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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主に信頼して、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼して、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編37編1-6)

* * *

いよいよゴールデンウィークも終わろうとしており、今年の筆者は、休息と未来に向けての準備だけに時間を費やした。コロナを機に、筆者自身も立ち止まり、今後、どのように生きるべきか考えさせられた。この国にもそうであるが、筆者自身にも、大きな転機が来ているのを感じている。

日本経済は、これまで奈落のどん底へ向かってひた走って来たのだが、コロナを機に、ついにその「奈落」が本当に見えて来た。おそらく、これから未曽有の大打撃を受けることになり、その影響ははかり知れないものと思う。

それに伴い、これまで就職氷河期世代の抱えていた問題を、はるかに超えるような巨大な問題が生じた。多くの人々が生活難に見舞われようとしているのである。

それにしても、今年からの2年間は、就職氷河期世代への政府の特別なプログラム支援の年になるはずであった。しかし、それも、コロナの影響でほとんどかき消されようとしている。

その現状を見ると、やはり、この世代は、政府の支援など当てにせず、自分の足で力強く立って、逆境を切り抜けて生きる秘訣を早く習得するのが最善だという気がする。

筆者自身は、以下にも書く通り、その秘訣をすでに見つけ、歩みを進めているところであるため、コロナがどうあれ、政府がどうあれ、社会がどうあれ、生き方に何の影響も受けてはいない。

だが、コロナがもたらした影響の大きさを思うのは、コロナは、これまでのように、就職氷河期世代と、それよりも若い世代だけでなく、バブル時代に入社した正社員たちにまでも、悪影響を及ぼしつつあることだ。

大企業が生産停止に追い込まれ、巨額の赤字を抱えるようになり、これまでは「社内失業状態」が許されて来た50代の大量の人々が、今後、真っ先にリストラの憂き目を見るかも知れないとの記事もある。

筆者は、コロナが本当に終わらせようとしているのは、「昭和の名残り」ではないかと思う。

筆者は、昭和生まれでバブルを経験した人々と話すとき、彼らには、バブル崩壊以降に、社会に出た人々とは、全く異なる考え方があるように感じられることがあった。

一概にひとくくりにはできないのだが、バブル世代は、自分たちの人生が絶頂期にあった時の「成功」のイメージに、今も非常に強くとらわれているように感じられる。

世の中が不況になって以後、そのような「成功」はもはやほとんど有り得ないものとなったのだが、彼らはずっとその時代の成功と繁栄のイメージにしがみつき、これを今もお手本のように生きている。そして、その夢が今も達成可能であるだけでなく、あたかも彼らが今、それを手にしているかのように演じることをやめられない傾向が強いように思う。

一言で言えば、彼らはものすごく強がりで、見栄っ張りなのである。自分が今も成功していることを、何とかして周囲にアピールしようと、自慢話を続けずにいられない。基本的に、社交好きで、派手好きで、パーティーや宴会が大好きな人たちも多い印象だ。

だが、世の中は、とうにそんな時代ではなくなっているので、彼らが演出し続けている「繁栄」や「成功」は、実体の伴わない外側の演技、虚勢のようなものと見える。もちろん、バブル時代に築いた人脈は、今も有効なのであろうし、彼らが家を買ったり、何人もの子供を成人させて世に送り出したり、蓄財したり、出世したのは事実かも知れないが、しかし、彼らはあまりにも強がりである一方、逆境に弱いので、そのままの価値観では、今後の嵐のような時代を生き抜けないかも知れないと、筆者は感じることがある。

特に、彼らがこれまで「当たり前」だと思って来た、昭和的価値観に基づく生活形態が脅かされ、崩れ去るようになれば、彼らはあっけなく自信喪失して、その先の時代に適応できないまま、人生の表舞台から退場して行くのではないかという危機感すらも感じることがある。

それに比べ、就職氷河期世代は、バブルが弾けたおかげで、逆境の時代に慣らされて来た。この世代は、上の世代の言うような「成功」を一度も経験したことがないので、それゆえ、良い意味で、過去の成功にとらわれることがないし、今がどん底であっても、未来に望みをつないで、一度も到達したことのない目標へ向かって、アグレッシブに、挑戦的な試みを続けられる。

この世代は、現状に対しては極めて悲観的であるが、同時に、未来志向であり、この20年近く、あまりにも浮き沈みが激しい生活を送って来たため、逆境に耐える術を知っている。その間に、絶望に追い込まれた仲間も多いが、考えられないような適応力を見いだした者もいる。

その適応力は、生まれつきの器用さとか、強さといったところから出て来たものではなく、どんな状況においても、望みを捨てずに、自分を見失わずに生きる秘訣を学んだところから来る。

人にもよるとは思うが、就職氷河期を生き残った人々は、バブル世代に比べ、揺れ幅の大きい生活の変化に耐える力がある。「今」を楽しむことよりも、未来へ向かって行くために英気を養うので、ストイックであるが、その分、不屈とも言える信念を持って目的へ向かって行く強い意志の力を持っている。

筆者は、約20年近くの不況時代を耐え抜くことで、学んだことは大きかったと思う。その最大の成果は、どんな状況にあっても、信念を変えずに、望みを捨てずに、自分らしく生きる秘訣を学んだことである。

「コロナ失業が広がっているときに、ヴィオロンさん、あなたは何を言っているんですか。またしても、夢物語ですか」と言われるかも知れない。

だが、どういうわけか知らないが、筆者は、長い長いトンネルをようやく抜けて、広い所へ出たという実感を持っている。やっと、就職氷河期という長い長い「隔離」期間が終わったのである。筆者は自分の歩むべき道を見つけた。だから、心配することはない。昭和の名残りには、さようならだ。

筆者が苦しめられて来たのは、就職氷河期ではなく、実は、バブルの名残だったのかも知れないと思う。

これまで、上の世代から、さんざん聞かされては、羨望を感じて来たバブル時代の名残り。かつてこの国にあった繁栄、豊かさ。そういうものへ回帰できるという望みや、そこへ滑り込むことのかなわなかった自分を責める思いが、見事に筆者の中から消えて行ったのである。

何を言っているのかと思われるかも知れないが、筆者が大学を卒業しようとしていた頃には、教授たちは、研究室でよくこんなことを言っていたのだ、「あと2年ほどでこの不況も終わり、すべてが元に戻り、きみたちのポストも復活するだろう」と。それから3年以上が経っても、まだ言っていた、「昔は就職に苦労することなんてなかったんだよ。企業が大学まで来て学生をスカウトしていたんだから・・・」

その頃、誰もバブルが本格的に終わったとは信じていなかった。あと2年したら、3年したら、来年になったら・・・まじないのようにそう唱えながら、昔の思い出話を繰り返していたのだ。

だが、昭和は過ぎた、もう戻らない。そうである以上、これ以上、昭和の価値観にとらわれ、バブル時代を振り返る必要はない。過去を脱ぎ捨て、新しい時代の新しい価値観を身に着けて生きなさい。「失われた」20年間に身に着けた価値観は、これからの時代、非常に大きな教訓となって生きて来るはずだ。

つまり、嵐のように激しい逆境の時代を、負けずに生き抜いてきたからこそ、身一つ、信念一つでも、これからも、何者にも頼らずに、すべてに勇敢に立ち向かい、生き抜くだけの自信が身に着いたのである。

だが、その勝利は、筆者一人だけのためではない。筆者はこの時代を生きたからこそ、自分のためだけでなく、多くの人々のために生きることの価値を知ったのだ。

筆者は信仰者であるから、信仰によって、天の秩序をこの地に引き下ろし、命の水を流し出す見えないパイプラインを、この地に建設したいと願う。その建設作業はあらかた完成し、初めて、この地から、広域に向けて、その命の水を流し出す段階に入った。そのための新たな事業を始めるべき時が来たのである。そして、その事業については、おいおい書いていくことにしたい。

* * *

さて、今回は、少し信仰の話ではないことも書いておこう。

日本の経済が弱体化した原因は、労働者の間に無限とも言えるヒエラルキーが作られたことの悪影響が大きいと筆者は考えている。

終身雇用の時代には、社員の競争相手は、せいぜいライバル企業と、同僚くらいであった。

だが、終身雇用制が崩れ、非正規雇用が蔓延してからは、事情が大きく変わった。一つの企業内に、正社員と、正社員以下の存在である契約社員や、派遣社員や、バイトといった、期間限定の使い捨て人材が無数に生まれたのである。

もちろん、以上はあくまで大雑把な表現である。実際には、契約社員が正社員以上の給与をもらっていたり、古株のアルバイトが、社内で正社員以上の影響力を持っていたりもするのだが、そういうことは今は脇に置いておこう。

こうして、同じ会社の中にヒエラルキーが出来たことにより、社員同士が、仲間を下に見て、踏みつけにしたり、モノのように使い捨てたりするようになった。

そうして、労働者間に、這い上がれないヒエラルキーが出来てしまったことが、日本経済の崩壊の始まりであったと筆者は見ている。

20代の正社員の下で、40代の派遣社員が働く。若い正社員は出世していく一方で、派遣社員は、契約期間が終われば去っていくだけだ。若い正社員は、新しく「派遣さん」がやって来たときには、「長期の雇用で良かったですねー」などと言う。「派遣さん」が去るときには、もちろん、送別会を開き、そのときには、お手製のケーキなどを持って行ったりもする。だが、「派遣さん」は「派遣さん」であって、名前はない。黙ってやって来て、黙って去っていく顔のない存在である。

こうしたヒエラルキーが社内で固定化し、年功序列は崩壊した。ヒエラルキーの下層に置かれた者は、どんなに努力しても、上に行くことはできない。何年働いても、びた一文、給与は上がらず、たった数ヶ月の雇用契約を更新するために、涙ぐましい努力をし、あらゆる雑務をこなし、上司たちに頭を下げ続けねばならない。その努力と引き換えに、得られるものときたら、年限が来れば、あっけなく去るように求められるというだけの話なのだ。

このように、永遠に出世の見込みのない使い捨ての雇用形態が蔓延したことが、日本の労働者の働く意欲を著しく低下させ、日本の企業の成長を押しとどめ、経済を弱体化させて行った最大の原因の一つなのである。

ちなみに、そういう差別的なヒエラルキーは、民間から生まれて来た発想ではない、と筆者は考えている。それは官主導で導入されたものであり、官が民を弱体化させるために、悪意に基づいて導入したのではないかと疑われる。

そのヒエラルキーは、国家公務員のキャリア制度を真似て導入されたものと筆者は見ている。

ところで、国家公務員のキャリア制度の起源は、以前にも書いた通り、戦前にさかのぼる。官吏が天皇の直属の使用人だった戦前に作られた制度が、多少形を変えて生き残ったものが、現在の国家公務員試験制度である。

天皇が「神」とみなされていた時代に、「神」にお仕えする人々は、とりわけ優秀な人材でなくてはならなかった。そこで、官吏の登用のためには、難易度の高い試験が作り出され、特定の大学を卒業していなければ、受験資格さえ与えられないといった縛りがもうけられたのである。

現在の国家公務員試験制度は、戦前の官吏登用試験の残滓と言えるものであり、20代の時に受験して合格した試験の種類で、その後の一生分の人生のキャリアが決まってしまうなどという不合理な制度は、時代にもそぐわず、憲法にもかなわない。国民の公僕たる公務員を、そのような不可解な試験によって選抜することが、誰のためになるというのだろうか。

そうした時代錯誤な制度に基づき、国家公務員には、I種、II種、III種といった等級や、その他に専門職やら、任期付職員や、期間業務職員といった存在がある。これらは厳格なヒエラルキーである。

労働者派遣制度は、厚労省が認可したことによって、民間企業に導入された。だが、派遣とは、国家公務員の世界にもともと存在していたヒエラルキーを、民間に移植したものではないかと筆者は見ている。

国家公務員の世界には、3年で満期を迎える期間業務職員というものが存在していた。それは正規の国家公務員のような試験を経ることなく採用される、準公務員的存在である。それは公務員の手助けを行うためのアシスタントであって、もっと露骨に言ってしまえば、正規の公務員のために、花瓶に生けられる花のようなものである。

花を花瓶に生けておくのは、それが新鮮で、美しい間だけでよい。枯れたり、しぼんでくれば、別な花に取り替えるだけだ。いつでも新鮮なものに取り替えられるように、初めから期限をもうけておけば万全だ。

正規の公務員は、異動を繰り返しており、新年度には、突如、違う部署に配属されたりもする。ところが、正規でもない職員が、ずっと何年間も、同じ職場にとどまっていると、正規の公務員以上に業務に精通するようになったり、力を持ったりもする。助手がどうして主人以上の存在になってよかろうか。期間業務職員ならば、同じ職場に3年しかいられないから安心だ。

これを民間に置き換えたのが、いわゆる派遣制度である。派遣社員が同じ職場に3年以上いられないという縛りも、公務員の世界から出て来た発想ではないかと推測される。

だが、もともと倒産することのない官公庁にあった職員のヒエラルキーを、民間企業に導入することに、意味があるだろうか。そもそも何年、働いても、昇給、昇格することなく、それどころか、一定期間が過ぎれば、会社を去って行かねばならないような仕事に、誰が魅力とやりがいを感じ、真面目に働くだろうか。そういうものは、市場競争にはなじまない。

このように、国家公務員のヒエラルキーは、もともと時代の遺物であって、民間企業には全くなじまないものなのだが、さらに、国家公務員は、もっととんでもないことを考え出した。

それが、政府のサービスの業務委託である。それによって、国民が、国家公務員のヒエラルキーの最下層よりも、もっと下層に置かれ、政府の下僕とされたのである。

ちょうどつい先日、厚労省からアベノマスクの調達を受注した4社目の企業の名前が発表されたが、その企業が、社員がほとんどゼロに近い、あまりにも怪しく、実績もない、しかも何社もの企業が同じ場所に名を連ねている、まるでプレハブのような建物に入った、ほとんど幽霊会社のような会社であることが世間で取り沙汰されて、騒がれた。

なぜ、何の実績もない、社員もろくにいないような会社が、突如、政府の事業を受けたのか。しかも、入札もなく、随意契約である。

それを見ても分かる通り、政府の委託事業には、この手の怪しい企業はたくさん群がっているのである。

そもそも一からビジネスを起こし、独自の発想でこれを成長させていきたいという本物の企業家は、政府の事業などに手を出さない。そこで、必然的に、政府の事業を受注する企業は、手っ取り早く安定を求める、本物の企業精神を持たない会社となる。

そこで、さしたる実績もなく、ホームページすら作成されていないような企業も、縁故で事業を受注したりする。

それだけならまだしも、政府の競争入札に参加して、最低価格で事業を受注するような企業の中には、労働者に残業代も払わずにこき使うブラック企業も含まれている。こういうハイエナのような企業が、政府に揉み手ですり寄り、下僕として事業を受注して行くのだ。すると、何年か後になって、その事業は失敗に終わり、大規模な不正が発覚して、スキャンダルになったりする。
 
一体、こういう行政サービスの業務委託の流れを歓迎できるだろうか。そもそも政府の行政サービスを、営利を目的とする民間企業に委託するという発想自体、異常ではないかと疑ってみるべきだ。

それでなくとも、政府は営利を目的とする企業とは異なるのだから、市場経済に参入してビジネスに乗り出すべきではない。政府が巨大事業主のごとく市場経済に参入して、大規模公共事業を売りに出したりすれば、民間企業のパイが奪われる。

その上、公務員が自ら行うべき行政サービスまで、外部委託事業として売りに出そうというのだ。これを受注した民間企業は、当然ながら、委託契約において政府から支払われた金額を超えるサービスを提供しようと心がけるため、それでは政府がまるで土地ころがしのように、行政サービスを転がして、民間企業を利用して金儲けをしていることになる。

このように、政府が巨大プレーヤーとして市場経済に参入すること自体、異常であることに加え、その上、国民の公僕たる国家公務員が行うべきサービスまでも民間に丸投げという姿勢では、もはや国家公務員のなすべき仕事は残らない。

各省庁に不祥事が起きれば、早速、コールセンターが民間企業に外部委託され、そこで役人の代わりに、派遣社員が国民に謝罪したりしているが、こうして面倒な仕事はみな民間任せにし、自らの不祥事の後始末までも、「くれてやった」と、恩着せがましい態度で民間に投げるのが、国民の公僕たる公務員のつとめなのか。

このように、政府が各種の行政サービスを切り売りするがごとくに外部委託して市場に売りに出すことによって、正常な市場競争が阻害され、公務員の国民の僕としての役割が失われているのが実状である。

そのようなことをやればやるほど、国民は政府の下僕と化していき、大規模公共事業は安定しているように見えても、それに群がった企業の独自の発想を殺して窒息させてしまう。

かくて、政府が行政サービスを次々に民間に委託するのは、断じてやめるべきである。国家公務員に、国民の下僕としての役目をきちんと果たさせるのが国民のつとめであって、それにも関わらず、国民が率先して政府の仕事を肩代わりし、政府の下僕になるようなことは、断じてやめなくてはならない。

そんなことをして、憲法の理念と真逆のことを、国民が自ら率先してやろうとするから、政府が異常に肥え太り、国民が虐げられるという結果に至るのである。

行政サービスは何年経っても改善されず、政府から委託を受けた民間企業が、超ブラックな環境で、労働者を搾取して働かせている間、国家公務員は、仕事もなくぼんやり遊んでいるという結果になる。

もちろん、不夜城では長時間残業が常態化して来たのだが、人手不足ならば、公務員を増やせば良いだけであって、人手不足を解消するために、汚れ仕事は民間へ委託というのはナンセンスである。

このように、政府の事業が怪しいハイエナ企業にたかられて思う存分に食い物とされ、役人が国民の上に君臨して、仕事をくれてやったと横柄な口を利き、次々と国民の意に反するサービスが導入され、その質が劣化して行ったりするのも、もともと政府が営利になじまない行政サービスを民間に投げ、民間企業がこれをありがたく受け取ろうとしたことが元凶なのである。

最悪なのは、それによって、民が官よりも下に置かれ、国民が公務員の下僕と化したことである。

郵政民営化によって、郵便局のサービスも、不便になって久しいが、業務委託も、民営化も、似たり寄ったりで、結局、国民が国民の首を絞めているのと同じである。

官の仕事は、官が最後まで責任を持って果たすべきであって、民が官の仕事を肩代わりしてはいけないのだ。その関係性を逆転させるから、国民に君臨して国民を抑圧する強大な政府という化け物が出来上がり、民は徹底的に自由と権利を奪われて踏みしだかれるのだ。

警察国家・戒厳令国家も、一日にして出来上がるわけではない。独裁体制も、ある日、突如として生まれるのではない。国民が自分の頭で物事を考えるのをやめて、プライドを捨て、長い物には巻かれろ式に、「お上」である政府にすがりつき、それによりかかっておけば安心だなどと考え、自ら政府の下僕と化すからこそ、その先に、独裁国家が現れて来る。

かくて、真に強くなりたいならば、国民は自分の僕であるはずの人々の情けにすがって生きようという考えを捨てて、むしろ、政府からは自立した立場から、政府を監視せねばならないのである。

以前から書いている通り、政府というのは、嘘をつくものであって、必ず、道を間違えるものなのだ。霞が関にある厚労省の庁舎の4階には、霊安室があり、そこには、今も、大戦時に大陸で行方不明になった身元不明の日本人の白骨がためこまれている。

近年、この省ではまたしても不祥事が発覚し、政府が収集した遺骨には、日本人だけでなく、身元の分からない外国人の骨がたくさん混じっていたことが、遅ればせながら、発表された。その事実は長年、隠されていたのだが、発覚したことにより、身元不明の遺骨が近親者に返還される見込みは、さらに遠のいた。

それさえ外部委託事業であるから、誰も責任を取ることはない。こうして、成果もあがらない委託事業が漫然と続けられ、そこに公金が湯水のごとく投じられる。しかし、事業を受注した企業が、それによって豊かになることもない。

どれだけ異常な事業運営が行われても、役人は誰一人責任を問われず、この省の有様は、もはや、自分の城の地下室に妻の白骨死体をためこんだ青髭の世界をリアルに実現していると言う他ない。

こんなものが、我々が助けを求めてすがりつくべき相手だろうか? すがりつけば、生かされる見込みがあるだろうか? いや、青髭にすがれば、行き着く先は、青髭の城の地下室である。

だから、私たちは、大戦時に国民が政府に何をされたのか、はっきり思い出すべきであり、それも棄民だったならば、就職氷河期も、棄民なのであり、今また、政府はその延長上に立って、補償なき休業を命じることで、新たな棄民政策を取っているだけである。

このような政府に対し、国民が自ら下僕になってはいけない。そういうことは、我々が憲法を否定し、時代を逆行させて、再び政府の悪事の片棒を担ごうとする以外の何者でもないことを、いい加減に、理解すべき時である。

各種の外部委託事業の甚だしい劣化は、そのことを示しているだけであって、国民が政府に仕えるのではなく、政府が国民に仕えるという正しい関係性を取り戻すためにも、国民が政府の仕事をいたずらに肩代わりして、その重荷を担ってやることは、やめなければならない。
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急いで出る必要はない 逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから。 

「奮い立て、奮い立て
 力をまとえ シオンよ。
 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。
 
 無割礼の汚れた者が
 あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 立ち上がって塵を払え、捕われのエルサレム。
 首の縄目を解け、捕われの娘シオンよ。

 主はこう言われる。
「ただ同然で売られたあなたたちは
 銀によらずに買い戻される」と。

 主なる神はこう言われる。
 初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。
 また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
 そして今、ここで起こっていることは何か、
 と主は言われる。

 わたしの民はただ同然で奪い去られ、
 支配者たちはわめき、
 わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、
 と主は言われる。
 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。
 それゆえその日には、わたしが神であることを、
 「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、
 良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
 シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。
 彼らは目の当たりに見る
 主がシオンに変えられるのを。
 
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる味腕の力を
 国々の民の目にあらわれにされた。
 地の果てまで、すべての人が
 わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ
 汚れたものに触れるな。
 その中から出て、身を清めよ
 主の祭具を担う者よ。
 しかし、急いで出る必要はない
 逃げ去ることもない。
 あなたたちの先を進むのは主であり
 しんがりを守るのもイスラエルの神だから。
(イザヤ書第52章)

* * *

ハーバービジネスオンラインの離婚のエキスパート弁護士によるモラハラ夫特集が面白い。

 弁護士・大貫憲介の「モラ夫バスターな日々」

これを読みつつ、筆者は、就職と結婚は似ているように感じた。何が似ているって、悪い職場は、モラハラ夫が妻を威嚇し、恐怖によって支配しようとする夫婦関係にそっくりな点だ。

前にも書いた通り、悪い職場は、悪い家庭とよく似ており、たとえるならば、おとぎ話の「青髭」の支配する家のようだ。青髭は、それまで数えきれない数の「妻」(=労働者)を娶っては、ひそかに首を切り、あろうことか、自らの城の地下室に、殺害した妻たちの骨をためこんでいる。さらに、貧しさにつけ入って、数えきれない娘たちを「愛人」として囲っては、さんざん泣かせて来た。

だが、初めてお見合いする無知な娘にそんなことが分かるはずもない。不誠実な男ほど饒舌で甘言を弄するのがうまく、まんまと騙されて娶られた娘は、しばらくの間は、青髭と「蜜月」を過ごすが、ラブシャワーの後で、青髭は残酷な本性を現す。

モラ夫の支配する「家」と、社員を搾取するブラック企業は根底で一つにつながっている。そこにあるのは、強い者が弱い者を虐げ、搾取し、支配する関係だ。 

職場で一方的な命令を下し、弱い者を威嚇し、自分に逆らうことを許さず、逆らった者を闇雲に罰したり、女性に一切の口答えを許さないような男尊女卑の上司は、きっと家庭内でも同じことをしているに違いない、と筆者は思う。

彼らはあまりに心が傷つき、さらに自分では何も生産できない無能者のため、常に自分よりも下に見る人間、自分の代わりに厄介な仕事を片付けてくれる搾取する対象がいなければ自分を保つことができない。

モラハラは一生治らないと言われている。だから、職場でも、悪しき人間関係の中にとどまっていても、生産的な人生は送れない。面白い診断があった。もしもあなたの上司に、10項目全てに○がつくようであれば、その職場は早くあきらめて脱出した方が良い。 

【ダメな管理職】コイツの下では働けないと感じさせてくれる無能な管理職の10個の特徴!
1、責任者ではなく権力者だと勘違いする
2、個人的な好き嫌いで判断をする
3、情報共有と指示を的確に伝えられない
4、意見の強要や決定事項の突き付けをする
5、無駄な会議を開きたがる
6、問題やトラブルを大ごとにする・責任転嫁する
7、思い込みが激しく客観性や根拠がない
8、部下を納得させられていない
9、行うことの目的や動機を与えられていない
10、仲良くしたいという間違った欲求を持つ

だが、偽物があれば、本物があるように、嫌な関係があるなら、正常な関係もある。

幸福になる秘訣は、限りなく、正常な関わりを追い求めることにある。だが、正常なものに巡り合うためには、自分自身を高めなければならないことも、忘れてはいけない。

淀んで腐敗した水にボーフラがわくのと同じで、ダメな人間ばかりが集まる場所には、それなりの特徴がある。善良かつ誠実で、高い品性を持つ人々に巡り合いたいと切に願うなら、望んでいる環境にたどり着くための努力が、自分自身にも必要だ。

仕事であれば、質や内容を厳正に選ばなければならない。誰でも就けて、大した努力の必要のない職場に、特別に良い人間が集まるはずがないことは明白だ。

自分で自分の生きるフィールドのハードルを低く設定していながら、そこで最良のものに巡り合えると考えるのは、お門違いである。
 
だから、真に価値ある仕事をしようと願うなら、無責任な人々よりも、ハードルを高く設定し、自ら責任を負って立つ覚悟を固めねばならない。

「モラ夫」に「おまえはおれの情けによって生かされているんだ」などと恩着せがましい言葉を言われないためには、彼の専業主婦であることをやめねばならないのと同様、気に入らない、ダメな職場により、「メシ」を食わせてもらっている立場で、不満だけを言い続けても無駄だから、そこを脱しなければならないのだ。
 
モラ夫に仕える代わりに、身の安全を保障してもらえるという、お仕着せのパッケージを捨てて、自分自身で、上司と同じか、それを上回る責任を担い、人に頼らない人生を始める覚悟を決めねばならない。なおかつ、それができると信じなくてはならない。

逃げるとき、モラのディスカウントの言葉が、耳に聞こえて来るかも知れないが、絶対にそれを信じてはいけない。 そんな人間関係が、世の中の全てではない。自分で自分を何者と考えるかがあなたの人生を規定するのだ。

繰り返すが、あなたが自分を何者と考えるかが、あなたを規定するのである。

* * *

自民党が打ち出した減収世帯への現金30万円の給付が、公明党により、強引に国民一律への10万円の給付に変えられようとしていた頃、我が職場でも、クーデターが完遂し、ナンバー2であった上司が、トップに拮抗するほどの権限を持つようになった。
 
トップとナンバー2に逆らった社員が、社内軟禁状態にされたのを見て、筆者はここから逃げねばならないと悟った。

それは反カルト運動を繰り広げる牧師たちが、カルトからの脱会者を密室に隔離して、再教育を施そうとしていた光景を思い起こさせた。反カルト運動の指導者らは、カルト宗教からの脱会者を誤った教えから救うと言いつつも、その「救済」手段として、信者を鉄格子と南京錠つきの密室のアパートに軟禁して、ディプログラミング(再洗脳)を施したのである。信者の家族が、信者が脱走しないように24時間、つききりで監視し、その言動を牧師たちにつぶさに密告した。

職場で起きていた現象は、その光景にとてもよく似ていた。隔離された者には、苦しい仕事が与えられ、周囲との交流が断たれた。そして、全社員がその者を集団で監視し、密告を繰り返したのである。

筆者はブラックな職場をそれなりに見て知っているつもりであったが、これほど宗教めいた、気色の悪い、極端に悪口の多く、敵意に満ちた団体は、他に知らなかった。調べてみると、幹部はフリーメイソンへつながる団体の会員であった。やっぱり、そうだったかと、筆者は心の中で唸った。
 
協調性とは、グノーシス主義から生まれる概念である。それは、和の精神、自他の区別の廃止、対極にあるものの融合を意味する、聖書に真っ向から敵対する間違った理念であるから、協調性を重要な理念の一つに掲げている団体は、まともではないと見て良い。

以前にも書いたことだが、協調性とは、自他の区別を曖昧にすることによって、人が相応の努力をせずに、他者の持っている優れた資質を、自分のために盗み取ることを正当化する概念である。協調性が説かれる場所では、善人だけがひたすら努力を続ける一方、悪人は誰にも歩み寄らず、我が道を行くので、正直者が馬鹿を見るだけである。
  
当ブログを書いて来た筆者には、そうしたことは十分に分かっていたはずなのだが、筆者はずっとそれに気づかないふりをして、今までやり過ごして来た。しかし、ついにその団体が、滅茶苦茶な基礎の上に成り立っていること、破滅へ向かっていることを、目を開いて見ずにいられなくなり、悪しきものとは訣別せねばならない時がやって来たのである。
 
グノーシス主義とは、キリストの十字架なしに、人類が己が力で自分の罪をあがない、神に到達できるというサタンの教えである。そこで、グノーシス主義の教えには、共通の型があり、グノーシス主義者の考えることは、時代を越えて変わらない。

密室への隔離や、懲罰労働による人格改造、恐怖政治による支配などのグロテスクな方法によって、理想郷へ到達できるという、有り得ない誤った発想も、時代を超えて同じである。

19世紀、ロシアのデカブリストの一人は、理想郷を生み出すためには、200年間かけて警察国家を作り、国民の自由を奪い、民衆に再教育を施して、人類を作り直さねばならないと考え、クーデター計画を練った。 彼は帝政ロシアの軍隊によって反乱が鎮圧される前日に逮捕され、人類改造計画を記した大量の書類も押収されて、死刑に処された。
 
今日、コロナウィルスの蔓延は、グノーシス主義者による各国社会の収容所化のためのアジェンダだという説がある。

それは悪意ある人々が、恐怖によって人々の自由を奪い、日常生活を奪って、自宅や、職場に閉じ込め、再教育を施すことを目的に、人工的に計画したのだという。ステイホームも、自宅収容所化の手段なのだと言われる。

そんなグロテスクな計画を本気で考え、その達成の手段として、人為的にウィルスを世界にばらまき、騒動を煽る人々がいるのかどうか、筆者には疑わしい。

だが、その説をあながちトンデモ論として笑えないのは、実際に、コロナを口実にして、緊急事態条項を作ろうと、改憲を目論んでいる人たちが確かに存在していたり、政府が、事業者に100%の休業補償をせずに休業を命じることで、まるで「貧しい人は路頭に迷え。潰れるべき企業はさっさと潰れろ」と言わんばかりの冷淡な態度を取っているからだ。

一体、コロナウィルスは、悪意ある人々による、弱く貧しい人々の人工的な淘汰の手段として作られたのだろうかという疑問が、人々の心に生まれて来るのも仕方ない。

筆者の職場でも、以上に書いた通り、まるで労働によって人間の本質を改造しようとしたマルクス主義さながらなことが行われている。

マルクス主義は、労働によって、人類の幸福社会を築こうとした。人類が自らエデンを取り戻すためには、罪という終わりなき連帯債務を、労働によってあがなうべきと唱えたのである。

もちろん、マルクス主義において「罪」という概念はないが、要はそういうことである。人類の負い切れない罪の返済手段が、労働だったのである。人類が理想郷へたどり着くために必要なすべてを、人類自身が連帯責任として背負い、労働によってまかなうべきと唱えたのである。
 
だが、労働によって、人が己が罪を自力で贖うなどのことは、達成不可能な偽りであるから、そうしたスローガンに騙されて働く人間も、愚か者だけということになる。だからこそ、共産主義国においては、労働しない人間が、最も出世したのであり、政府の上層部は、卑劣漢、悪党、盗人で占められた。誰も責任を取らないので、その体制は、ありとあらゆる悪事を犯し、崩壊するしかなかった。

悲しいかな、筆者の職場では、まさにそれに等しいことが起きつつあるのだが、筆者は何度も、他でもないグノーシス主義者の幹部から、まだその人がグノーシス主義者だとは筆者が気づいていなかった頃に、組織を出て、新たな出発を遂げるよう、幾度も促された。

「あなたが望んでいるような自由は、あなたが自ら経営者にならない限り、きっと得られないと思いますよ」と、その人は言ったのである・・・。
 
筆者はその頃、職場が間違った基礎の上に築かれているとは知らずに、色々なことを語り合った。その人がグノーシス主義者でさえなければ、どんなに良い旅の道連れになっただろうかと、今でも名残惜しい。

筆者は、その人が筆者と話しているときに、時折見せた、自分はもう助からないとでも言うような、絶望的な表情を覚えている。それは一瞬、垣間見えただけであるが、それがあまりにも哀れであったので、筆者は何とかして、命に至る道を見つけて欲しいと願い、無理やりにでも、バビロンから連れ出したいと願った。残酷なナンバー2にも、同じことを願った。

だが、彼らは呼べば呼ぶほど、ますます筆者の忠告を振り切り、焼け落ちる火宅に自ら駆け戻って行く人のように、反対方向へ走って行った。

筆者には分かっている、神は悪人と正しい人を一緒に滅ぼすようなことはなさらないので、筆者がいる限り、組織が崩壊することはないと。筆者には、バビロンの崩壊を遅らせることもできれば、エリコの再建のように、滅んだ組織を再興することもできる。
 
だが、滅ぶべきものを延命させるという間違いは、二度と犯してはならない。誤った理念の上に築かれた城に、人情のゆえに、同情の涙を注いでも意味はない。タイムリミットは近づいており、そろそろエクソダスせねばならない。
 
記事には具体的なことを書けないので、かなり曖昧な表現を使わざるを得ないが、以上に書いた通り、職場で極端なカルト化現象が起きなければ、筆者は今でも見込みのないものに望みをつなぎ、戸口の前で、足踏みをしていたかも知れない。

何より、その職場が根本的に誤った反聖書的な理念を土台として成り立っていることに、今も気づかず、バベルの塔建設のためのレンガ運びの作業にいそしんでいたかも知れない。

だが、レンガ運びの作業が、苦行と化し、それを拒んだ者には、厳しい懲罰が科されるようになったことにより、分かったのである。それは収容所における囚人労働と同じであって、自由な明日を作り出すことに貢献することはないと。

隔離された社員だけが、密室に閉じ込められているのではない。そこでは、幹部から末端の人間に至るまで、誰もがみな閉じ込められているのだ、労働という檻の中に――。

その収容所に閉じ込められている限り、みなが破滅へ向かうだけで、誰にも自由な明日はない。労働による人格改造などあり得ない。だから、恐怖政治の果てに、待っているものは、ただ滅びだけである。
 
もちろん、だからと言って、筆者は、幹部の勧めに従って、明日、独立するつもりはない。そんな風に、一足飛びに何かを達成できると思うのは間違いだからだ。だが、それでも、幹部の言葉のおかげで、狭い密室を出て、地境を広げねばならないことに気づいた。より多くの自由、権限を手にするために――。

こうして、筆者が呼びかけた人は、筆者の招きに応じず、救いにも興味がなく、滅びると分かっている建物に戻って行っただけであるが、筆者は、ここで立ち止まるわけには行かないので、まだ見ぬ都へ向かって、進んで行かなくてはならない。

たとえ今、筆者の手元に、自分の身一つ以外に何もなくとも、信仰によって、無から有を生み出し、いつか想像をはるかに超えた大きな目的を達成できると信じて、勇気を持って、颯爽と、歩き出さなければならない。

バビロンを出て、聖なる都、新エルサレムへ向かって――。

* * *

キリストは花嫁なる教会のためにご自分の命を捨てられた。それは部下のために上司が命を捨てるような、奇跡的な愛である。いや、違う。部下のために命を捨てる上司くらい、いるだろう。だが、神は私たちが罪人であったときに、救う価値のない罪人である私たちのために命を捨てられたのだ。

神がそうされたのは、正しいことであり、神は無限に強く、正しい方であればこそ、その正しさと力を行使して、ご自分の被造物である私たちを助けられたのである。

だから、この世においても、権威ある者は、自分の権威の下にある者たちを守らなければならない。強い者の権力は、弱い者を守るために与えられているのであって、弱い者を脅かし、痛めつけるためではない。

ところが、グノーシス主義は、いつも正しい秩序を逆にして、弱い者が、強い者のために命を捨てるようにと、無理な要求をする。

たとえば、「親孝行」という、世間ではまことしやかに美徳のごとく讃えられている概念について、考えてみよう。

考えればすぐに分かることだが、自然界の動物社会では、親が子の世話をすることはあっても、子が親の世話をしたり、親のために命を捨てるという原則はない。そもそも弱い子供にどうやって親の世話ができるというのか。弱肉強食は、同じ種の親子間でなく、異なる種類の生物の間で起きることである。

ところが、人間社会では、「親孝行」という、自然界の動物にはあり得ない教えがまかり通っている。
 
それは元を辿れば、死者の霊の崇拝、すなわち、先祖崇拝に由来する。

人間が生まれ持った命は、本当は、神聖でも何でもない、ただの動物的命である。虫でも繁殖くらいはしているのだから、人間に子孫が生まれることも、珍しくもなければ、偉業でもない。

ところが、偽りの教えにかかると、それが神業のようなものにまで変化する。つまり、人間の子孫は、「ご先祖様」から「神聖な命」を受け継いでいるから、自分に命を与えてくれた先祖に絶えず感謝し、先祖供養につとめると共に、その「神聖な命」を絶やさないために、「家名」を背負って、これを穢さず、「神聖な家」を維持していく責務を負う、ということになる。

それゆえ、その子は、生きている限り、「神聖な家系」の入れ物となる「家」を守るために、親に孝行するだけでなく、口を利くこともできない先祖の霊の供養を続けねばならない。

我が国では、戦前戦中、万世一系の天皇家を「神」にいただく「神国」などというフィクションが作り出され、その虚構の物語に基づき、臣民は天皇の赤子であるから、親である天皇のために命を捨てるのが当然、などという荒唐無稽な教えが説かれた。

もしも天皇が「親」であるというなら、天皇こそ、「赤子」なる臣民を守るために、身を投げ出し、命を捨てるべきであると筆者は思うが、それとは全く正反対の教えが説かれたのである。

それと同じ理屈で、戦後になっても、男は会社組織や共同体社会のために身を捧げよとか、妻は夫のために身を捧げて尽くすのは当然といった誤った考えが、社会の至るところにはびこっている。共に生きるために協力するのではなく、命を捨てても服従せよというのである。三島の『憂国』を彷彿とさせる世界観だ。

もちろん、親に感謝したり、親を尊敬することは何ら悪いことではない。だが、「親に感謝せよ」という考えを究極まで推し進め、子の人生を親(先祖=家)から一生離れられないように束縛してしまうのは、罪なことであり、異常である。

自然界の動物社会では、子は成長すると、自立して親を離れ、新しい家を形成する。近親交配を避けるためにも、生まれ落ちた家をいつまでも存続させることに意味はない。

子が自立して親を離れるのは、親が子より早く老いて死ぬためである。親は力の上では、子よりも強いかも知れないが、老いと死には勝てない。そのため、子をいつまでも守ってやることはできない。

だからこそ、子は親が老いる前に、親から自立し、自力で生きて行く方法を獲得せねばならないのだ。自立して初めて、親と一緒に死の中に引きずり込まれるのを避けられる。

ところが、人間社会においては、子は親が死ぬまで面倒を見、親が死んであの世に行っても、なお、面倒を見続けねばならない(供養せねばならない)という、自然界の掟にも逆らう、支離滅裂な、むなしい虚構の概念が普及している。

現代社会にも、そうして時代錯誤な家制度が生きている。自立した夫婦は、生家を出て、新たな家を築いているように見えるかも知れないが、依然として、多くの場合、男性が自分の生家の名を継承している。それは、彼が生家から離れられていないことの証である。

一体、子をいつまでも自立させず、死んでもなお手放さないという姿勢が、親心と言えるだろうか・・・。

こうした家制度の根本には、先祖崇拝という、しょせん、人間に過ぎない者を「神」として祀りあげる「神聖な家系」というフィクションの世界観がある。

そのようなフィクションに騙された子孫が、生きているうちから、親の望みをかなえることで、「家」に名誉をもたらそうと、親の附属物のようになって、苦しい人生を生きたりしながら、先祖という死者に縛られ、一生、「家」という密室の入れ物から離れられなくなるのだ。

それは何もかもを滅びと死へ引きずり込み、破滅させてしまうオカルトの教えなのであるが、多くの人々はそれに気づかないまま、これを信奉している。

この教えが究極的に目指しているのは、罪に定められた人間の欲望を、永遠にまで至らせることである。滅びゆくアダムの命を、神聖なもののように偽り、人間が堕落した欲望に生き、そのままの姿で、神のような永遠に達することができると教える。

その教えは、人類が罪に堕落したという事実を認めず、罪のゆえに死に定められたという事実も否定して、己が欲望の追求の果てに、神のような永遠性を手に入れられるとうそぶく。

人間が生まれながらの命のままで、永遠性を手に入れるなど、できるはずもないことなのだが、その教えは、代々、家系が続いていることにより、あたかも命の連続性が保たれ、永遠性が獲得できるかのように、屁理屈を並べているのである。

* * *

さて、筆者はいきなり経営者になることはできないと述べたが、それでも、人格改造のために懲罰労働が課されるような密室に居続けてはならないと悟った。

筆者の職場のみならず、現代社会における労働は、およそその多くが、収容所生活になぞらえた方が良いようなものである。

そうした人間性を奪い取る密室から解放されるためには、自分の仕事の内容と質を高めて行くしかない。一歩一歩、自らの責任の範囲を拡大し、他の人々と異なる、より自分の裁量が大きくものを言う、自由な仕事、そして、広範囲に影響の及ぶ、決定権のある仕事を模索していかねばならない。

それは筆者が見えない領域で、多くの「扶養家族」を持ち、多くの人々を養う仕事をするようになることを意味する。

筆者の目指している「事業」とは、ジョージ・ミュラーがしたように、信仰によって、たくさんの人々を養い、支え、命と自由を与えるためのものだからである。

その願いが、可能な限り、広範囲の人々に及ぶよう、筆者の仕事の責任をより重いものに、より大きな内容に変えて行かねばならないのだ。
 
だが、いきなり一足飛びの生長は、誰にもかなわない。そういうことを試みるのは危険である。
  
たとえば、10人しか社員を雇ったことのない事業所が、いきなり50人もの社員を採用して、億単位の新規事業を始めると、どういうことが起きるだろうか。

事業所の意識は一日では変わらず、それが手かせ、足枷となって、成長を妨げる。つい昨日まで、田舎の商店街にある個人商店のように、電話回線も少なく、アシスタントもごくわずかしかいなかったような小さな事務所が、いきなり大企業と並んで、巨大ビルのフロアに大きな部屋を借り、そこに大勢の社員を雇って、労務管理を行い、大規模事業を支えられるようになるかと言えば、そうはならない。そういう無理なことをしようとすると、あらゆる方面にひずみが生じる。

大規模な事業を創設し、これを育成し、完成にまで導いて行くためには、必ずメソッドが必要となる。それを打ち立てた経験が過去に一つもなく、ノウハウすらも持たない人たちを、人数だけ揃えても、いきなり事業が軌道に乗ることは絶対にない。

下手をすれば、組織が成長途中に、組織の体をなさなくなり、半熟卵のようにドロドロに溶けて、メルトダウンして行くだけだ。

同じことが、事業所のみならず、働く側の人間にも言える。昨日までパートタイムのアルバイトしかしたことのなかった人間が、いきなり、大きな店の店長や、大企業の社長になっても、物事はうまくいかない。学生時代の趣味が高じてベンチャー企業の社長になるような人々も、まずは小さな会社を立ち上げるところから始める。
 
このように、堅実な歩みを進めるためには、一歩、一歩、地道に責任の範囲を拡大して行くしかないのであって、そうした小さな意識改革を積み重ねて行った先に、ようやく、大きな事業を手がけるスキルが生まれる。

ステップを数段すっ飛ばかして、いきなり濡れ手に粟式に、巨大な成功を手に入れられると思うのは間違いである。たとえ大きなチャンスに巡り合っても、それを活かす知識と経験がなければ、失敗に終わるだけなのである。
 
そういうわけで、筆者は、自分を閉じ込めていた密室を出て行こうとしている。だが、自分一人、収容所から釈放されて、孤高の高みに君臨するためでない。大勢の人たちを生かし、自由にするために、筆者は、これから山へ登って行こうとしている。

小さな一歩かも知れないが、これまでの出発と違うのは、これから歩むべき行程がはっきり見えていることだ。神はその歩みを喜んで見守り、承認し、後押しして下さるだろうと思う。

* * *

人間とは、言葉(規則、掟、論理)が先に来るのか、それとも、行動が先に来るのか、という議論がある。

鈴木大拙は、人間の本質とは、考えるよりも先に行動するものだと言った。

しかし、筆者はそれは絶対に間違っていると確信する。なぜなら、聖書の秩序は、まず掟があって、次にそれに従った行動があるというものだからだ。

人間はエデンにおいて、神の掟よりも、自分の快楽を求める衝動に負けて、行動を先にしてしまったことにより、罪に堕落した。

だが、それは悪魔の唆しによるものだから、それが人間の本質だとは言えないだろう。

ところが、グノーシス主義者は、今日も、それこそが人間の本質だとうそぶく。人間とは、まず衝動的に行動してから、後でその行為について反省し、知性が芽生えるのだと。そうして、いつも、行動を、言葉よりも優位に置こうとする。

世の中に、政治家を始めとして、やたら人前でむなしい演説を繰り広げ、空虚なパフォーマンスに明け暮れる人間が横行するのもそのためで、彼らは口先だけでペラペラと意味のないことをしゃべり、息を吐くように嘘をつき、人の注目を集めた後で、法律や規則を曲げて、ないがしろにし、義人を罪に定め、多くの人々に害を与える。

彼らの目的は、派手なパフォーマンスによって、身勝手な行動を実行に移し、これを既成事実化し、後付けで正当化するために、規則を変えることにある。

たとえるなら、ある人が人殺しに及んでおきながら、「世の中に殺人が横行するようになったので、いっそ殺人罪を撤廃しましょう」などと言うようなものである。

聖域なき改革だの、岩盤規制を突破するだのといった威勢の良い謳い文句のほぼすべても、古くからある規則を「悪」と見せかけることによって、規則を撤廃して、自分たちの悪事を正当化するために唱えられる。

もちろん、「コロナで社会不安が広がったので、改憲して、緊急事態条項を創設し、人権を抑制しましょう」などというスローガンも、同じ理屈に基づいている。

なぜコロナウィルスが蔓延したくらいのことで、最高法規である憲法を変えなくてはならないのか。そこにどれほどの論理の飛躍があることか。

だが、彼らのやり方はいつも同じで、まず、不安を煽る様々な現象や、衝動的な行為をあげつらい、それを抑制できなかった規則など無意味だからと、最も重要な法規を、無意味だと言って、彼らに都合良く変えて行こうとするのだ。
 
私たちはそういう政治的パフォーマンスに踊らされるべきではない。弁舌巧みで、パフォーマンスが得意なのは、詐欺師だけである。
 
実際には、コロナの脅威によって、むしろ、そうした空虚なパフォーマンスこそが抑制され、駆逐され、そのむなしい本質が暴露され始めているのは、良いことではないかと筆者は思っている。

たとえば、筆者は、コロナウィルスのおかげで、「連休中はどこへ行きましたか?」という愚問から解放されて、ほっとしている。毎年、この季節になると、行楽地に大量に押しかけ、人数にものを言わせて、孤独な人々を隅に追いやり、自分たちこそ世界の中心だと言わんばかりに、厚かましく自慢話に明け暮れる家族連れを、今年はもう見なくて済むことに、安堵している。

連休は出かけるためにこそあるという、この人々の愚かな思い込みを解くのに、どれほど無益な苦労をさせられ、非難を浴びせられたことだろう。マウンティングだけが目的の、むなしい自慢話を聞かされずに済むようになって、筆者は安堵している。

休暇は休息のためにこそある。休息の方法など十人十色だ。休息期間には、大切な考察が行われ、未来への挑戦が始まる。何もしていないように見える1日、1日が、エネルギーチャージに必要な時間なのだ。

だから、筆者は今年は、心の休息を得て、信仰によって、未来をどのように創造していくか、それを思い描くことに、主要な時間を費やすことにしている。それもコロナウィルスがなければ、与えられなかった静けさだったかも知れない。

さらに、コロナは社内で行われるつまらない会議にとどめを刺し、社員同士の無駄話にも大いに水を差した。裁判所にさえ、コロナの影響は及び、法廷における弁論が、停止に追い込まれたのだ。

それによって、限りなく重要な教訓が、証明されつつあるように思うのは、筆者だけだろうか。物事の重要な本質は、耳目を集める口先だけの言葉や、見せかけのパフォーマンスにはない。行動に先んじて、行動を支配する見えない掟、法、規則、理念、思考があって初めて、人の行為には価値が生まれるのだ。

だから、断じて、行動が先んじて、思考が後に来るのではない。その反対こそが正解なのだ。どんなに束の間、繁栄しているように見えても、人間の本質を逆にしようとした者は、自らの行動の価値を証明できない。どんなに衝動的な行動をたくさん行っても、それが掟破りなものであれば、少し時が経てば、間もなくその価値は全くないことが判明し、その成果も、跡形もなく消えて行くだろう。
 
コロナウィルスの襲来によって、むなしいパフォーマンスの数々が駆逐されたなら、それは筆者にとって、非常に喜ばしいことである・・・。

* * *

グノーシス主義者の考えるユートピアは、広き門である。それは神の戒めに従わず、キリストの福音から落ちこぼれた、ダメ人間ばかりを救おうとする、偽りの大衆救済宗教である。
 
己が罪を悔いることもなく、他人ばかりを責め続け、本物の福音には到達できず、その意欲もない、無責任で、無反省な人ばかりを救おうとする偽物の福音だからこそ、その偽の福音には、最も怠惰で、最も無能な者、最悪の利己主義者、この世の失格者、落伍者、筋金入りの悪党、卑劣漢など、悪い人々ばかりが群がる。結局、その悪者のユートピアは、何一つまともなものを生み出せないまま、自壊して行くことになるのだ。

怠惰な人間を富ませるためには、真面目な人の労働の成果を盗むしかない。ダメ人間を救済するためには、ダメ人間でない人々の評価を下げるしかない。悪人を救うためには、正しい人を罪に定めるしかない。

こうして、グノーシス主義の唱えるユートピアは、ダメ人間を聖人に祀り上げるために、何もかもをさかさまにした世界観に基づいている。

そうして出来上がる「広き門」が、人に優しく見えるのは、最初のうちだけで、悪と偽りと不法と搾取は、やがて彼らが復権しようとしたダメ人間も含め、その教えに帰依した人々全員に及ぶことになる。

キリストの十字架がないので、悪人には罪が赦されることは永遠になく、その代わり、労働による人格改造という懲罰が待っているだけだ。そこで、労働による彼らの救済は、何万光年経とうが、永遠に達成されることはない。

人類の罪を人類が自力で贖うための果てしなく重い軛は、人類に連帯責任として落ちかかり、最後には、真面目で誠実な人間だけでなく、悪人も含め、すべての人々が、極度の抑圧の中に投げ込まれ、自由を奪われ、恐怖政治が出来上がる。

こうして、グノーシス主義の偽りの福音は、多くの人を救う「広き門」に見えても、その先に待ち構えているのは、滅びと、死だけであって、それは結局、彼らが退けたキリストの福音よりも、はるかに厳しく、誰も耐えられないような裁きと懲罰を繰り広げるだけに終わる。

かくて広き門によって救われる人間はゼロなのだ。ダメ人間のユートピアなどあり得ず、そういうものを作ろうとすれば、生まれるのは、ファシズムだけであり、その結果としてもたらされるのは、滅びであり、死である。

それを考えれば、「労働廃絶論」(ボブ・ブラック)などという説が出て来るのも、頷ける話だ。
 
* * *
 
ちなみに、筆者は、あらゆる労働――いや、人間の社会への奉仕が一切合財、無価値だと言っているのではない。あくまで人が罪から逃れるために、死の恐怖から逃れるために、自己救済のために行う労働が、無意味だと言っているだけである。

人々は筆者に問うかも知れない。「ヴィオロンさん、あなたはプロテスタントにおける礼拝と、資本主義における労働が車の両輪で、今の時代には、その両方が終わりに瀕しているなんて、荒唐無稽な説を唱えています。

あなたによれば、日曜礼拝と、月曜から金曜まで会社にお参りすることは、本質的に同じなのだそうです。そして、それは自由をもたらす解放どころか、自己懲罰のために、人々が自ら「隔離」されていることなのだと、あなたは言います。あなたによれば、その労働は、強制収容所における人格改造と同じほどむなしい、無意味なものなのだと…。
 
それでは、あなたは労働そのものに反対なんですか? それなら、あなたはこの先、一体、どうやって生きるつもりなんです? 社会に必要なサービスは、誰が行うんですか?」

もう一度言うが、筆者が反対しているのは、罪のゆえに、死の恐怖の奴隷となっている人々が、その恐怖を紛らし、偽りの救済を得るために、強いリーダーのもとに馳せ参じ、そのリーダーに生存を保障してもらおうと、その教えに帰依し、自力で救済を得るための手段として労働を用い、みなで結集して、バベルの塔を構築する、そういう生き方である。

プロテスタントの日曜礼拝は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という、救いの内なる確信の持てない信者が、自らの心の不安をなだめるために作り出した鎮静剤のようなものである。

同じように、資本主義におけるサラリーマンの労働も、もともとは「救われているかどうか分からない」という不安を抱えるプロテスタントの信者が、日々、勤労に励むことで、神の御前に善行を積み、不安心理をなだめようと発生したものである。

現代社会においては、労働における宗教色はほとんど見いだせないほどに薄れているが、それでも多くのサラリーマンは、「自分がどういう生き方をすれば良いか分からない。どんな事業が自分の天職なのかが分からない。それを自分で始める力もない」という無力感を、手っ取り早く、誰かに埋め合わせてもらうために、他人に仕えて働いている。

産業革命以後、仕事の機械化、細分化が進んだことにより、人々は昔に比べてより一層、自己というものを喪失し、労働においても、より家畜のように一元化して管理しやすくなった一方で、逆に機械に使役される人間が大量に作り出された。

そのおかげで、神の救いが分からず、自分自身が分からないだけでなく、自分の仕事にも、価値を見いだせないという、迷える羊のような人々が大量に生まれた。

その迷える羊に対して、様々な職場は、一見すると、救済のように見える、各種のパッケージをケアキットのように提供している。その中には、コンビニエンスストアの店長や、政府の公共事業などのように、自らにアイディアや元手がなくとも、手軽に始められる事業もある。

それをいくつもいくつも取り替えながら、自分をごまかして生きている人々は多いだろう。一つの仕事に飽きれば、次の仕事を見つければ良い。
 
だが、それは「パッケージ」であるがゆえに、そこには自由がなく、最初は入りやすく見えて、その先には、厳しく搾取される日々が待っているだけだ。一つの密室を出ても、気づくとまた別の密室に囚われている。隔離でない労働とはどこにあるのか。
 
私たちは、自分たちが喪失してしまった二つのもの――神へのまことの礼拝と、天職――この二つを再発見しなければならない時代に来ている。

この二つのものを発見するためには、やはり、広き門ではなく、狭き門をくぐるしかない、と筆者は考えている。自分の人生の決定権を安易に人に委ね、手っ取り早く、出来合いのパッケージに頼ろうとする限り、そこにあるのは、広き門――すなわち、密室へ続く道なのである。

そこで、そのように他人に頼る態度を捨てて、自分のことには、自分で責任を負い、自分で決める自由裁量の余地を取り戻し、これを増やしていくしかない。

だが、それは、今まで松葉杖をついて歩いていた人が、杖を捨てて、真直ぐ歩けるようになるためのリハビリの過程にも似て、一足飛びに達成できるものではない。内なる自分自身を、何者にも頼らずに、強めて行く過程が必要である。

その一歩一歩の先に、密室とは無縁の、真に自由で、心から健康で、自立していると言える生活が待っている。松葉杖に頼ろうとしている限り、自由な空間には出て行けない。

私たちの自由と豊かさは、いかに目に見えるものに依存せず、目に見える誰かに依存せず、見えない神だけに頼り、自分の裁量と自分の責任で、自分の人生を決めたか、その度合いに応じて決まる。

誰かに頼って、自分の人生を何とかしてもらおうと願っている限り、金銭的搾取だけでなく、霊的中間搾取からも、逃れられない。
 
信じる者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が宿っている。それゆえ、コロナであろうと、他のどんな脅威であろうと、信者は、信仰だけによって、すべての脅威に立ち向かい、勝利をおさめる秘訣を得ている。

その本当の命の力に頼って生きねばならないのである。だが、信者の内なる人は、まだ弱く、未熟であるがゆえに、その信じる力を、十分に養い、行使するための秘訣を十分には知らない。そこで、彼は自分に与えられた命の力を引き出すことを、まずは学ばなければならないのである。


虐げる者から遠く離れよ、破壊する者から遠く離れよ。――コロナ後を生き延びられる価値を思う――

・コロナ後の世界は「ぼっち」が強みを発揮できる世界

コロナのせいで食べ物屋が軒並み休業し、閉店時間が早まる中でも、筆者はできるだけ、これまで通りの生活を維持することを目指して、夜も開店を続けるユニークな店を探した。

真っ暗となった車道を走ると、道路外にほんのり灯りをともしているだけの小さなお店も目立つ。大型商業施設や、大手チェーン店が閉まっていなかったならば、発見もしなかったであろうお店をいくつか見つけた。

外観はみすぼらしくとも、味もボリュームもも程よく、深夜に、いかつい兄さんたちと並んで、真剣な表情でカウンターについても、珍しがられることはない。家族連れに遠慮する必要もなく、意外な居心地の良さがあった。混雑などするはずもない小さな店舗内に、3密を避けるため、ご協力下さいなどと、手書きの貼り紙があるのも面白い。

そんな風に、お上の自粛要請の中でも、コロナをものともせず、それまで通りの営業を続けているお店を探すと、それはすべて大手ではない、細々とやっている個人経営のようなお店ばかりだった。
 
そこに駆け込んで来る人たちの顔ぶれも、トラックの運ちゃんや、バイトの学生など、大企業でテレワークを命じられて自宅に閉じこもってなどいられない、切迫した環境にある人たちばかりだった。

営業自粛しないことを非難する人がいるかも知れないが、スーパーで買いだめもできず、家にストックをおく場所もなく、家に閉じこもっていることが土台、無理な人たちが、今日を生きるためだけに、そのお店に来ていることを、責めるのは酷であろう。

そうして、暗黙のうちに、地域の助け合いが成立している。お店の人も、むしろ、こんな時だからこそ、元気で明るい。店に来るお客を励まそうと努力し、どんな事情があるのかなど一切構わない。
 
このように、コロナ禍に立ち向かい、自分らしい生活を送り、これを維持する秘訣を、筆者は探した。そうこうしているうちに、政府や、大企業や、大手チェーン店やら、巨大な権力とネームバリューのある組織の意外なほどの脆さと、ネームバリューも権力もない地域密着型の草の根的な商売の強さを知った。
 
テレワークが可能でも、ほとんどの企業は、それだけでは収益を保てない。政府の言うことだけに黙って従っていれば、倒産を避けられない会社も多いはずだ。また、給与が100%補償されたとしても、自宅にこもり続けるサラリーマンは徐々に疲弊して行く。

コロナ禍を生き延びるためには、知恵がいる。そして、コロナを生き延びる知恵は、コロナ禍の中でも、必要なものを、必要としている人々のもとに確実に届ける名もないビジネスの中に見いだされるような気がした。

コロナは、これまでの私たちのワークスタイル、ライフスタイルを津波のごとく押し流し、大きく変えてしまった。今までは、人と群れ、大規模な集団をなし、同じリーダーのもとで、皆と同じ仕事をやり続けることが、安心、安全の秘訣であるかのように思われて来た。

何を評価するにも、とにかく人数、規模、知名度などがまず真っ先にものを言い、一極集中の波に乗ることが、成功の手段であるかのようにみなされた。その一方で、人と群れず、集団を築くことに価値を置かず、皆と同じように振る舞わず、自分で考えて一人で行動する人は、「ぼっち」などと呼ばれ、蔑まれ、のけ者にされ、憂き目を見させられてきた。

だが、コロナが、人々が一ヶ所に集まる行為自体を、危険に変えてしまった後では、価値観が逆転してしまったのである。

コロナは、どこへ行っても、大勢で幅をきかせ、他人を押しのけながら、無遠慮に会話し、我勝ちに幸福を享受していた家族連れのような集団に、大変、迷惑で自己中心な人々というレッテルを貼った。彼らは、今も大人数で行楽地に駆けつけては非難の的となり、大家族で家に閉じ込もり、不自由で窮屈な思いをせよと命じられている。

TVで露出の多かったタレントやアナウンサーにも、コロナは容赦なく襲いかかり、そこでは、知名度も何の助けにもならなかった。

プロテスタントの教会の礼拝も中止され、インターネットに切り替えられた。他国の新興宗教の信者が、危険を冒して礼拝を行ったために、感染を広げたことも、非難の的になった。これまでには、「日曜礼拝を守ることこそ、信者の第一義務!」などと言って、自分を犠牲にし、他の用事もすべて脇に置いて、何が何でも教会に駆けつけていたような信者は、恥を見ただろう。

こうして、大勢の人々が同じ時間帯に、同じ場所に集まり、同じ価値観を共有し、同じリーダーのもと、同じ作業にいそしむことで、集まった人々が特別な恩恵を享受して、そこにいない人々に比べ、有利になれるという幻想は、脆く崩れ去ったのである。
 
かえって、個人として単独で行動している人の方が、比較的安全に、はるかに自由に身動できることが分かってきた。

そのことは、決して感染のリスクの低減だけにとどまらず、あらゆることに当てはまる。コロナは、私たちの生活を塗り替え、昨日まで安定、繁栄の印のように思われていた価値観に、とどめを刺したのである。
 
コロナが明らかにしたのは、自分の頭で考えず、誰か偉い人の命令に従っているだけでは、この先、自分らしく生きることも、望んでいる幸福を手にすることもできず、豊かになることもできない、という結論であった。

そのことは、公共事業や、企業のネームバリューや、過去の成功や威信だけにすがったビジネスモデルが、この先、立ち行かなくなることをも、示しているのではないかと筆者は思う。
 
何もかもがお仕着せの、できあがったビジネスは、規模も大きく、安定しているように見えるかも知れない。だが、それは携わる人に、自分で自由に物事を決める裁量の余地を与えないため、やりがいがないし、発展性もない。

やりがいのない仕事には、やる気のない人たちしか集まって来ないので、必然的に仕事はマンネリ化し、人間関係も腐敗し、成果も出なくなる。自分では何も考えず、給料さえもらえていればそれで良いと、現状維持だけをすべてとし、面倒なことはすべて隣の他人に押しつけて、仕事をサボることこそ美徳と考えるような社員が集まる職場が出て来るのもそのためである。

そのようなビジネスでは、放っておいても、人間関係が極度に悪化して、組織が内側から瓦解して行くから、先がない。
  
そのように、自分では何も考えず、知名度や権力の大きさにすがり、ただ他人の命令に唯々諾々と従うことを是としてきた人々が、今、赤信号で立ち止まるよう命じられ、どこにも行き場がなくなっているのが現在ではないだろうか。

人はもともと、自分の自由裁量の余地がたくさんあって、これから自分が何をするのか、何のためにその仕事をしているのか、誰に教えられずとも、確かに実感できる仕事でなくては、やりがいを感じることができない。

誰に命じられるのでもなく、自分で物事を考えて決める自由を持つことが、人間の生きる力を引き出す最高の秘訣であると、筆者は確信している。
  
しかも、ただ自分のやりたいことだけをやって、自分だけが成功するために生きるのでは、本当のやりがいを見いだせない。自分だけではなく、他者の必要をも満たし、他者の幸福を助けることを目的にしなければ、長期的に成功するビジネスを行うことはできないと、筆者は考えている。
 
今、明らかになっているのは、自分の頭で何をなすべきかを考え、自分で決定することをせず、他人の指示に従って生きて来た人たちが、あたかも成功しているように見えながら、実は最も高いリスクにさらされていることではないだろうか。

信号機の色が青色であるうちは、彼らは意気揚々と進んで行けるが、赤になると、たちまち、どう生きれば良いかも、分からなくなって立ち止まり、閉じ込められた家の中で、家族の間で不毛な喧嘩が始まり、暴力を振るったり、離婚に至ったりする。

もともとしっかりした信頼関係が構築されておらず、都合の良いときの連帯があるだけだったからこそ、狭い家の中で、四六時中、ずっと一緒にいなければならなくなると、早速、人間関係の脆さが露呈するのであろう。ここでも、コロナは、家族という美名の下に、最初からあった人間関係の脆弱性を明らかにしただけである。
 
筆者は、この先、真に伸びしろがあって、人々に必要とされる事業に携わって生きたいと願うため、コロナを耐え抜き、コロナ後も生き延びるビジネスモデルとは何かを考えている。
 
コロナ後に到来する新たな価値観、これを見極めた者が、これからのビジネスにおいて勝利するのだろう。だが、そこには、決して一足飛びに派手な成果をもたらすような法則はなく、キーワードは地道な「草の根」ではないかと筆者は思っている。

昔々、「コンクリートから人へ」などというスローガンが、時の政権によって討ち出されたことがあった。それにもどこか似ているかも知れない。一極集中から地方への拡散、集団中心から個人中心の生活。家でも、職場でも、ひたすらストレスのたまる「3密」ではなく、個が中心となる新たなライフスタイルへの変化が求められているのではないか。

つまり、これまで集団によって隅に追いやられ、発言もできず、存在すらも忘れられてきた「ぼっち」にとっては、最高に強みを発揮できる時代がやって来たということである。


・自分の頭で考え、自分で決めて行動した者が勝つ

筆者の父が、筆者に早く独立するように言い聞かせていたことがあった。何年も前、筆者が様々な職場で見て来た理不尽な光景について、こんな有様は耐えられない、筆者ならばこうするのにと、改善策を語っていた時のことである。

「あなたのアイディアは面白く、経営者から見れば、利用価値があると思われるだろう。そういう観点から、あなたに目をつける人もいるかも知れない。でも、他人にアイディアを利用されるよりは、自分自身で試した方が良い。人生の残り時間は少ない。自分のしたいことを始めるのは、早ければ早いほど良い。」

と父は言った。それから何年過ぎたか分からないが、それと全く同じことを、別な人からも言われた。あなたはここにいても、自分を発揮できないだろうから、早く新しいことをした方が良いと。

だが、例によって筆者は悠長に構え、計画も熟さなかったため、そこにとどまり、以前と同じ問題に突き当たった。筆者は本当に追い詰められて、行き場がなくなり、何が何でも新しいことをせねばならないというエネルギーが極端なまでに高まるまでは、行動に至らないタイプだからである。

そんな筆者にも、ついにそのストレスが頂点に達するような時がやって来た。筆者の生長のスピードと、組織の生長のスピードが合わない。もっと多くの自由を望んでいるのに、変化を拒む硬直した入れ物に閉じ込められる。

大きく成長した魚が、狭い水槽の中に閉じ込められていれば、やがてつらくて仕方がなくなるのは当然である。それでも水槽は、自分たちのサイズは変更できないのだから、自分たちが正しいと言い張る。他方、水槽におさまりきらなくなった魚は、そんなはずはない、悪いのは、自分の成長を阻む水槽の側だと言う。

独立は、そういうせめぎあいが起きた時に、解決のために有効な選択肢の一つである。

とはいえ、筆者はこれまで自由を求めて独立した人の中に、模範となる人を見たことがないため、独立した時の展望を未だはっきりと思い描くことができないし、ただちに明日、独立することが正解だなどと言うつもりもない。

独立した者たちは、一概に、そこに高みがあり、自由があるかのように筆者に言った。だが、筆者の目には、そうは見えなかったのである。

筆者が見て来た経営者らは、筆者の生き方に自由がないと、筆者を気の毒に思っていたようであるが、筆者の目には、実は非常に狭い水槽に閉じ込められているのは、高みにいて、自由に見える彼らの方であるように見えた。

彼らは筆者から見て、極めて孤独であって、助けのない状態に置かれているように見えた。大勢の人々に囲まれているようでありながら、内心ではずっと一人のままなので、変化する機会を奪われている。また、他人を使役するだけでなく、搾取する側に立つことは、それだけで、呪われた所業であるように、筆者には感じられた。

なるほど自分のアイディアを他人に妨げられたり、かすめとられず、存分に生かせる自由があるのは良い。しかし、そこに「女房役」として、共に苦楽を分かち合い、絶えずうるさく口を出し、叱咤激励し、成功を喜び合い、あるいは誉めてくれる誰かがいなければ、その道はあまりにも孤独すぎるのではないだろうか。

自己満足のためだけに、事業を展開できるという人もあるかも知れないが、筆者にはそうは思えなかった。筆者の仕事の成果を、評価し、共に喜んでくれる誰かがいなければ、自分のためだけに、途轍もない苦労を背負って事業を続けられるとは、筆者には思えなかった。

しかも、その「女房役」は、虐げる相手ではなく、対等でなくてはならない。そのような理解者、助け手、共感者がおらず、ただ自分の目標を達成したいためだけに、事業を起こすことは、あまりに孤独で、独りよがりな道で、ほとんど不幸と言っても良い結果に行き着くしかないと思われてならなかった。

だから、自己満足だけを目的に事業を起こすことは意味がない、と筆者は考えている。誰のために、誰を喜ばせるために、新しい事業を始めるのか、そこが肝心なのである。

自分が金儲けしたいからビジネスを興すとか、有名になりたいからそうすると率直に表明し、自己満足だけを目的に、事業を始めた人を非難するつもりはない。筆者自身はそういう生き方はできないが、彼らは嘘をついているわけではない点で、非難されるべきではない。

だが、世の中には、しょせん自分の利益や、自己満足の追求に過ぎない事柄を、他者の利益の追求であるかのように見せかけ、さらには、社会貢献や、人助けを目的とするものであるかのように、美辞麗句を弄する者もいる。そのようなスローガンを掲げることは、非常に罪深い所業であると感じられたので、筆者はしたくなかった。

だから、筆者は、一体、自分はどのような「事業」に携われば、真の満足や達成を得られるのかを考えた。それは決して自分の願望の実現のためだけであってはならず、他人を使役・搾取するものであってもならず、他者に君臨して支配するものであってもいけない。むしろ、ジョージ・ミュラーが信仰により大勢の孤児を養ったように、他者に豊かに与えることが目的でなくてはならない。

さらに、その事業は、自分がこれだけのことをやったと人前に誇るためでなく、右の手がしていることを、左の手に知られないように、こっそりと人を豊かにしていくものでなくてはならない。

筆者は今までそのような事業とは何かを考え続け、未だそのモデルとなるものを発見していないが、それでも、心の内側には、自分の人生は自分で決定したいという強い願いがある。

そのため、いつも「水槽」は、筆者の成長を押し留めることができなくなり、せめぎあいの果てに、亀裂が入り、壁は崩れ落ち、ついに崩壊して、筆者を吐き出さずにはいられなくなった。そして、筆者は釈放された囚人のように、外へ出て行くのが常であった。

魚は、水槽の外に出ては生きられない、と、読者は言うかも知れない。しかし、実は水槽の外にも、海は広がっている。そこで、一つの水槽から出たからと言って、筆者の生存圏が失われ、そこで人生が終わりになるようなことは決してなかった。

そんなわけで、筆者はより広い、妨げられることなく活動できるフィールドを求め、いつかたどり着く自分の事業とは何かを考え続けている。何もかもが、最初から誰か偉い人の裁量によって決められているパッケージ、自分の裁量で物事を決める余地の全くない「水槽」の中で、思考停止状態に陥り、意欲をなくし、自分を閉じ込めた壁を憎みながら、生きて行くことはできない。

筆者は、外見的には、まだ小魚のようであるが、完全に成長を遂げたときのサイズは、とても大きく、強いので、筆者を閉じ込めようとすれば、どんな水槽であっても、結局は崩壊を免れられなくなることを分かっている。

そんな不幸な「事故」が起きるよりも前に、筆者の方からジャンプして、壁を飛び越え、水槽の外へ出るのが最善である。


・後のものが先になり、先のものが後になる時代

今回の記事は、まるで自己啓発本のようなタイトルと内容になったものの、最後に、当ブログの目的である聖書の御言葉に戻っておきたい。

この世において、器用に行動できる人々は、早々と成功を手にして、己の幸福を掴み、不器用な人たちに対して、勝ち誇っているように見えるかも知れない。

弱い人々は隅に追いやられ、声をあげることもできず、望みさえも奪われて、いつまでもずっとそんな苦しい状態が続くように感じられるかもしれない。
 
何事においてもそうだが、全ての物事をじっくりと深く考え、真相を見極めてからでなくては行動できない人々は、なかなか一歩を踏み出せないために、足踏みしながら大勢の人たちに取り残され、器用な人々に比べ、人生を周回遅れで歩いているように感じられるかも知れない。

そういう人には、以下、記事末尾に引用する御言葉を読むことを勧める。

聖書は言う、ノアの時代も、ロトの時代も、人々は飲み、食い、売り、買い、植えたり、建てたり、娶ったり、嫁いだりしながら、めいめい幸福を享受していたと。それだけでなく、彼らはそういう生活が、今日も明日も永遠に続くと思い込んで、自分たちの幸福は揺るがないと、豪語していたのである。ところが、ある日、洪水や、火と硫黄が襲って来て、その生活は一瞬で奪い去られた。

今日も同じである。今まで、飲み、食い、売り、買い、植え、建て、娶ったり、嫁いだりすることこそ、人の生活の中心、幸福の秘訣のごとく考えられて来たが、そう豪語していた人々が、突如、そういう活動の一切を、停止させられたのである。

それを見て気づくべきである。これまで繁栄の秘訣だと思われていた行動が、かえって害と見なされるようになったのは、それがもともと堅固な土台に根差していなかったからだと。早々と幸福を享受しているように見えた人たちも、永続的な土台の上に、自分の人生を打ち立てていなかったのだと。

それが真の価値ではなかったためにこそ、そうした行動は、脆さを露呈しているのであり、それを見て、今まで安楽な生活から切り離されて、除外されていた人々は、考え直すべきだと。

すなわち、真に揺るぎない幸福を掴みたければ、必要なのは、人よりも早く行動して、手っ取り早く成果を手に入れようとすることではなく、真に揺るぎない確かな価値の上に、自分の人生の土台を築くことである。

そうすれば、最初は成長が遅いように見えても、時が経てば、人に比べてはるかに多くの成果を残すことができる。

聖書は、揺るぎない価値は、ただ一人のお方、つまり、まことの神にしかないと示している。多くの人々が価値を置いて、先を争って求めている目に見えるものは、すべて永遠でなく、神に創造された被造物、物質世界の消え行く産物でしかない。

飲み、食い、売り、買い、娶ったり、嫁いだりするという刹那の行動に価値があるわけではなく、永遠に変わることのないお方に価値を置いて、その方に従い、その方に栄光を帰して生活を送るからこそ、人の生活のすべての行動に価値が出て来るのである。

己の幸福、己の満足だけを第一に求めて生きても、その人生には残るものはない。

だから、永続する幸せを手に入れたいと願うならば、まず神の国と神の義を第一として生きることである。そうしていれば、その他のすべてのものは、気づくと、添えて与えられる。

まことの神が、信仰によって生きる義人を、信仰のない人々よりも、貶められた立場に捨て置かれることは決してない。神はご自分の羊を、すべての危機から救い出し、自由と解放に導かれる。

どのような武器も、その人を攻撃するには役に立たず、どんな裁きも、その人を罪に定めることができないように守ると言われる。

その一方で、まことの神に従わないすべての人々は、どれほど富んでいるように見えても、最後には、罪に定められ、恥を被ることになる。

だから、コロナを機に言えることは、これまで述べて来たことと同じである。私たちは、まことの神に従うために、多くの人々に理解されずとも、狭き門を行くべきである。

まことの神などどうでも良いと考え、大勢の人々と共に生きるために広き門をくぐてはならない。正しい選択をなすべきである。

喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
 歓声をあげ、喜び歌え
 産みの苦しみをしたことのない女よ。
 夫に捨てられた女の子供らは
 夫ある女の子供らよりも数多くなると
 主は言われる。

 あなたの天幕に場所を広く取り
  あなたの住まいの幕を広げ
 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。

 あなたは右に左に増え広がり
  あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ
 荒れ果てた町々には再び人が住む。

 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。
 うろたえるな、もはや辱められることはないから。
 若いときの恥を忘れよ。
 やもめのときの屈辱を再び思い出すな。

 あなたの造り主があなたの夫となられる。
 その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
  全地の神と呼ばれる方。

 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように
 主はあなたを呼ばれる。
 若いときの妻を見放せようかと
  あなたの神は言われる。

 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。

 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
  とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
  あなたを贖う主は言われる。

 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
  あのとき誓い
 今またわたしは誓う
 再びあなたを怒り、責めることはない、と。

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
  わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
  あなたを憐れむ主は言われる。

 苦しめられ、嵐にもてあそばれ
 慰める者もない都よ
 見よ、わたしはアンチモンを使って
  あなたの石を積む。サファイアであなたの基を固め

 赤めのうであなたの塔を
  エメラルドであなたの門を飾り
 地境に沿って美しい石を連ねる。

 あなたの子らは皆、主について教えを受け
  あなたの子らには平和が豊かにある。
 あなたは恵みの業によって堅く立てられる。

 虐げる者から遠く離れよ
  もはや恐れることはない。
 破壊する者から遠く離れよ
  もはやそれがあなたに近づくことはない。

 見よ、攻め寄せる者があっても
  わたしによらずには何もなしえない。
 攻め寄せる者はあなたの前に倒れる。

 見よ、わたしは職人を創造した。
 彼は炭火をおこし、仕事のために道具を作る。
 わたしは破壊する者も創造してそれを破壊させる。

 どのような武器があなたに対して作られても
 何一つ役に立つことはない。
 裁きの座であなたに対立するすべての舌を
  あなたは罪に定めることができる。
 これが主の僕らの嗣業
 わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。
(イザヤ第54章)


火事場泥棒と国家的詐欺――減収世帯への現金給付30万円支給をドタキャンして国民一律10万円支給にすり替えるという詐欺――

~政府主導の詐欺!? 減収世帯への現金30万円支給案が、救済を必要としていない人々のために流用されて消える?~

1.今年4月に安倍首相自らが打ち出した「減収世帯への現金30万円の給付」案

2.補正予算案が通される直前に、公明党の山口氏の「鶴の一声」で、支給対象がすり替えられ、減収世帯が見捨てられるという暴挙

3.火事場泥棒に、国家主導の詐欺!? 貧しい人々が見捨てられ、助けを必要としていない人に利益が分配され、予算の目的が、途中ですり替えられることの恐ろしさ

4.いきなり梯子を外された国民と総務省

5.火事場泥棒、国家的詐欺を許してはならない



長らく政府批判の記事を書いていなかった当ブログだが、さすがにこれはまずいだろうと憤慨し、我が国の亡国を思う出来事に遭遇したので、書いておきたい。
 
コロナ禍を巡って、あまりにもひどい政策の二転三転が続いているのだ。

今、貧しいマイノリティの国民が、貧しくもなければ、助けを必要ともしていない、マジョリティの利益のために、犠牲にされようとしている。国民への一律10万円給付という美しい名目の下、減収世帯への30万円給付が消し去られようとしているのだ。しかも、補正予算案の成立の直前になって、一人の政治家の執拗な要求により――。こんな前代未聞の暴挙を糾弾しないことがどうしてできようか。

政府による現金給付案の恐ろしい方向転換である。




1.今年4月に安倍首相自らが打ち出した「減収世帯への現金30万円の給付」案

安倍首相は今年4月3日にコロナウィルスのために、所得減となった世帯に対し、現金30万円を支給するとの発表を行った。誰が要求したわけでもなく、首相自らがこれを打ち出したのだ。

このニュースを聞いたとき、筆者はおや、と思った。安倍には珍しい大盤振る舞いだなと感じたからだ。当初から、世間では、国民一律に10万円を支給するべきなどの案が飛び交っていたが、30万円と大風呂敷が広げられたのは、コロナ禍が支持率低下につながることを恐れた政治的な受け狙いもあったに違いないが、それにしても、随分、強気に出たものだと感じた。

このニュースは各種の報道機関をその日中に駆け巡った。

JIJI.COM から引用しておこう。
 

現金給付、1世帯30万円 自己申告制―自治体に1兆円交付・新型コロナで経済対策

麻生財務相との面会後、記者団の質問に答える自民党の岸田文雄政調会長(左から2人目)=3日午後、財務省

麻生財務相との面会後、記者団の質問に答える自民党の岸田文雄政調会長(左から2人目)=3日午後、財務省

 政府・与党は3日、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急経済対策の柱となる現金給付について、所得の減少を条件に1世帯当たり30万円を支給することを決めた。対象者が市区町村の窓口などに申請する自己申告制とし、申請時に所得が減少したことを示す資料の提出を求める。支給金は非課税とする。また、全国の地方自治体に計1兆円を配る臨時交付金の創設も対策に盛り込む。

現金給付、具体性欠く 安倍首相に気兼ねか、金額・対象「政府一任」―自民提言


 政府は、7日にも緊急経済対策を決定する。対策全体の事業規模に関しては今週末にかけ調整が進められる見通しだ。
 自民党の岸田文雄政調会長は3日、安倍晋三首相、麻生太郎財務相と相次ぎ会談。岸田氏は首相との会談後、現金給付について記者団に「一定の水準まで所得が減少した世帯」が対象になると明らかにした。政府は今後、所得減少の程度や所得上限など対象世帯の線引きを含めた制度の詳細決定を急ぐ。

 自己申告制とする理由について、政府関係者は「一人ひとりの所得を把握するのは難しい」と説明。政府は特例を設け、支給金を非課税とする予定だ。リーマン・ショック後の2009年、「定額給付金」として国民に1人当たり1万2000円(若年者と高齢者は2万円)を配布した際にも同様の措置を講じた。

 現金給付をめぐっては当初、全国民に一律支給する案が浮上。政府・与党は所得減世帯に20万円を支給する方向で検討したが、国民生活への影響を懸念する安倍、岸田両氏の政治判断で最終的に金額を上積みすることで決着した。菅義偉官房長官は3日の記者会見で「生活に困難を来す恐れのある家庭を対象にし、生計維持に必要な給付水準を検討した」と述べた。

 岸田氏は麻生氏との会談で、自民党の提言を踏まえ、都道府県と市町村への臨時交付金の創設を要請した。岸田氏は会談後、「1兆円で調整するという答えを頂いた」と語った。両氏は交付金の使途について自治体の判断に委ね、限定しないことを確認した。


Bloombergでは、現金30万円給付は、臨時交付金1兆円を財源として支出するとある。
 

減収世帯に30万円給付を首相了承、臨時交付金1兆円で調整-岸田氏

占部絵美、野原良明、竹生悠子

2020年4月3日 16:18 JST  更新日時  2020年4月3日 18:24 JST

自民党の岸田文雄政調会長は3日、来週発表予定の新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急経済対策で、所得が減少した世帯への現金給付を1世帯30万円にすることを安倍晋三首相に提案し、了承を得たと明らかにした。安倍首相、麻生太郎副総理兼財務相と相次ぎ会談後、記者団に語った。

  岸田氏は現金給付について、「先ほど総理との間で1世帯30万円を強く申し入れ、最終的に総理からご了解いただいた」と語った。給付額は1世帯当たり平均2.27人を「念頭に置いた」とし、支給対象や支給総額については、「週末にかけて引き続き調整する」と説明した。 


  地方から強い要望が寄せられている臨時交付金を巡っては、麻生財務相との間で議論となったと説明。「対策を進めていく上で、地方にもしっかり協力してもらうことが大変重要」と、麻生氏に政治決断を強く求めた結果、1兆円で調整することで了解を得たという。交付金の使途については、リーマンショック時と同様、地方がそれぞれ判断できると述べた。

   全国知事会、全国市長会、全国町村会の3団体は、新型コロナウイルスへの対応を国と連携・協力すべく、自由度が高く、地方負担を軽減するため、柔軟な交付金制度を創設することを要望。特に全国知事会は、緊急経済対策のうち地方税減免など地方が負担する部分の財源について、交付金での全額補てんを求めていた。

 臨時の税制改正案承認

  一方、自民党税制調査会は3日に開いた総会で、緊急経済対策案に金融財政・税制政策として盛り込む臨時の税制改正案を承認した。甘利明会長が総会後、記者団に明らかにした。

   甘利会長は今後の経済対策の財源は増税で確保することはあり得ないと指摘、与野党から要望の上がっていた消費税減税については「軽々にいじるつもりはない」と述べた上で、経済対策の財源として「赤字国債発行し、財政再建の一時据え置きはやむを得ない」との見解を示した。

  また、会合では納税猶予拡大の案も出たとした上で、固定資産税を浸食するには大義が必要だとの消極的姿勢を示した。

 (第5段落以降に自民税調の税制改正案追加し、更新しました)


4月4日の中日新聞の記事では、政府は当初、世帯当たり20万円の支給を検討していたが、これを30万円に引き上げたとある。

当然ながら、この現金給付の対象とならない人々からは、この策には当初から根強い批判があった。一律給付にせよとの声も高かった。

だが、それでも、政府は、リーマンショック時を振り返り、困窮しておらず、支援を必要ともしていない国民にまで、一律に現金を配ることは、得策でなく、効果が薄いとの考えに立って、あくまで減収世帯への現金給付案を推し進めたのである。

支給対象となる枠組みも徐々に具体化され、申請方法や、いつ実現するのかも見通しが立った。
 

現金給付、減収世帯に現金30万円で政府合意 1000万世帯、5月にも

 写真安倍晋三首相と自民党の岸田文雄政調会長は三日、官邸で会談し、新型コロナウイルス感染拡大で収入が落ち込んだ世帯への現金給付について、支給額を一世帯三十万円とする方針で合意した。政府は一世帯二十万円とする方針だったが、思い切った支援が必要との首相判断で急きょ上積みが決まった。年収による所得制限は設けないが、減った後の月収が一定水準を上回る世帯は除外する方向で検討している。全五千八百万世帯のうち約一千万世帯が対象となる見通しだ。

 政府、与党は三日、コロナ対応で地方自治体がさまざまな用途に使える一兆円規模の臨時交付金を創設する方針も決めた。旅行代金の半額補助などに一兆円超を充てる観光支援策も固めた。

 これらの措置を七日にもまとめる経済対策に盛り込み、二〇二〇年度補正予算案を編成する。月内に成立させる方針で、現金給付は五月中の開始を目指す。

 菅義偉官房長官は三日午後の記者会見で、三十万円としたことを「生活に困難を来す恐れのある家庭を対象に、生計維持のための給付水準を検討した」と説明した。ただ一人暮らしと子だくさんの世帯が同額になることなどへの明確な説明はなく、今後議論を呼びそうだ。

 岸田氏は首相との会談後、記者団に対して「一定の水準まで所得が減少した世帯に、一世帯三十万円支給するべきであると申し上げた。総理と認識が一致した」と説明した。

 現金給付による収入は非課税とする。給付の条件とする減収幅など詰めの調整を急ぐ。給付を受けるには市区町村に申請する必要があり、所得が減ったことを示す書類の提示が条件となる。

 世界的な金融危機のリーマン・ショック後には、全国民に一人当たり一万二千円の「定額給付金」を配布した。一律給付は支援の必要がない裕福な人にもお金が配られ、多くが貯金に回るなど効果が限定的だったとの指摘があり、対象を絞ることとした。


なぜ世帯主の収入だけを基準とするのかという批判も存在したが、麻生太郎氏は、今月半ばにも、スピード感を持って給付に及ぶためには、この案が最適であるとの考えを示していた。

TBSニュース

─15日0時21分─0分58秒

麻生大臣、個別の現金給付は「スピード間に合わない」」


 新型コロナウイルスの感染拡大の影響で収入が減った世帯への30万円の現金給付をめぐって、麻生財務大臣は世帯主以外の収入が減少した世帯にも給付できるよう給付対象を広げることについて、慎重な考えを示しました。

 政府は経済対策の柱となっている30万円の現金給付をめぐって、世帯主以外の収入が減少した世帯にも給付できるよう対象を広げる検討を進めていますが、これについて麻生財務大臣は次のように述べました。

  「スピードを大事にされるんだったら、世帯主をやらないと、奥さんの稼ぎの方が旦那の稼ぎより大きいという家もあるんじゃないの。個別にやり始めたらスピードは間に合いませんよ」(麻生太郎財務相)

  麻生大臣は、「自治体が個別に調べないといけないので、手間がかかる」として、給付対象の拡大には慎重な考えを示しました。そのうえで、「色々な要素を入れて制度を作り上げるには、ものすごく時間がかかる」と制度設計の難しさを強調しました。




2.補正予算案が通される直前になって、公明党の山口氏の「鶴の一声」で、支給対象がすり替えられ、減収世帯が見捨てられるという暴挙

ところが、まさに補正予算が通される直前の土壇場になって、公明党の山口なつお代表が安倍首相に強く働きかけて、国民一人当たり一律10万円を支給させる代わりに、減収世帯への30万円給付案を撤回させようと説得したというのだ。

4月15日の夜から4月16日にかけて、公明党の山口代表は、安倍首相に対し、繰り返し、減収世帯に対する現金30万円の給付をやめるよう強く反対の意向を示し、国民一律に10万円を給付するよう働きかけた。

TBSニュース「「現金10万円」支給 結論先送り、自公 異例の長時間協議

 新型コロナウイルス対策として国民1人当たりに「現金10万円」を支給する案をめぐり、自民・公明の幹部が異例の長時間協議を行いましたが、結論は先送りとなりました。

 自民・公明の幹事長らは感染拡大を受けた対策として、断続的に4時間にわたり、国民1人当たりに10万円を支給する案をめぐり協議しました。

 これに先立ち、公明党の山口代表は15日、安倍総理と会談。公明党によると、山口氏は、すでに政府がとりまとめた、収入が半減した世帯などに現金30万円を支給する対策ではなく、一律、現金10万円を国民に支給するよう求め、今月下旬にも成立する見通しの補正予算案の組み替えも要請していたということです。

 ただ、15日の協議で自民党側は予算案の組み替えには応じず、現金の一律給付についての結論は先送りとなっています。


 
4月16日の午前中まで、山口氏による安倍首相への強い説得は続いた。もしも山口氏の提案が、減収世帯への現金30万円給付に加えて、国民一律10万円給付をせよというものであったなら、何ら問題はなかったであろう。

だが、山口氏の主張の最悪な点は、すでに補正予算案が組まれている減収世帯への現金30万円の給付を撤回する代わりに、その予算を国民への一律10万円の支給い回せという滅茶苦茶な提案だった点だ。

政府は当初、これに抵抗を見せており、減収世帯への30万円給付案の補正予算を通した後で、改めて国民一律10万円給付案を検討する予定だったが、それでは一律お給付が遅れるという山口氏の執拗な説得に押し切られた形で、4月16日の夕方には、こんな報道が並んだ。
 
 

日本経済新聞
1人あたり一律10万円支給へ 減収世帯30万円取り下げ 

政府・与党

新型コロナ 政治 2020/4/16 19:15 (2020/4/16 19:31更新)

政府・与党は16日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、国民1人あたり10万円を給付することを決めた。所得制限は設けない。緊急経済対策を盛った2020年度補正予算案を組み替える。減収世帯に30万円を支給する措置は取り下げる方向だ。27日にも国会に提出し早期成立をめざす。

公明党が一律10万円を給付する案を主張していた。安倍晋三首相は16日、電話で同党の山口那津男代表に受け入れる考えを伝えた。

これに先立ち、首相官邸で麻生太郎財務相や自民党の二階俊博幹事長、岸田文雄政調会長らと協議した。補正予算案の組み替えや国会の調整を指示した。

政府は7日に20年度補正予算案を閣議決定し、20日にも国会に提出する予定だった。予算案を国会提出前に大幅に組み替える異例の対応となる。

与党内で減収世帯に30万円を給付する案について、制度の複雑さや対象が限定され不公平だとの批判が出ていた。

政府・自民党で30万円給付策を含む補正予算案の成立後、10万円の現金給付を盛った第2次補正予算を編成する案が浮上した。2次補正の編成に時間がかかるため、公明党は一律10万円の措置に集約して財源を回すよう主張していた。

所得制限を設けずに国民全員に一律10万円を支給する場合、単純計算で12兆円超の財源が必要になる。政府は30万円の給付策で約1300万世帯を対象に約4兆円の財源を想定していた。補正予算案で16.8兆円と見込む歳出総額が膨らむ見通しだ。政府は赤字国債の発行増額で財源を賄う。


これを見て、もはやこの国は終わりだと、眩暈がする思いがしたのは、筆者だけではあるまい。前代未聞の事態である。約4兆円だったはずの財源を、いきなり12兆円に膨らませ、足りない分は、赤字国債で賄うなどというのだ。

しかも、もともと国民に一律に10万円を支給するという案は、野党の多くが声高に唱えていただけに、いきなりそのアイディアを奪われた野党の側からも、憤慨の声が噴出しており、一律給付なら、なぜ初めからそうしなかったとの批判の声が相次ぎ、補正予算案成立直前の火事場泥棒のようなこのニュースの発表を、好意的に受け止めている報道記事は、ほとんど見当たらない。



3.火事場泥棒に、国家主導の詐欺!? 貧しい人々が見捨てられ、助けを必要としていない人に利益が分配され、予算の目的が、途中ですり替えられることの恐ろしさ

国民一律10万円支給という話を聞いて、多くの国民は、自分が30万円の支給対象でなかったのに、10万円の支給対象になったから良かったとか、書類手続きが簡略化されたなどと考えて、喜んでいるかも知れない。

だが、これはそんな単純な話ではなく、非常に恐ろしい危険をはらんだ事態なのである。そのことにどれだけ多くの人々が気づいているだろうか。

まず、減収世帯への現金30万円給付という、長い時間をかけて議論されて来た話が、すべて詐欺のように、水泡のごとく消えようとしていることの恐ろしさ。

本当にこの先、30万円支給案が取り下げられるならば、これはまさに政府主導の、国家的詐欺だったと言えるであろう。

しかも、この支援を最も必要としていた減収者、貧困世帯に、自分たちは政府の施策によって助かるという、むなしい嘘の期待をもたせた上で、彼らを冷酷に突き放し、路頭に迷わせるのだから、あまりにもひどい話である。

それが現実になれば、どういう事態となるか――。30万円を受け取ることができれば、家賃を支払え、何とか生活できるはずだった世帯が、いきなり路頭に放り出され、帰省する費用もなく、帰省先もないので、年越し派遣村の何倍もの規模に達するホームレスが生まれる。やがてその一部は暴徒化したり、犯罪者となって、刑務所送りとなり、あるいは、路上生活を送るうちに、不衛生な生活から、コロナに感染し、クラスターが生まれ、爆発的に感染者が増える。

失業者の中には、国民健康保険に入る費用もないため、保険証もなく、病院にかかれない人々がいる。そのため、余計に感染が拡大する。首都圏はもはや崩壊状態である。治安は悪くなるわ、感染は拡大するわ、何も良いことはない。

だが、話はそれだけでは終わらない。予算とは、特定の目的に対してつけられるものであり、困っているAさんを救済するためにもうけられた財布(予算)が、いつの間にか、困ってもいないBさんを救済するための財布にすりかわっていたなどということは、決してあってはならない。

マイノリティを救済するためにもうけられた予算案が、いつの間にか、「マイノリティだけを救済するなんて不公平だ!」というマジョリティの批判の声に押されて、マジョリティの利益のためにかすめ取られたり、減らされたりすることは、あってはならない。

このほど、政府は減収世帯への生活支援を名目に、補正予算案を組んだ。それには約4兆円の財源がかかるという見通しで、補正予算案が提出された。これは、あくまで減収世帯の救済のためにもうけられた「財布」である。減収世帯は、マジョリティではないかも知れないが、それだからこそ、予算も約4兆円の規模になる見通しであった。これは、予算案が成立すれば、減収世帯にいきわたるはずのカネである。

ところが、いざ補正予算案が承認される直前の段階になって、どこかの特定の政党の特定の人間の強い声に押されて、支給対象が全く別のものにすり替えられたのである。

支給対象が「減収世帯」から「国民全体」に代わったから、支給対象も広がり、問題ないではないかなどと言っている場合ではない。一律支給にすれば、全く生活に困ってもおらず、コロナウィルスの被害など何ら受けていない人々にも、金が配られることになる。議員、政治家、大富豪など、10万円など支給されたところで、全くありがたみも感じないし、そんな金をそもそも必要ともしていない人々の手元に、資金が配られる代わりに、あと20万円がなければ、家賃も払えず、路頭に迷うという人々に、金が行き渡らなくなる。

さらに、支給の名目がすり替えられる。当初は、生活が困窮している人々を早急に支援するためであったはずのものが、生活が困窮していない人々も含めた単なる見舞金になる。目的、用途が全くすり替えられてしまうのだ。

保険金の支払いでも、このように名目がすり替えられることはない。傷病手当や休業補償と慰謝料は全く別物である。ところが、政府の給付金については、そうした名目が全く何一つ考慮されずに、支給目的も、支給対象も、従来とは完全に異質なものに、簡単にすり替えられようとしていることの恐ろしさ。
 
 



4.梯子を外された国民と総務省

現在、以下に画像を示す通り、総務省のホームページには、減収世帯への現金30万円支給の制度が周知され、申請方法等が、相当に詳しく解説されている。

これには生活支援給付臨時金(仮称)などという名称までつけられている。

総務省HPには、この制度への申請方法や対象者についてのQ&Aも詳しく記され、問合せが集中してつながらないとはいえ、専用のコールセンターまで開設されていた。

総務省HPには、この制度の目的として、次のように書いてある。

感染症の影響を受け収入が減少し、事態収束も見通せずに日々の生活に困窮している方々に対し、迅速に、手厚い、思い切った支援の手を差し伸べる観点から、休業等により収入が減少し、生活に困っている世帯に対して、生活維持のために臨時の支援を行う.

ここには、収入が減少してもおらず、日々の生活に困窮もしていない人々に、手厚く思い切った支援をするなどとは全く書かれていない。

減収し、生活に困窮している人々のためにもうけられるはずだった予算を、減収もしておらず、生活に困窮してもいない人々に配るために減じ、流用するというなら、それはもはや国家的詐欺と言うべきである。
 



5.火事場泥棒、国家的詐欺を許してはならない

悲しいことに、総務省HPの末尾には、「それ、給付金を装った詐欺かもしれません!」と、詐欺に注意を喚起する文面が並んでいる。

減収世帯への30万円給付案が、水泡に消えるというなら、詐欺は、総務省が、政府自らが行ったのと同じこととなる。どんなに「それは案で、決定ではなかった!」などと叫んでも、ここまでまことしやかに発表した内容を、後になって「やーめた!」「ざーんねんでした!」などと言えるはずもなく、そんな風に国民を無意味に躍らせるような発表を、政府が主導して行ったならば、もはや政府の威信は地に落ちる。

古代ローマ帝国の末期、都市に流入した無産市民たちは、権力者にパンと見世物を要求して譲らなかった。彼らは無産市民とは呼ばれているものの、奴隷ではなく、借金があるわけでもなく、暮らしていくに不自由のない人々だったのである。

今も同じ、マジョリティが声高に「パンをくれ!」と政府に要求する。本当に困っている人々は彼らではないのに、パンとサーカスを求める民衆の声に負けて、政府はメルトダウンして行く。

コロナウィルスが蔓延しているのに、経済を優先して、緊急事態宣言を遅らせ、企業を休業させねばならないのに、休業補償も出さず、通勤者の削減や、外出自粛を求める。その上、生活困窮者を見捨てて、困ってもいない人々が、パンとサーカスを楽しめるよう、現金給付を行う・・・。

この国は、デマゴギーにより、もはや亡国の淵に向かって転げ落ちている、そう感じる他ない出来事であった。

このような火事場泥棒を決して許してはならない。(以下、総務省のホームページ

 
 

 
 
 


今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のようにすべきです。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編第1編1-3)

(後日付記:この記事を発表した後、我が職場は、社員への休業補償を6割から満額に改めることを発表した。)

昨日の雨が嘘のように、夏のようによく晴れた空の下を車で走った。

いよいよコロナの波が首都圏を本格的に襲い、我が国は、ヨーロッパで起きている悲劇を対岸の火事と見ている場合ではもうなくなった。

ヨーロッパも、ほんの2~3週間前には、今の我が国のような状態だったのだ。

3.11の時が思い出される。その当時、筆者は職場で、パンク状態になった電話回線に一瞬も途切れることなくかかって来る電話への応対にかかりきりだった。個人の力では、何としてもおさめられない大パニック。人々の阿鼻叫喚の叫びの前に、我を忘れて立ち向かったが、それも大海からスプーンで水をすくって捨てるようなむなしい奮闘だった。

ライフラインが止まり、電車もバスも止まっているにも関わらず、上司は毎日のように電話をかけて来て、我々に出勤を命じた。

津波は? 放射能は? 外へ出て良いのか? 政府発表からは聞こえてこない情報に耳を澄まし、もどかしさを覚えつつ、それでも仲間と共有していた危機感から、筆者は勇気を持って職場へ駆けつけた。

だが、事態がほんの少し、回復の兆しを見せると、出勤を命じた上司たちは、ことごとく異動して早々と消え去り、クライアントの会社も、我々の努力に頭を下げることもなく、たちまちもとの傲然とした態度に戻った。

もちろん、賃金が微塵も上がることはなかった。それだけではない。事故については口外しないよう箝口令が敷かれ、非常事態に津波のように襲いかかる苦情に勇敢に立ち向かった社員たちには、より一層厳しい統制が敷かれた。褒賞が与えられるどころか、休むことさえままならなかった。

筆者は幻滅と疲労感だけを手土産に、何とか無難にその職場と別れたが、今でもその頃の光景を思い出すし、あの日、あの時、バスや電車を乗り継いで、無理に無理を重ねながら出勤したのは、正しかったのか、間違いだったのか、と問い返す。もしも津波が、原発事故の影響が、報道よりもさらに重かったなら、あの時、外へ出た我々には、命はなかったかも知れない…。

今も、当時と似たような選択を迫られている。「3密」そのものであり、すべての対策が後手後手に回り、沈みゆく泥船のように、ますます環境が悪くなって行くだけのこの職場に、今日も駆けつけるべきか、否か。

迫りくる破滅を一向に考えず、乗客同士が目先の利益を我先にと争い、互いを押しのけ合い、裏切り合っている泥船のような職場に、今、命の危険を冒してまで、駆けつけるべきなのか、否か。

そこで与えられる幻想に過ぎない利益に、しがみつくべきなのかどうか。

我が職場にいる人々は、未だに昇進、昇格、昇給などの夢に憧れ、それが到達可能であるかのように信じている。権勢を拡大し、人脈を強化し、人々と連帯し、人生を謳歌し、自分の待遇を良くするという希望によすがを見いだしている。

だが、筆者の目には、それらはすべてはかなく消えて行くだけの、幻のような夢に見える。

もはや、コロナの襲来によってそれらの希望はすべて潰えたのに、なぜそのことが分からないのだろうか。それだけでなく、目的に到達するための方法が正しくないから、彼らがそうした目的に至り着くことは絶対にないことも。

己が利潤だけを追求し、それと引き換えに誠実な人々を侮り、嘘をつき、弱者を虐げ、欺きと搾取によって得た富で、享楽をむさぼるような道徳的退廃が、どうして正しい成果をもたらすことがあろうか。

そういう光景はすべて滅びの前兆でしかない。だから、そういう光景を見たならば、そこには期待をかけず、一目散に逃げた方が良い。ところが、残念ながら、我が職場で毎日のように繰り広げられる光景とは、以下のようなものだったのである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日には、同じことが起こる。<略>ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)


そういうわけで、今年に入った頃から、筆者は、職場の人々が飲んだり食べたりしながら繰り広げる享楽的な自慢話に、強烈な違和感を覚えるようになり、それに背を向けて、心の耳を閉じて、遠ざかっていた。

一時期、筆者もそうした人々の仲間入りをしようと試みたことがあった。それは、滅多に職場に来ない上司が、筆者の目を書類から上にあげさせて、彼を見つめさせた時期である。

その上司は、かつて出会った裁判官にもどこかしら似て、善良で、心優しく、へりくだって、高貴な人のように見えた。その人は、まるで主イエスが、筆者の心に語りかけるように、へりくだって、筆者に寄り添い、彼と筆者とは同じ考えを共有していると言って、筆者を勇気づけようとした。

この世の人であったにも関わらず、まるでキリスト者のように、深い霊的な交わりが可能に思われたのである。

だが、しょせん人間は人間に過ぎず、神ではない。そして、神ではないにも関わらず、主イエスがされるように、その人が腰を低くして、筆者の心を自分に向けさせようとした理由が何であるかは、少しずつ分かった。
 
やはり、よく確かめて行くと、その人はグノーシス主義者であった。これまでにも、光の天使のように、善良そうに親切な姿で、筆者に近づいて来る人は、後になって、ことごとくグノーシス主義者であることが判明するのだったが、その人が何より大切なスローガンとして唱えていた協調性も、偽りであった。

協調性とは、グノーシス主義のシンボルである「輪(和)」を指す。それはとどのつまり、本来は二分された相容れないもの、別個のものを統合するための錬金術であり、対極にある概念の統合を指す。もっとはっきり言ってしまえば、協調性とは、盗みである。

考えてみれば分かるはずだ。ふてぶてしい悪党と、お人好しな正直者が、二人で向き合い、協調性を発揮するよう命じられたら、どうなるだろうか。悪党はふてぶてしい態度を貫き、一歩たりとも正直者には歩み寄らない。だが、お人好しな正直者は、心理的圧迫に負けて、次第に譲歩して、悪党に歩み寄らざるを得なくなるだろう。

本来、悪党と正直者の間には、何の共通点もありはしない。ところが、「協調性」なる魔法の言葉を使うと、正直者が悪党に歩み寄らなくてはならなくなってしまうのだ。

聖書には「協調性」なる概念は存在しない。あるのは、むしろ、「二分性」である。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんあ調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿ご偶像にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)
 
こうして、聖書は、絶対に交わってはいけないもの、絶対に相容れないものの間に、しっかりと線を引いて、両者を切り分ける。

ところが、グノーシス主義は、聖書の「二分性」を否定する。そして、様々な美辞麗句を弄しながら、絶対に相容れないはずのものの間に引かれた境界線を巧みにずらして行き、俗なるものを、聖なるものに見せかけ、自他の区別を排し、自分のものでないものを、自分のものと言い、他人のものを横領する。

こうして、盗みを正当化し、美化するために作り出された概念が、「和」であり、「協調性」なのである。その魔法の言葉を使えば、劣った者が、優れた者の性質をただで盗み取り、努力しない人間が、努力する人の成果を盗み取り、聖でない者が、聖なる者から、聖なる性質を盗み取れるようになる。平和の名のもとに行われる侵略、兄弟愛を唱えながらの搾取や支配なども、みなこうした考えから出て来る・・・。究極的には、それは神でない者(悪魔)が、神の性質を盗み取り、神を詐称することを正当化する思想であり、悪魔が作り出した偽りの思想、それが「和」の概念の本質である。

さらに調べてみると、その上司は、もとを辿れば、フリーメイソンにたどり着く団体に属していることが分かった。キリスト者のような深い満足をもたらす霊的交わりが可能であった理由は、そこにあると見られた。

つまり、グノーシス主義者は、ただの人ではない。彼らは、無宗教を装ってはいるが、実際には、肉なる自分自身を神とする宗教に入信し、自分を拝むための儀式に参加しているのと同じである。

彼らは、ある種の礼拝儀式を行っていればこそ、主イエス・キリストを信じて救われた信仰者とよく似て、霊的な力を持っている。だからこそ、筆者とその上司は、互いを見た瞬間に、何か双子のようによく似た者に出会ったような、懐かしさを覚えたし、その人は、筆者の持っている力に気づいたのであろう。

筆者は、その人に何かしら信仰者に似た雰囲気を感じ、その人もまた、筆者の希望が、彼の絶望を打ち負かす力があることに気づいたのだろう。そして、筆者の信仰を利用すれば、すべてを成功に導けると考えたのであろうと思う。

確かに、筆者には、自分が心を込めて面倒を見ているすべてを生かす力がある。それは筆者の力ではなく、筆者の信仰を通じて働くキリストの復活の命の力である。

筆者は、キリストの復活の命を流し出すためのパイプラインを建設中であり、その命の水を流し出せば、その圏内に入れられたものはすべて生きる。

だが、筆者は、その上司の信じている教えの偽りなることが分かってから、その教えを心の外へ追いやり、命の水を流し出すパイプラインの元栓をひねり、水の流れを止めた。

彼は筆者の心をこの世の事柄に向けさせて、それを受け入れさせようとした。目に見える人々との交流、協力、連帯を打ち立て、肉なる力によって建て上げるレンガの塔の建設に関わり、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを語り続けるむなしい会話を受け入れ、人助けに邁進するようにと…。

そうして、ヒューマニズムの名のもとに、神から与えられた筆者の持てる力を、徐々にそれに値しない者のために盗み取って行こうとしたのである。そのことに気づいてから、筆者は光の天使のようなその人の美しい像から目を背け、再び、無味乾燥な書類に目を落とした。むなしい会話に耳を塞ぎ、滅びゆく目に見えるもの全てを視界から遠ざけた。

神でないその人が、筆者が彼の像を拝まなくなったことに、腹を立てたのかどうか知らない。やがて、したたかな反撃がやって来た。筆者が人々の自慢話に耳を塞ぎ、レンガの塔を建て上げる作業から手を引こうとすると、人々の怒りが、襲いかかった。
 
そうした事態に直面して、改めて筆者は思った、やはり、労働とは人が自力で罪を贖うためのレンガの塔の建設であり、神への反逆としての自己救済なのだと。どんなことをしても、その労働を美化することはできない上に、牧師であろうと、弁護士であろうと、裁判官であろうと、どんな立派な教師であろうと、職場の上司であろうと、誰も神ではないから、信頼などできはしないと。

神でないものを神のように信頼しようとすると、したたかな報復を受けるだけなのだ。

だが、主は確かに筆者の信仰を知っておられ、筆者が窮地に立たされる前に、コロナ禍が襲って来て、筆者を圧迫していたすべての原因を取り去った。公判は止まり、上司は職場から逃げ去り、職場の人々も、筆者の前で、自慢話を繰り広げようにも、もはや会話することも、互いに近づくことさえ危険となった。

そればかりか、一般市民が、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりすることさえ、後ろめたいことのようにみなされる時代となったのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。」(1コリント7:29-30)

ある意味で、コロナがもたらしたこの市民生活の変化の中には、筆者にとって、ありがたい解放のように受け止められる側面があった。なぜなら、これまでのように、職場で終わりなく繰り広げられていた人々の享楽的な自慢話や、当たり前のように他人を押しのけて道を歩く赤ん坊連れの親子や、レストランの座席を占める大勢の家族連れなどの姿を目にしなくて済むようになったからである。

光の天使のように美しく見えた上司も、筆者がこの職場の理念の偽りに気づき、上司を信頼することをやめ、パイプラインを自ら断絶し、命の水が流れ出ないようにしたことが分かると、すべてを部下に任せて、職場から逃げ去った。

筆者の信頼が失われたことが分かるや否や、筆者を置いて逃げ去って行ったのである。そればかりか、死ねとばかりに、残る社員に出勤を命じ、休業させるにしても、路頭に迷えとばかりに、いきなり給与を減じた。

やっぱり、そうだったかと、それを見て、筆者は心の中で頷いた。すべてが順調に行っているときには、あんなにも謙遜で、親し気で、人情味に溢れていたように見えた人物であり、とてもではないが、他人に苦しみをもたらすような所業に手を染めるとは思えない人物であった。ところが、その美しい外見、善良でへりくだったように見える態度、優しい物腰と言葉、ヒューマニズムは、すべて見せかけでしかなかったのだ・・・。

これがグノーシス主義者の本質である。見かけは非常に崇高で、高潔に見えるが、内実がない。口では大言壮語し、美辞麗句を語るが、試されると、逃げることしかできない。最も危機的な時に、そばにいて助けてくれない存在に、何の価値があろうか。無責任に、部下たちを危険の中に放り捨てて行くような上司の命令にしがみついて、生き延びられるはずがない。

それは神ではなく、死神と呼ぶべき存在であり、普段から虐げと搾取を繰り返していればこそ、危機にあって、残酷な本性が現れるだけだ。

だが、このように大胆な非難の言葉を発している筆者も、まことの羊飼いは、羊のために命を捨てるという聖書のフレーズを知らなければ、危険の中に部下を置き去りにしていく上司の態度が、残酷で無責任だということにさえ、気づかなったかも知れない。

悪魔は、盗んだり、滅ぼしたり、殺したりするために来る。だが、私たちのまことの羊飼いである主人は、私たちに命を与え、しかも、豊かに与えるために来られる。

私たちキリスト者は、自分を生かすことのできる本当の主人を知っている。だからこそ、何が偽りであるかを見分けることができるのだ。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

わたしは負い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は、羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられr、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:9-15)

そこで、筆者は、この火急の時に、この世の富にしがみつき、それによって焼け太りする人々がいても、むなしい利益はもう見たくないと、そこから目を背ける。沈みゆく泥船に背を向け、死出の旅路に他ならない片道切符を払い戻し、ソドムを後にしようと決意した。

幸いなるかな、神に逆らう者たちのはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者と共に座らなかったその人。主はその人を緑の牧場に伏させ、豊かな牧草を与え、決して乏しくなることがないよう、取り計らって下さる・・・。
 
だから、誠実な人間を騙し、嘲り、不法と、虐げを重ねて、富を積み上げる罪人の集会にはもう属すまい。

このような言葉で、自分のいた職場を形容せざるを得ないとは、情けないことではあるが、気づくと、そこはすっかり沈みゆく泥船としか言いようのない状態に陥っていたのである。

コロナ禍の襲来がなければ、そのことに今も気づかなったかも知れない。この災いが、物事の真相がよりはっきりと見えるよう、助けてくれたのである。

ただある団体や、理念が異常というにはとどまらず、このような生き方、働き方には先がないということを示してくれた。

それは教会も会社も同じである。一人の指導者のもと、一つの場所に、多くの人々が詰めかけ、同じ時間に、同じ理念、同じ活動を共有し、同じ社員証を身に着け、あたかも、その一人の指導者を礼拝して、そこから命の保障を得ようとするかのように、行動を同じくし、他人に自分の命を預ける生き方が、終わりに来ているのだと…。

そのようなむなしい目に見えるものに、命の保障を見いだそうとする生き方が、破綻したのだと。

そうである以上、見かけ倒しの空虚な美と、呪われたむなしい利益には、もう心を奪われたくない。

そこで、目先の利得に振り回される人が、自分の命も、周囲の人々の命もかえりみず、ただ賃金と地位を得るためだけに、今も我先にと死の中へ率先して突撃して行くような働き方には背を向けて、鳥が飛び立つように、ソドムを逃げ去ることを決めた…。

そうして、筆者はまたしても、御国の利益のための書類作成にとりかかることにして、この記事を書く時間を確保している。
 
今、このような危機的な時代にあって、私たちが、真っ先に考えねばならないのは、神に背かず、良心を捨てず、御言葉に従って、残りの人生をどのように守り、人間らしい尊厳を保って生きるか、ということではないだろうか。

外面の美や、地位や肩書や俸給を保つことではなく、自分たちの内面の美を、良心を、人格を、真に高潔で品性ある人格を、どのように保てるかということではないだろうか。

改めて次の御言葉を思う。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
自分の命を救おうとする者は、それを失うとある。筆者は、自分の利益でなく、天の利益を第一として生きたい。

だから、心から祈ろう、我が神よ、私にはこれ以上、偽りの指導者に従ったり、偽りの理想に基づく、むなしい、実りのない生き方はできません。けれども、あなたは私を今日まで助け、守って下さいました。あなたはこれからもただ一人、私を守り、導くことのできる方です。ですから、あなたは必ず、私が次になすべき働きを与えて下さるでしょう。私の誇りはあなたであり、私はあなたを知っていることを幸いに思います。あなたは私の羊飼い、ただ一人のまことの羊飼い、あなたは私をお見捨てにはなりません…。

こうして、一つの街を通り過ぎ、天の都エルサレムへ向かって、筆者の旅路は続く。何度目だろうか、こうして腐敗したレンガの塔の倒壊を見させられるのは。だが、少しずつ、少しずつではあるが、偽りは後退し、あんなにも隆盛を極め、驕り高ぶっているように見えたバビロンにも、己が富を誇る力が失せつつある。確かに、バビロンには、滅びが近いらしい。その高笑いは聞かれなくなり、自慢話は封じられ、美しかった屋根瓦は、一つ一つ剥がれて、崩れ落ちて来ている。

他方、イサクを連れたサラは、まだまだ取るに足りない、か弱い存在であるが、少しずつ、少しずつ、尊厳を身に着け、信仰が力強くなり、勇気を増し加えている。

権勢によらず、能力にょらず、主の霊によって、見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからだ。

いつの日か、偽りの都バビロンは倒壊し、聖なる都である天のエルサレムが、着飾った花嫁として、真の尊厳と美を身にまとって現れる日が来る。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ、
 その罪に加わったり、
 その禍に巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。
 彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、
 その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ。

 彼女は心の中でこう言っているからである。
 『わたしは、女王の座に着いており、
 やもめなどではない。
 決して悲しい目に遭いはしない。』
 それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる。
 彼女を裁く神は、力ある主だからである。」(黙示18:4-8)