち向かうと豪語しているカルト被害者救済活動の支持者が述べている言葉が、まさにカルトのマインドコントロールの手口そっくりになりつつある点である。

彼らは、筆者が様々な団体を離脱したことを悪であるかのように非難する。しかし、もしそれらの団体が聖書の御言葉に従っていないならば、筆者がそれらの団体を離脱したことは何ら悪でないどころか、離脱しなければ正しい信仰生活を送れないのだから、離脱して正解なのである。

にも関わらず、カルト被害者救済活動の支持者らは、決して聖書の理念に照らし合わせて物事を考えようとはせず、ただ筆者が人間の立てた権威や秩序に従わず、組織のヒエラルキーに従わず、団体内で波風立てる行動に及んで(団体の理念に異議を唱えて)そこを離脱したことを理由に、筆者があたかもそれらの団体であるまじき対立関係を引き起こした(「和を乱した」)かのように筆者を非難している。

そのような彼らの主張には、どこにもクリスチャンらしい判断基準はない。聖書は、「和をもって貴しとなす」という価値観とは正反対の理念に貫かれている。

聖書は、人間の作った地上的な組織の秩序の中で、「波風立てずに行動する」ことを正しい信仰生活のあり方として教えていない。むしろ、多くの点で、聖書の御言葉は、この世の人間関係に「波風立てる」ものばかりであり、地上のすべての権威や支配を超える霊的な秩序を唱えているのである。

従って、彼らが、筆者が地上的な団体を離脱したことを下剋上のようにみなして非難しているのは、彼らが内心では、筆者を人間の立てた権威や制度に盲信的に従わせ、人間の奴隷にしようと目論んでいたことを表しているに過ぎない。

しかも、彼らは、筆者とは異なり、以上の団体に通ったことが一度もなく、それらの団体の実情を少しも知らず、筆者の行動を見て知っているわけでもなく、兄弟姉妹の心中も知らないにも関わらず、ただ筆者がいくつかの団体を去って来たというだけで、その離脱が「悪」であるかのように非難しているのである。

彼らは結局、筆者が人間に過ぎない指導者たちの意向に盲信的に従わず、自分自身で物事の是非を判断して行動したことが気に食わないために、筆者を非難しているだけなのである。結局、彼らの言い分は、筆者は牧師制度の前にひざまずくべきであり、指導者の意向に従うべきであった、ということに尽きる。

これは、組織内で波風立てずに行動することを至上の価値のように唱えるこの世的な価値観そのものであり、もっと言えば、指導者に対する絶対服従を要求するカルト的思考である。

こうして、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者に指導者への絶対服従を要求しているのであり、彼らの思考こそ、笑止千万なことに、どんなカルトよりも、より一層ひどいカルト的思考に陥っているのである。
  
さらに、追記しておけば、ベック氏の集会では、対立など全く珍しいことではなく、筆者が立ち寄る以前から、ベック氏の後継問題を機に巨大な分裂騒動が起きていた。筆者がこの集会を訪れた頃は、かつて一つだった集会が真っ二つに分裂し、互いに論争を続けながら、別々の場所で集会を開いていた。

だが、この集会はもともとかなり平和的な性格の団体であるため、集会が分裂したからと言って、両者の間で、あからさまな中傷合戦や、政治的駆け引き、教会財産の争奪戦のような、あまりにも次元の低い争いが起きることはなかった(と見られる)。分裂した二つの集会は、できるだけ衝突や対立を避けながら、独自に平穏な集まりを続けており、さらに、筆者が驚いたことには、深刻な対立があったにも関わらず、両方の集会を行き来しながら楽しんでいる信徒もいるという始末だった。

このように、元来がジメジメした対立や論争を嫌う、根の明るい性格の団体であるから、筆者がそこを去った後でも、「深刻な対立」やら「相克」は起きようがなかった。

KFCも然りである。KFCもそのほとんどはキリスト教界を去ったクリスチャンから成るため、ここにも、指導者に絶対服従を説いたり、組織や教団を離脱することを「悪」とみなす考え方はほぼ見られない。ウォッチマン・ニーなどを一時しきりに教本のごとくメッセージの土台としていた様子を見ても、地上の組織や団体に信者を縛りつけて従わせようとする考え方には根本的に否定的であると言える。

この団体も会員制度がなく、さらに、時期によってメッセージ内容があまりに大きく変化していることもあり、信徒の入れ替わりが非常に激しい。一時はメッセージに共感していた信徒も、ある時期を過ぎると、着いて行けなくなり、去って行くという具合で、大きな離散があり、古参のメッセンジャーもほぼいなくなって現在に至っている。

こうして、もともと信徒を管理し、団体に縛りつけようとする制度自体がない上に、様々な離反や騒動を経験し、信徒の入れ替わりが激しい以上、その団体に失望幻滅して去る信徒が出たからと言って、それは全く珍しいことではなく、去った信徒がいつまでも悪しざまに言われることもない。

中にいるうちは色々言われるかも知れないが(しかも、外野のようなメンバーを中心に)、むしろ、出てしまえばすっきりしたもので、去った信徒を追いかけてまで嫌がらせを加えるような陰湿さは全くないし、そんなことに携わっていられるほど余裕があって執念深い人間もいないと言える。

特に、KFCには、昔から相当に数多くの批判者がいた。もともとキリスト教界への辛辣な批判を定番としており、キリスト教界側の人々には恨みも買っていたであろうし、彼らに言わせれば、「どこの教会からも落ちこぼれた信徒しか集まっていない」と言われるほどに「異端児的」な団体であるため、筆者が当ブログでKFCの理念に対して相当に深く切り込んだ批判を述べたからと言って、そのようなことはKFCにとって何ら目新しいことでなく、誰一人としてその内容に反駁して来た信者もいない。この団体に残っている人々と筆者との間で対立や論争が起きたことは一度もない(その理由には、この団体の信者の平均年齢が、筆者とは全く異なるため、そもそも共通の理解さえ成り立たないということもあったかも知れない)。
 
今になって考えてみると、KFCという団体は、筆者の子供時代にTVで放映されていた「ジミー・スワガート・アワー」にも似たような、聖書の教義の中核に迫る議論からはおおよそ外れた、興業的な意味合いの強い集会であったように思われる。もっと卑近なたとえでは、七色に光るイミテーションのガラス玉か、3分で完成するエスニックの即席麺のようなもので、たくさんの香味は効いているが、本質となるべき中核を欠いているのである。ウォッチマン・ニーやその他の先人の教えを数多く引き合いに出していたとはいえ、それもうわべだけの装飾でしかなく、すべては単なるパフォーマンスとして見るべきもので、真面目に論じるだけ時間の無駄であったかも知れない。

また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団について言えば、この教団は「しるし・不思議・奇跡」を求め、常軌を逸するほど聖霊を強調する過激な集会のあり方のせいで、長らくプロテスタントの中でも、異端視され、排除されて来た過去があることは周知の事実である。この教団がプロテスタントの一部であるかのように公然と認められるようになったのは、比較的最近のことであり、それもキリスト教人口が一向に増加しない中、大衆受けする集会のあり方が功を奏して、この教団の人口の成長率がプロテスタントの他の教団と比べても著しかったためでしかない。

教義面では、依然として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書研究に重きを置く福音派などの伝統的な教団教派からは、あまりにも思慮分別の足りない「体育会系」に偏りすぎた教団とみなされ、半ば軽蔑気味に退けられる傾向が強い。

そのことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出てから、他の福音派の教団に行って、実際に、評判に耳を傾けてみればすぐに分かることである。だが、そうした評判を待つまでもなく、事実、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書に基づく深い理念の考察を怠り、現象・活動にばかり熱中して来た歴史があるため、もともとしっかりした教義というものが存在しないも同然である。

そこで、伝統的な福音派から見れば、このように聖書研究が考えられないほどにお粗末で幼稚なレベルにとどまっているにも関わらず、異言を語ることや、しるしにばかり重点を置いて、それがないことで、他のクリスチャンを見下し、自分たちが優位に立っているかのように思い込んでいる態度が気に食わないと、半ば軽蔑ぎみに批判されるのも仕方がない。そして、その批判は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団もそれなりに理解しており、昨今は、以前はトレードマークのようであった過激な礼拝のあり方を自粛する教会も増えている。

このように、この教団は、長きに渡り、プロテスタントの中でも異端視されて来た歴史があるので(教義の面から見ても、異端視されて当然の理由(重大な欠陥)があったと筆者は考えるが、今はその問題には触れない)、批判には慣れており、教団を去ったクリスチャンが批判を口にしたからと言って、いちいち目くじら立てることもなく、まして去った信徒を追いかけてまで口封じしようと嫌がらせに及んで来ることもない。

そのようなわけで、筆者はいくつかのプロテスタントの団体を束の間、通過した過去があるとはいえ、現在に至るまで、それらの団体と筆者との間で、対立や論争が続いている例は一つもない。
 
現在に至るまで、筆者との間で長年、対立関係を深め、筆者の考えを改めさせない限り決して許さないと尽きせぬ執念を燃やして筆者に論争をしかけている存在があるとすれば、それはただカルト被害者救済活動の支持者だけである。
 
そして、これは極めて重要な事実である。つまり、色々と問題を抱えて欠点が多く異端視されても仕方がない数多くの教会は、筆者を決して中傷したり、論争をしかけて来ないし、打ち負かそうと挑んでくることもない。むしろ、そういうことをして来るのは、正義の旗を掲げて「カルトを取り締まる」と主張している陣営だけなのである。

だから、そのことを見るにつけても、筆者は、牧師制度には反対を唱えないわけには行かず、教義面で多くの問題を抱える教会が数多く存在することも疑わず、地上の組織や団体としてのキリスト教界を擁護するつもりは微塵もないにも関わらず、だからと言って、そのような疑わしい教えを唱える教会がすべて筆者と敵対関係にあるとは思わないし、そこにいるクリスチャンが、ことごとく筆者の兄弟姉妹ではないと言うわけでもない。
 
ここに、クリスチャンに対峙することの非常な難しさがある。クリスチャンは外見的には、全員が、途方もなく多くの欠点を抱えた、とりわけ未熟な人々ばかりである。この世の人々と引き比べても、何一つ長所が見いだせないどころか、むしろ、格段に劣っているとさえ言える場合が少なくない。何しろ、何かのきっかけで自分の限界を思い知らされなければ、教会になど足を運ぶことはなかったであろうし、神を求めることはなかった。そういう意味で、クリスチャンは、世の人々と比べても、圧倒的に弱々しく、生きるのに不利となる様々な厄介事や困難や弱さを抱えた人々ばかりであり、とりわけ見劣りのする不器用な連中から成っていると言っても過言ではないだろう。

その上、聖書の御言葉への理解や、信仰の成長という点でも、全く芳しくない人々が99%以上を占めるのである。こうなっては世人からは、弁護の言葉もほとんど出て来ないであろう。
 
ところが、そのように、外面的には極めて弱々しく、不器用で、ぱっとしない、見栄えの悪い人々、そして内面的にも、極めて未熟で、欠点だらけの、愚かな人々に、この世の不信者以上に、神の愛と憐れみが信仰によって及び、義認が行き届いているのが現実なのである。

クリスチャンとは、自分自身の優れた長所によらず、立派で正しい心がけによらず、ただ信仰によって神に受け入れられた人々である。そうである以上、たとえ彼らが未熟であって、その行動が欠点や誤りに満ちており、さらに理念の面でも愚かさと誤りが明白であって、危ない道を歩んでいるようにしか見えなかったとしても、彼らの心の内に、もし真摯に神を信じ、すがり続ける信仰が少しでも残っているならば、その限りにおいて、ただ彼らが未熟で欠点だらけであるという理由だけで、兄弟姉妹ですらないと全否定することは難しく、また、すべきでもないのである。

筆者は、すでに書いて来たように、兄弟姉妹を名乗っている人々に裏切られた回数は数知れず、二度と関わりたくないと嫌気が差した人々や、その高慢さにうんざりした人々も存在する。そういう思いを味わえば、彼らをクリスチャンだとは一切認めたくない気持ちになることも人間としては往々にしてあると言える。いっそ自分は正しく、彼らはみな異端者だと決めつけてしまえば、気も楽になるであろう。

だが、誰がクリスチャンで、誰がそうでないのか、その線引きは、筆者がすることではなく、その線引きは非常に難しく、判断は極めて慎重でなければならないと思う。たとえあるクリスチャンの欠点や非が明々白々であって、また、そのクリスチャンが筆者を再三に渡って裏切り、打撃を加えて来たような場合であっても、もし筆者が彼らを全否定すれば、それによって神を敵に回してしまう危険性が十分にありうるためである。

それだからこそ、筆者は、特定の人物をその人格の未熟さや行動の欠点を取り上げて非難することをできるだけ避け、むしろ、その人物の主張の内容や、特定の集団に流れる思想・理念の問題を洗い出し、理論面からの批判にとどめるように心がけているのである。そして、ほとんどの場合、理論面から問題を洗い出すと、そこに異端思想の共通構造が隠されていることが分かって来るのである。

つまり、敵はあれやこれやの人間ではなく、神に敵対する思想なのである。そして、悪魔から来る思想の基本構造とでも言うべき、異端の型というものが存在することを、筆者は当ブログで再三に渡り、繰り返して来た。

そのようなわけで、あれやこれやの危うい歩みをしているクリスチャンを敵のようにみなして非難することによっては、何ら異端の問題は解決しないのである。そのような方法は、まるで病原菌を根絶するために、感染した人間を全員殺しましょうと言っているのと同じほどナンセンスである。

つまり、教会の堕落は看過すべきでない問題であるとしても、一部の堕落のために、エクレシア全体を否定することは避けねばならず、そのような極端な議論を容認すると、恐るべき結果が生まれるのである。

見かけ上は肉的であり、堕落そのものにしか見えない教会であっても、そこに信仰によって霊的なエクレシアの成分がわずかでもあるとすれば、すべてを否定するわけには行かないのである。たとえ神社に油をまくようなクリスチャンや教会が出て来たとしても、そのような恐るべき行動に及ぶ人々も、やはり教会の末端に位置する以上、そこには、嘘と真実、信仰と不信仰が混じり合い、本物も少しは紛れ込んでいる可能性があり、それにも関わらず、行動があまりにも未熟かつ異常だからと言って、一概にすべてを異端と決めつけて退けてしまうと、本物のエクレシアの成分さえも否定することになってしまうという難しさが存在するのである。

かつて教会の迫害者であり、クリスチャンを断罪して殺すことに加担していたパウロでさえ、あのような回心を遂げたわけであるから、神に対する熱心さのあまり、逸脱を犯している信者らについては、判断は慎重でなければならない。

神社に油をまくことが、神の国に奉仕することでないことは、聖書的観点から見て明白であり、そのような行為は、この世的な観点から見れば、言語道断でしかないであろうが、それでも、そのような行動を本気で正しいと信じるクリスチャンの中にも、1%でも純粋な信仰があるならば、我々は、その行為の表面的な愚かさと迷惑さ加減だけを取って、彼らをクリスチャン失格であるかのように決めつけることができないのである。もちろん、そうした行動は正されるべきではあるが、それはあくまで同胞としての忠告によって是正を試みるにとどめるべきであろう。

このようなわけで、筆者の目から見れば、最も重大な危険は、未熟さや愚かさや過ちがあまりにも明白すぎるために、誰からも「カルトの疑いがある」と名指しで非難されているクリスチャンにはなく、むしろ、自分だけは正しく、決して誤らないという根拠のない自己過信に陥って、指導者然と、自分以外の数多くのクリスチャンの「非行」をあげつらっては裁き、「カルトを撲滅する」と主張している人々の方にあるのである。

繰り返すが、クリスチャンはどの人間も未熟であり、自分は神に従っていると思いながら、実際には、間違いを繰り返しながら生きている人々でしかない。間違いは、それが大きなものであれ、小さなものであれ、神の目から見て、同じように逸脱であり、不従順であるという点で、すべては五十歩百歩である。神社に油をまくことを非常識だと笑うクリスチャンも、毎日、何かの行動において、神の願っておられる水準に達せず、神の聖霊を悲しませながら生きている。

そういうことが全くないと胸を張って言える信者は、地上に一人も存在しないことであろう。それでも、神の愛や憐れみ、義と聖と贖いは、その愚かなクリスチャンにも、信仰によって十分に及んでいるのである。だとすれば、一体、表面的な行動だけをあげつらって、クリスチャンを断罪できる存在がどこにあるのだろうか?
 
我々が警戒しなければならないのは、愚かな間違いを犯して、クリスチャンの村社会の中でもの笑いのたねにされることではなく、むしろ、「私は完全に正しい」という思い上がりに陥って、自己反省の余地を全く失って、自分が神のようになって、自分以外の信者を裁くようになることである。

異端に関する教義論争はいくらでも行われるべきであるし、構造面から異端を明るみに出す作業には意義がある。だが、ある人間がクリスチャンと呼ぶに相応しいかどうかを判断する基準は、決して特定の人間に委ねられるべきでなく、その判断に当たっては、極めて慎重な吟味がなされなければならない。

クリスチャンであるかどうか、クリスチャンとしての要件を満たしているかどうかは、この世の価値観によっておしはかることはできず、それにも関わらず、この世から見て、常識的に振る舞い、世人に受け入れられる条件を満たしているかどうか、まして社会的に成功しているかどうかとかいった基準で、クリスチャンが判断され、裁かれるべきではない。

むしろ、信者は、クリスチャンであるがゆえに、世人から見てどんなに失格者の烙印を押されようとも、神の尽きない愛と憐れみにあずかって、その弱さを神の強さによって覆われているのであり、この世の価値観に従って判断されることから解放されているのである。

クリスチャンとは、そのようにして、信仰によって神の特別な寵愛(恩寵)を受けている人々であり、そうである以上、クリスチャンの価値は決してこの世的な判断基準でおしはかることはできないのである。

筆者はこのことを開き直りの材料として使っているわけではないが、それほどまでに信じる者への神の恵みが深いのは事実である。

そこで、我々は、あるクリスチャンの人間的な欠点や、未熟さ、あるいは、誤った熱心さが行き着いた愚かで非常識な行動だけをとって、彼らがクリスチャンに相応しいかどうかを外側から判断すべきではない。ただし、誤った理念がこの先も、他のクリスチャンらをそうした行動に駆り立てる危険性が十分にあるため、異端を糾弾したいのであれば、行動面だけにスポットライトを当てることをやめ、他の信者の愚かで非常識な行動をあげつらっては、これを一方的に上から非難・断罪して終わりとするのではなく、何よりも信者をそうした行動に及ばせる原因となった思想・理念が何であるかを地道に検証しながら、その誤謬を証明する作業を行っていかねばならない。

時に、筆者は、異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなものかも知れないと思う。病原菌は、体力の弱った人々には重大な感染の脅威となり、存在しないに越したことはないかも知れないが、それがない限り、人の免疫抵抗力も育たない。
 
仮にクリスチャンが、一切の異端とは無縁の、完全に純粋で正しい教えだけを受け取り、その中で成長することができるとしても、もしその人が誤りとは何かを知らなければ、それはあたかも無菌室の中で育つ人生のようになってしまうだろう。

霊的無菌室だけしか知らずに育った人間は、その部屋を一歩でも外に出れば、たちまち生きる力を失って死んでしまうだろう。悪に対する免疫抵抗力がないためである。
 
そこで、信者は地上に生きている限り、数多くの疑わしい教えに出会い、その嘘を自力で見抜き、識別し、退けて行く力を養わなければ、信仰は育たず、従順も育たない。神への従順を証明するためには、不従順を選ぶことが可能な状況が前提としてなければならない。信者が誤った道を選ぼうと思えば選べる状況で、自ら正しい道を見分けて、偽りを退け、神に従うことを自ら選ぶのでなければ、その信者には、判断力も、自己決定権も育つはずがない。

だから、信者が多くの誤った教えを見聞きした上で、その誤りを自ら識別する力を養うことが大切であり、その意味で、誤謬と出会うことは何ら恥でないどころか、それこそ、信者の霊と魂の成長のために、避けて通れない不可欠な過程(訓練)ではないかと筆者は思う。

そういう意味で、筆者はこれまでに通過して来た団体や集会を振り返り、そこを訪れたことを後悔するつもりは微塵もない。そうした団体の理念に疑わしいところがあるというだけの理由で、そこに行ったのは時間の無駄であったとか、そこで出会ったクリスチャンのすべてが兄弟姉妹ではないと否定するつもりもない。

むろん、ある団体で唱えられている理念に、聖書に合致しない点がないかどうか、吟味することは重要であり、もし聖書い合致しないと分かったならば、分かった瞬間から、筆者はそこにとどまるべきではないだろう。だが、だからと言って、その中に残っているすべての人々が、みな異端者であるとか、非クリスチャンであるなどと筆者は考えてもおらず、そこで見聞きした経験のすべてが無駄であるとも思わない。
 
筆者はその団体にいる兄弟姉妹が、筆者と同じようにその団体の理念を疑わないからと言って、彼らに自分の見解を押しつけるつもりはない。筆者が理解している内容を彼らに向かって述べたとしても、それが彼らに理解されるかどうかは分からない。すべては信者自身の中の「時」による。今日気づかなくとも、明日気づく人も出て来るかも知れない。気づかせて下さるのは神である。
 
筆者の義務は、自分で理解した事柄に忠実であることであり、他の人々がどう行動するかまでは、筆者の責任ではない。ただし、筆者は、誤りだと分かっているものに接触を続けるわけにはいかないため、忠告しても聞き入れない人々からは離れるのみである。
 
カルト被害者救済活動の支持者らの盲点は、自分の欠点や未熟さには目を向けようともせず、常に他者の欠点や未熟さばかりをあげつらい、神ご自身を退けて、神になり代わって、自分がクリスチャンの内心や生き様に対する裁き主になり、周囲の人々がまだ理解する時期が来ていないかも知れない事柄についてまで、何の資格もなしに、強制介入・干渉して行き、聖霊になり代わって信者を教え、信者の内心や行動を正し、支配しようとしている点にある。
 
異端は教義面から明らかにしなければ意味がないにも関わらず、彼らは信者の行動の欠点や、外側の出来事ばかりを中心に据えて、この世の観点から信者の行動の是非を論じ、信者を裁こうとする。

だが、そのような観点からは、決してこの先も正しい教義論争は生まれて来ないであろう。それどころか、彼らは何をよりどころにして他者を裁いているのか、その土台をますます見失って行くだけである。聖書は何と言っているか。
 
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つ一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:15-21)

クリスチャンを裁くことに躍起になっているカルト被害者救済活動の支持者らは、信者の行動の非をあげつらったところで、自分自身の罪から逃れられるわけではないことを知らないのだろうか。彼らは無罪とされるためには、完全に罪なき人でなくてはならず、自分の内にわずかに一つの罪でも見いだされれば、たちまち有罪を宣告されることを知らないのだろうか。

他方、クリスチャンは、キリストのゆえに、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決」を受けた人々である。罪が増し加わるところには恵みはなお一層増し加わるというのは、クリスチャンにこそ誰よりも当てはまる。クリスチャンがいかに欠点が多く、多くの罪を犯して来たとしても、キリストにあって、神はそのクリスチャンのすべての非をすでに血潮で覆って下さっているのである。クリスチャンが世人に比べ、いかに絶大な特権を持つ者であるか、いくら認識してもし足りない。

だから、誰かがこの世的な観点に立って、一人一人のクリスチャンを、見かけの貧相さや、行動の不器用さや、未熟さ、愚かさや、弱さのゆえに、非難したり、断罪するのは、非常に容易であろうが、そんなことはやめておいた方が良い。むしろ、クリスチャンが弱々しそうに見えれば見えるほど、その弱さが神の憐れみに満ちた強さによって特別に覆われていることを考えてみるべきなのである。その事実を見ずしてクリスチャンの表面的な弱さだけを見て、これをあげつらって非難・説教・嘲笑していれば、いずれ神ご自身を敵に回すことになる。聖書には次のように警告されている。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)


十字架の死と復活の原則―律法による罪定めから解放され、御霊によって生きる天の自由人へ―

比較的最近のことであるが、あるレストランで食事をしていると、近くの席に老夫婦がやって来て座った。

聞くともなしに、聞こえて来る会話を通して、その老夫婦がクリスチャンらしいことが判明した。彼らは食前の祈りを捧げていたのである。

「この食事を感謝します。あなたがこの食事を通して、私たちの体を健やかにして、癒して下さると信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

そんな祈りだった。

筆者は長いこと食前の祈りというものを耳にしていなかったので、彼らの敬虔そうな様子と、懐かしい祈りの言葉に、はっと目を覚まさせられる思いになった。自分が食前の祈りをせずに、食事を取っていたことに、バツの悪い思いさえ味わいながら、その夫婦のその後の会話に耳を傾けた。

筆者はキリスト教会を離れて久しく、全ての形式的な儀式から遠ざかっていたので、そばでクリスチャンが祈るのを聞くことも新鮮で、そういう時には、心から捧げられる祈りであるのが当然だと思っていた。

筆者は真実な交わりを求めて教会を離れて後、心からの祈りしか聞いたことがなかったので、いかにも敬虔そうなその老夫婦の祈りが、単なる形式的な祈りでしかないことが、すぐには分からなかったのである。

そこで、筆者は、その老夫婦がきっと本物のクリスチャンなのに違いないという思いで、何か新鮮な信仰の息吹が得られることを期待して、彼らの会話に耳を澄ました。

すると、その祈りの後にただちに彼らの口から出て来たのは、子供たちへの愚痴や不満であった。

「あの子はねえ、自分の部屋も片付けてないのに、自立なんて無理だと思うんだよね。働いて一人で下宿するとか、結婚するとか、そんなことばっかり言ってるけど、今のあんたには無理だって、この前も言って聞かせたんだよ」
「まずは自分の部屋を片付けることから始めなさいって、言っておいたよ」

そんな言葉が筆者の耳に入って来ると同時に、老夫婦はウェイターを呼びつけ、

「あのね、スープバー代わりに取って来て。私たち自分で歩けないから」

と言って、壁に立てかけた杖を顎で指し示したのであった。

筆者は、あまりのことに驚き、心の中で憤慨さえした。老夫婦がいかにも敬虔そうな態度で食前の祈りを捧げていた時の様子と、その祈りが終わるや否や、始まった会話は、まるで正反対であった。夫婦は、自分が祈った内容が、舌の根も乾かないうちから、まるですべて嘘だったとでも言うかのように、ただちに世俗の会話に明け暮れ、我が子と思われる人物についての不平不満を二人で語り始めた上、自分たちは病人だと言って、ウェイターに代わりにスープバーを取って来るよう指示したのであった。

筆者は、主イエスが「人前で見せるために祈るな」と警告したことを思い出し、あんなにも素朴で敬虔そうに聞こえた祈りが、全く無内容だったことを理解したのであった。問題は、うわべだけ敬虔な信者らしく、食前の祈りを人前で捧げるかどうかではないのである。

しかし、何より筆者が憤慨したのは、老夫婦が癒しを求めて祈ったのに、何一つ、自らの信仰を実践しないことだった。もし筆者が、「主よ、あなたが私たちの体を癒して下さることを信じます」と祈ったならば、ただちに杖を捨てて立ち上がることを考えるだろう。そうでなければ、そんな祈りはしない方が良い。

神は、本当に人の病を癒すことがおできになる方である。筆者はそのことを確信している。だから、「癒して下さい」と祈るなら、神に一方的に懇願して終わりにするのではなく、ただちに自らの信仰が嘘ではないことを表明した方が良い。その行動による表明を通して、信仰は生きて働くのだ。

ちなみに、話が脱線するが、神は人の病を癒すことができるだけでなく、機械の故障も直すことができる。筆者は、色々な機械の故障を修理によらずに直して来た。

その初めは院生の頃、下宿でパソコンにコーヒーをぶっかけ、それを御名によって復活させたことだった。

今では、何かが壊れたからと言って、祈ることはしない。ただ、機械は故障したのだという事実を、心の中で静かに拒否するだけである。

わずか一週間ほど前に、筆者の家では、電化製品を同時に使いすぎたせいで、ブレーカーが飛んで、電気を復旧させると、つけっぱなしだったCDデッキがカタカタ言い始め、CDを再生できなくなった。

CDデッキは買ってから年数が経っており、保証期間も過ぎており、修理はかなり高額になり、預ければしばらく帰って来ず、修理のために預ける心当たりの業者もなかった。

そういう面倒な事柄が脳裏をよぎったが、ついさっきまで普通に動いていたのだから、ブレーカーが飛んだくらいのことで、おかしくなるはずはないと思い直し、CDデッキは壊れてしまったのだという考えを心の中で拒否した。

そして試行錯誤すること15分程度、機械を開けたりも何もしていないのに、CDは普通にデッキにスルスル入って行き、何事もなかったかのように再生が始まった。それ以来、一度たりともヘンな様子は見られない。

さらに、以前にいた家では、レンジフードが故障し、付属の電球がつかなくなり、お湯が出なくなるということが起きた。お湯が出ないんなんて、ロシアじゃあるまいしと思いながら、しぶしぶ修理の見積もりに来てもらうと、老朽化により復旧は不可能と言われ、大規模な工事をするしかないとのことであった。その際、業者が付属の電気だけは復旧させて行った。

大規模な工事にはなかなか予定がつかず、筆者は修理を数ヶ月、先送りした。しばらく、ぬるま湯しか出なかったが、冬場、これでは困るなと思っていると、どんどんお湯の温度が上がって行き、ほとんど普通にまでなった。しばらく経って工事はしたが、とても老朽化により復旧不可能と言われた機械とは思えないほど普通に稼働してくれた。

そんなわけで、筆者は神と二人三脚の生活では、すべてが間に合うことを実際に身を持って体験して来たのである。健康が備えられるだけではない。経済的にも、物質的にも、あらゆるものが間に合うのである。これは人生に何も困ったことが起きないという意味では決してなく、どんなことが起きても、神と信じる者との二人三脚ですべてに間に合うということなのである。

だから、何かが起きる度に、ああ、どうしよう、取り返しのつかないことが起きた、どうやって対応しようか、と思って慌てふためき、自分でその責任を負おうとしてもがき、悩み続けるのか、それとも、悪魔がしでかしたいたずらの責任は、悪魔自身に負ってもらうかどうかは、その人の決断次第である。

こんなことを書けば、笑われるかも知れないが、筆者はあらゆる霊的な負債を悪魔自身に負わせ、自分では負わないことを学んだ。地に属する事柄についての責任は、最終的に地にある。機械が壊れたという事実を拒否することも、その一つである。

アダムの堕落という人類の地滑り以来、人類史はずっと絶え間ない「放浪」と「紆余曲折」の連続だ。どこにも進歩などない。それなのに、自分の人生だけには進歩があると思っている人があるならば、その人は偽善者である。笑止千万である。そんなのは思い込みであって、事実ではない。

人間の義は、みな不潔なボロ切れのようなものだと、聖書に書いてある。クリスチャンの進歩は、天的な歩みによってしか保障されない。

さて、老夫婦に話を戻せば、長い長いこと筆者はキリスト教界に属する信者たちを見ていなかったので、彼らがどういう種族であるかを忘れていたが、そう言えば、キリスト教界というところは、こんな人たちばかりだったな、とやっと思い出したのである。

「学習性無気力」という言葉がある。

長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物が、その環境に慣らされたあまり、その状況から逃れようとする努力すらももはや行わなくなるという現象である。

これは家庭内暴力などを受け続けた人によく当てはまる。たとえば、毎日、毎日、夫から暴力を振るわれ、「お前は何もできないクズだ!」などと罵倒されている妻がいたとすれば、その妻は、夫の暴力と暴言が一定の限度を超えると、無気力状態に陥り、ついには本当に自分は何もできないクズなのだと考えるようになり、その夫から逃げる気力さえ失ってしまう。

それでも妻が渾身の気力を振り絞って、その夫のもとから脱走しようとすれば、夫は全力で妻に打撃を加え、立ち上がれないようにし、再び、家の中に監禁してしまう。そういうことを何度も、何度も繰り返せば、妻はついに最後は逃げ出すことをあきらめるしかなくなる。最終的には、死へ向かって行くのであろう。

筆者は、キリスト教界というところは、早い話が、信者に学習性無気力を植えつけることで、教会組織から逃げられないように囲い込んで行く恐ろしいDV組織であると考えている。

神の健やかな教会ではない。DVが蔓延する機能不全の家庭である。

以上の老夫婦の会話を聞いて、筆者はそのことを改めて思い出したのだった。

彼らの短い会話から理解できたことは(それほど長い間、聞いていなかった)、彼らの子供は、多分、自立したい、親元を離れたい、結婚したい、と思っているということであった。年齢がいくつなのかは分からないが、子供ならば、当然に願う事柄だろう。

ところが、老夫婦は、そういう子供の願いを聞いているにも関わらず、子供の願いを質に取って嘲笑うかのように、「おまえにはまだ無理だよ。そんなことができるくらいなら、まず自分の部屋をちゃんと片づけられるはずだ。目の前のこともできない人間が、どうして将来、もっと大きなことができるんだ」と、議論をすり替えることで、子供の未来への願いまで否定し、奪い去ってしまうのだ。彼らは真顔でそういう態度が正しいと思い込み、上から目線で子供を説教し、断罪しているのである。

子供は、そういう親のメッセージを聞いて、「おまえには無理だよ」と否定された言葉だけを記憶する。自分の願いが親には受け入れられておらず、後押しされてもいないという悲しみと、親から逃れたくても逃れられない焦燥感と、部屋の片づけが十分でないということで、またもや責められたという罪悪感だけが残る。

こうして、子供は、自立して家を出ようとする度に、「今のおまえにはそんなのは無理だ。そんなことを考えるくらいならまず・・・・」というお説教(ディスカウント)を延々と聞かされ続けなければならない。

子供がこういう機能不全家庭から脱出するためには、親が植えつけて来る罪悪感、無力感と戦ってきっぱり訣別しなければならない。

たとえば、「部屋の片づけができていないから自立なんてできるはずがない」というロジックには、

「私はもっといい家に住んで、気に入った部屋を確保してから、片づける。こんな貧乏な家では、片づけする気にもならないのは当たり前。部屋の片づけをちゃんとやるためにも、私はこの家を出るんだ」とでも何とでも、適当な理屈をつけて、撃退すれば良いだけなのだ。

以下の記事で触れたホームレス伝道もそうなのであるが、キリスト教界は、何かのトラブルを抱えて困っている人々が、そのトラブルをきっかけに、助けを求めて教会にやって来たことを機に、その人の精神的な弱点を握り、これを質に取って、あたかも困っている人を助けてやっているように見せかけながら、その教会から半永久的に「自立」できないようにさせてしまう恐ろしい組織である。

人々に罪悪感、無力感を植えつけることで、その教会の支えがなければ、決して自分だけでは生きていけないかのように思い込ませるのである。

そのために利用されるのが、「信仰の証」と称する懺悔の儀式である。

「証(あかし)」と称して、信者は、過去に犯した罪を、何度も、何度も、繰り返し、人前で「自白」させられ、そうして自分で自分を卑しめ、蔑み、負のイメージを抱え、挫折感や、劣等感をずっと持ち続けることを強要される。罪赦されるために教会に来たはずなのに、これではちっとも過去と訣別できない。

そうして自分を蔑み、貶めることと引き換えに、人々は教会を持ち上げることを要求される。あんなにも恐ろしい罪人だった自分が、今こうしてあるのは牧師のおかげだ、指導者のおかげだ、信徒のおかげだ、教会のおかげだ、と感謝を強要される。

そういうことをずっと繰り返していると、その信者は、本当に、自分は一人では何もできない、どうしようもなく無力で愚かな罪人なのだと思い込むようになる。そして、誰から要求されなくとも、牧師や信徒のもとを離れると、悪魔の虜にされるだけだと考え、自分からその場所にとどまるようになる。

学習性無気力である。もう教会から離脱する気力はその信者にはない。

要するに、部屋の片づけが出来ないことを親に責められ続け、自立の気力を奪われている子供と同じである。

筆者は、あらゆる組織は人間のためにあるのであって、人間が組織のためにあるのではないと信じている。教会や職場なども、これと同じである。合わなくなったら、出れば良いだけの話だ。

自分が成長して、今まで着ていた服のサイズが合わなくなったら、さっさとそれを脱ぎすてて新しい服を着れば良いだけである。愛着のある古い服をごみ箱に捨てることは、確かにちょっとためらわれるかも知れないが、だからと言って、サイズが合わない服をいつまでも着続けて、何の良いことがあろう。

ところが、人間社会では、多くの人々がこれとは反対の考え方をしており、人間のために組織があるのではなく、組織のために人間があると思い込んでいる。そこで、人々は、自分が成長して、服がきつくなっても、とりかえようともせず、血まみれになりながら、その服を着て出勤しているような有様である。

筆者から見れば、こんなのはあまりに馬鹿げたことである。

自分が成長したという事実は、本当はとてもめでたい話のはずなのに、人々は成長したという事実をひた隠しにしながら、何事もなかったかのように古いユニフォームを着続ける。

古い革袋を持ち続けたまま、教会に出席したり、職場に出勤したりしているのだ。

もしその人がすでに成長して古い服がもう合わなくなっていることが周囲にバレたら、早速、人々からお説教が始まる。

「あんた、もしかして転職を考えてるんじゃないでしょうね」
「きみ、まさかここを出て別の教会に行くつもりじゃないだろうね」
「どれだけそんな風にいい加減な放浪を続けたら気がすむんだ」

「あんたが自分の考えを持つなんて百年早いんだよ」
「ここでうまくやれない人が、次でうまくやれるはずがない」
 「不平不満を並べる前に、まず自分の欠点をちゃんと直したら」
「自己過信して、独りよがりな生き方をするようになったら、正しい信仰から逸れて行くだけだよ。私たちには霊的な指導者が必要なんだ」

等々。早速、ディスカウントによる引き留め&囲い込み作戦が始まる。

それはまこしやかに助言や忠告の形を取って発せられる言葉の数々だが、要は、親切を装いながら、霊的に中間搾取できる奴隷を逃がしたくないがために言われていることだ。

こうして、キリスト教界も、ブラック企業も同様に、一旦、人を中に取り込んだら、弱みにつけこんで、容易には二度と外へ逃がさない閉鎖的な場所になっているのである。

逃げ出すことが不可能になるように、常日頃から人の自尊心を打ち砕き、罪悪感や劣等感、無力感を植えつけるための数々の儀式や説教を行うのである。自分一人でものを考える暇を与えず、常に偉い人たちの忠告に従い、自分の心の本当の願いを否定するよう教えられる。

少しでも自立しようとのそぶりを見せると、周りにいるエージェントたちがワッと押し寄せ、たくさんのお説教で圧力を加え、逃がさないように袋叩きにして閉じ込める。

DVが蔓延する機能不全の家のようなものである。

カルト被害者救済活動など、その最たるものである。

この活動を主導しているリーダーたちは、この活動の虚偽性を見抜いて、そこから逃げようとしている筆者を、まるでDV夫のように執拗に追いかけては、バッシングを加え、「おまえごときにこの俺様から逃げる力なんてあるはずがない! このクズめが!」と叫んでいる。

そこで、まるで三流ドラマのようだが、カルト被害者救済活動を「DV夫」にたとえ、「妻」の立場からもの申すとすれば、こんな風な会話になるのではないだろうか。

「ちょっと、あんたねえ、私をクズ呼ばわりする前に、あんたは私に今まで何をしてくれたのか言いなさいよ。見なさい、あんたが用意した、このひどいボロ家! 私以外の人たちはみんなとうにこんな家、見捨てて出てったわよ。

それをさ、あんたは私が不満だって言ってるのに、私を脅しつけてこの家に監禁したんだよね。あんたは未だに自分が家長だから、俺様に従えって威張り散らして私に命令して、私に従順が足りない、頭が高い、仕事が足りないとかってケチつけてるけど、こんな貧相なあばら屋しか私のために用意できなかった甲斐性のないあんたに、誰が本気で着いて行って奉仕なんかすると思ってるの? 鏡を見てからものを言いなさいよね。今さら、そんなあんたが、私に何を要求しようっていうの?

あんたがもし自分の口で言ってるほど偉い人間なら、一時でも、あんたのもとに身を寄せた私は、今はもう女王様みたいなご身分になってておかしくないはずだよね? 食事も自分で作らず、家の掃除もせず、お手伝いさんが何人もいて、かしづいてくれて、あんたにこんなに偉そうに上から目線で命令なんかされてないはずだよね? 

あんた、自分に甲斐性がなくて、自分の周りの人間を誰も幸せにしてあげられなかったからって、なんで自分を責めずに、全部を私のせいにするわけ?

私にガミガミ要求する前に、まずあんたが私にどんな良いことを今までしてしてくれたのか、それを列挙してみなさいよね? 私を幸福にするために、あんたがどんな具体的な手助けをしてくれたのか、言いなさいよね。私、何一つとしてあんたが私のためにしてくれたことについて、記憶がないんだけど。何か一つでも自信を持って言えることがあんたにあるの?

私の稼ぎが少ないから、私はクズだって、あんたはあざ笑ってるけど、それじゃあ、あんたは一体、いくら稼いでいるのか、白状しなさいよね。私に友達が少ないとか、社会から認められていないとか言って、人を蔑んだり、あざ笑ったりする前に、あんたには今一体、何人の友達がいて、どれだけ社会に奉仕して、どのくらい認められてるのか、そもそも給料はいくらなのか、それをまず言いなさいよ!

そしたら、多分、あんたよりもっと偉い人たちがぞろぞろ出て来て、あんたが威張ってるのには根拠なんてないってすぐに分かると思うよ。

どうせあんたが見栄で設立した会社だって、今は幽霊会社になってるんでしょ。自分の事業も成功させられなくて、毎日、毎日、宮仕えに出ないと生きていけない、しがないサラリーマンのくせに、それがまっとうな職業だってほんとに思ってるわけ? そんなのただの囚人じゃない・・・。

私はね、このどうしようもないボロ屋と暴力と暴言と貧しい食事しか用意できないくせに、毎日、毎日、自己反省もなく、弱い私を一方的に責め続けるだけの卑怯なあんたとさっさと別れて、天の特権階級として生きることに決めたのよ。

天の特権階級になれば、職歴なんて要らないの。「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」て書いてあるでしょ。宮仕えとかも必要ないの。だって、私たちが宮であって、神が共に住んで下さって、どこにも仕える必要なんかないんだから。その宮は、大きな都で、そこでは太陽が沈むことなく、ずっと明るく照らされてるの。

そこには、貧しさも、悲しみも、悲鳴も、涙も、叫びもないの。何てらくちんかつ幸せな生き方! そういう生き方を私にさせてあげるって言う人が、今、私を迎えに来て、扉の外に立って、戸を叩いてるの。だから、私、あんたと暮らすのはもうやめることにしたわ。ここであんたに虐げられ、暴力振るわれてるより、そっちのがどう見ても、絶対、幸せじゃん。

多分さ、今、ここで私があんたの部屋の押入れを開ければ、あんたが今まで殺して来た妻たちの白骨死体が見つかると思うんだよね。あんたってさ、私には隠してたけど、多分、初婚じゃないよね。その上、愛人とかもいっぱいいるよね。今までもずっと私に隠しながら、私にしているようなことを、他の弱い女たちにもして来たはずだよね。

言いなさいよ、私の前に何人妻を殺したの? 何人の可哀想な人たちを、弱みにつけこんでこの家に引き入れては精神的にいたぶって殺したの?

押入れを開ければ、真実が見えるよね。でもさ、私は、そういうグロテスクなものは見たくないんだ。だから、あんたはどこからどう見ても怪しすぎるってことで、さっさと110番しといたわ。あんたは私の頭がイカれてるって言ってごまかそうとするんだろうけど、あんたが私につけたこの生傷を見せてあげれば、どこの誰だって、どんなにあんたが自己弁明しても、私の言っていることが嘘じゃないって、分かるはずだと思うよ。

「宮詣でする前に兄弟から反感を持たれていることが分かったなら、捧げものを置いて、早く和解しなさい」って書いてあるのに、あんた、自分が殺した妻たちの悲鳴に耳を塞いで、彼女たちと和解もしないで宮詣でを優先するっていうんだから、心底、呪われた生き方だよね。あんたって、ほんとに、うわべだけの見かけ倒しの中身のない男だよね。でも、そんなにまでして懸命に宮詣でしても、それって全部、カインの捧げものになって罪に定められるだけだよ。

「罪人の富は義人のために蓄えられる」って書いてあるの、忘れたの?

ところで、あんたの祈りってさ、ほんとうわべだけで、「主よ、私はこの取税人のようでないことを感謝します」って、あのパリサイ人と一緒じゃん。

私と一緒に教会に行ってもさ、あんたって、どうせ心の中では、「主よ、私はこんなクズ女とは別人であることを感謝します」とかって祈ってるんでしょ。

そんな男、行く先はもう見えてるよね。憐れむ価値もない。せいぜい外の暗闇に閉じ込められて歯ぎしりしながら、自分のして来たことを振り返るがいいわ。

そういや、あんたの両親って、私、今まで一度も会ったことなかったけど、父は悪魔で、母は大淫婦バビロンなんでしょ。大した家系でないどころか、誰よりもひどい生まれのくせに、よくも今まで偉そうに上からものが言えたわけだよね…。

あんたなんて、私とはあまりにも不釣り合いで、あんたなんかに、私がもったいない。よくもこれまで一瞬たりともあんたに我慢できたものだわ。よくよく私も幼かったのね。でも、もう分かったのよ、あんたの言うことなんて、隅から隅まで嘘だって。脅しても無駄。あんたのマインドコントロールはもう二度と、効かないよ!」

これ以上、何も言う必要はないと思う。

「カルト被害者救済活動」が「元被害者」をいついつまでも学習性無気力状態に追いやるために絶えず投げかける呪いと罪定めとディスカウント、これが要するにキリスト教界の言い分の総括であり、集大成なのだと筆者は思う。

こんな「家」にいつまでもとどまっている筋合いは誰にもない。

これは「家」ではない。牢獄だ。

出ることを考える前に、さっさと部屋の片づけをしろ?

独房の片づけは、囚人の仕事ではない。普段から人を囚人として監禁した上に、監禁した独房の清掃まで要求するとは、どこまで厚かましいのだろうか。しかも、筆者は囚人ではなく、自由の身だ。もとよりこんなところに監禁されている理由はないため、さっさとお暇します。

でも、本当の「家」が用意された暁には、部屋の片づけなんてことも、考えてあげてもいいかも知れない。ただし、覚えておいた方がいい、独房の清掃は、「部屋の片づけ」とは呼ばないんだ。こんな業界からは、本当にエクソダスあるのみだ。


神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。
 
そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。
 
このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)
 
さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。

日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する


この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。
 
そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。
 
このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。
 
そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。
 
今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。
 
政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。
 
神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。
 
聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。